人生は宇宙の中の芸術

いさどん:

みんなで生活していることを
意識していると同時に、
ひとりで生きていることにも
気づいていればいいんだよ。

みんなが平等な場所、
誰もがブッダである場所を
つくりましょうとなったら、
実際この世界は、
誰もが大切な存在として生きている。
でも、その解釈が人によって
ちょっと違っているのかもしれないね。

それぞれが自由意思を持っているでしょ。
皆、それぞれ自分を大事にしたいと思っている。
だから、外が原因でも自分自身が原因であっても
自分の思いどおりにならないことが続いていくと
人は自暴自棄になる。
そして、そういう場所を
どうしても自分の側から見た都合でしか評価できなくなり、
良くない場所としてしまう。
こんな風に自分の希望を叶えることを優先して、
みんなで生活していることを
意識できていない人が現れてくると、
そこはみんながご機嫌な場所ではなくなる。

この世界は、どうできているのだろう。
自然を見ると、小さい虫がいて、
それを食べる虫は
そのいのちを犠牲にして
自分のいのちをつないでいる。
それは、一方的な搾取に見える。
そして、この世界には序列もある。
序列があるのだけれど、
弱いものは何をもって
強いものに対抗しているかというと、
数や擬態などそれぞれの特技を持って、
種が成り立つようにできている。

人間の世界では一律同じようにと考えるけれど、
自然界では全部一律ということはない。
つまり、序列(多様性)があることによって、
もうひとつ大きなものをつくる役割を果たしている。
自然の中では、自分の位置に対して、
他のものと比べたり、羨ましく思うようなことはない。

ミツバチの世界では、
働きバチと雄バチと女王バチがいて、
全然違う働きをするのに、
完成された調和の社会を創り、
もうひとつ大きな一群という生命を成り立たせている。
それと同じ仕組みを考えたら、
自分の立ち位置をしっかりこなしていくことが、
そこで構成されている
もうひとつ大きな組織をつくることであり、
その組織全体がブッダになることである。
それが広がっていくと、
世の中が調和的理想になっていく。
そのこと自体、その中にいる一人ひとりが
序列はあっても全員がブッダだということになる。

そう考えられたら、
「自分が」という位置を求めなくてもいい。
全体として自分たちが
「~ができているね」というところにいく、
そういう精神性が求められている。

一人ひとりの質を高めることはもちろんだけれど、
一人ひとりの能力の違いを個性として見れば、
足らない部分は他の人が補えばいい。
みんなのためにやれることを、
自分のやれることとしてやっていけばいい。
個人も全体もそういう考えになると、
初めてもうひとつ大きな機能、
もうひとつの生命がそこにできて、
それが自然の仕組みと同じように、
ルールのない芸術的な調和となっていく。

ようこ:

「皆がひとりのブッダ」として
意識していければいいんだよね。
「自分が」ということばかり観るのではなくて。

いさどん:

そう。ティク・ナット・ハンの言葉、
「次のブッダは人間の姿で現れることはないだろう。
次のブッダはコミュニティの姿で現れるだろう。
それは他者を理解しようと努め、
互いを慈しむ優しさを持ち、
大事なことを常に意識しながら、
人々が暮らすコミュニティである。
これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、
最も大事なことではないだろうか」であったり、
僕がお釈迦様からいただいた、
「これからの時代は、組織をつくるのではないぞ。
人々が集え。集って語り合え。
語り合う中から、
真実がうまれる時代であるぞ」
ということ。

一律に皆が同じ人になる。
皆がいさどんを一つのモデルにして、
皆がいさどんになることじゃないよね。
いさどんはいさどんで独特で、
誰も真似できないような個性があるのだから。
それだけを良しとして、
一つの見本として掲げるとしたら、
それは間違いで、
第一、いさどんばかりいたら気持ち悪い。

そこのところが、
皆の中でよく理解されていそうで、
実はされていないところもある。

私たちは、
皆で暮らしていることを意識しながら、
一人で暮らしていることを意識しないといけない。
私たちはパーツであり、パーツが集まって、
全体をつくっていることを意識すること。
それが今私たちの中でテーマになっている。
このテーマは永遠に続くのかもしれない。
両方が同時に成立する世界を
いただいているわけだから。

僕が、お釈迦様の思考は
どこから働き出したんだろうって考えた時に、
出てきたことは、「己と宇宙」。
大きさの違いはあるけれど、
己と宇宙は同等のものなんだ。
己は宇宙に対してすごく小さなものだけれど、
己があるからこそ、この世界を認識できる。
宇宙だけだったら、認識も何もない。
己があって初めて、
宇宙というものと対面でき、
己を認識しながら、
宇宙を認識していく。
そういう世界だからね。

常にそれは同時に成り立っている。
そうすると、
己と木の花という世界を認識した時に、
自分を入れている器を通して見ることによって
葛藤する人がいるとする。
そこではどちらも自分であって、
大きなものをつくっているのも、
小さい自分も
自分自身だということに気づいたら、
どちらの役にも立てる。
葛藤する必要がなくなる。

この世界に当てはめてみても、
世のため人のために、
そして個人的にも、
良い人生を送ろうとすることも同じ仕組みである。
自分がいて家族がいて、
自分がいてこの社会があって、
自分がいてこの国があって、
自分がいて人類があって地球があること。
それはすべて、同じことである。

僕が強く思うのは、
どう考えても自然の仕組みがモデルだと。
自然と人間社会というのは、
「自然と人工」と表現されるように、
違うもののように思えるかもしれないけれど、
そこに流れている基本的なものは、調和。
ひとつひとつが存在しながら、
他を活かすリズム、利他の仕組み、
そういう根本的な仕組みがそこにはある。
自然には法律がないのに、美しく流れている。
その流れは芸術のように美しい。
海の中の生物の世界や、
土の中の微生物の世界など
いたる所に表現されているように。
すべての自然に美しく表現されている。

人間は、そういったものの先頭を行っている。
先頭だから全部をマスターしているのかといったら、
学びながら歩んでいる立場でもある。
自然の奥にある芸術、
それを音楽や美術、宗教として、
人間は取り出すこともできる。
自然の奥にある、心、メッセージ、
その表現を観ることのできる能力を、
人間には与えられている。

私たちは今、
「木の花」という
生きた芸術を創りだそうとしているんだよね。
最近、僕がよくプレゼンテーションで語るのは、
宇宙の総意で創られた地球は芸術であって、
私たちは宇宙の芸術を仕上げるために、
現地スタッフとして派遣されている。
身近なことでいえば、自分自身や
自分の家族を仕上げることを任されている。

ようこ:

そうそう。
私も大人会議は、
皆でつくる芸術作品だなと思っているんだ。

いさどん:

スタンスで言えば、
大きな芸術を創る時と、
今日一日の芸術を創る時がある。
理想は、今日一日の芸術を創りながら、
それが1カ月の芸術、
1年の芸術というふうに
大きな芸術になればいいよね。
そして、一生かかってできるものもある。

常に、そういう仕組みの中で
役割を担っているんだと気づいていれば、
今日一日で答えが出なくても、
自分がちょっと落ち込んでいても、
それはそれでいいということ。
今日の滞りは、
もっと大きなことにつながるのだから、
一生かかって完成するものの一部を
今日やったと思えば、
できなかったと思う必要もない。

ひとつの人生物語は、
一日で完成することもあれば、
一生かけて完成するものでもあって、
さらに、何度も生まれ変わって完成するような
大きなものもある。
そして、宇宙全体が芸術であり、
一つの物語でもある。


「人生は宇宙の中の芸術」への2件のフィードバック

  1. このブログを読むと、いつもいさどんの声が聞こえてきます。
    私の頭の中で、いさどんが喋っている感じです。

    いつも素敵な言葉をありがとうございます。

  2. 僕は、この世界にいるものすべてを、友達、
    もっと言えば、自分自身だと思っています。
    けれど、こういうきっかけを持って、
    お互いを認識できることは、
    ありがたく嬉しいことです。

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