感謝すら消えてしまう世界へ

「生きることが答え」に沢山のコメントをいただき、
ありがとうございました。
皆さんからの色々なコメントを受けて、
いさどんからのメッセージをシェアしたいと思います。

どこかで区切って答えを出していくということも大切なことではありますが、
それ自体は次につながる過程と捉えることが出来るものです。
今まで私たちは出来事を検証しながら、
次がどうなっていくのかということを検証してきました。
私たちは、常に正解を求めている人たちと違い、
縁があって出会った人、そういった出会いからもたらされる出来事をいただき、
その結果わかったことを学び、次の行動につなげていくという方法で今まで歩んできました。

縁ある人々との出会いから求めるものと提供するもののニーズが合うと、
私たちが最初からわかって提供することもあれば、
出会いによって新たに提供出来るものを育てたり、
元々持っていても今まで提供出来なかったものに気づいていく場合もあります。

だから私たちは、答えをわかっていて提供しているばかりではありません。
積み上げてきた実績の中で見通しが立てられたり、
色々な出来事を経験しながら、
私たちも新しい情報を手に入れ次の糧にしています。

ケアで滞在している人に伝えていることは、
「あなたの人生はあなたの想いをあなたが表現した結果与えられるものだから、
その結果は自己責任ですよ」ということです。

私たちは常に、客観的な視点に立った情報提供をしてきています。
人が生きているということは、
自己表現の結果が返ってくるようになっています。
この世界は因果応報であったり、
類は友を呼ぶという仕組みで現象が自分に返ってくるのです。

そういう仕組みの中で生きているということは、
自分が求めていることを自分で掴むというよりも、
自分自身の中にある想いを行動として表現することによって、
この世界という鏡に映り、結果として現象を自分が見ることになります。

そうすると、一人一人、人生を通して自分を学習していることになります。
自分の行いに対して学習出来る状態の人もいれば、
自分の行いを冷静に判断出来ず、自分の行いで混乱している人もいます。
そのように人それぞれの人生があるものです。

どの人もその人なりに生きて、その人なりの答えをもらって生きています。
それをよくわかっていないと、問題事が起きると他のせいにしてしまいます。
そうではなく、自分の中に種があり、
その種の存在を教えてくれるためにこの世界はある、というふうに捉え、
「それはあなたの中にある種が引き寄せているんですよ。
それがこの世界のあなたに対する働きですよ」と伝える。
そうやって、私たちは客観的な情報を提供しています。

ここで、その人の中にある問題の種を
代わりに解消してあげることは重宝でいいことのようですが、
それをすると、なぜその人にその種が与えられたのかという意味を知ることと、
その学びを奪ってしまうことになります。
いつも他人に解決を求めないといけない人が出来てしまうのです。

最終的に人は自分の存在を正しく認識し、
自分が何ものであるのかということを悟っていく旅をしています。
出来事は、自分自身が何ものであるか、
自分自身がいるこの世界は何なのか、
ということを知っていくためのきっかけになるのです。

常に他人によって物事が解決されていくと、
そのことがいつまでたってもわからない人間になってしまうので、
その人が出会った出来事をその人に返してあげるというのが私たちのスタンスです。
これが一番大切です。

自分の心にふさわしく出来事が表わされ、
そこから学び、自分を知るための旅をしています。
それが人生なのです。

そうしたら、どのような出来事に出会い、
結果どのように死んでいくのかということは全てその人の自己表現です。
中には他人のせいにして被害者として、
自分が表現したものを受け取っていく人もいるのですが、
全て自分自身の表現が自分に出来事をもたらし、
自分を知るためにあるのです。

そこへ至るまでには人間関係にしろ出来事にしろ、
色々なことが複雑に絡みあっていて、
それをどこで区切るかによって、
「良かった」とか「悪かった」という表現が生まれてきます。
無限なる世界で起きている出来事ですから、
より広くそれを捉えた時には問題事は何一つない世界です。
全ては学ぶ過程の出来事となります。
しかし、それを狭く一つ一つのこととして捉えると、
「良かった」とか「悪かった」という世界に陥ります。

そこで僕はこういった中で何をしているかというと、
「こういうケースの場合はこういうことによってこういうことが起きて、
こういう結果になる」とデータ収集をしています。
過去に同じ出会いは一度もなく、
出会う人々の事情は全くオリジナルなのです。

ここへ来て、意識を変えて社会へ戻る人は多いです。
ここで見事に問題事を解決していった人は、
自分の新たな歩みを見つけ進んでいきます。

しかし、一見問題事を解決していないようで、
「卒業」に至らずケアを終わっていく人もいます。
しかし、そういった人にもここでの体験は無駄になっていないのです。
例えば、ここにいることが苦痛だった人にとっても、
それが次へ進むための土台になっていきます。

こうやって色々な人に出会っていくと、
誰一人として無駄な出会いはありません。
偏った捉え方をすると、「これが正しい」ということになったり、
「あれは失敗だった、ダメだった」ということにもなります。
しかし、そういうことはこの世界に何一つないのです。

これは、出来事を通してプロセスに出会っていることであり、
その現場に居合わせる時に初めてわかることです。
部分的な情報ではなかなかわかりづらいことであり、
だから、私たちは常に現場に居続け、長い物語をいただいているのです。

一時区切って良い悪いと見えることでも、
ファミリーの外の人たちに公開したいと思っています。
公開しないとそこに疑問も湧きませんし、肯定も出来ません。
ただ、悪いと見えることも確かな手ごたえとしてあるからこそ、
それが私たちの次の歩みの糧になっているのです。

出来事に出会えば出会うほど、
私たちのデータ集積も進んでいきます。
確実に次のためのステップにつながっていきます。
新たな出会いから情報が与えられ続け、そうやってここ自体が育ってきました。

私たちは魂の存在です。
いつかは旅立っていくものです。
その時にこの世界が何だったのかを知るために、ここで生きているのです。
それが、この世界の価値観に一喜一憂しすぎると、
生死を越えたもっと大きな目的が見えなくなってしまいます。
生きていることの意味やこの世界がなぜあるのか、
ということをわかっている人は意外と少ないものです。
それは一生の探究です。

自然の世界を区切って見ると、
弱肉強食の世界がどこにでも展開されているように見えます。
しかし、自然の世界をつなげてみると善意と愛と調和で成り立っており、
全てのものがひとつらなりでこの世界に死はなく、
問題事が何一つない世界です。

この世界に悲惨だと言われる出来事は沢山あります。
平和な時代がもしあるとしたら、平和は争いの上に成立しています。
自然界では、常にいのちを連鎖してきた結果、
部分的に見ればいのちの奪い合いでもあるのです。

だから、物の捉え方を部分的に拡大して見ると、
良い悪いということも生まれてくるものです。
それをこの世界の新陳代謝のように捉えれば、
この世界に問題事は何一つないことになります。
もっと広い視野で物事を捉えたら、それが観えてくるものです。
逆に狭い視野しか持たないものが狭い視野で一喜一憂することによって、
狭い視野を広くするために育てられている、
と考えればそれも問題のないことになります。

私たちはありがたいところにいて、
この世界にいることに感謝して生きていくことで、
全ての出来事から学んでいくことが出来ます。
そして、最終的には万物の中にある一つとしてこの世界を構成しているのだとしたら、
実は「ありがたい」という感謝すら消えてしまうような、そういった世界にいます。
私たちは「ありがたいこと」すら、違和感のある世界にいるのです。

それがわかれば、問題事に一喜一憂する必要はありません。
一種の宇宙の新陳代謝のようなものですから。
そこのところに心が到達した人は、
「そういうことだね。ああ、やっと解放されたね」と捉えるでしょうし、
もっと先の心の世界もあるのです。
未だそこに至らない人にとってみたら、
現実の苦しみは避けて通れないことになります。

私たちはここで縁のある人々に情報提供しているだけであって、
今混乱が必要な人は混乱の中にいますし、
混乱が必要なくなれば自分で抜け出してくるものです。
そして、私たちは情報提供をしていると同時に、
私たち自身が感謝しながら学んでいます。
しかし、感謝するということは与えられている立場であり、
そこには区別があり、それすらも取り去って、
感謝すらいらない世界へ行こうとしています。

今後も色々なことが起きて、皆が一喜一憂していくことでしょう。
私たちは育てられ確実に進化しています。
そういった中で、私たちには想像出来ない大いなる目的があり、
この世界を旅しているということなんだろうと思います。

私たちは、いつでも問題事から抜け出せる。
そしてまた、新しい問題事に突き当たる。
それがこの世界です。

このカラクリがわかって世界が観えた時、
どんな出来事も楽しめるようになります。
そこでは問題事すら楽しめるという世界が待っているのです。
そこに、人間たちが存在する次の意味が隠されていると思います。
人生を大いなる存在と共に、
ゲームのように楽しんで学んでいきたいと思っています。


「感謝すら消えてしまう世界へ」への4件のフィードバック

  1. はじめまして。宮井威と申します。私は、ブラジルでエコビレッジの建設に携わっております。木の花ファミリーさんの吉越様とは、ご連絡をとらせて頂いております。
    本日、はじめてブログを拝見させて頂きました。
    私自身、感謝しようと常に心がけてます。存在していること自体に感謝できれば、一番いいのでしょうが、まだ、そこまではいっていないですね。未熟者ですね。
    また、なんとなく、全ては一つと思っているのですが、
    感謝するということは、分離を認めていることにはじめて気づかせて頂きました。
    ありがとうございます!!
    今までになかった視点です。

    ありがとうございます。
    これからも、勉強させて頂きます!

  2. なんだか人体生理学の話を聞いている気持ちになりました。

    病原菌がいるから抗体が作れるし、
    傷ができるから皮膚は強くなる。
    そこには良い悪いもない。
    必要な分だけ必要なものが作られる仕組み。
    ただそうやってあたりまえのようにひとつひとつの細胞が生きたり死んだりしている仕組み。
    それが人間。

    たまにぼーっと川とかを見てると、
    実は私は細胞の一部で、この川は血管で、
    ホルモンが私という存在を認識させ
    こういう世界に生きさせてると幻想を見せているそんなことを考えます。

    体の中も外も、そう考えると
    全部同じ原理で動いている。

    東洋医学では人体を小宇宙ということがあるだけあって
    体の中も外も同じで、どちらもかわらず宇宙。
    ぜんぶ同じ仕組みなのが不思議に思うけれど
    不思議に思うことのが不思議なのかもしれないですね。

  3. とってもとっても辛いと感じてしまい、どこにも出口のないような
    誰にも言えない秘密と勝手に握ってしまって苦しくなっている体の病みや心と今日
    過ごしてきました。

    読ませて頂いて、区切りがなく、ただぎゅーっとされているような。そんな感じになりました。
    勝手に区切りをつけて、私という存在をもっているだけなんですね。

    ありがとう、すら違和感のあるもの、すごいことですね。

    木の花に来たさまざまな人たちや、出て行かれた人や、いろんな方、
    どんな流れもみえてくるような、そんなあたたかいものを感じます。
    あえて言葉に出すならば、みんなにありがとうございます、という気持ちです。

    共に生きること。
    すごいことですね。
    なんて、静かで穏やかで、ダイナミックで何も無駄がなく、美しいのかな、それは宇宙みたいな
    宇宙の生命そのものなのかな、と思いました。

  4. いつもいろいろなことをシェアしていただていることを心からありがたいと思っております。
    ただ
    気がかりなこともお伝えしたいので、聞いていただければ幸いです。

    いさどんは、自殺者を救う会を立ち上げることを視野に入れていらっしゃる方なので
    そこの点についてもう一歩というところをお考えいただきたいです。

    「色即是空」
    を噛み砕いてみなさんにお伝えするのは素晴らしいことだし
    「空即是色」
    に戻ることの無いよう、導くことが木の花にはできていると思っています。
    それは、自殺という手段から一度立ち直ることのできた方たちにとってとても重要なことです。

    ところが、実際にわが命を絶っていく人たちをまさに救うには及ばないのです。
    それは、そういう方たちは今という瞬間にこの世界に絶望しているわけで、もう何も見聞きしたくはないからです。
    実際に、いさどんのような理念で場を提供している方が増えていますが、自殺者3万人超を緩和するに至ってはいません。
    時間がいま少し必要ということもあるとは思いますが。

    そんな状態で
    「こんな生き方があるよ。あなたの考えは間違ってるんだよ。」
    という情報はまず届かない。

    日本の仏教には「応化力」という考えかたがあります。
    観音様に主に委ねられている、救世術です。
    観音様に11面もの顔が用意されているのは、あらゆる生きとし生ける存在に合わせて顔を変え
    みなひとの音…心をただ観ずるためです。
    「そうだね。つらいね。」
    「あなたの気持ちがわかるよ」
    耳をふさいでいる人には、まず、あるがままに受け止められる環境を提供することができます。
    そして、自分の気持ちを聞き入れてもらえてからっぽになったときに
    はじめて
    これから善い生き方をしようという指針が生まれてきます。

    わたしはいま、地道にそのような活動をしています。
    バックボーンに強く推進する宗教を利用せず、できるだけ世間的な付き合い方で実践する中で手ごたえを感じています。
    ですが、やはり共同生活の場が一番ベストだと感じます。
    たくさんの人と共有できますし、落ち込みすぎた時に誰かが対処しあうことができるからです。

    ちよこさんの現象をみたときに、上記のポイントが十分に活用されなかったように見えました。
    そうであっても、木の花にはそこを越える能力を開花できるように思います。

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