我が友よ

僕が三十歳でお釈迦様から道をいただき、
「千日の業をいたせ」と言われ、
瞑想をしていた頃の話。

千日の業が進むにつれて、
自分の損得でものを観たり、
語ることをしなくなっていった。
ある時、部屋の隅の高い所から自分を観た直後、
宇宙空間に飛び出て地球を観るという体験をした。

地球を観ている時には、
感動の中に懺悔の心が入り混じっていて、
強い自責の念を覚えた。
この美しい奇跡の愛すべき星が、
このような状態にあるということは、
確かにその中にいる人間の仕業である。

大きな捉え方で言えば誰が悪いということはなく、
この星の成長の過程なのだという見方もできる。
しかし、紛れもなく自分は、
そのような場所でそれを見る立場にいる。
そして、自分には地球をその状態にしている原因がある。
もっと自分が優れていれば、
そして自分がその在り方を
沢山の人々に伝えられるようなものであるならば、
この現象はないはずだと。
そのように自分に戒めとして伝えながら、
全ての人間に
人間にはそういう素質があるのだからと
伝えていかなければ、と思った。

僕がお釈迦様から道をいただいた初めの二年間は、
自分がいただいた言葉に対して、
自分が全くそぐわない日々を送っていることが辛くて、
自分で自分の頭を殴るような日々もあった。
誰でも、そういうふうにそぐわない、
ふさわしくない所から育っていくものであるのだが。

地球の姿を見ると、
その姿を見るだけの立場にいるものとして、
それを自分の罪として懺悔した。
誰かに対して、何かに対して、
懺悔するというわけではない。
目の前にあるもの。
それが自分自身であったり、
奇跡であったり、
そういう美しく尊いものに対して、
それが侵されている。
そのことに対して、
自然に懺悔という感情が湧き出してきた。

宇宙空間から地球を眺めながら、
地球が何ものかということを確認すると同時に、
地球の真実を伝える活動をしよう。
そういう心が出来上がってくると、
だんだん宇宙空間から解き放たれて、
地球に戻ってきた。
そして、瞑想している自分に戻った。

そんなことがあった頃、
僕は「真釈天技場」づくりといって、
僕の田舎に心の学びの道場を創るために、
毎週、田舎の土地へ通っていた。
行きと帰りの車の中で、
僕は自分の想いに浸ったり、
一種の瞑想状態になっていた。
僕の家から田舎まで1時間半くらいの行程を、
そんな時間として使っていた。

その頃、僕はこの道をいただくお釈迦様の存在は、
自分にとって何なんだろうと考えていた。
確かに自分は、インドに縁がある魂。
しかし、お釈迦様そのものとは違う。
そうすると、自分はこの方の弟子なんだろうか、と。

それまでは自分が想わなかったことを、
少しずつ想うようになって、
この方と自分の関係は何なんだろう、
その関係を知りたい時期があった。
そんなことを考えながら、土地の開墾に行っていた。

ある日の夕方5時頃から6時頃の間、
家に帰る車の中。
その日の天気は良かったから、
あの頃だと夏の季節だったのか。
5時から6時の間で、
あたりはちょっと暗くなりつつ、
あたりは夕日の色でちょっと赤っぽい。
そんな時間帯に
「お釈迦様にお尋ねしたいことがあります」と聞いた。

「私は、あなたから道をいただいて、
今このような生き方をしていますが、
かつて私はあなたのことを親のように、
親でも母のように慕っておりました。
その時に私は、赤子でした。
そして、私はあなたを父として、
心の道をいただくようになりました。
そしてそののちに、
私はあなたを自分のこの道の師として、
道をいただくものというふうに思っております。
ここで師というのは、
血縁である父、母を超えるもの(魂の親)と言える。
そういって私の中で変わっていくあなたを思って、
私にとってあなたは一体全体何者なんでしょう、
という想いが湧いてきました」
と運転しながら尋ねた。

答えが返ってきた。
「かつて私は、そなたの母であった。
かつて私は、そなたの父であった。
かつて私は、そなたの師であった。
そなたがそなたという立場を保っていた。
そういうものであるから、そういう関係であった。
しかし今そなたは、己を離れて己を観る。
そういうものになった。
だから、そなたは我が友である」
というふうに言われた。

褒められたり、何かを託されると、
僕の癖でいつも、
「そんな、滅相もない」という心が湧いてくる。
そういう心が湧きながら、
「そうですか。
ではそのように自覚していきます」
と言ったことを覚えている。

この世界はぐるぐるぐるぐる回って、
増えもせず減りもせず、
循環して巡り巡るものである。
増えもせず減りもせず、
同じことを繰り返していても、
一循環、二循環、三循環とそれ自体進化している。

そういう意味では、
この世界は常に進化し続けている。
進化しながら進み続けている。
今の自分に捉われて、
成長するということを忘れてしまったものには、
無意味な循環に観える。
それこそ、退化するように捉える人も中にはいる。

しかし、この仕組みの大切さに気づいたものには、
確実に意味ある循環、進化の循環を与えられる。
一つの循環の中で、
低い所から高い所へ見事に成長する。
それを楽しむ。
そして、また元に戻って、
低い所から高い所へ成長する。
一回やったこと、二回やったことで、さらに成長する。

そういう進化の仕組みがここにあるとしたら、
私たちは今の世界の在り様を観て、
そのことを自分の中にしっかりと戒めて、
日々を送っていかないといけない。
自分の日々の欲望を満たすだけで
日々を生きていくようでは、
私たちはとても宇宙から観たら素晴らしい星、
地球の一部と言えるだろうか。

やはり大きな視点に立ち、
この特別な星が何ものかということに気づいて、
そこにいる自分がふさわしいものなのかをしっかりと見ながら、
それを自覚して、感謝し、喜びとする。
その喜び、感謝を人々に伝え、分かち合い、
そういった自分の存在を表現する場所を
いただいていることを喜びとする。
そういうものでありたいと思う。

最近僕の話は、
一般の人々の日常から離れ気味になっている。
それは、この精神をしっかりと日常の中で持ちながら、
それぞれの役割、ご飯を作ることでも、
また会社へ行くことでも、政治をやることでも、
日々の自分の生業に臨んだら、
エゴ的な生き方ではなく、
世のため他人のために生きていることになる。

過去に聖者が沢山現れて、
この道を説いている。
その人たちが特別なのかと言ったら、
当たり前に目が二つ、鼻が一つ、
口が一つ、耳が二つ、手が二つ、
それに五感というものをいただいて、
それを兼ね備えた肉体を一ついただいて、
この世界に生きていただけである。

私たちと同じ器をもらって、
何が違っていたのかと言ったら、
宇宙観、世界観、自然観。
そこから観た自分自身であったり、
人々の姿を語っただけの違いだと思う。
それこそ、人間とチンパンジーのDNAが99%同じなのに、
なぜこれほど違うのかというくらいで、
ほとんど同じなはず。

メシア達も怒りもしたし、
嘆きもしたし、愚痴りもした。
だけど、怒りや嘆きや愚痴が、
己の損得のためだったのか、
それとも世を観て、人々を観て、
嘆き悲しみ憂いて、
その幸せを想うがあまりに、
怒り、嘆き、愚痴った。
その違いは、同じ現象と言えども大いに違う。
そういうことに人々がそろそろ気づく必要がある。

今、僕は風邪のリハビリ中に
3日間この部屋で休みながら、
世間の情報収集の機会をもらっていた。
テレビでは、ほとんど国会中継を観ていた。
確かにこの国のために、皆、一生懸命やっている。
ニュースでは、非常に残虐なニュースが流れていた。
世の中にはいろいろな犯罪や
そこからくる悲しみがあって、
世間の情報を受け取りながら進化していく
自分の姿を感じ取ることができる。

自身の磨き方、歩み方を、
被害者も加害者も全てを神様の代理として、
私たちに見せてくれている。
自分も皆の代理として、自分の姿を皆に見せている。
他の人たちも、神様からいただいた役割を果たしながら、
この世界の在り様を人々に見せてくれている。

それぞれの役割を果たしながら、
皆がこの世界を創っている。
こうやって、
私たちは密接にこの世界でつながっている。
区別できないものとして。

最後にお釈迦様は、
「そなたは、己を離れてものを観るようになった。
己の肉体すら離れて、己を観るようになった。
そなたは赤子であったり、子であったり、
弟子であったりしたものが、
私の友であると言われた。
私と同じなんだ。
友というのは、上下関係のないものである」
と言われた。

生きとし生けるものが対等の世界。
お釈迦様の言う平等な世界。
そういうことを示しておられると思っている。

実は、その時にはそこまでの深い意味は
わかっていなかった。
いただいた言葉に涙しながら、
暗くなってきた町を車を走らせて
家へ帰っていった覚えがある。

今語ってみると、すごく深い意味がある。
あれから、25、6年は経っていると思う。
あの時の学びは、
今もっと深くなってこうやって出てくる。
学びというのは、
一回学んだら忘れるように自分のものにするけれど、
学びというのは、いつもその人の中で生きている。

そして、その学びを次の学びにつなげ、
細胞が分裂するように大きくなって、
私たちの中から湧き出てくる。
そういう生きた学びをすることが大切である。
そして、学びというものが知恵につながっていく。

お釈迦様と出会い、
知らない間にそういう立場をもらい、
役割を果たし、そして生涯を終わる。
知らない間に赤子から一人前に育っている。
だから、誰もが自分が進化する、
成長する場所にいるということを信じて、
学ぶということを大切に生きていかないといけない。
捉われて、昨日と今日と同じ生き方を繰り返して、
生涯の終りを迎えることではいけないのである。


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