悟りの道は己の健康から

いさどん:

世のため、人のために生きることが大切ということはよく言うけれど、では具体的に何をすればいいのだろうか。そこで答えるのは、ボランティア活動をしなさいとか、寄付金をどこかにしなさいとか、そういうことではない。

ツꀀまずできることは、自分を健康にすること。健康にするということは、体も心も健康であるということ。そのためには、健全な日々の生活リズムや食習慣など、沢山心がけなければならないことがある。木の花のような生活をしていても、生活リズムを乱すこともあるから、しっかりと整えていくことが大切で、そんなに簡単なことではない。季節の変わり目に体調を崩すこともあるから、心していないといけない。

ツꀀ心の健康というと、やっぱり自分をいつも振り返らないといけない。しっかりと自分を振り返って、自分の考えが自分の行いにどうつながるのか。自分の行いが自分のまわりに何をもたらすのか。家族、地域、社会、国家、この地球とどんどん波及していくわけだから。自分を健康にするということは、一人分、この世界を健康にするということ。

ツꀀこれを別の視点から捉えると、私たちが生きているということは、自分の在り様によってこの世界に自分一人分の影響を与えている。神様から、地球一人分、託されている。それは、何か大きなことをしなさいと言うわけではなくて、自分が一人分この世界を健康にする。健康ということはつながるということ。自分のいのちのリング一つを健康にしたら、この世界はきれいないのちの鎖となって、世界全体が健康になる。

ツꀀこの世界は無限の織物。縦糸、横糸、斜め、そしてそれが立体となって、高密度の織物になっている。すべてがつながっている織物。

ツꀀだから、自分が不調和を発したら、いろんなものに影響を与える。「自分一人を健康にするのは、意外と難しくない、簡単だ」と思っている人もいるかもしれないけれど、その人が考えている以上に至難の技である。一人一人がそのことが大事だということに気づいて、心がけていった時に、この世界が仕組み通り見事に仕上がる。そこには、「世のため、人のため」、で受けとれる表現以上に大きな重みがある。

ツꀀ世のため、人のためというのは、自分から外に対して何かをしてあげるような発想になるのだけれど、その「世のため、人のため」の中に、自分自身も含まれている。自分自身が自分のものではなくて、世の中のものであって、自分が存在していることが世のため人のためであるんだ、と理解できた時に、初めてそれがよくわかる。

だから、「世のため人のため」、それだけの言葉でも、その受け取り方によって、深くて重い受け取り方、軽くて表面的な受け取り方がある。

ツꀀ世の中の一人として、一人分世の中を健康にするポイントは、嘘、偽りなく生きること。それは、自分が日頃語っているように生きているかどうか。木の花では、「現象を持って真実とすべし」といって、どんなに立派なことを語っても、それが行動に表われなければ真実ではない。それを何度も繰り返していたら、嘘を語っていることになってしまう。立派な言葉でカモフラージュしていたら、詐欺師になる。決してそれは、警察に捕まるような詐欺師ではないけれど、あなたの価値としていつかは返ってくる。心の罪として、いつか出会う矛盾となって返ってくる。それくらい大事なもの。

ツꀀだから、世のため人のためだからこそ、他の人の景色が見えた時に伝えてあげることも必要。それを強い愛情のもとにしてあげることは、大切なことになる。同時に、人のために愛を持って伝えた分だけ、その人は自分というものをしっかりと振り返る必要がある。そういう心がないと、嘘つきだったり、詐欺師になってしまう。

ツꀀようこ:

これは、「世のため人のため」ということだけではなくて、「悟りたい」ということも同じことだよね。まずは、自分の健康からって。

ツꀀいさどん:

「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは衆生のためにあり。」まさしくこの言葉通りで、悟るということは、尊い境涯。人が人として生きる、最終到達地点。目標なんだよね。悟ってしまったら修行がいらなくなってしまうから、人として生きるという道はなくなってしまう。そうすると、仏という存在になった時には、この地上に肉体を持って生きていないことになる。

ツꀀこの世界が、一定の方向に向かって動いているとしたならば、その奥、元の所で動かしている側の立場、神の存在するところで役割をすることになる。

ツꀀそうしたら、仏になる前の段階として、生きている菩薩の境涯。菩薩は世のため人のために生きて、世の中、人々が幸せになることを己の喜びとして生きるもの。その菩薩の境涯に立って生きていく、ということをとりあえず人間は目指すわけだよね。

ツꀀそして、それが完全に仕上がった時に、仏という境涯になる。仏という境涯になると、そこには「自分の」という願いがなくなってしまって、自分の悟った境涯を衆生に伝えるという側に立つわけだよね。与える一方。わかりやすく言うと、善意で愛で調和をもたらす側のものになる。

ツꀀ私たちはこの世界の仕組み、自然の仕組み、利他の仕組みの中にいる。仕組みの中でつながって調和している。それが乱れると、乱れを伝えるための現象が起きて、修正されるようにできている。これを神様の意思、仏の意思というふうに見ると、まさしくこの世界は、私たちが学んで健康になっていく仕組みになっている。

ツꀀこの世界が、その仕組み通りの世界だとして、この世界は私たちに何かお礼をしてくれとか、料金を払ってくれとか、要求しないんだよね。料金を払ったかい?と問いかけたりもしない。仕組みをもって、ただただそれができていないよって現象を与えて教えてくれている。その人に応じてふさわしく与え続けていること。それが神様の意思だよね。

ツꀀそして、私たちが菩薩から仏になると、それを運営する側、神様の側に立つ。それが悟りの世界。悟りの境涯。だから、「悟りたいんだ」という気持ちはわかる。それを願うことは、大切な生き方だけれど。「悟りたい」と願うことが、悟りの境涯に立つことに通じるとは限らない。

ツꀀ悟りとは、「悟りたい」と思って歩む道ではない。

ツꀀ「悟りたい、悟りたい」と想えば想うほど、悟りの道から外れていく。そういった自分の中から湧き出てくる自我の側を離れて、対岸にある世界の側に立つことなんだよ。

ツꀀようこ:

そうだね。人のためになりたい、人のためになりたい、と言って、人のためにならないのと同じだよね。

ツꀀいさどん:

そう。だから、まずは自分を健康にしましょうということだよね。

そうか、今日のテーマは、「悟りの道は己の健康から。」

ツꀀようこ:

仕組みとしてはこんなにシンプルだけど、悟りたいと強く想っていると、一瞬頭でこのことを理解したつもりでも、またすぐに戻ってしまうんだよね。

ツꀀいさどん:

自分というものが強すぎると、自分の側からの目線ばかり見えてしまって、自分がこの世界の中にいて、この世界に影響を与えながら、この世界からいっぱい影響を受けて自分がある、そのコラボレーションでこの世界がなっていることを忘れてしまうんだよね。それが「我先の心」、自分の想いが勝ってしまうとそうなる。

ツꀀ自分対この世界、宇宙、コラボレーションによって自分を取り巻くいろいろなものと、自分の存在が出来事を引き起こしていて、起きてきたことによって自分を見ている。この世界は鏡だということ。そのことを忘れてしまって、こうなりたいと結果を先に求めていると、いただくということを忘れてしまって、いただくことによってこの世界の仕組みから自分自身を見せてもらって学び、成長することから外れてしまう。正しく学んで、自分を健康にすることができなくなってしまう。

ツꀀよく考えてみたら、簡単で単純な仕組みなんだけれど、動物や植物に自分の歩みに対して悩むという機能が与えられたら、きっと動物や植物も悩むんだろうね。そうすると、ああいうものがいかに尊いか、ということと同時に、悩むということが与えられていないということは、すごく楽な生き方を与えられているということ。反対に、人間は愚かだなと思う。その半面、想い悩む自由を与えられたんだと思うと、尊く素晴らしい道を与えられていることがわかる。

ツꀀ悩みながらも、悩むことの尊さ、喜びを感じられる。同時にそれがあるよね。生きていることの臨場感を感じられる。

ツꀀ今窓から西の空が見えて、例えば、あの雲が悩んでいるとか。そこにある柿の木か悩んでいるとかね。今日はすごく元気がなくて、しゅんとしてるとか。どうしたの?って柿の木に聞いたら、実は今年の収穫がとか、このままいったら来年まで生きていけるんだろうかとか答えるとしたらね。

ツꀀそれこそ、私たちはすごく落ち込むよね。人間、自分の身の回りだけでもこんなにいろいろ悩むのに、自然がいつもそういう想いもなく、いつもただいてくれるから。淡々と四季を迎えてくれるからこそ、人間は悩んでいける。自然の猫だとか猿だとか、虫もみんなが、それこそ木の花菌を仕込む時に、木の花菌が悩んでいたら、僕らは救われないよね。

ツꀀこの世界で人間以外悩むことを与えられていないということは、人間はこの世界にいかに救われているか。

ツꀀ今日は、いいことを知ったぞ!

ツꀀようこ:

面白い!自然までも悩んでいたら、騒々しくて仕方がないよね。

ツꀀいさどん:

というか、もう嫌になるよ。この世界が皆、人間のように悩むことを与えられていたらね。だけど悩むからこそ、いろんなことにも気づいて悩んでいける。これを辛いことだといったら、そうなってしまうけれど、そんなふうにも解釈できるとなると、すごい能力が人間に与えられていて、それこそが喜びだよね。

ツꀀ馬鹿馬鹿しいのか、喜びなのか、なんだかわけがわからなくなってきたけど。ということは、悩むことが馬鹿馬鹿しいといって、悩みから外れ、悩みがなくなってしまったら、いかにこの世界が味気ないかということになるよね。

ツꀀこの世界を悩みだけにしたら、それは辛いばかりだけれど、この世界が確実に悩まないことを目指している世界として私たちを包んでくれているから、私たちは本当に安心して悩むということを与えられていける。それは、本当にありがたいことであって、喜びになる。

なんだかよくわからない結論になってきたね。

ツꀀようこ:

いつもそうやって煙に巻く、ゲームですから。さあ、このカラクリをどこまで人間は理解できるでしょうか。

ツꀀいさどん:

なんだか、答えが出なくても、笑っちゃうじゃん。とりあえず、いのちは与えられた寿命だけあるんだし、できることは今回与えられた役割分だけあるんだし、想い悩むことはないよね。というところにいくんだけれど、想い悩むことがなくなったら、生きている実感がない。生きているということは、想い悩むことだから。そうすると、想い悩むことなく、悩んでいけと。

ツꀀようこ:

そうそう。とりあえず、絶対安心の中にいることは間違いないのだから。

ツꀀいさどん:

間違いなくね。そして、何もないところで生きていくのではなくて、悩んでいきなさいと。なんだか、わけのわからないような、わかったになった。

ツꀀこれはすごく難しい!

ツꀀようこ:

これは、文章にして、どこまで理解できるかな。

ツꀀいさどん:

ここまで語れたということは、相当の結論だよね。今日もいい話ができてやる気になってきたぞ。さあ、作業に行こうか。


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