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533(いさみ)ナイトより①「3ばかりの通知表」

5月3日はいさどんの誕生日。1951年5月3日の午前3時頃、岐阜県美濃の地にて古田家に三男坊が生まれました。5月3日生まれの三男坊、すなわち「5・3・3」ということで、当初は「伊佐美」という名前が付けられようとしていたいさどんですが、父親が役場に出生届を出しに行った際、役場の受付の人から「これは伊勢の伊ですね・・・それよりもこちらの偉のほうがいいじゃないですか」と言われ、「偉佐美」と命名されることになったのです!頑固者で人の言うことをあまり聞かないいさどんの父親が役場の受付の人に言われただけで、簡単に名前につける字を変えるなんて、ある意味信じがたいことです。しかし、神様は役場の受付の人をも使って、天の意志を地上に現したのです。

今、いさどんは自らの名についてこう振り返ります。「偉いという字がついたことで、僕には昔からプレッシャーを感じることがありました。自分のことをたいして賢いとも思わないし、たいして立派な人だとも思っていなかったので、名前がプレッシャーになることもあったのです。しかしいつの頃からか、自分はこの字をもらう宿命だったと思うようになりました。そして、この字でなければ、イサミのイはヒフミヨイのイ(五・位置という思念)になるのです。それに対し、ヰ(偉)はヒフミヨイムナヤコトという物事の始まりから終わりまでを悟った最終段階の状態です。昔はその字をもらったことをプレッシャーにも感じてきたのですが、今はその仕組みを語れていると思うのです。」

533ナイト
533ナイト

5月3日の夜はいさどんへのサプライズプレゼントとして、「533ナイト」が開催され、いさどんの人生をファミリー皆で振り返り、一人ひとりがこの生き方に対する志を再確認する場がもたれました。今回は、その夜にシェアされたいさどんのエピソードを3つご紹介します。

 

「3ばかりの通知表」

実は、僕は死にたいと思ったことがあるのです。それは、小学校5年生のときでした。僕は6人兄弟の5番目なのですが、僕に近い兄弟である上のお兄さんとお姉さんは結構勉強ができたのです。僕の小学校のときの通知表を見ると、3ばかり並んでいました。それで小学校5年生のときに家庭科の授業があったのですが、僕はこういう人ですから、「男に家庭科なんて必要ない!なんで男がぞうきんを縫ったりしないといけないんだよ!」といった男気がありました。ですから、ぞうきんを縫ってくることが宿題で出されたときに、とてもむかついた記憶があります(笑)。それで、縫い目を大きくして、がばっがばっと縫っていったら早いじゃないですか(笑)。それを提出したら、その年の通知表には家庭科に2がついていたんですよ!初めてあひるをもらって、それが僕にはとてもショックでした。僕は理数系でしたから、算数と理科だけは時々4をもらっていたのですが、なにしろ3ばかり並んでいました。通知表がすべて3だったときもありましたね。

そうしたら、父親がその通知表を見て、「おまえってやつは3ばっかだな」と言ったのです。3ばかりというのはある意味喜ばしいことでもあると思うのですが、そのときの僕には「とりえがない」と受け取れました。「とりえがない、だから不必要だ」と思ったのです。そうなると、「自分には生きている価値がない」と思うようになったのですから、思い込みは恐ろしいものですね。それで、物置へ行って何を使ったら死ねるか真剣に考えてみたり、川へ行って深いところへ飛び込んだら死ねるかなとか、でもそういえば自分は金槌だから本当に死んじゃったらどうしようと思っちゃったりして(笑)。寒いだろうなとか、苦しいだろうなとか、何か刃物で傷つけたら痛いだろうなと思いながら、さてどうやったら死ねるかと真剣に悩みました。

僕の人生の中では、それ以外死にたいと思ったことはありませんね。ずぶとくなりましたからね(笑)。ですから、いさどんでも真剣に死にたいと思ったときがあるのです。死にたいと思うのは自我の強い人間の特徴なのです。しかし、死んでしまったら、元も子もありません。死にたいと思うのは自分に囚われているからです。誰かと比べたり、よくあるのは自分に意識が行き過ぎてしまうと、他の人の目が気になるのです。そうすると、みんなの目線が自分のところに向いていると思ってしまうのです。

僕はこうやって人前で話すようになりましたが、小学校の高学年から中学校にかけては対人恐怖症で絶対話せませんでした。富士山に移住してからも、いろいろなところへ呼ばれてお話しするようになりました。たとえば会社の経営者の集まりに呼ばれることもあったのです。そうすると、「話を聞きに来る人は優れた人たちだ」と自分で勝手に想像して、プレッシャーを自分にかけていくのでした。たくさん人がいることに対して、それを漠然と見ていると、「みんな優れた人たちなのだろう」と思ってしまうものなのですが、実際一人ひとりに会って話してみると普通の人たちで、そういう場所ではみんな背伸びをしてかっこつけている人が多いのです(笑)。そのことに気付いてからは、自由に話せるようになりました。ところが、多くの人たちは、自分でつくり上げた縛りを取って自由に話すことがなかなかできないのです。だから、僕の話を聞きに来ていることに気付きました。それで聞いている人たちが、「あの人はすごいなあ!」と思うようになるのです。

しかし、こちらにいることもそちらにいることも、たいして変わらないのですよ♪僕にはそのカラクリがわかったのです。ほとんどの人は内にある秘密を話しませんよね。そこで、僕が前へ出て馬鹿話をし、なかなか人前では話せないような話をしていくと、自分を隠して良く見せようと思っている人たちは、「あの人は自分にはやれないことをしている!」と思うのです。これは、ほんのちょっとの意識の違いです。みなさんもそのカラクリに気付けるといいですね♪

 

 


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