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お釈迦様の時代の悟りから、新たな時代の悟りへ

ある日の大人会議で、「いさどんの七夜物語」シリーズ第六話がシェアされました。

 
こうちゃん:
この七夜物語の第六話には僕のことがたくさん出てくるんだけど、自分を振り返ってみると、あのころから比べて意識的にとても変化したと思う。これはとてもいいなというか、誇れるというか、今日読み合わせた七夜物語の第六話の中でいさどんが話した境地までは、まだ至っていないと思うけれど、この先が楽しみだと思います。
これを読んで、みんなは「自分が主役であること」や「一人一人が全体性を持つことが大切」と言っていたが、それと同時に僕が思うのは、こういった意識を七夜物語のところからずっと育ててもらったのだと思っています。
この意識を日常でいつも持っていたら、常に自分が主役であるという意識を持つことや全体性を意識して心がけることに加えて、世界観を広げる意欲があれば、その延長に着実に歩んでいることを感じられるし、今度アンテナショップもできることになったので、そこにこの心をもっていけば、外の人たちに異次元空間は提供出来ると思っている。

いさどん:
人間に生まれてきた「性(さが)」、これを人間性といいますが、その人間性は生きているとどのレベルかということが問われます。人として生まれてくるものの特徴は、思考回路が複雑で、願望を持つようになり、さらに願望を膨らませることもします。そこに、長年生きてきた結果しみついた心の癖(カルマ)に翻弄されて生きれば、さらに複雑な生を生きることになります。
そういった生を通しての経験は、垢を取り去り、意識が高まって高次元の美しい人生を生きるようになるのが本来の在り方ですが、人間の性(さが)というのは低い次元の状態でいると、しみついたカルマが垢として、高次元の美しい人生に到達することの障害物にもなるものです。そして、そこで得た経験やものが執着となり、さらに人生の足かせになっていくものなのです。

現代社会において、高い地位や優れた能力を発揮し、評価されているような立場の人々が、その立場に相応しい立派なことを語っていても、その人の奥にある精神性が、自我そのものであるということが今の世の中にはたくさんあるのです。優れた能力を発揮したからといって、その奥にある性質により、その人自身の霊的な価値は図れないのです。結果それでお金儲けに走ったり、その立場に執着するようであれば、世の中に混乱をもたらす原因にもなるのです。

それは、今の時代の成功者として評価されているリーダーたちや、政治家、経済人、宗教家、教育者などなど、そういった人たちが多いのです。そのような人々は、自らの内側に向き合い、自分の魂を潔く禊ぐくらいの精神を持っていかなければ、自らは善い行いをしていると思っていても、世の中には混乱をもたらす原因となり、霊的には罪人にもなるのです。

そういった現代のからくりが、今ひも解かれる時を迎え、社会ではその裏側が各方面で暴露されてきています。パナマ文書はその一つの事例です。そのような現象は、今地球のマグマが活動期に入り、世界中の火山が活発に活動し始めたように、それはある意味、精神世界の火山が噴火し始めたようなものです。このような世の中の闇の部分は、これから益々暴かれていくことになるでしょう。

そういった時代を表現する人間の性(さが)に対して、その昔お釈迦さまは仏法を通してどのように道を示したのでしょうか。すべては、自分という認識が成立することによって世界を解釈し始めることから始まります。人のすべての解釈は、自我の成立から始まり、その自我の位置を基準としてそれを尺度とし、この世界を図り始めます。ですから、始まりの始まりは自分というものの成立から始まっているのです。

一体全体、人間とは何者なのでしょうか。そして自分とは何者なのでしょうか。ほっておけば悩むし、ちょっと迂闊にしていれば腹も立つし、妄想も膨らませれば、願望も膨らみ、それに囚われればことが成らないといって萎縮もするし、ことが成れば自信過剰にもなる、感情の荒波に翻弄される複雑な存在です。それが、それぞれの個体で個性的な特徴を有し、無数に存在しているとしたならば、このような不可思議な生き物がほかにいるでしょうか。

そんな人間の中の自分というのは何なのか。自分が存在するばかりに、この世界を解釈するのです。その解釈は、人間の数ほど尺度があり、人間の数ほど物事の捉え方が違うのです。それを客観的に観察すると観えてくるものがあります。その目線は、自分というものの自我の窓を通してしか外が見えない。どんなことをしても、自分以外の窓から見ることはできないのです。そして、この自分というものをどのように捉えるのかというと、お釈迦さまの示された道はネガティブモードの道だったのです。

その道の始まりは、生老病死に始まり、人生の全ては四苦八苦なのですから。だから、この世界に生まれ存在することの全てが苦痛であると、説かれたのです。そして、生まれ出ることが苦痛の始まりであり、生きることが苦痛の連続なのですから、その苦痛から離れるためには、どうしたらよいのかと考えたのです。そこにはたくさんの理屈があるのですが、結局は自我という尺度を持っているから苦しみに出会うのだと結論づけています。そして、諸行無常、色即是空と説いたのです。

しかし、そのような苦痛からの解放を求める境地のものに、手法としてこのように思えばいいんだと伝えたところで、その思いが湧き出す自分がいる限り、思いは湧いてくるのだからどうしょうもないのです。そこでどのように瞑想をしたところで、その結果は迷走に繋がることになるのです。それは、実態の伴わないバーチャルな体験に基づく境地を求めるものだからです。このような体験をいくら積んでも、その思考形態で生きていること自体、四苦八苦を産み出す仕組みの中にいるのですから。
そこで、どうしたらいいと思いますか?

A子:
死ぬ。

いさどん:
死ぬ?違うよ。死ぬんじゃないよ。反対だよ。

B男:
生まれなければいい。

いさどん:
そう。お釈迦さまは、生まれなければいいと示したのです。生まれなければこの苦しみを体験することもなく、結果この苦しみから解放される。お釈迦さまはネガテイブですね。(みんな笑い)

生まれてきたが、人生で出会うのは四苦八苦で苦痛の道だから、ここから逃れるためには、生まれなければいいということになります。生まれてくるということは、肉体という特定を得、自我というカルマが発生し、それにふさわしい自我の人生を生きることにより、それが次のきっかけとなり、また生まれてくる。何回も何回も生まれ変わって輪廻を繰り返すのだから、そのけじめのない輪廻に嫌気がさし、生まれないためにはどうしたらいいのか、又はなぜ生まれてくるのかを考えたのです。そうして行きついたのが、「自らに囚われ、執着する心に自我が成立することにより生まれてくる」ということ。それが人間の性(さが)なのです。

ところが面白いことに、13000年前の叡智であるカタカムナでひも解いていくと、ヒトという境地に至った存在は、完成された悟りの境地のものを指します。そこでは、「ヒトであるということ=この世界の始まりから終わりまでを悟り、統合している者=悟っている状態」と示しています。それは本来、仏教で言う、生まれてくることのないもの、もしくは生まれてきたとしても、人の性(さが)に苦しむようなものではなく、自我を超越した存在(菩薩)と示しているのです。

ところがカタカムナの後の時代、今から2500年ほど前、お釈迦様が道を示すために役割をもらって降りてきたころには、「人間は生きることにより四苦八苦するものである」というように人間性は固定されてしまい、世界は特定の王に支配され民衆には希望のない混沌とした時代だったのです。「生まれてくることがいけないんだ」と、生きること自体を否定的に捉える時代だったのです。

そこで小乗仏教で象徴されるように、現世が苦痛であることから、少しでも功徳を積んで生まれ変わり良い人生が生きられるように願うようになっていったのです。
さらに大乗仏教になると、苦痛の世界から極楽浄土を求めご利益的救済への道に変わっていったのです。そこでは本来、自我を超越する道であった探求の道が、苦痛から解放されたい願望をかなえる道に変貌し、そのことにより結果として人々はカルマにまみれていくことになったのです。

中国の天盤の巡りで示されているのは、地球上に宗教観がもたらされたのは、今から約3000年前のことなのです。そういった歴史の流れから捉えれば、そんなに古い話ではないのです。そして3000年の時を経て、天盤の巡りで示されているのは、時代は今宗教の時代を終え、新たな時代を迎えようとしているのです。その新たな時代を生きる人々は、生きることに、願望をかなえたり救済を求めるのではなく、自らが自らを正しく悟ることによって、願望(自我)に翻弄されることなく、救済される必要のない高い意識の存在(菩薩)となるのです。
そうするとこれからの時代は、宗教の時代に示されたような、「人として生まれ、人の性(さが)に翻弄され生きなければならない」というネガティブな感情からの解放ではなく、自我を理解し自我に翻弄されることなくコントロールし、その個性を有効に生かし、高い意識のもとに自らにも他者にも有益な人生を生きる人であることが望まれるのです。

3000年の宗教の時代を経て、人々が新たな時代を生きる人間性になったとき、「性」という字を「サガ」と読むか「セイ」と読むかの違いが示されてきます。そこではセイという読み方は「聖なるもの」のセイに通じることになります。そしてセイという示しは交わりの性に通じ、全ての生命の始まりのセイであり、宇宙の根源の働きに繋がるものです。そういった秘められていた仕組みが今、解き明かされ、その時代が今訪れたということになるのです。ですから、宗教の時代のお釈迦様は人々に悟りを説いたのですが、今新たな次の段階の悟りを人類は迎えようとしているのです。そのことに気づき、私たちは社会の先端を生きているのですから、そういった自覚の元に、自らと向き合って生きていきたいものです。

今日「七夜物語」の第六夜を聞いて、晃ちゃんの話がたくさん出てきましたね。晃ちゃんの精神性の成長のプロセスの一段階を見ました。晃ちゃんは、第六夜に出てくる自らの段階をみて、「自分はあそこにいたんだ」と振り返りました。そして、あそこからここへ来たんだと気づいたときに、いさどんがその後にその次の段階の話をしてくれました。そこでまだ、次の段階には至っていないけれど、以前のもっと下にいた時から今の段階にいることの意味がよく分かり、そこを目指すんだという希望が生まれた、と言っていました。

人間というものは、一人一人個性的な人間性という性を持っているのです。お釈迦様の時代は、生まれてくると四苦八苦を繰り返し生きることの結果、わかればわかるほど生きることはつらいと解釈しました。そこで、「じゃあ早く死のう」という発想になるのではなく、四苦八苦の原因を消滅させずに死んだところで、またそれが原因となって生まれてくることになり、また四苦八苦を生きることになる。ということなのだから、生きることを吟味して生まれることのないようにしましょう、という道を示したのです。この道理はそういった生に対する認識の時代にはその通りですが、それがその時代にふさわしい道理と捉えるならば、今の時代には今の時代にふさわしい道理が求められるのは当然のことです。

2012年の12月21日25800年ぶりの「銀河の冬至」を迎え、時代は闇のピークを越え、今私たちは、人間性の愚かしさのピークも観たわけです。この時代には、戦争で示されるような物理的地獄もあれば、人々の心が創り出す闇の世界もあるのです。

最近の注目すべき話題として、日本で行われる伊勢志摩サミットを機会にアメリカのオバマ大統領が70年前に原爆を投下された広島へ初めて訪れることになっているのですが、オバマ大統領は、大統領就任後に核廃絶を訴えてノーベル平和賞を受賞しました。しかし、自国の核にすら何らの対策もうたないままに、世界は核の緊張の上のパワーバランスにより、北朝鮮の核開発が進むことを誘発するような現状のままにあります。その結果、辻褄を合わせるように今回の広島訪問が実現したようにもとれます。そういった出来事も含め、人類の心の闇も極みのところへ達し、世界のリーダーや、聖職者と称される人々が現代社会の行きついた矛盾の根源であることが観えてきました。それを時代が示していると受け取れます。

そういった表面的に取り繕った見せかけの平和を唱えるのではなく、このような現状を踏まえて、ターニングポイントを超えた次の時代の聖なるものとは、どういった精神に基づく探求であるべきなのかが、これから人類が目指すべき方向性です。人間に生まれてくると、人間性という人間であることの「定め」がついてきます。人間に生まれてきたら、ほかの動物とは違って、自らを認識する、考える、願望を持つ、膨らませる、叶える、喜ぶ、ということをします。そういった願望がかなわない時には、悲観することもします。その時に我々の喜びというものは何なのかというと、今までは全部損得勘定です。この損得勘定というものは、次元によって質が全く違うのです。物理的な損得に基づく損得勘定もあれば、自らの霊的な価値が積めるか積めないかという損得勘定もあるのです。

そこが観ているところの違いで、こうちゃんはさっきの第六夜の話を聞いて、去年の9月ごろの自分に立ち返って、こういった喜びや豊かさがあるんだ、という心境になりました。そういった心境に至ったときに、人はモノやお金に縛られることから解放されます。そのような心の価値と出会った喜びや、心が成長して豊かになっていくことを通して、お釈迦様が道を示された頃の時代のようなネガティブな悟りではなく、「ヒトとしての本来の悟り」に至るのです。

それは地上を生きるものにも、天に存在するものにも共通して有効なものです。お釈迦様の時代は、「人として降りてくると四苦八苦して生きるのが大変だから生まれてくるな」というのが悟りを目指す目的の原点でした。ところがそういった苦しみの世であるにもかかわらず、後の世は、人は減るどころか大変増えて、人々は四苦八苦から逃れるどころか、欲望の感情におぼれ、かえって苦痛の種を人生にまき散らし、その結果世の中は混乱の極みに達しているのが現状です。

本来ならば、そのようなろくでもない人間は、地上の理想を目指す目的からすると不必要なものとして淘汰されるべきものです。ですから、人々が天意に沿って生きていたならば、人が生きることにより自らを磨き高め、本当に必要な魂だけで地上は安定した世界になっていくはずなのです。そして、そういった世界では本当のヒトが世界を創っていくことになります。地上で生きるにしても、「ヒトでなし」ではなくて、ヒトにふさわしい人が生きる時代がこれからの時代と考えた時、これからの人たちの損得勘定は自らを高次に導き、自らが納得し誇れる生き方をするべきです。そして天とともにクニツクリをし、地上を豊かにし、みんなが楽しみ喜べる、嬉し楽しの世を開くために生きるものであるべきです。その喜びが、自らの願いであり意志として生きるものになったときに、これこそが、新たな時代の人々(菩薩)の姿なのです。

宗教の時代の初期は、個人が個の悟りを求めて仏陀となった時代だったのです。それが優れた聖なる人の見本になりました。しかし、これからの時代は「すべての衆生に仏性あり」とお釈迦様の言葉にあるように、一人一人の精神が天意に目覚め、全ての人々が仏陀としての自覚をもって生きていく時代です。

そういった時代の幕開けを感じとったとき、そのような景色を観、そのような喜びにこうちゃんは出会ったのでしょう。こうちゃんおめでとう、ということなのです。おめで統合だね。(チ~ン♪、笑い)

丁度今、木の花の精神性を表現した発信基地としてアンテナショップの計画がありますが、このアンテナショップでは「あれ~ここはどこだろう。これは何だろう?」という不思議な雰囲気を体感できる場所を目指しましょう。そして訪れた人々が「ありがとう」と言って帰っていくときに、何か懐かしい想いを感じ、また帰宅なるところにしたいものです。そこは、本当の自分に出会え、自分の家よりも居心地がよい場所にしたいものです。そしてその場所が、物理的な場所だけではなく、心の居場所であったならば、たくさんの人がみんな帰宅なるでしょう。それは、私たちは元々そこ(心の故郷)から生まれてきて、今まで忘れていただけなのですから。そういった場所をこれから創って世の中に提供していきましょう。

こうちゃん:
3000年前からの流れ、お釈迦様の教えも金神様が言うように、今の時代になっては、人々の意識の内では逆さまになっていたということだね。

いさどん:
そうだね。「まさしくこの世は逆さまじゃ」ということ。今の人間たちは、たくさんのものや価値を所有しているでしょ。そして、本当が観えない世の中になっている。これから、それが全部ひっくり返って新しい価値観の新たな世が始まるぞということで、本当に「嬉し嬉し、楽し楽し」とみんなで共に生きていきましょう。

 

 


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