何でもない人が語ることの大切さ

いさどん:

なんだか、心がこうざわっとする。言葉でどう言っていいのかわからないけれど。

(隣にいるようこは、いさどんの手の上に自分の手を合わせ、いさどんの心を感じようと、自分の心を空っぽにして、いさどんの心に集中します。)

いさどん:

毎日いろいろとやることがあって、いろんな人もやってくるし。そうすると、自分のやることができなくて、でもそれで、何か滞りが起こるわけでもないけれど。仮にすべてスムーズにやれたとしても、次に何をしようかという気持ちが起こって、いつもどこか急かされているように感じる。

自分の心をどう表現していいかわからない時は、ひとつずつ端から自分の心を見ていくと。。。

仮に自分が寝たきりで、でも精神はしっかりしていて、言葉で伝えることはできるとする。そうすると、それはそれで皆の心の支えとなる。

次に、自分が植物人間になってしまって、言葉も発せないとする。でも、皆の心の中にいるから、皆は自分のことを心の支えとしてくれる。

自分が死んでここにいなくなったとしても、過去に自分が存在していた。そのことで、同じように皆の心の中にいるから、皆の心の支えになる。

そう考えると、物理的に何かしなくても、自分の存在する意味はあるんだね。

ようこ:

私は、今の話を聞いていたら、ありがたくて涙が出てきたんだけどね。というのも、この人生でいさどんに出会って、心の学びが始まって、いつも何かあると、「いさどんなら、どうするんだろう?」って思う。私にとっていさどんは、皆を本当に想うことの指針であり、基準であって、しかも私のように思っている人が他にも沢山いるのを知っている。自分がそう思える人と出会って、一緒に暮らせて、毎日話しもできるということは、宝くじに当たるよりも本当にありがたいことだなって。

だから、いさどんが物理的に何もしなくても、いさどんはいるだけで存在している意味があるからいいんだよ。

いさどん:

そうだよね、仮に自分が物理的に何もできなくなっても、ここにはそれを非難する人は誰もいないよね。

でもね、自分に大きな役割があるって神様に言われた時に、何で自分なんだろうって、その人間いさどんとしてのギャップに苦しんだ時代もあった。でも、自分の中にはいつも、自分のことを置いて、社会のことを想う、世の中のことを想う、大きな想いが湧き出してくるのも事実で。

その時にわかったのは、自分のような何でもない人が語ることが大切なんだって。何でもない人が語ることが何でもなくなる、そういう世の中になることが大切なんだって。

輪廻があるからね。自分は、アメリカの大統領にも、日本の総理大臣にも、国連の事務総長にもなれる。でも、その中で、今この何でもない人を選んで生まれてきている。必要であれば、アメリカの大統領として生まれることもできたのに。

大切なことは、魂の根っこ、志。どんなに能力が高くても、お金があっても、その志がなければそれらは活かされない。逆に志があれば、どんな人でも尊い人になれるということ。

だから、本づくりにしても、自分は皆が理解できる、わかりやすいことを提供するのではなく、敢えて難しくても長くても、大事なことを伝えたいと思っている。世の中には、読む人の心に共鳴するようなわかりやすい本が沢山あるけれど、今私たちが出そうとしている本は、聖書のように皆が勉強会を開いていくような、奥の深いもの。それは、人間の思考を超えた所に真理があるから、難しくても、その奥にあるものを感じとろうとするもの。

ようこ:

私も、ブログについて、いろんな人から難しいとか長いという感想をもらって、皆のためにと勘違いして、内容をまとめて短くわかりやすくしてしまったことが1回あったよね。でも、いさどんの大事は大事で伝えるという姿勢を見たら、本当にその人のことを想えば、難しくてもその方がその人にとっていいこともあるんだってわかった。それで、その人が自分の思考を超えた所へ行けるなら。

奥にあるものを感じ取ろうとしたら、難しいという文句もでてこないよね。

いさどん:

それを難しいというのは、日頃自分事に捉われて、世の中や皆のことを考えていないからそうなる。日頃の姿勢が問われるよね。誰でも、尊い人になれる素質はあるのだから。

ようこ;

そうだよね、皆が尊い人になったら、本当にいい世の中になるよね。そのために、まずは一人一人ができるところから始めていけばいいよね。


「何でもない人が語ることの大切さ」への2件のフィードバック

  1. はじめまして。
    木の花農園様のことは、6、7年くらい前に病気により食事を変えたことにより
    こちらの存在を教えていただきました。

    まだ、精神も肉体もあれているそのころから、(今も不均衡ですが)
    ずっといさどんさんの言葉に触れたいと、思っていました。

    このブログに感謝いたします。

    このブログを読ませていただきながら、
    頭は理解できなくても、というより、頭で理解しようとはうまくできませんし、
    うんうん、とうなずくこともありませんが、
    深くがただただ感じ入って、そばにいる気がします。

    でも、時には、私個人というもの?かな、人間みたいなものかな、
    そんなものに縛られていることから出る気持ちも出てきます。
    気持ちの動き、自分の感情の動き。
    私があって、起きてくるさまざまな苦しみみたいなもの。

    私のいたるところにある欺瞞、あまりにも暗いもの。
    そして自分が作っているんだな、と不思議と感じる、
    おきてくる現実の中で、いつも斜めに世界を見る汚さ、苦しさの視点、
    そんなものを見ます。
    そんなものが暴れだすことがあります。
    そして、その見つめる姿勢から逃げ出すこともあります。
    まだ恐れていて、あやふやなところを生きている姿しか映らないことが多いです。

    そんな自身のさまざまなものを見て、さまざまな痛みや苦しみを感じながら、
    それでもこちらのブログに触れながら、
    どこか、自分の中?にある、何も持っていない、何もないところに触れて
    いるような気がします。

    そこには、いさどんさんのすべてがあって、
    そして、ガイドしてくださるようこさんがあって、私がいるような、何もないけど、
    全部溶け合っているような、うまくいえませんが、そんな気がします。

    何を書きたいのかちょっと意味不明になりましたが、
    木の花農園があって、そうして、そこで暮らす方がいて、日々をおくって、
    私もここで生きて、かつても先もない、
    ただただありとあらゆるいのちみたいなものを感じます。

    この前そちらの最寄の近くの駅で、
    富士山を見たとき、とてもとても暖かくて大きくて、
    広くて、なによりすばらしい優しさを感じました。

    そのとき自然に木の花の方たちのお顔が、日々が、心に浮かんできました。
    まだ伺ったこともありませんが、
    でも、いつもそうやってその姿で伝えてくださることに感謝します。

  2. ゆきのさん

    とても正直で、丁寧なコメントありがとうございます。
    みんなでシェアさせていただきました。

    私たちが大切にしている心を、
    ゆきのさんが感じてくれたことが、
    ただただありがたいです。

    ゆきのさん、いつでも遊びにいらして下さいね。
    ファミリーみんなでお待ちしております。

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