何もしない

私たちの存在は、この世界の仕組みの中にある。
その存在に比べ、はるかにこの世界の方が大きく、
その仕組みの一部として私たちは生かされている。
一方、心というものは、体とは違い
イメージの世界でいくらでも巡らせることが出来る。
想いが妄想化していくと、極端に偏った想いも湧き出てくる。
恨みや怒りに心が偏ってしまうこともあれば、
喜びや調和、愛の中に心が進んでいく人もいる。

しかし、現象の世界に怨念や不調和なものはない。
その姿はあってあるもの、なきてなきもの。
この世界はあり続け存在している。
そういった中で、私たちが肉体をもらっているということは、
その怨念や不調和からいつでも抜け出せるということでもある。
怨念や不調和な心の状態になると、
辛く苦しい、バランスを欠いた現象が起きてくる。
体や人間関係といった形の中にその心の状態が示され、
私たちが痛みを感じ、常に修正出来るように現象が起きていると言える。

僕は、体を持っていることが不自由で仕方がない。
それは、魂を形の束縛から解放して自由に表現したいから。
制約の中にいることを不自由と感じてしまっているのだが、
苦痛だからそう言っているのではない。
もっと自由な世界があることも伝えたい。
この世界の人々を観ると、
形に捉われ、形を大切にするあまり、
心が不自由な状態で生きている。
だから、この世界の真実に気づけない。
存在することの本当の意味に気づけない。

この世界の制度をどんなに優れたものにしても、
私たちがもっと広い世界、天上の世界から降りてきたものである、
ということに気づくことの方が大切である。
今、私たちは形をいただいているけれど、
必ず全てのものは形のないところへ旅立っていく。
これは約束されていることである。

その旅立ちに、約束されていることなのに、
死を拒否し、抵抗しながら迎える。
この世をはかなんで死んでいく人がいるような世界でも、
生きることの本当の意味を知り、
生きることによって完熟し、喜びを持って死を迎えることが出来る。

僕は生きていることに不自由を感じているのだけれど、
それは決して抵抗しているわけではない。
もし不満があるとしたら、
これはカラクリでありその仕組みを伝えたい。
しかし、人々にはなかなか伝わらない。
人々はそのことを無理解のため、
自己主張をして、対立し、悩み苦しむ。
なぜこんなことがわからないのだろうと思ってしまう。

しかし、もう一方で、
このことは理由があって起きているということも知っている。
だから、それを僕が悩み苦しむようなことではいけない。
もっと大いなるドラマの一部分なのだから。
その物語の顛末を見ないで、途中で悩むことは無用である。
それも楽しめばいいだけのこと。
いずれ顛末は来る。
全ては心の表われであるのだから、
善意に受け取れば善意の顛末が訪れる。
そうやって人間は、肉体を持つことによって育てられている。

人間は沢山いるけれど、その数はあまり重要ではない。
人間はいくつかの分類に分かれており、
それは10くらいの分類になるのだろう。
それぞれがそれぞれの段階を歩んでいるのである。
だから、数が沢山いるからといって、全ての人が別々というわけではない。
それぞれの魂が成長するための旅を歩んでいる。
その段階に応じた想いを持ち、現象の中で生きている。

若い世代の中に、
親やまわりの人たちの生き方に疑問を持つ人たちが現れている。
それは、世の中全体がそういう方向へ移行しようとしていることの表われである。
それは若い世代だけではなく、
年を重ねてきた人たちの中にも人生の旅立ちを前にして、
ふさわしい心を求めようとしている人が現れている。
一時、人々は形にばかり捉われてきたけれど、
その形に捉われることの意味に気づき始めたのだろう。

心の世界では、
その姿は丸見えであり隠すことは出来ない。
しかし、形の世界では心を隠すことが出来るから、
改めるのに時間がかかる。
それに僕はいらだちを感じる。
しかし、心の世界では間違いに対して修正する機能がないから、
間違いだけの世界になる。
想いというものは、とことん想い込んでしまうものだから。
そういったものを修正するためには、
この形の世界、じっくりと時間をかけて修正していくこの世界が必要だった。
そのために地球という場所が創られた。

僕の気が短いところは、
人々が早くこのことに気づけばいいと思うのだけれど、
段階を踏んで進んでいかないとならないこともあると知っている。
しかし、時々、人には一人一人の歩みがあること、
その歩みに付き合うことが自分自身の役割であるということを忘れてしまう。
それで、こうやって自分の心を振り返り想いを巡らすことによって、
また元の心の位置に戻ってくる。

肉体は変化するものであるし、人生は有限なものである。
しかし、それは特定した自分というものに限ればということであって、
自分の存在を魂というところから観たら永遠のものである。
だから、生きることに希望を失った時に命まで絶とうとする人も生まれてくるが、
そんなことで存在はなくならない。
自分の魂の状態のままに苦痛であっても喜びであっても、
人は存在し続けるものである。

そこから抜け出すための方法をお釈迦様は考えられた。
喜びも苦痛もないところ、解釈のないところへ行けばいいと考えられた。
しかし、そろそろ人類はこの世界を非難する場所と捉えるのではなく、
この世界をしっかりと解釈し、この世界を動かしている側に立ち、
この世界の仕組みのままに生きることの喜びを表現していかないといけない。
お釈迦様はきっとそれが面倒臭かったのだろうと思う。
だから、「何もない世界に行ったら楽だよ」と説いたのだろう。
だから、生きるということを生老病死という表現から始めたのだと思う。

しかし、それすらもこの世界を創っている道具にしかすぎない。
まだまだ、あってあるもの、なきてなきものになりきれない。
しかし、カラクリは観えている。
皆、そのカラクリにより迷いの中にいる。
そして、矛盾から問題事に出会っている。
人生とは、一つ一つの出来事に出会いながら、
その意味を知り卒業していくことだろうと思う。
階段を上るように一つ一つこなしていると思うと、次にすることは何だろうか。

それは、「何もしない」ということ。
今までは何かをすることでこの道を歩んできたけれど、
そろそろ何もしないという立場に自分を置きたいと思っている。
それをこれからするのだろう。
実際には生きているのだから、何かをしているのである。
それが誰かに託されてなったのではなく、勝手に事がなっていくこと。
何もしていないようだけれど、
熟成された役割のようにプラスアルファで生きていく。
そういう立場の役割はしたいと思っている。


「何もしない」への1件のフィードバック

  1. 6月半ばに、40坪ほどの畑を借りスコップ1本で耕しました。
    まず除草で、その雑草を埋めるための穴を掘り
    端から丁寧に根っこからの、除草作業。それを掘った穴に入れ、やっと終わったと思ったら、
    また端から天地返しの作業。
    …2週間後には、新しい草の芽が顔を出しますが…ふ~
    掘っていて、幼虫などを起こしてしまいますが、
    殺生が嫌いなので、傷つかないように端によけます。
    周りから見れば、この人耕すだけが趣味なのかと思われそうです。
    精神世界に興味を持ち、確信を得て
    農作業に辿りつけましたが、
    全ての事は動機が善意であるかぎり、必然だと思っています。
    …木の花に行きたいですが、時期がくるまでと。
    みなさんが、ご健康でありますように。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です