宇宙の仕組み

3月21日春分の日、いさどんとみちよちゃんがヤマギシの春日山に向かう車中にて話した内容をブログにまとめました。

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み:宇宙的に観た山岸巳代蔵さんについて、いさどんに聞いてみました。

い:昨晩は、今朝早く起きることを意識して、早めに床に着いたが、眠りにつくのに時間が掛かった。その時に、山岸さんの気配を感じた。最近、特講の時に始めた瞑想をやっている。特講のときに、咳が出たので特別室(一人部屋)にいて毎晩寝る前にやっていた。それは、太陽系神、地球神、それから地球の聖者達、宗教の教祖達などの名前を順番に挙げながら、そういった御魂がこれから力を合わせて地球人類を導いていくことを意識して行っている。この世界に存在する全てのものは意識を持っている。
銀河も太陽系も意志を持っている。その意志が我々を創造しているからこそ我々も意志を持っている。その意志に通じたもの達は、銀河や太陽系や地球の運行に関わっている。それがあるということに確信を持って呼びかけると、その呼びかけは、我々が対話するのと同じように通じている。しかし、信じない人にはそんなことは不可能である。すなわち、この世界は、その人の思いが、どのレベルかによって、それに相応しい世界に生きることになる。その意識レベルによっては、物理的世界の背景にある我々が見ることの出来ない世界に通じることができる。
今、そういった世界に通じる瞑想をしている。昨晩、1時半過ぎに寝ようとしたが、全く眠れなかった。その時に、今日の日の意味を思っていた。やはり山岸さんのことを思ったし、そこに彼がいるのを感じた。ということは、僕が考えていることを彼も考えていたから、互いの周波数が合っていたといこと。朝、そろそろ時間かなと思って目が覚めた。外はまだ暗い様子。もうそろそろ起きる時間かなと思っていた。7時に起きる予定だったけど、一向に誰も起こしに来ないし、目覚まし時計も鳴らないので、そのまま考え事をしていた。今何時だろう?と思って時計を見たら、5時45分だった。まだ時間があると思って寝ようとしたが、目が冴えて眠れない。その時に、やっぱり山岸さんの存在を感じた。ということは、僕の今持っている意識レベルに彼もいるということがわかる。そして色々な彼の残した書物、「実践の書」など資料を見ていると、彼には癖があって個性的である。人間としては、癖があるからわかりづらい人。そのわかりづらさの原因は、色々なところで、話の中にフェイントが掛かっているということ。フェイントというのは、あえて話をわかりづらくしているということである。そのわからないところで、あえて人々が考えていくように表現が打ち出されている。それで、ヤマギシ流世界を表現しようとしている。しかし、そういうわかりづらい表現をしながら、ポイント毎に目的の意思がしっかりと示されている。特に戦後間のない時代だったから、人々は争いに懲り懲りしていた。だから戦争のない世界、「仲良し社会」、それから物理的貧しさから「豊かになる」、そういったことを打ち出しながら、もう一方では、それを否定して、精神性の重要さを最後に置いている。常人ではわかりにくい巧みな表現をしてヤマギシズムの表現にしている。これは、普通の人間では中々やれないこと。単なる山岸巳代蔵という、情欲が深く、駆け引きのある人ではやり切れない。こういう人が普通に人生を生きたら、ある程度の財は成すだろうが、それを大盤振る舞いしたりして、そうしたものを無にしてしまったり、親分肌で波の大きい人生になる。そうしたことを考えると、ある意味超人的な人である。やはり宇宙人。少なくとも、僕の意識の周波数にいる存在。僕は今、宇宙を意識して生きている。それは、地球の外側に地球をつかさどる神界(神々の世界)というところがある。そこに所属する魂意識があって、それが地上に降りて、地球の意志として、人間の本来あるべき境地を語る位置、つまりインドのグル(覚者)の意識、そして今、日本で普通の人間として人々に語っている、これは宗教で言えば教祖的立場、それから、普通の戸籍で生まれてきた自分、そういう立場をいくつも持っている。山岸さんは、そういうことと同じような立場の人ということ。だから、ここのところではこういう人、ここではこういう人という風に立場、立場で色々な表現をする人であった。
山岸さんが書いたものを読んでみると、そこにヤマギシズムの中での夫婦について語っているところがある。夫婦というものを1組にして考えていくというものである。しかし、我々は既に夫婦というものを1組ではなく、一人の人間として独立して考えて行く考え方になっている。それは時代背景からして、次の時代の考え方。それは、夫婦という単位を否定していることではなく、既に夫婦単位で取り組む段階を超えているということである。これまでヤマギシでは、夫婦が1組で取り組むことでやってきたが、その中には相性とか縁を無視して夫婦にしてしまうという「結婚調整機関」と言う組織が山岸さんの発案として出されている。これ自体は山岸さんの発想なのだろうが、今ではそれが、色々な乱れや矛盾を生んできている。そういう時代に合わないものが、丁度彼が亡くなって50年。賞味期限が切れようとしている。本当にこれは賞味期限だと思う。だから、彼は僕のところに来て、僕の手を握って、バトンタッチしたことは、色々なことを調べていくと本当にそうだと思う。それで、今の僕の立場があるのだと思う。これからそれがどうなっていくかと言うことに対して、昨晩、彼と話をした。
仮に、ヤマギシを僕に託すとして、「一体全体、この理念にほれ込んで、踏み込んだのは良いが、理念だけに没頭して個々の人間を磨くことを忘れてしまっている人々をどうやって、導けと言うのか?あなたはどう考えるのか?」と問いかけをした。
そうしたら、「人間の世界は、こちらの世界(彼が今いる世界)に比べると時間が掛かりますが、流れはできておりますので、しばらくこのままよろしく」というようなことを言われた。
まぁ、そういうことなのだろうな。大本教の出口王仁三郎聖師にそういう話をしても同じことを言う。でも考えてみたら確実に時代はそちらの方に進んでいる。だから常にスタンスとしては、目の前に起きることをやっていく。一切戦略を持たない立場で、今日もいる。先にどうなるだろうと考えたら、私心が入ってしまう。

み:話を聞いていていくつか質問がある。今のヤマギシは日本の縮図的なところがあると思う。戦略的で対立があり、鬱の人がいて、自殺者がいて、と言う風に、日本社会が凝縮されている感じがある。いさどんは、今年からおやじの館を正式にオープンして自殺者を減らそうという話をしていたでしょう?でも、最近来るケアの人たちは、ヤマギシの人たちが多くなってきたよね。そこを手始めに、日本全体の問題も解決されていくのかな?それは、ヤマギシから来るケアの人たちへの対応を通して出来た実績を元に、日本全体の問題にも、ノウハウが応用されるような印象を受けたのだけど、その辺はどう思う?

い:その質問に対しては、わからないから答えない。それは、この国の未来が、そして世界がどうなっていくかは、僕の思考や興味を超えたものだからだけど、僕が5月3日の葬式(生前葬)後に一番大切にしていくことは、自殺者をなくす活動をすることは事実。これは、そういう風に決意していることだし、それがこの国にとって最も大切なことであって、最も難しい問題。昨秋にヤマギシに出会う前は、対象は一般の人だった。そういう人たちが口コミで来るのだと思っていた。そうしたら、ヤマギシとの出会いがあって、今、こういう話が進んでいる。ここで事実として挙げられることがいくつかある。ヤマギシは日本社会の縮図であり、そして日本という国は調和の高い理想の国だが、現実には全くそこが生かされておらず、精神性より経済的な発展を優先させてきた国であり、本当にヤマギシは、そのミニ日本。そこに凝縮して自殺者やうつ病が出ていると言うことである。そして、それが改善されていくと、そこに実績ができる。ヤマギシの中の実績が、今度はヤマギシの中でそういった改善のケアが出来るようになる。そのためのノウハウは、全てヤマギシに伝えられる。あの人たちのように心一つで団結できる人たちは、それこそ色々な分野の人たちがいるから、それをマスターしたら、将来には統合医療の見本となる可能性がある。それは、新たなヤマギシの社会貢献に繋がることになる。そうすると、今、ヤマギシは世の中から偏見を受けている状態にあるが、それは世の中にもう一度認められるチャンスでもある。それがどこから来たかというと、木の花であり、僕がきっかけでもある。そうすると、我々の取り組みも、そこを通じて広がっていくことを考えると、昨秋、ヤマギシとの出会う前に考えていたことは、ずれていることではなく、僕が予測していなかっただけのことで、ヤマギシを通しても、それが広まっていくことになる。ばらばらで取り組むよりも、ヤマギシがこれからそれに取り組んでいくと、集中的に色々な実験もできる。だから僕は想像していなかったことだが、これは与えられた道かと思っている。そうすると、今回の春日山行きの目的は、柿谷さんとの話だが、その後に、現在預かっているヤマギシからのケアの人たちの話もあるから、春美さんやよりどんたちと話をする。その中で、この話は出る。そしてこれから、そちらの方が大切な取り組みになって進んでいくだろう。しかし、これは見通しであり、ヤマギシの人たちの心にかかっていることだから結果は常に決めない。

み:ヤマギシのピンチをチャンスにという感じがする。

い:どんなことでも、全て活かすつもりになれば活かせる。それを問題ごととして決め付けてしまえば、問題ごとで終わってしまう。しかし問題ごとは確実に活かすためにある、それを活かさない限りは目の前にあり続けることになる。

み:今、ヤマギシは結構畜産系の仕事が多いでしょう?やはり世界的な動きや環境のことを考えていくと、そうした畜産系の仕事は環境に負荷が大きいじゃない。

い:環境に負荷が大きいことも勿論だけど、畜産というのは、経済ベースで捉えると農業経済ではわかりやすいが、エネルギー的にすごく非効率である。そして何より人間の心を食としてそそる。人間の心をそそるということは、心を躁的にしていく。それは、収めしずめるのではなく、激しく活性する効果がある。経済効果を目的の人たちにとっては、魅力的なものである。これからの時代を考えると、そのところがどうかということになる。畜産自体が経済効果が高いから進められるけど、それ自体が地球環境や人間の精神性にとっては良くないということで、見直していく必要があるのだが、そのことにいつメスを入れる決断をするかということについてだが、それは霊的なことにも深く関連する。現在、木の花では光の瞑想をしている。我々人間が、どれほどたくさんの無念の魂を地球上で発生させているかということを理解する必要がある。その魂は確実に地球の霊的な環境を汚染している。それを浄化するとしたら、まずは発生源を断たなければならない。それこそイヌイットなどネイティブな人たちが生存のために動物達の命を食べていくことは、全く問題はない。それは命が伝播されているだけで、自然界のシマウマとライオンの関係と同じである。ところが、現在の人類の営みの中で、畜産の現場で起きている命の扱い方を観たときに、膨大な数の無念の魂を生み出している。それは見えないところに、大きな影響を与えている。ヤマギシが特にこの社会の縮図として負の部分が多いのは、動物をそういう形で屠殺していることが大きな原因でもある。いつここにメスを入れるかということは大きなことであり、勇気のいることである。そのことは、何よりも重要だが、結局はハードルの低いところから取り組んでいくから、重要なことは結局最後になる。本当は気付いたら、重要なところからサッと取りかかると他はあっという間に切り替わっていくのだが、一般的には下から順番にやっていくわけで、どちらになるかは、結局は上(神界)の意向であり、そこでもヤマギシの人たちの心意気にかかっているのだから、僕は知らない。今僕に必要とされていることをやっていきながら、僕自身も結果をもらいながらやっていくということになる。

み:ふと思ったのは、どこかの小規模な実顕地の1つを、実験的に健康上の観点からベジタリアンにしてみて、例えば、成人病(糖尿病や精神疾患)の人たちがどのように改善されるかを実験データとしてきちんと取って、それを活かしていくと、霊的なという話がヤマギシの人たちにわかりにくくても、健康を改善していくという切り口であれば、結果を見ながら、他の実顕地でもそれを取り入れていくことは出来るのではないかな。

い:霊的なというとわかりにくいが、人間の心も霊的なこと。そうすると人間が対立的、疑心暗鬼、悩む、愚痴る、そういうことも全て霊的な作用なわけで、肉食や屠殺による影響でそういうことも生み出している。そこの重要さをまず知るということ。いつ頃それに気付き出すかと言うことだが・・・。
どこかの実顕地でそういった取り組みをすると言うのは、すごく良い提案だよ。本来、ヤマギシ自体が試験場だから、どこか手ごろな実顕地でそういう取り組みをして、モデル化する。それは大いにやるべきことで、今後、何かの形で提案をしていくと良いと思う。ヤマギシと昨年出会ってから、いくつかの問題点が見つかった。例えば、特講の内容にしても、青本すら、日本語だけど、もう古くてなじめない日本語になっている。もう50年たっているから賞味期限が来ている。これからの時代に合うように直す必要がある。そうすると当然研鑽学校の内容も変わってくる。そういったことをやろうという一部の人の機運もあるが、さて、いつ頃これをやりだすか?というところである。もうやらなければならないことはわかっている。だけど、やらなければいけないことはわかっているけど、ヤマギシの人々の中に「けど・でもウィルス」が蔓延していて進まない。全人幸福という大儀に向けた、零位に立つ心の覚悟ができていない人が多い。
このことは霊的には、山岸さんに伝えている。「あなたの責任上の問題として、いつそれがなるのか?」と伝えると、「我々のところ(神界)では、それはすでに成っていることですが、人間の世界では時間が掛かりますから。」と返ってきた。
改革ということをもし必要とするならば、もう取り掛かっていかなければならない。これを我々から投げかけるという点では、今の話はすごく良いね。健康とか、環境とか、新しいモデルとかをいくつかのテーマとして、それを実際に顕現する、つまり実顕地(実験地)として一つ指定してやろうという提案は大いにしていくべき。

み:特講に行く前に春美ちゃんからもメールが来たときに、「ヤマギシも食生活を見直していきたいから、相談に乗ってね。」って書いてあった。わたしはそういうことに興味があるから、いくらでもそういう話をしましょうと言っていたが、その後進んでいない。今日、また春美ちゃんとも会えるから、そういう話をまた出してみようかな?

い:春美さんにはそういう意向はあるみたいだが、中々きっかけがないと難しい。あの人たちは、きっかけがあればやると思う。そうすると任しておくといつまでたってもやらない可能性もある。

み:じゃあ、きっかけは木の花が作ってあげるのがいいのかな?

い:そこらあたりが、色々なんだよね。きっかけを木の花が作りすぎると、ヤマギシの人たちって、プライドが高くてへそ曲りなところもあって、自負心が強いから、「俺達には高い理想があるのに、何でよそからそんなものをもらわなければならないんだ!」と言う風になる。だからやはり、自分たちで研鑽して立ち上げたと言うことなら、納得する。今の中央本庁の一部の人たちが動かしていることに対してもみんなで不満を言っている。そういう意味では、全体に投げかけてどうするかを、みんなで出し合って研鑽する。我々はきっかけの提案はするけど、取りまとめはしない。それとも本庁ではなく、新しいプロジェクトチームを立ち上げて、そこが投げかけるのか。何しろヤマギシの内部から投げかけることが大切だと思う。そして、そのきっかけは木の花でもいいと思う。

み:前から聞いてみようと思っていたんだけど、いさどんは金星から来たのでしょう?そうした宇宙的な目で見たときに、山岸さんとかはどこから来たのかな?って思うのだけど。

い:僕の感覚では、山岸さんは金星から来ているのだろうと思う。だから周波数が僕と合う。これは確かではないけど、ほぼ間違いない。

み:それはいさどんの肉体が無くなって、宇宙に戻ったときに同じ星から来たってわかるの?

い:肉体が無くならなくても、これからこの流れが進んでいけばいずれ分かると思うよ。でも、そのことについては、肉体が無くなったときに、わからなくたっていいんじゃない?僕は今、自分の中で、とりあえず金星のことは大きな意味を持っていないと思っている。僕は、銀河全体のことを今は考えているから、先は銀河の旅に行きたいと思っているくらいだから。とりあえず太陽系のことは、今までの自分のグラウンドだったからね。何となく感じるのは、今回こうした役割をもらってここに来たけれど、役割を果たすことによってこの太陽系というところから自分が解き放たれて、次のフロンティアに旅立つのだろうというイメージを持っている。それで、人々(地球人)にとっては、こういうことはとんでもない絵空事のように思うかもしれないけど、実はこれは真実なんだよ。人間の想念と言うのは、全てこの世界の現象の背景にあるものでしょう?人間があんぱんが欲しいと思えば、あんぱんを創り出すのだし、鬱的なネガティブスパイラルを持っていれば鬱が発生するのだし、全部そういう風に想いによってなっていることが理解できたら、今僕が語っていることは事実だよ。
ただ、肉体に縛られて、そこからしか物が観えないと理解できない。この間、僕は金星の精神性の完成度について話をしたことがある。そうしたら杉山開知君(地球暦の開発者)が来て、金星が太陽系の中で最もバランスの良い星、ということを彼が伝えに来た。そうやって真実は必ず証明されるわけだ。だから真っ直ぐぶれない想念をもって表現しきると、常に真実の上を歩んでいくことになる。

み:地球が未熟だから、今、色々な星から色々な魂が降りてきているの?

い:それがね、僕も一時そういう風に考えていたのだけど、この間の開知君のデータを見るとね、水・金・地・火は、硬い岩石で出来ている惑星だということだった。そして太陽は全く異質のものであり、太陽系全体をまとめつなぎとめる役割、太陽系そのもの。その次の木・土・天・海・冥はガスで出来ている星だと言っていた。そうすると、木・土・天・海・冥は水・金・地・火とは違う役割のものなんだよね。そこにも霊的世界がある。それは役割が違う霊的な世界だと思う。そして水・金・地・火は、地球人類のような霊的なものを持っている。その中で、水・火については、ぶれが大きい。特に水星のぶれが大きい。地球はそれに対して、どちらかというと金星に近くぶれが少ない。金星はみごとにぶれが無い星であるけれど、地球は微妙にぶれている。この人類のぶれを、ここの世界で見ていると、本当にわからん連中だなと思う。そして、ヤマギシをこの世界の縮図だとして見たときに、ヤマギシの人たちはいがみ合っているけれど、ちょっと大事を伝えるとすぐに気がつく。それと同じことを地球人に感じる。人間たちも戦争をやっているけど、痛い思いをすると気づくというレベルだと思う。この太陽の周りを回るぶれはほんのちょっとだけなので、意外とアホそうで、アホじゃないと思う。でも、これは太陽系の多様性なのだろうけど、水星とか火星のようにぶれてしまうと、これはもうどうしようもないじゃない。そうすると金星がひとつのモデルで、地球はそれに近い存在。その近い存在に、肉体と言う物質を持たせ、セットにすることによって何か実験しているわけだよね。だから、地球というのは、さっき話をしたヤマギシのどこかの実顕地において、問題点を改善するための実験場という意味合いもある。ヤマギシでいうならば、実顕地のようなもの。そういう風に捉えると面白いと思う。
今まで僕が思っていた印象の地球は、幼いという捉え方をしていたけど、意外と地球は幼いのではなくて、それは観えていないから幼いだけであって、観えたらたちどころに目覚める存在。そうすると、土星とか木星とかの外側の星は、地球のぶれに影響を与える存在。つまり、木星であれば木星の表現がある。土星自体も、それ自体が複数の霊的な魂のかたまりとしての特徴を持っている。例えば、人間の魂だったら、肉体の中に入れてやると一人の人格が出来あがる。そういう種類の魂の分類からすると、木星以降の魂の分類と言うのは魂のパーツのかたまりなのだろう。

み:パーツ?ちょっとわかりにくいんだけど?

い:一人の人間は、百八つの煩悩(カルマ)を持っていて、その組み合わせによってその人を表現している。そうするとその土星以降の惑星の霊的な表現は、百八つのなかのパーツ、つまり、愛とか怒りとかが部品のように個別のカルマとして分類されてあるのだろうと思う。わかる?

み:じゃあ、一つの人格的組み合わせになっていないということ?

い:一つの人格のように組み合わせになっていなくて、パーツごとにそこに存在している、いわば倉庫のようなもの。それが、惑星のラインが整ったりすると、太陽の刺激によって、そこから邪悪なものが地球に降り注いだりとか、愛が降り注いだりとか、人類が戦争を始めるとか、ヒットラーみたいなものを存在させるとか、そんな影響を与えているのだろう、そういう捉え方をするようになってきた。
だから水・金・地・火と木・土・天・海・冥はタイプが違うんだよ。

み:それぞれ今、地球に来ている魂は、目的が違うの?

い:地球に存在している魂のほとんどは、元々地球由来の魂で、太陽系の第三惑星を、現在の地球にするための地球化計画に基づいた目的が最初にあったはず。そうすると、地球のために生成された魂と、それからそれを指導するための役割の魂という分類はある。だから、元々、地球化計画のためにつくられた地球人類、肉体人間のレベルだけではなく、地球には霊的な状態で存在していて、外から刺激を与えて地球の運行を支えているものもあれば、まだ未熟なものとして迷っているものもいる。それが受け皿としての肉体に入って、肉体人間として地上にいるものであるから、人間には色々な魂の形態がある。

み:では、指導的な役割で来ている魂は、金星から来ているの?それとも他の銀河系の星からも来ているの?どれくらい広い範囲から来ているのかな?

い:指導的と言ってもタイプがある。現人神のように人間の肉体に入って、役割をする為に来ている魂は、金星からだけだよ。それ以外に、霊的なメッセージとして、他の星から、これは太陽系だけではなく、他の銀河からもチャネリングのような形で人類にメッセージを降ろしてきているものもある。だから、肉体人間として降りてきているのは、殆ど金星からだけだと思う。後は、太陽系の星々からパーツとして、いわば原発事故があったときに放射能が降って来るのと同じように、太陽の活動の結果として、他の惑星から霊的な作用が地球上に降ってきて、それが人間に影響を与えて、人間の世界の中の争いであったり、調和だったりという様々な作用をもたらしている。

み:他の星からのパーツを降らせる、降らせないという、その辺の采配は、やはり宇宙の意思?

い:大きな捉え方をすればそうだけど、厳密に言えば、それは太陽の意思だろう。だって、ここの世界は太陽系だもの。太陽(光)が元になって命が成り立つ世界だから、太陽が全ての惑星の心臓部、魂で言えば丹田だから、これは太陽の意思だよ。太陽系の範囲は、太陽の光が届いて、太陽のご意向によって成り立っているわけだから、これは当然のことでしょう。

み:じゃあ、わたしたちが神さまとか光をイメージするときには、太陽のイメージをすることが多いのだけど、それは、そういうことから来ているの?

い:そう。全ての元は太陽の意思だからね。

み:でも私が感じてきたのは、いさどんが言っているところの神というのは、それよりももっとずっと大きいものだと言う印象があるのだけど、そことの違いを話して欲しい。

い:太陽系をつかさどる神は、守備範囲としてあくまでも太陽系を任されている。その外の天の川銀河とか、さらにもっと大きな広大な世界をつかさどる神という存在も同然ある。それは、役割分担というか守備範囲のこと。今、僕が知っている天(あめ)の〇〇と言った「天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)」とか、「天之常立命(あめのとこたちのみこと)」とか、仏教的に言うと大日如来とかは、全て太陽系をつかさどるもの。一般的に地球人が認識していた宇宙は太陽系のこと。しかし近代に入って、人類がこの世界を物理的に解明していった結果、太陽系の外に天の川銀河があり、更にその外に広大な宇宙(銀河群)があることがわかってきただけのことで、我々が霊的な影響を受けて、人格を含めた生命の仕組みを一つの法則としていただいているのは、太陽系が基準になっている。これは、一つのいわゆるコミュニティで、大きなコミュニティが銀河だよね。だから銀河は、地球で例えると国家のようなものだ。国家の中にあるコミュニティが太陽系で、木の花やヤマギシは、地球上の国家に当たるものになる。更に外に、宇宙と言う世界があるわけでしょう?

み:ふと思ったのは、太陽系が小さなコミュニティだと言われると「へぇ、そうなんだ」と思う。今のこの立場から言うと、地球だけでも世界全体で70億人の人がいて、相当大きなコミュニティだなって思う。でも、今の話のスケールに思いを馳せると、次の社会を作るための代替的なエコビレッジのような活動をしている人たちの中で、世界で活動している人たちはほんの一握りで、一歩海外に出てそういう人たちと会おうと思うと、みんな繋がっていて友達。数えられるくらいしかいない。案外小さいんだなと思う。そうやって考えると、太陽系が小さなコミュニティだなというのは、すごくよくわかる。わたし達エコビレッジ関係者の人たちの背後にも見えない広大な世界があり、その存在の全てを含めてコミュニティなのだと思うと、何となくイメージ的にわかったような気がする。
い:エコビレッジの運動をしている人たちは、何故そういう考えを持ったかということ。背景として環境を無視している人間のあり方や、人が繋がらないで対立しているような不幸があるからでしょう?その不幸があるからこそ、そこでエコビレッジ運動をする意味がある。ところが、金星のような世界は、既に完成されているのだからそれは必要がない。そこで僕は問うた。「この世界はあなたの意志によって動いている世界です。そうすると、人間は全てあなたの子供と言えます。ところが人々の歴史を見ると、血で血を洗うような歴史が営まれてきました。子の出来の悪さは親の愚かしさ。弟子の出来の悪さは師匠の力量不足とも言います。あなたはもっと優れた魂を地上に降ろし、もっと完全なる世界を創ればよかったのに、なぜこのような未熟な人間を地上に降ろしたのですか」と。それに対して神様が答えられました。「私はこの世界において唯一ひとつのものである。それは完全なる世界と言える。それは私だけの世界である故に、孤独な世界でもある。私にも食べ物がある。それは喜びである。喜びが私の食べ物である。私一人の孤独な世界では、絆もなく愛のない孤独な世界である。それ故に、光には闇を、善意には悪意を、愛には孤独を、調和には対立など、それら私の存在と反するものを生み出し、私の存在の表現とした。それにより、私の世界にいのちが生まれ、悪意から善意へ、孤独から愛へ、対立から調和へといういのちの流れが生まれ、その流れの中からこの世界に喜びが生まれるようにしたのである」と。ということは、今の社会に問題を感じて活動をしている人たちが、現代社会のあり方に対して間違いだと言うこと自体が、神の意思に背いていると言うことでもあるということだよ。わざわざ問題を作って変化を持たせたのだから、それを「問題だ、もっと理想の世界にしろ」という主張は、ある意味、この世界の多様性や自然の流れに反することになるわけじゃない?でも、背いているわけではないのだよ。問題を作ったのは、それを改善していくことによって、そこに喜びを発生させると言うメカニズムが目的なのだから、問題を作ったままにしておくのが目的ではない。問題を作るのが目的だった、更にそれを改善していくのが目的だった。改善して、更にそこに喜びを発生させることが目的だった。ということを考えると、問題自体もそれをノーだと言って、反対して騒ぐ人たちも、やがてそれが改善されていくことも、全てプロセスの上にある。つまり全てが目的で、順調よく行っているというわけだよ。
そうすると、我々は何をやっているかと言うと、争っていることも、調和していることも全て神さまの意思なんだよ。道代ちゃんがさっき、「自分から見たら70億の人間とか、地球から見たらこのコミュニティが巨大だと思った」と言っていた。それは、道代の物理的スケールと魂的スケールを基準にするからそうなってしまうのだよ。ところが、そのスケールを一回ご破算にしてフリーにこの世界を観て行ったら、僕の話なんか簡単に理解できる。

み:いさどんの話を聞いていると、その通りだなって思えるんだけどな。

い:ところが道代のスケールに戻るとそんな風になるんだよ。そこが、人の心が自由自在になれるという証拠なんだよね。そしてもう一つ表現していた、この世界の善悪、例えば、今までのようなあり方、ヤマギシで言うと拡大路線とか、人類が物理的な進化の延長に、偏ったテクノロジーの発展を進めてきたことも含めて、それ自体が曲がり角に来ている。しかし、その前の貧しい時代からしたら、それは問題ではなく、産業革命というテクノロジーの夜明けを迎えることになった。それは200年~300年続いた後、今、次のステージに進もうとしている。そうすると、その背景により物事の基準が変わるから善や悪になるだけのことで、善悪などはこの世界にありはしない。だから人間がいつでもフリーに、今出会っているものは何なのかを理解していければ、たちどころに問題ごとは消えていく、そういった自由自在の世界にいるということになる。しかしそれが人々にわかってしまうと、痛みを味あわせては、そこを乗り越えることによって喜びを発生させ、神さま自身も喜んでいるという、神さまが人間に対してゲームを仕掛けていることがわかる。これってゲームの世界でしょう?バーチャル(仮想的)に作っては、勝った、負けたと言って喜んでは、またご破算にして、ゲームをやっているようなもの。それがわかってしまうと人間は、人間の側でなく、神の側(宇宙の仕組み)に立つことになる。

み:なるほどね。最近、自分のトピックとして、二元論で考える自分がいて、何でも「良い・悪い」で判断していることに改めて気付いて、そのどちらかに分けようとしている自分に気付いた。それにはどちらもそれぞれ長所・短所があって、本当は決め付けられない。しかし、今、いさどんが言ったように、その背景や状況によって「こうだ」と決め付けてしまいたがる。そこに何があるかと言うと、決め付けることでそこに「安定」みたいなものをもたらしたいと思っている自分がいる。でも、そこに安定を求めていくと、水が流れるような自然な動きが無くなって、澱んで腐っていく。だから、宇宙は本来そういう風に出来ていないということだよね。

い:宇宙は限りなく循環し、巡りめぐって変化する。それは、一定のものであって、特定のものが繰り返し回っているだけの世界。その循環して巡りながら変化することを「生命」と言うんだ。だから、我々もまさしくその中にいて、自然に帰ったり、自然から戻ってきたり。大きく捉えると、それ自体が自分なのであり、一つの生命であることがわかる。
(宇宙=生命=循環して巡りめぐって変化するもの、増えもせず減りもせず)

み:だとしたら、人間が安定したいと思うその心って何なんだろう?

い:それが、自分への執着なんだよ。だから二元論って言ったよね。この世界は究極の二元の世界なんだよ。つまり、陰と陽で出来ていて、すごく単純さ。そして我々は自分と言うものが無い限り、こういう解釈はできないわけだ。お釈迦様も「自分と宇宙」、「自分と世界」という対比でこの世界を観たんだよ。それは、自分が無い限り、この世界もないんだよ。究極は自分とこの世界が対等、すなわち「自分=宇宙」であって、自分が無くなれば宇宙もなくなるという世界。だから、自分という存在を持っているところに、それがあるわけで、自分を越えたものに、それは無いわけだ。

み:ということは、宇宙を観たいと思っていると、その安定を欲しいと思うのね?

い:いいや、自分を発生させると安定が欲しいと思うわけだよ。自分という基準があると、自分の心地良さや自分の納得とか、自分で測るということになるものだから、自分の範疇の中にこの世界を置いて、特定して観ようとするわけだ。それで、自分を消せば消すほど、自分のスケールは大きくなっていくわけだ。例えば、自らを「自分」という特定にする、「家族」という特定にする、組織だったら「木の花」という特定にする、それから、「日本」、「人類」、「地球」、「太陽系」という風に特定するでしょう?そして「銀河」「宇宙」、それを「全体」と特定したら、「自分」の存在は消えていくわけだよ。つまり、自分という認識は、いくらでも増えたり減ったりするわけだよ。その意識がどの位置にあるかによって、対するものに対して特定しようとする欲求が生まれてくるわけだよ。それだけのことだ。それを自分を持ちながら、かつ自らは宇宙全体という認識を持っていたら、これは、ある意味、究極の世界に踏み入っているよね。そういうものは最終的に、肉体を返上したときに宇宙にその魂が微細に遍満して、宇宙そのものになるのだから、そうなったときには、特定する人間とかには囚われないわけじゃない。それが、悟りであったり神との合一であったりする。
そうすると地球を掌る神がいるとしたら、そのレベルの神とは、地球に囚われているということになる。だから、どこに意識のレベルを置くかということで、道代ちゃんが、一人の人間としての「道代ちゃん」に囚われていれば、その位置の現象が明快にあなたの人生に現れるということ。

み:最近わたしも寝る前に瞑想をするの。それで、その時に繋がるのが自分のハイヤーセルフ(神我)みたいなものと繋がるようにしているのだけど、そうやって考えると、もっと大きな存在と繋がった方がより宇宙的に物事を捉える役割をいただく人になれるのだろうか?

い:確かにその通りだけど、その構造が知識的にわかったとしよう。その時に、自分の魂がそのレベルに達していないのに、想うだけ想って、「わたしはそういう意識に繋がりたい」という意識では、アンバランスじゃない?

み:それも、神さまからいただいたことではなくて、自分の作り上げているエゴみたいなところもある、とも思うんだよね。

い:そう。エゴ的、知識的。自分の意識のレベルということになるわけだから、それだったならば、そういうことは一切抜きにして、明らかにこの世界には秩序があるのだから、その秩序に向かって呼びかけたほうがふさわしい。変にその構造的知識を知って、そこの位置に自分をもって行きたいというのは、よく行者が自らの欲求を達成したいがために、裏づけにする守護霊とか守護神を降ろしてきて、その背景によって道を説いていくようなご利益宗教になってしまう。それは、求める人にとっては尊いものであっても、真理に向かっての道からは遠ざかってしまうことにもなる。

み:何か、それも意図的かなとも思って。だから食事の時にするお祈りでは、神さまのレベルはわからないけれど、「神さま、どうぞわたしをお使いください。神さまが使いやすいわたくしでありますように、お導きください」と語りかけている。

い:「常に私はそのようでありたいと思っているものです。どうか私を相応しい役割に使ってください」だよね。でも、使ってくださいと言っても、向こうからすれば、「始めからそういうものとして、わたしは使っておる。改めて頼まれるような話ではない」ということになるんだよ。
だから、わたしとあなたという意識が存在している限りは、まだ途上ということになる。「既にお前と私は一体であって、お前はわたしの意思によって相応しいところで使っておる。お前の認識している意識は、お前がそのレベルに保っているとも言えるが、逆に、わたしがそうしているとも言えるんだぞ。」
そのことを理解すると、それって「私が今与えているレベルより、上がっていったから、役割を上に上げようか」とか、全て神の意のままの話ということでもある。そうすると、人間の思考っていうのは、何だろう?ということになる。

み:そうなの。そこで、自分なんかいらないとしたら、今までの自分を振り返ると、木の花に来て日々、自分の心の中を観ていくことをやり始めて、自分のエゴがあったりして、気付いていくわけじゃない。なかなか自分で気付かなかったり、改善できなかったり、意識が上がらなかったりするけれど、それも含めて全部神さまが、「いつまでも意識のあがらない道代ちゃん」を作っているというわけでしょう?

い:そうすると、つまらないじゃない。我々に意思が無くて、全部神さまのマスターベーションになってしまうわけでしょう?そこでは神さまもひとりでゲームをやっているのだから、つまらないわけだ。そうすると、自分というものを分割して、「自分 対 〇〇」という相手を創って、自分の範疇を超えた遊びの部分を作る。それが、我々に与えられている自由なわけだ。それをどうするだろう?これは、実験室でビーカーなどにこうした世界を作って、そこに地球世界を培養して、さてどういう風にこれが繁殖していくかを研究して楽しんでいる。それこそ麹でも培養して、発酵具合を見ているような世界でもあるんだよね。だから我々には、神を無視して、神の存在を全く信じない、自分達だけの思考でこの世を作っているという人々すらも認められているということなんだ。それを無神論者というのだけど、本当にそうなのだろうか?あなたはこの宇宙の中の一つじゃない?ということに気付いた時に、もう神の手(この世界の仕組み)の中に無い存在なんて有り得ないということになる。この世界を広くおおらかに捉えると無神論者も神さまの手の中にあって、それは遊びの中に与えられているということになる。

み:そうするとその自由をうまく使うことによって、神さまを結構喜ばせることが出来るね。

い:その遊びがあるからこそ、我々は神を認識することが出来るのだし、人間というのは、神の領域まで到達することができる者になるんだ。神はこの現象世界(三次元世界)を創造されたわけだけど、どうしてこの世界を創ったかというと、その中の殆どの存在は、神の意のままの存在であるわけだ。しかし、人間は、そこの中で唯一自由意志を与えられたものとして創られている。中にはその元本を理解できない無神論者までいるわけだ。つまり、人間という神(命)から隔離して、神から意識が離れていたものが神に近づいていく、そのプロセスを人間に味合わせて、その喜びを神自身が味わっている。だから人間は神の名代として命を生きて、生命としての自らに気付いていくことを目的として生きているとも言える。それに対して、他の植物動物などの生命は、神(宇宙ルール)の意のまま、ルールに則って存在している。人間の存在も神の意思そのもの。最終的には、全てこの世界は神の意思そのものということ。そういう風に考えていくと、またまたつまらなくなる。だから神さまに聞いたんだよ。「この世界にあなたは遍満している。そのあなたの支配する宇宙はあなたの個性ですね。すると、あなたの隣には、あなたの個性とは違うルールの世界があるのですか?」と尋ねた。そうしたら、「それを聞いてどうするのだ?」と言われた。「お前は私のルールの中に存在するものである。その隣の世界があるとして、それを理解しようとして理解できるのか?」と言われた。「それは、理解できません。」と答えると、「では、理解できないものを聞いてどうするのだ」と言われた。「あ、不必要なことなのですね」ということになるわけだが、では、それに対して「隣があるのか、ないのか?」ということに対しては、「あるが、理解できないものである」と言われる。それをどうやって理解するかというと、この世界は全て二元で成り立っている。ということは、「この世界」を認識したら、この世界を存在されるもう一つの世界があるわけだ。それは、物理学でも常識のことである。

み:いさどんが言っている「この世界」というのは、太陽系だけではなく、もっと大きなものを指しているの?

い:そう、宇宙全体のこと。この神が掌っている世界。物理学でも極められない世界。そして、この世界が存在するということは、その対極があるからこそこの世界があるということになる。それは、想像の世界になる。この世界のスケールは、何百億光年という世界だと理解している。それは行ってみてわかっている世界ではない。そして、この宇宙世界を一つの世界と捉えたら、これを存在させる一対がある。これを陰としたら陽、陽としたら陰があるということだ。こちら側を離れて向こう側に行き、向こうからこちらを見たときに、初めてここの世界がわかる。そうすると、物理的には対極に行けるかどうか考えるわけだ。そうしたら「行けない」という結論になってしまう。光を越えて、この四十数億年の、我々の宇宙を超えた世界、その百何十億光年の世界を我々は認識しているわけだ。この我々が存在する太陽系や銀河を作っている四十数億年を超えた世界がある。それすらも理解できないのに、その無理解の更に対極があるとしたら、もうどうしようもない。お手上げだ。それで、物理学では、この探求については諦めたが、僕は諦めていない。そこで、これを認識するにはどうしたらよいかと言うと、この物理的人間を超越して、自らの思考が宇宙意識まで行ったもの、つまり神のいる側 — あってあるもの、無きて無きもの — そこの世界に合一したら理解は出来る。つまり、神さま(宇宙真理)と一緒になったら理解は出来る。しかし、そこまで一体になると面白くないじゃない。何にも無くなっちゃうんだから。その手前のところで銀河でも旅をしようかというところに今の思考が働いている。

み:でも結局は、一般のわたし達みたいに、神の世界と一体にとても成り切れない人たちこそ、楽しみがあるということでしょう?

い:そう!だから、金星のぶれの無い世界に対して、地球のぶれのある世界というのは素晴らしい世界ということになる。その時に、何で地球に完全な世界を表現しなかったのかを神様に聞くと、「完全は完全であるのか?」と言われて気付いた。ということは完全は不完全によって表現されるのであって、完全なる世界とは不完全であると言っている。完全が不完全からできているとしたならば、その完全の世界に不完全を下ろし、そこで完全を超えた完全を創った。つまり、地球という世界は、完全を超えた完全の世界だとわかった時に、何とすばらしい世界がここに創られているのかということに気付いた。

み:今の話は、地球のこと?それとも宇宙のこと?

い:宇宙とも言えるし、地球とも言える。それほどの配慮の世界を創られたとわかった時に、僕は、神様は今まで偏っていて未熟なのではないかと思っていたけれど、そうではなかった。その偉大さに敬服し大拍手を送った。
「素晴らしい!」

み:そんな風に思ういさどんって何者なんだろうって思うんだけど。

い:僕はいつも、そのように対話しながら遊んでいる。面白い世界だ。この世界は想念の世界。想念こそが世界を創っていく。この物理的な世界は、解釈によってどうにでも解釈が変わる。だから物理的な世界も面白い世界だよね。
先日の地震や津波でたくさんの人が亡くなっていった。死を迎えることは誰にでも確実に訪れることである。それは生の学びの卒業でもある。そして修行からの救済でもある。生命として存在することから生まれる苦痛からの救済でもあるのだよ。逆に言えば、津波にもまれながら助かった人もいる。大変つらい経験をして助かった人々。その人々が本当に助かったのかどうかとは、その後の生き方によるのである。人によっては苦痛の世界に逆戻りしたことになる人もいる。それはゲームのようなものでもある。死ぬも生きるもその人の心の持ち方にかかっている。そのことがわかると、自由自在に楽しみ、生きられる。だからどこの位置に心をシフトするかによって、この世界は、喜びでもあり、苦痛でもあり、どんな世界にもつなげられる。そういったところから捉えると、うつ病になってみるのも善し、喜びを感じるのも善し、もう好きなようにしなさい。自由自在の世界なのだから。そしてそこまで意識が行くと、いかに我々が自由な世界にいるかがわかる。自らを特定してしまうと、たいへん不自由な世界に生きることになる。

み:わたしの心の癖だけど、ふと思ったのは、「あぁ、いさどんくらいに思っていたら、神さまは可愛くて仕方ないだろうな」って思ったの。

い:過去に僕がまだまだ目覚めの途上のころには、苦痛を感じたときに、「私に与えられたこの問題は何ですか?これをわたしに与えて、どうされようと言うのですか?」と想い、上を観上げると、いつも神様は「何も問題は無いぞ。滞りなど、どこにも無いぞ。全て順調にいっているぞ」と言ってニコッと笑っている。「そうですね、それを理解できない私がいるのですね」という対話をいつもしていた。ウッとして上を観るたびに、滞りなどどこにもないと癪に障るくらい、いつも言われていた。その当時は、神さまとのゲームにいつも負けていた。ウッとして上を観て、その存在に気付いたときには、「あっ、このゲームを引き分けにしよう。」と思うようになった。

み:わたしが思ったのは、いさどんみたいに出来のいい人は、神さまは可愛いだろうなと思ったの。でも、わたしやみんなみたいに色々と問題を抱えている人たちは、どうかな?って思ったときに、「あぁ、それでも神さまは愛してくださっているな」とすごく思ったら、出来の悪い子ほど、神さまは喜んでくださるなと思った。

い:だって、今ここにいる道代っていう存在こそ、神の目的そのものなんだよ。僕のようになると、心が通じた人ということになるけど、「おまえは、だんだんわたしの方に意識が近づいてきて、ある意味では、わたしの目的から外れている」つまり、僕のようなものが増えてきたら、この世界を創っている意味が無いということにもなる。

み:つまらなくなってしまうよね。ということは、わたしのできの悪さも神さまを喜ばせるという意味では、大事なの?それで、開き直っちゃいけないけど。(笑)

い:そうそう。それでも神様は、苦痛ばかりの中にいて、その意味が全くわからない人も、神さまが創られた仕組みの中の出来事として認めておられる。出来の悪い人ほど可愛いっていうじゃない。

み:うちにケアで来ていて、時間が掛かりそうだなという人たちが、どんどん変わっていくよね。それは、何かある意味、神さまが嬉しいと思うような感覚を、わたし達も味合わせてもらっていると思う。

い:そう、だからそういった人達が木の花に来ることは、我々のためなんだ。我々が何かしてあげているのではなくて、それが我々の存在の生きた証なんだ。してあげていると思っているうちは、まだまだ本当を理解していない未熟なものである。

み:今回、ケアのサポーターをさせてもらって、すごくそれを思った。楽しかったし、すごくありがたかった。

い:僕なんかいつも思う。この人は何でわからないのか、僕の言うことを聞きさえすれば、たちどころに良くなるのに、と思う時がある。何でこの人は自分の矛盾に気がつかないのかな、と思ったときに、この人はこの人で役割として、それを表現しながら歩みとしている。だから、治らないのもプロセスということになる。そうすると、場合によっては、治すことばかりが良いわけではない。だからといって、治さないのも良くない。という我々は大変面白い世界にいる。これは何なんだ?物事の奥にある意志を観る、表面に見える形に囚われるなということ。

み:それも全てお任せしなさいということ?

い:それはそうとも言える。しかし、お任せしてしまうと変化がなくなってしまう。だから結論が出せないところに、我々は存在しているわけだ。山岸さんの青本を読んでいくと、そういうところが出てくる。物事を特定してはいけない。色々なものがいて、それで良いのだとする。でも、この世界に問題ごとはたくさんある。昔は貧しかったし、そうするとその貧しさは解決しなければならないが、どの落としどころが正しいというところにあってはいけない。それを特定したら道は外れる、と彼は言っている。この方はそこの意識レベルの人だから。そして彼は、そこへみんなにおいでということを言っている。行ったらわかるぞ、行かなければわからんぞ、という世界。

このことをなかなか世の中に出せなかった。今回のこの旅はひょっとしてこの時間が目的だったのかもしれない。最近、僕の中にフラストレーションが溜まっていた。出版のプロジェクトも滞っていて、自分の中にあるメッセージが、出せないでいた。これも全て神の意思。しかし僕の中にはさらに色々あるのに、何で出せないのか、とフラストレーションが溜まっていたところだった。
今回の旅は、当初陽子ちゃんが出張するつもりでいたが、結果は陽子ちゃんではなかった、道代ちゃんと行くという風に考えていたら、みかちゃんも行くと言った。みかちゃんに行きたい心があるのならそれもいいか、と思っていたが、結果として、みかちゃんは行かず、二人だけだった。道代は来るけど、向こうの録音だけのつもりで来るのだろうか。僕は車の中の話も重要だと思っていた。そうしたら用意されていた。だけど、その心構えを道代ちゃんがしているかどうかは、僕にはわからなかった。そして道代ちゃんはその大事を心得ていた。そして、そのことで質問もあると言う。そしてこの場が持たれた。それで、僕のフラストレーションも解消した。

み:良かった~♪わたしにはわからないけど、自分が役割として行くと言ったけど、果たせるのか疑問に思った。だけど、どう考えても陽子ちゃんが行けなくて、この役割は運転のことも含めて、わたしが行った方がいいと思った。

い:運転などは、神さまに任せていると全く疲れない。自分の肉体の中に神の意識が入って、そうすると一応ハンドルを握っているけど、さっきからずっとここまでの間、全く運転している意識が無い。あぁ、こんなところまできちゃった。

み:いいなぁ、わたしもそんな風に運転できるようになりたいな。わたしもしてみようかな。

い:一応、もう少し行くと御在所サービスエリアだから、そうしたら道代ちゃんに代わってもらわないとね。ヤマギシの人たちには、いさどんは運転が出来ない人という認識を持ってもらう必要があるから。それは、いさどんが何者であるかという認識を、とことんわかってもらわなければならないから。

み:この間の電話での会話の様子を聞いていると、よりどんはわかっていないんじゃないかな?

い:でもそれは、同時に僕も充分自分のことがわかっていない。それは、時間と共に、自分の言葉に出会うと共にわかってくる。そういう状態だから。


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