手かざし(スピリチュアルヒーリング)

 
【他者にヒーリングを提供する場合】

手かざしは、人に内在する能力として、人々の健康や意識の向上に役立つものです。ですから、手かざしの正しい手法とそれを行なう時の姿勢を整えて、社会の健全に役立ててほしいものです。この手法は、私が今まで手かざしを行なう際に培ってきたことをもとに紹介します。

まず、手かざしをする時、そのエネルギーはどこから来て、どのような仕組みなのかを説明します。はじめに、目的の部位から適度な距離を置いて右手をかざし、同時に、眉間のチャクラを意識し、そこから斜め上45度に向かって、これからその行為を行う意志を天(大気)に発します。その際、目は半眼の状態を保ちます。それは、あくまでも、体は気の通り道として利用するものであり、この行為に思惑を乗せないことが目的にあるからです。
そうすると同時に、頭頂チャクラから大気のエネルギー(プラーナ)が頭部を通って体の中に入ってきます。その場合、体は気を圧縮するコンプレッサーの役割を果たします。その気のエネルギーは体の中で圧縮され、圧縮された気は右手の平から部位に向かって流れます。その時、想いを乗せて手の平に意識が行き過ぎると、流れに無理が生じます。この所作の目的は、大気の生命力を気として体内に取り入れ、それを圧縮し、強い流れとして、対象の不健全な細胞配列を健全に整えるものです。そのために、眉間チャクラから意志が発せられ、頭頂チャクラから大気のプラーナ(生命力)を取り入れ、体の中で圧縮し、強いエネルギーの流れを手の平から発する仕組みをよく理解し、イメージすることが大切です。
また、目的の部位を両手ではさみ(両手は部位から適度に離す)、右手の平から強いエネルギーの流れが発せられることをイメージしながら、左手でそのエネルギーを引き込みます。その場合、左手に入ってくる負のエネルギーは、左腕の付け根(肩)で止めるイメージをします。イメージとして、正のエネルギーは体の中に取り込んでもいいのですが、負のエネルギー(毒・矛盾)は必ず左腕の付け根(肩)にフィルターをイメージし、そこで止めます。病気や矛盾を持っている人に手かざしを行うと、左腕の付け根が重くなってきます。ですから、それがある程度溜まってくると、左手の平を上に向けて空中にその毒・矛盾を解き放ち、一度リセットしてから、次の所作に入ります。

左利きの人の場合は、引き込む左手のエネルギーが強いのですから、右手の押し出す力を強めることになります。左は陰の側ですから、内に引き込む役割を果たします。右は陽の側ですから、外に押し出す役割を果たします。そこで、「押す」と「引く」の間に強い流れができ、その間に手かざしをする目的の箇所を置くことによって、その気の流れが人間の細胞の配列を正常にしていくのです。そろばんで計算した後に、ご破算にするようなイメージです。

これは対向発生の原理であり、互いの役割の違いを有効に生かしていくことになるのです。ですから、右利きの人も左利きの人も、右手(押す力)と左手(引く力)のどちらが主になるかの違いだけで、右から左への流れが変わるわけではありません。

さらに、手かざしを右手だけで行なうことも出来ます。その場合、右手の押し出すエネルギーをもって、目的の箇所に気の流れを当てることにより、細胞配列を正常にしていくという行為になります。

また、目的の箇所に手を当てて行なう場合は、「手当て」ということになります。「手かざし」の場合は、手かざしをする箇所から手を離すことによって、気の流れを創り、その間の流れを持って、目的の箇所の細胞配列を正常にします。ですから、手かざしは基本的には離してやるものです。

このように、人間の肉体に秘められた能力は、誰にでもあるものです。その能力を開発することは、日常生活の健全かつ社会の健全に大いに役立つものです。日本では、こういった行為が、宗教的な場所でご利益的に広められてきました。ですから、一般的に人の精神性向上や健康のために十分に理解されてきたとは言えません。イギリスなどでは、それをスピリチュアルヒーリングとして、医療機関も取り入れています。本来、人の優れた能力として、日常的にこういった所作を利用することは、個人かつ社会の健全において望ましいことであると考えます。

 

【自己ヒーリング】

ヒーリングの方法として、もうひとつの方法を取り上げてみます。一般に、人は生きていると、体に負のエネルギーを蓄えることになります。そういった場合、蓄積されたストレスや疲労を解消する手段として、自己ヒーリングという方法があります。それは、睡眠前など時間の余裕のある時に行うと良いでしょう。人の体に発生した負のエネルギーは、それを流し出し、健全で安定した状態にすることが大切です。一日の終わりのけじめとして、そういった取り組みをすることは、新たな日を迎えるにあたり、気持ちの良い一日を過ごすために大切にしたいものです。

自己ヒーリングの方法として、まず、仰向けになります。眉間チャクラから真上に向かって自らの意志を天(大気)に発し、頭頂チャクラから大気のエネルギーを受け取ることを意識します。両手の平は上に向け、両足は肩幅程度に開きます。その際、全身で天から降りてくる気を浴びることを意識し、全身の力を抜き、リラックスします。
はじめに、右腕から右手の平までを意識し、その日に活躍してくれた右手に感謝し、負のエネルギーを解き放つイメージで、手の平を軽く握り、ゆっくり開きながら空中にその負のエネルギーを放ちます。この所作はリラックスした状態で、エネルギーが解き放たれるのを意識しながら、ゆっくりと行ないましょう。「右手さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしながら(言葉に出してもよい)、行なって下さい。その時に、細胞一つひとつを意識して感謝すると、日頃から細胞はそのように心を向けられることがありませんので、細胞はとても喜びます。負のエネルギーを放つ時には、同時に息を吐きながら行なってください。その際、まずは息を吸って、吐きながら負のエネルギーを解き放ちましょう。負のエネルギーを解き放つ行為は何回か繰り返し行なっても構いません。気持ち良くなるまで行なってください。
同じように、左腕から左手の平までを意識し、左手にも感謝し、負のエネルギーを空中に解き放ちます。細胞すべてを意識しながら、「左手さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージし(口に出してもよい)、息を吐きながら負のエネルギーを放ちましょう。
次に、右足の付け根から足先までを意識し、右足に感謝しながら、右足の裏から負のエネルギーを空中に放ちます。「右足さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしましょう(言葉に出してもよい)。息を吸い、吐きながら負のエネルギーを放ちましょう。
同じように、左足についても行ないます。
次に、全身に感謝し、「体さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしながら(言葉に出してもよい)、息を吸い、吐きながら両手両足から負のエネルギーを空中に放出します。
最後に、頭を意識し、頭の中の思考を停止するイメージでリセットします。頭は思考がまわりすぎていると、ちょうど眉毛の上あたりが一番こっているものです。ここの筋肉を緩めて思考をなしにして行ないましょう。人が思考をする時には、必ず眉毛の上あたりに輪がはまり、この位置で思考を横にまわすようになっています。よく思考をまわす人は、この輪が強く締められています。ですから、これを緩め、なしにしていくことをイメージしましょう。その際、同時に全身の力も抜きましょう。全身の力を抜く時は、軽く深呼吸をして、息を吐きながら力を抜きます。そして、「ありがとうございます」と感謝しながら、思考エネルギーを眉間チャクラから空中に放出しましょう。
各部所で負のエネルギーを空中に放出するたびに、そのエネルギーが活躍してくれたことに感謝する意味で、「ありがとうございます」という言葉を添えて、放出したいものです。そのようにして、自らの中の一日に溜め込んだ負のエネルギーをすべて流した後に、もう一度、「今日一日、ありがとうございました」という感謝の心を込めて、全身を感謝の響きで包みましょう。これで自己ヒーリングを完了します。
イメージとしては、脳の思考をすべて空にした段階で、シャバーサナ(死体のポーズ)を意識するのが良いでしょう。シャバーサナのポーズに入ったら、出来る限り思考はまわさないように、全身の力を抜き、床に体がへばりつくような重力を感じてください。呼吸は常に吐くことを意識しましょう。最終的には、自分の体の質量がなくなり、体が空中に浮いていることをイメージします。そして最後は、無重力の宇宙空間に浮いているイメージをしましょう。星がたくさんある世界をイメージし、自分もその星のひとつになってみましょう。

そういった体に対する感謝の姿勢が日常の中で定着してくると、それを毎日行なわなくても、自動的に一日の終了時に無重力を意識するだけで、負のエネルギーをリセット出来るような人となります(ミノナライ)。

 

手かざしを行なうための心構え

手かざしを行なう上で理解すべき最も重要なことは、欲の心を絡めて行なうのではなく、人の内在する可能性を開発するために行なうということです。そういった内なる気付きを得るための機会にしたいものです。とかく人間は、健康になろうなどと、私欲の延長にそういった行為を行なうことにより、それが本来の人としての優れた気付きを得るためのものとは、違うものになってしまうのです。

そのためには、「私は空っぽですから、私をあなたのエネルギーの通り道にしてください」と天を意識することです。「治してあげよう」とか、「良くしよう」という私欲の意識を持って行なうことは禁物です。その場合、そこに自我が入ることにより、発せられるエネルギーはきれいなものとは言えないことになってしまいます。ですから、その発せられるエネルギーには、何も想いが入っていない美しいものとして、エネルギーの通り道を創り、それを圧縮して発しているだけの意識として行なうことが肝要です。

このように、ヒーリングを行なう時の心構えとして、私たちは対象に対して何かをやってあげるのではない、ということです。「やらせていただきます」の姿勢が肝心です。それはなぜかというと、そのエネルギーを対象に発することにより、自らの全身の気の通りを良くする効果につながるからです。人にやらせてもらうことにより、やればやるほど、自分自身の気の通りは良くなってきます。ですから、常に、「やらせていただいて、ありがとうございます」の心構えで行なうことが肝要なのです。

そもそも私たち地球生命は、身近なところでは空気を吸い、食べ物を取り入れて生きています。このように、生命活動を維持するために必要なことを行ない、いのちをつないでいます。いのちがつながっていくということは、生命力があるからです。いくら生命活動をつなげようとして、いくら呼吸をしても、そしていくら食べ物を取り入れ栄養を摂ったとしても、生命力がなければそれで終わりになるのです。生命力がないということは、簡単に言えば、寿命が来たということです。寿命が来たかどうかは別にしても、それは心臓が停止したというような、生命を維持するための機能が働かなくなったということです。

そもそも、私たちは生命力の源がどこにあるのかということを認識する必要があります。それは、呼吸にあります。呼吸というのは、単に酸素を取り入れている行為ではありません。空気の中に酸素はありますが、「空気」は「空(から)の気」と書くように、空気というのは空っぽで駆け引きも何もないことを指します。つまり、空というのは、美しさや純粋さ、始まりを示し、そのような気が地球を包んでいるのです。

地球と大気の関係を語るのに、卵の中身が地球だとしたら、その外側の殻の厚みが大気となります。それはとてつもなく薄いのですが、実は空気の層には100kmの厚みがあるのです。地球上で最も高い山はエベレストであり、これは約9000m弱の高さです。それよりも上まで大気の層はあるのです。この大気の層があって、下へ行くほど気圧が高くなり、上へ行くほど気圧が低くなります。気圧が高いということは、生命力が高いということです。ですから、地表に生命は湧くようになっているのです。

私たちは常に空気を吸うことによって、大気の酸素を取り入れ、循環の中の生命活動をしています。同時に、私たちは空気から「気」を取り入れています。人によって健康であったり不健康であったり、生命力が強かったり弱かったりするものですが、それはその人の空気を取り入れる姿勢にあるのです。たとえば、呼吸をする時に、私たちは吐くことを意識するようにしています。吐くということは、自らの中にあるものを空(から)にすることにより、新しいものが自動的に入ってくるということです。

台風が来ると気圧が低くなり、1気圧(1013ヘクトパスカル)よりも低くなれば、海面を押さえている力が弱くなるため、海面が上昇します。先日の台風21号は、945ヘクトパスカルぐらいで大阪湾に上陸した時、潮位が3mを超えるほど上昇し、過去最も高い潮位を記録しました。それぐらい、日頃から空気の圧が海面を押さえているのです。

そうすると、私たちは今、気圧を感じながら、自分の体を保っているのです。実は、その気は吐き出せば吐き出すほど、入ってくるものなのです。それだけ、私たちには圧力がかかっています。それを、「気をたくさん引き入れてやろう」と思うのは、すでに我や欲が働いていることになります。呼吸は、吐けば自動的に入るようになっています。それが、この世界の仕組みです。それに欲をかけると、さらに自我に汚れることになるのです。ですから、「吸ってやろう」と思わないようにしましょう。日頃生活している時でも、「得をしてやろう」とか「良い思いをしたい」と考えている人たちの姿勢は、それはすでにこの世界に生かされている姿勢から外れているということなのです。

では、どのような姿勢で生きることが望ましいのでしょうか。それは、「生かされています」「ありがとうございます」「いただきます」という心になった時、この世界で生かされている姿勢にふさわしいものとなるのです。はるか彼方、13000年前のカタカムナ人たちは、現代のようなテクノロジーもなかったため、生きていくのに自然の仕組みの中でその仕組みのままに生きるしか術がありませんでした。その時に、自らの種を存続させ、生を全うするためには、いろいろな危険がありました。気候ももっと不安定だったでしょう。危険な動物に出遭ったり、1年を生きる時に現代のような施設栽培があるわけではないので、その都度自然からいのちをいただく必要があったのです。そうすると、彼らは常に自然と対話しながら生きていました。ハワイの先住民たちも、星と対話しながら生きていたのです。それは、特別なことではなく、日常当たり前に行なわれていた姿勢でした。星と対話し、危険についても自然から察知しながら生きていたのです。このように、自然の中で完全に生かされていたので、人間の姿をした宗教的な神様など想像しなくても、その人が生きているのと同じ意識レベルに見えない存在を感じ、生かしてくれていることを知っていたのです。そして、それが宗教心の始まりだったのでしょう。それは、生きることに対して真剣かつ純粋な生き方でした。

私は手かざしについて考えた時、今までの宗教のようなご利益的なものではいけないと思っています。そこを慎まなければ、この行為の効力は発揮しないでしょう。私たちがこの生命世界の中で健康に生きる仕組みをよく理解した上で、汚れのない美しい心のもとに行なうことが大切なのです。もしくは、自分は汚れていると思った人が、自らの心がよりきれいになっていくために行なうことです。

今まで、私はあえてこういった行為を、積極的に行なうことも伝えることもしなかったのは、それがご利益的な世界につながることを懸念し、控えてきました。しかし、これも人間に内在する神通力のひとつです。宗教のように欲が入ると害も出ますが、内に発生した滞りをきれいにしていくだけの浄化作業としての意識で行なうならば、人々の健康に大いに役立つものです。そして、人間を正しくきれいにし、細胞の配列を正しくするという目的のもとに行なっていきたいものです。そういった意味で、このような行為も正しい道理のもとに互いに行ない合うことにより、絆につながることにもなるのです。

「健全なる肉体のもとに健全なる精神がある」とは言いません。「健全なる精神のもとに健全なる肉体が宿る」と言います。この世界は「陽陰」ではなく、必ず「陰陽」です。そのことを理解した上で、手かざしを行なうべきです。ですから、そこでは真剣な姿勢が求められます。

体の歪んだ細胞の配列を治しても、心を正さなければ、物事の根本的な解決にはなりません。心が原因として生命力は本来あるべきです。心が伴わない生命力は、人生の狂いの元となります。つまり、生命力の内容は心が伴ってあるべきです。それは、本来の生命のあり方に基づき、心もあるべきなのです。

そういった意味で、手かざしを日常の中に取り入れることは大切なことですが、もし取り入れるのであれば、こういった心構えを徹底的に理解し、自覚した上で行なうことが肝要です。それが、「知意行一体」の精神です。そして、それを反復演練していくことによって、自然に身についていきます。そうした「ミノナライ」となった時、その人は美しい気をこの世界に発する者となれるのです。

 

 


あなたが人間である限り 〜 2018年終戦記念日を迎えて

8月12日の夜、木の花ファミリーでは「この世界の片隅に」という映画を皆で観る時間を持ちました。7月21日から韓国の7人の子どもたちが木の花ファミリーに滞在しており、その上映会には韓国の子どもも参加していました。その翌日の子どもミーティングでは、ジイジから日本と韓国の子どもたちに向けて、この映画を観たことを受けて戦争について話す時間がもたれました。

子ども達に話をするジイジ
通訳に耳を傾ける韓国の子ども達

あなたが人間である限り
〜 2018年終戦記念日を迎えて 〜

ジイジ:
今日は8月13日です。日本では、8月の13日・14日・15日にはお盆休みを迎えるのですが、これは仏教の盆会で、亡くなった人の魂を家に迎えるということをします。亡くなった人はいなくなってしまったのではなく、魂としてどこかにいると言うのですが、本当にいるかどうかというのは考えものです。それはなぜかと言うと、生きることは明日という未来へ向かって進むことです。それを止めることはできません。それは、私たちは時間と共に生きているからです。皆も、10年経って、20年経って、30年経って、67年経つと、ジイジのようになるのですよ(皆、笑い)。もうしばらくすると、ジイジも、形としては消えてしまいます。そうすると、皆の中のどこにいるかというと、おそらく心の中にいると思うのですが、形はなくなります。

それで、私たちは生きている間にいろいろなことをしますね。そうすると、その人の思い出がまわりの人たちに残ります。それが皆の心の中にたくさん残っている人は、死んだ後でも、皆の中にいつまでも生きています。悪いことばかりしていたら、それも残ります。そして、大した行いをしていない人は、すぐに忘れられてしまうのです。たとえば、100年経ったら、ほとんどの人たちは忘れられてしまいます。しかし、100年経っても忘れられない人もいます。それはどんな人ですか?

ゆうとう:
歴史上の人物!

ジイジ:
そうですね。それは、お釈迦様やイエス・キリストのような聖人と呼ばれる人たちのことですね。それで昨日、皆で「この世界の片隅に」という映画を観ましたね。あのような戦争があり、今からちょうど73年前に戦争が終わったのです。実は、ジイジも戦争を経験したことはありません。戦争が終わって6年経ってから、ジイジは生まれました。ジイジのお父さんやお母さんは戦争を経験しています。

あの映画を観て、皆はどう思いましたか?

みこと:
戦争の映画って聞いていたから、怖いのかなと思ってあまり観ようと思わなかったのだけど、観たら意外と面白かった。

ジイジ:
日本では8月15日が終戦記念日です。だから、このお盆と終戦記念日がちょうど重なっているから、亡くなった人たちのことや戦争のことを振り返るという意味で、この時期には毎年戦争に関する特集や映画がテレビで放映されます。今までは、戦争はとても悲惨な出来事で、たくさんの人が戦場で亡くなったということが取り上げられていましたが、昨日の映画は少し違っていました。その戦争が行われている時代にも、人々が笑ったり冗談も言いながら日常生活を過ごしていたことが描かれていましたね。

しかし、そもそも外国の人が日本に飛行機で飛んできて、爆弾を落とし、最後には原子爆弾というとてつもなく大きな爆弾を落とし、何十万人という人が死んだのです。ところが、同じ時に日本が外国へと行き、たくさんの人を殺していたのです。そのことを皆は知っていましたか?

(「知っている」と答える子どもたちと、「知らない」と答える子どもたちに対して)

知らない人もいますね。だから、戦争のことは皆、知らないといけないのです。

一昨日の晩、まりちゃんが「関ヶ原」という映画のDVDを借りてきてくれて観ました。それは、1600年のことですから、今から約400年前の戦国時代に、日本の武士たちが戦っていた映画でした。その時代には、日本人同士が殺し合っていたのです。

それから300年を経て、今度はアメリカや外国の人たちと日本が殺し合っていたのです。さらに、日本も外国へ行き、たくさんの人たちを殺したのです。単に殺したといってもよくわからないかもしれませんが、どうして戦争が起こるか知っていますか?どういう心の人が戦争を起こすか、皆はわかりますか?

あやな:
自分の欲が大きくなって、戦争になる。

ジイジ:
どういう欲が大きくなるのでしょうか?

ゆうとう:
「僕がいっぱい儲けてやる!」「世界中を支配してやる!」という欲!

ジイジ:
「僕がいっぱい儲けてやる」と思ったとしても、それは戦争をしなくても、商売をすればいいのです。何も戦争をする必要はありません。

みのり:
自分の意見と他人の意見が分かれたものが大きくなったもの。

ジイジ:
それが何ですか?

みのり:
喧嘩!

ジイジ:
自分の意見と他人の意見が分かれて、それが大きくなったものが喧嘩で、喧嘩がひどくなると戦争になるのです。皆は昨日の映画を観て、楽しかったですか?

みのり:
ううん。楽しいわけがない。

ジイジ:
ジイジもすごく悲しかったし、戦争に腹が立ってきました。あの小さい女の子が吹っ飛んで死んでしまいました。おそらくあの状態だと体はバラバラになっています。映画の主人公であるすずさんの右腕は手首から先がなくなってしまいましたね。

あきよし:
あれは何だったの??

ジイジ:
たとえば、飛行機は、頭が良い人が作るのです。飛行機に爆弾を積んで、運んで、落として、破裂させるのも、頭が良い人が計画をするのです。「こうやったら大きく破裂して、たくさんの人が死ぬぞ!」ということで、「そういうものを作ってくれ!」と誰かが頼んだら、それを工夫して頼んだ人の願いを叶えてあげたら、お金がたくさんもらえるのです。それで、たくさんの人を殺すことをそういった人たちは一生懸命考えてやるのです。さて、あの女の子が死んでしまった爆弾はどういうものだったのでしょうか。

すずさんと姪っ子のあの女の子が、空襲が終わった後に、軍港である呉市の港を見に行きましたね。そのときに、爆弾が落ちてできた穴のそばに行ったのです。つまり、海岸はすべて塀があって見えなかったのに、爆弾が落ちたからそこが壊れて見える状態になっていました。「ここから見えるよ」と言って港を見ていたら、おじさんたちが「爆弾の不発弾は時限爆弾だから気をつけるんだよ」と遠くから呼びかけていました。大きな爆弾を落とすと、それはドーンと爆発します。その破裂した大きな爆弾の中に、破裂しない小さな爆弾をいくつか入れておくのです。

子どもたち:
えっ!? なんで??

ジイジ:
それは、大きな爆弾が爆発すると、まずそれが破裂して破壊しますね。そのときに破裂した爆弾の中に、破裂しない爆弾が入れてあって、そこに残るのです。時限爆弾というのは、時間が来ると破裂するのです。だから、飛行機が飛んで来て、爆弾を落として、飛行機が行った後に皆が出てきて、「空襲が終わってよかったね」と言って外の様子を見に行ったら、「時限爆弾があるから気をつけなよ」というおじさんの発言につながるのです。あのとき、すずさんはそれが聞こえなかったから、「お疲れ様」と言って塀から海岸を覗いていたのです。そのときに、そこに落ちていた時限爆弾が破裂したのです。

そこでジイジが思ったのは、「それを考えた人は頭が良いな」ということです。なぜなら、破裂しない時限爆弾を残しておいたら、空襲が終わって安心して外に出る人たちをもう一度やっつけられるからです。だから、ジイジはそれを考えた人のことを思うのです。爆弾を破裂させただけでは皆をやっつけられないから、空襲の後に様子を見に来た人たちも時限爆弾でやっつけようと考えるのは、賢いと思うのです。

戦争の場所というのは、実際に爆弾やいろいろな武器を使って相手をやっつけます。それは、そういった人を殺したり物を破壊したりするものがどのくらい効果があったのかという実験場でもあるのです。だから、原子爆弾も、人間が住んでいる都市の上に破裂させると、どのくらいの破壊力があって、どのくらいの人が、どのくらいの期間に死ぬのかというデータをすべて集めているのです。そして、そのデータを次の爆弾のために活かすのです。よりたくさん、より効率良く、人を殺すことを考えるのです。それは、頭が良い人でないと、そういった工夫はできません。

皆は、学校の勉強をしていますね。学校の勉強をして、将来大きくなって、大きい会社へ入って、そこで良い製品を作って、それがたくさん売れたら、お金をたくさんもらえますね。その会社が爆弾を作る会社だったら、効率良くたくさんの人を殺す爆弾を作ったら、お金をたくさんもらえるのです。

たとえば、食べ物が安全でないものなのに、皆がたくさん食べたがるようなものをたくさん作るとします。そういう食べ物はコンビニなどでたくさん売られていますね。そうすると、安全でなくても、皆がたくさん食べたがるものを作ったら、会社は儲かって、これを作った人たちは給料をたくさんもらえるのです。だから、体に良いものではなくても、人がたくさん欲しがるものを作れば、お金になるのです。そういった食べ物をいつも食べないといられない人も出てきます。これを中毒と言います。そういった中毒の人がたくさん出てくるような食べ物を作れば、会社は儲かりますね。そして、それを考えた人はお金がたくさんもらえますね。お金がたくさんもらえたら、その人は優れた人になります。頭が良い人ですね。

そこで、戦争の話をもうひとつ話します。「悪魔の兵器」と言われるものがあります。

子どもたち:
何それ??

ジイジ:
名前は「クラスター爆弾」と言います。クラスター爆弾というのは、まず飛行機が爆弾を落とすときに、最初の爆弾は一つです。そうすると、途中でそれが破裂して、いくつかになります。たとえば、最初の爆弾が落ちると、それが破裂して、100個になります。そうすると、100箇所に広がっていくのです。そのうちに、その100個になった爆弾が、さらに破裂します。そうすると、それがまたいくつかになるのです。

このクラスター爆弾をインターネットで調べると、「広範囲に効果を及ぼすこの無差別兵器は、人口の多い地域で用いられると、特に危険。薄い膜で覆われた大きな爆弾には、10kg以下の小型爆弾がだいたい100個詰められている」とあります。それがドーンと落ちて破裂し、そこからたくさん広がった爆弾が、さらに破裂して広がるのです。最終的には、手榴弾ぐらいの大きさに分かれて、それが爆発するのです。そうすると、広範囲に破片がいっぱい飛んで、中に金属の玉が入っているのでたくさんの人を広範囲に効率良く殺せるのです。

ジイジはこういうものを知ると、「これを作った人は頭が良いな」と思うのです。こういうものを考える人は皆、学校で勉強がよくできた人たちです。だから今、学校で勉強ができる人に対して、「あなたはすごいですね」とは僕は思いません。勉強ができる人たちが皆、こういうことを考えるのですから。そして、お金をたくさんもらえて、良い生活ができるから、こういったものを考えて作るのです。

クラスター爆弾の他にも、「ナパーム弾」と呼ばれる爆弾があります。インターネットでナパーム弾について調べると、「主燃焼材のナフサにナパーム剤と呼ばれる増粘剤を添加してゼリー状にしたものを充填した油脂焼夷弾。アメリカ軍が開発したもので、きわめて高温(900-1,300度)で燃焼し、広範囲を焼尽・破壊する」とあります。昨日の映画でも描かれていたように、花火のように火がついてヒューッと落ちてくる焼夷弾と同じです。すずさんの家の屋根を突き抜けて落ちて燃えていたのを、すずさんは消そうとしていましたね。しかし、あれは油だから消せないのです。油は水をかけたって、広がるだけなのです。アメリカはベトナム戦争でナパーム弾を用いて、多くの村や森林を燃やしました。また、「人体についたナパーム弾は落とすことが困難で、広範囲のやけどをもたらし、犠牲者は痛みによるショックでしばしば命を落とした」とあります。べっとりとくっついたら、もう取れないのです。そうすると、相手の人をよりたくさん苦しめてから、殺すのです。頭の良い人はそうやって効率の良いものを考えるのです。いっぺんに殺してしまうとそれで終わりです。でも、苦しんでいる人がたくさんいると、それを手当てする人も必要なわけです。だから、その現場がより大変な状態になるのです。たとえば、負傷した人たちがたくさん出て、その人たちが助けを求めていたら、その人たちを看病する人たちがいります。そうすると、そのまわりにいる元気な人たちも戦うことはできません。そして、負傷者が多くなると、その人たちの戦う気力もなくなっていきます。「なるべく苦しませて、死なせないように」という効果をもたらす武器を作る人たちは、頭の良い人たちです。

昨日観た映画は第二次世界大戦を描いたものですが、このような兵器は戦争をやるたびに、「もっと相手を傷つけるように」「もっと強力な兵器で効果が上がるように」という目的でどんどん進化していったものです。今なお、このような戦争の道具は、さらに効果が高いものを作るために研究されているのです。それを誰が研究しているのかというと、学校で勉強ができた人たちなのです。

もうひとつ、戦争のことでひどい話があります。東南アジアにカンボジアという国があります。ベトナムでもそうですが、特にカンボジアという国は国の中で内戦がありました。カンボジア人同士で戦ったのです。そのときに「地雷」というものをたくさん埋めたのです。

みのり:
足が吹っ飛ぶもの?

ジイジ:
そうですね。昔の地雷は、地雷が爆発すると、ほとんどそれを踏んだ人は死んでいました。ところが、今の地雷は、死なないのです。死なないように作ってあるのです。たとえば、足だけが吹っ飛んでしまったほうが苦しいですよね。その人が歩けなくなったら、その人を看病する人が必要になりますから、他の人の戦力がそこに取られてしまいます。だから、そんなに強い爆発をさせないようにして、負傷した人をいかに増やすか、ということを考えた兵器なのです。

かのこ:
え――!!

ジイジ:
今、かのこは「え――!!」と言いましたが、相手をいかに苦しませて、戦えないようにさせるのかを考えるのが、兵器の目的です。相手が苦しいことを平気で考えるのが、兵器の目的なのです(チーン♪)。

なぜ、ジイジは昨日の映画を観ていて腹が立ったのかというと、あの映画は日本が攻撃されている映画ですね。なぜ、日本は攻撃されたと思いますか?

みのり:
喧嘩を売ったから。

ジイジ:
そうです。そもそも、外国とあんな戦争を始める国だから、そのような攻撃を受けたのです。しかし、人というものは、自分が攻められると自分がかわいそうで、攻める側が悪くて、攻められる自分はかわいそうだと思ってしまうのです。そういう一方的な見方だけをしてはいけません。自分の側が正しいとか、自分の側がかわいそうと思うだけでは、本当のことはわかりません。相手には相手の考えがあるのです。大切なことは、両方の考えを聞いて、喧嘩をしなくてもいいようにすることが大切なのです。

ここで、もうひとつ大切なことは、戦争は今でもあります。どこでそれが起きていますか?

みのり:
世界で。

ジイジ:
そうです。地球で起きているのです。地球の中の誰が起こしているのですか?

子どもたち:
人間!

ジイジ:
では、人間以外のもので戦争をするものはいますか?

子どもたち:
いない!

ジイジ:
人間だけですね。皆はその人間の仲間ですね。皆が「自分が正しい」とか「自分だけがかわいそう」と、自分のことばかり考えていたら、それが戦争の元になるのです。だからジイジは、「もっと広い意識の心を持ちましょう」といつも伝えています。

今、人間というこの馬鹿な生き物が地球にいて、戦争のような行いをするのです。人間はそこから勉強すればいいのですが、こういう馬鹿な戦争をして、その結果それを元にして、さらにひどい爆弾を作ったりするのです。さらに自分の都合の良いことを考えるのです。それでは、いつまでたっても平和な世の中は来ませんね。

子どもたち:
うん。

ジイジ:
自分のことばかりを考えるのではなく、皆のために良い世界を創ればいいのに、とジイジは思うのです。

みのり:
みのりもそう思う。

ジイジ:
でも、学校で、自分のことしか考えていない人たちがいっぱいいるでしょう?木の花の中でも、自分の都合だけを考えている人はいませんか?そういう人たちがこういう生活をしていても、似合いませんね。

それで、日本は戦争をして、300万人の日本人が死にました。1945年に戦争が終わって、その5年後の1950年に、そこにいる韓国の子たちが住む朝鮮半島でまた戦争が起きたのです。朝鮮戦争があったのは知っていますか?それはジイジが生まれる前の年に起きた戦争です。そのときには、今の北朝鮮と韓国のある朝鮮半島全部が戦場になったのです。朝鮮の人たちは日本よりも人口が少なかったのですが、その戦争で400万人の人が死んだのですよ。そのときに、日本よりもさらに不幸だったことは、北と南に分かれた同じ朝鮮の人たちが戦ったのです。だから、日本でいうと、北海道や東北の人と、九州や四国・大阪の人が戦ったということです。同じ民族の人たちの間で戦いがあったのです。それで、人々の関係が近いから、余計に憎しみが強くなったのです。それは、とても悲惨な戦争でした。

今も、国境が朝鮮半島の真ん中にあって、北と南に分かれています。それで北朝鮮は原子爆弾を作り、まだ戦争は終わっていないのです。あれから何十年も経ったのですが、戦争は停戦ということで戦いはありませんが、まだ終わっていません。

そういったたくさんの歴史を振り返ると、人間は馬鹿だと思うのです。それで、人間を観ていると、頭が良いのか馬鹿なのか、どちらか分かりません。それでも、そういった人たちと自分は同じ人間なのですよ。だから、ジイジは皆にこういう話をしたいのです。

あなたが人間である限り、その心の持ち方によっては、戦争を起こす人になります。でも、あなたが人間である限り、その心の持ち方によっては、平和で豊かな幸せな世界も創れるのです。

そのときに――、先程誰かが言っていましたが、戦争の元の心は何ですか?

みのり:
自己中心の心。

ジイジ:
そうです。自分のことしか考えない心です。相手のことなど考えない。そこで、皆は今、このように毎日を生きていますね。どこに生きているのかというと、一つの地球に生きているのです。そして、地球は動いています。地球という一つの乗り物に乗って、私たちは宇宙を一緒に旅しているのです。この地球に命がたくさんあるのは、なぜだと思いますか?どうして地球に命がたくさんあるようになったと思いますか?

なお:
空気があるから。

ジイジ:
そうですね。他にはどうですか?

ゆうゆ:
水があるから。

子どもたち:
太陽があるから!

ジイジ:
そうです。太陽が命の元になっているのです。あとは?

なお:
海があるから!

ジイジ:
海があるということは、水ですね。海からはじめの命は生まれました。もう一つあります。それは、風です。風は空気をかき混ぜて、地球全体にいつも新鮮な空気を送るようにしています。この地水火風空の5つの自然の要素があるから、地球には命があるのです。これはすべて、一つです。大地も一つです。水も一つです。火というのは太陽のことで、太陽も一つです。風も空気もすべて一つです。その中心の太陽があるから、すべてが命の循環としてつながり、人間や他の生き物の命が健全にまわっているのです。そうすると、みんな一つだとしたら、「あなたは何者ですか?」と質問されたら、「私は光です」ということになりませんか?それは、私たちは太陽の子どもだからです。「あなたは何ですか?」と聞かれたら、「私は水です」ということになりませんか?なぜなら、私たちは水でできているからです。そこで「大地です」と答えたら、それは私たちが大地の子どもだからです。皆、大地から生まれてきた命を食べて、生きているのです。「風です」と答えたら、風のおかげで私たちは健康に生きられるからです。風がなければ、この世界の命は弱くて、育つことができません。そして、「私は空気です」と答えたら、空気がなくて生きていける人はいませんね。空というのは空間のことも示しています。この空間があるから、皆、生きていられるのです。

そこで、自分と人は違うとか、自分のことしか考えないという人がいるとして、そういう人たちがこういう考え方を持てば、皆同じということに考えが変わると思いませんか?皆、こうした自然の要素の子どもなのですから。

その前に、今日一番最初に話したことで、皆、同じ時間の上にいますね。地球上にいる限り、そして宇宙空間にいる限り、皆、同じ時間を生きているのです。だから、皆、同じ時の人なのです。皆、時間の子どもなのですよ。地球上に存在する命はすべて、地球という宇宙船に乗って宇宙を旅しているのです。

さらに、地球というのは、地球だけで宇宙に存在しているわけではありませんね。そうすると、太陽や地球と同じ仲間である惑星と共に、太陽のいろいろな働きを手伝いながら、宇宙空間を旅しているのです。ですから、他の星も仲間なのです。

ここでもう一回、なぜ戦争が起きるのかを考えてみると、たとえば戦争をするときに、戦場にはほとんど男の人が行きますね。そうすると、そのときに、「自分の家族を守る」とか「自分の国のために」と思って戦うのです。そこで、自分の家族を攻撃する人はいません。なぜなら、家族は身内といって自分の内にある存在だからです。そうすると、他人の家族なら殺してもいいのですか?

子どもたち:
ダメ!

ジイジ:
では、外国の人なら殺してもいいのですか?

みのり:
No, no, no, no!

ジイジ:
でも、もしこのことがわかっていたら、地球の生き物はすべて、家族です。それで、25年前、富士山麓に木の花ファミリーができたのです。最初は「木の花農園」でしたが、最終的になぜ「木の花ファミリー」になったのかといえば、皆が血縁を超えて暮らしているからファミリーになったのではありません。同じ地球上で同じように生きているということは、皆が家族だからです。それは、外国とか日本ということではなく、地球上にあるすべての命が家族だということです。

ここでさらに大切なことは、戦争というものは、人間と人間がするものですね。その戦争は良くないということになりました。では、人間がわがままになって、ぜいたくをして、まだ食べられるものをゴミにして捨てたり、毒を自然に撒いたとします。

ここにプラスチックのコップがありますが、これはとても便利が良いものですね。こういうものを使って、いずれそれをゴミとして捨てると、これは長いこと経つとだんだんひび割れて、小さくなって粉になっていきます。さらにすごいことがあります。歯磨き粉には研磨剤という小さなプラスチックが入っています。それから、化粧品や日焼け止めクリームの中にはとても悪い成分がたくさん入っているのです。今、ハワイではサンゴ礁への有害性が指摘される物質を含んだ日焼け止めの販売や流通を禁止する法案が州知事によって署名されました。

でも、人間は良い生活をするためにそういった便利なことを考えるのです。それは、誰が考えるのですか?頭の良い人が考えるのです。そして、勉強ができる結果、いろいろなものを開発し、便利な生活を世の中に提案して、お金にするのです。その結果、たくさんの自然の生き物は、知らない間に死んでいくのです。つまり、戦争をして人間同士が殺し合っているだけではなく、「何も悪いことはしていない」と思っている普通の人たちが、自然にはないものをたくさん使い、それを何も考えずに捨てると、それがすべて自然にまわって、いろいろな生き物を殺していくのです。しかし、地球はいろいろな生き物がバランスよく生きているからこそ、健康な場所であるのです。人間がそうやっていろいろなものを殺してしまうと、自然のバランスが壊れてしまうのです。そうすると、人間たちも暮らしにくくなるのです。

先日、西日本豪雨の被害がありましたが、今日はここ富士宮市でも土砂災害避難勧告が出されました。日本なのに、韓国になってしまいました(チーン♪)。ジイジがここに来てから25年目になりますが、昔はこんなにひどい雨が降ることはありませんでした。最近の台風も変ですよね。たくさん発生していますし、猛烈になってきています。それは、地球が変になってきている証です。それはなぜだと思いますか?

かのこ:
それは人間が地球にしていることが原因です。

ジイジ:
人間が地球に変な影響を及ぼすような生活をして、そして「自分だけ良ければいい」という考えの人がたくさん集まって、地球が暖まり、台風が猛烈になって、雲がたくさんできて、雨がたくさん降って、人が死ぬのです。それは、人間が人間を殺しているようなものだと思いませんか?今の人間は皆、知らないけれど、地球を変にしているのです。

今日は、戦争の話をしようと思ってこの場に臨んだのですが、戦争のほうがわかりやすいですね。人と人が殺し合って大変なことになるのです。普通の人が「私は戦争なんかしていません。悪いことは何もしていません。お巡りさんにも捕まることはありません」と言いながら、他の生き物をたくさん殺したり、それどころか、「おいしいものを作ったから食べてね」と言って、そこには添加物や毒がたくさん入っていて、そういったものを長い間をかけて食べていると、それが原因で病気になって死ぬこともあるのです。癌が発生するのは、食べ物が原因で起こることが多いのですよ。そうしたら、食べ物を作っている人が癌ができる食べ物を作り、結果、人を殺しているのです。それは、誰がやっているのかといえば、頭が良い人です。学校で勉強ができる人です。

だから、皆は一生懸命勉強して、これからはそういった人にならないように、戦争が起きないように、他の生き物に迷惑をかけないように、地球がどんどん変になっていかないように、そしてそれを直していける人になってもらいたいと思うのです。今までの人間は、結果として悪い世の中にするために生きていたのです。だから、ジイジはあの映画を観て、嬉しくありませんでした。被害者のような顔をしている何でもない女の人や子どもたちも皆、地球に良くない生き方をしているのですから。

これからの時代を生きていく皆さんは、そこをよく考えて、もっと深く観て、世の中にあるいろいろなことに自分が関わっているのかどうかを観える人にならないといけません。それは、浅く物事を観ていたらわかりません。ジイジはそういうことを皆に気付いてもらうために生きています。いつまでも生きていませんが、生きている間は皆にそういうことをわかってもらうために生きています。でも、いつかは死にますからね。死んだ後は、皆にはそれを受け継いでいってもらいたいと思います。そうでなければ、地球は人間のために不幸な星になってしまいます。

地球はとても大切な星です。そして、人間は本来尊い存在なのです。

しかし、人々の暮らし方が今のままで進んでいけば、あのような戦争をやるどころか、他の生き物をすべて殺してしまいます。そして、自分たちにも不幸な世界を創ってしまうのです。そういった行いをするもののことを馬鹿というのです。私たちは馬鹿ではいけませんね。

子どもたち:
うん。

ジイジ:
ということで、今日は戦争の話をしましたが、戦争というのは爆弾や鉄砲で打ち合うことだけが戦争ではないのです。知らないで、自分のことしか考えない心を持っていたら、それはすべて戦争の元です。皆で一緒に生きていて、皆が同じものの子どもですよね。そして家族ですよね。

みのり:
うん。

ジイジ:
皆、地球の細胞のようなものなのですから、みのりの中の細胞がみのりの役に立たなかったら、そういうのを癌細胞というのです。だから、木の花ファミリーでたくさんの人たちが助け合って、幸せで豊かな世界を創っているとしたら、それにまったく合わないような人がここにいたら、木の花ファミリーの癌細胞です。今、人間はまさに地球の癌細胞です。しかし、それでは人間の価値はありませんから、地球を良くする良い細胞にならなければいけません。今の人間たちの地球上での生き方・行いは、地球にとって癌細胞です。ですから、大人の言うことをすべて聞いて、それをすべて勉強して、大きくならなくてもいいのです。もっと違う角度から、本当に皆が喜べる世界を創るためには、新しい発想がいるのです。皆さん、勇気を出して、新しい時代を生きるものとして、自分の中から湧き出してくる考えを大切に生きてください。

そういったことを思いながら、そしてこの時期に戦争の映画を皆で観ながら、「戦争で犠牲になった人たちはかわいそうだね」という浅い発想の捉え方を超えて、すべての人間がそういった悲惨な戦争を引き起こしている種を持っていることを知らないといけません。真実は、皆が戦争をつくってきたのです。その犠牲者たちだったって、戦争を引き起こしていることを知らないといけませんし、皆が戦争をつくってきたのです。これからは、皆の中から戦争の種を取り去って、皆で地球を良い場所にし、他の生き物たちと共に喜び合える世界を創っていきたいと願っています。

この間は中国から13人の子どもたちがやってきましたし、今は韓国から7人の子どもたちが来ていますし、日本の子どもたちもこれから大きくなったら外国へ行き、そうやって新しい世代の人たちには人間の本当の生き方を調和という形で、地球上に表現していってもらいたいと思います。

昨日、映画を観て、ジイジは悲しかったのと腹が立ったのとで、皆にこういう話をしたかったのです。戦争をやって、もっと苦しませたり、もっと人を殺すことができるというような頭の使い方はあっていいですか?食べ物をたくさん食べていたら、中毒になったり病気になるような食べ物があっていいですか?

みのり:
No!

ジイジ:
人間が幸せになるために使うもので、他の生き物たちが迷惑することがあってもいいですか?それは皆、賢い人たちがやってきたのです。でもそれは、賢くなかったからなのです。これから皆には、本当に賢い人になってほしいと思います。それは、世の中全体が良くなることに貢献し、地球や他の生命が喜ぶような行いをする人に皆さんになってもらいたいと願っています。

 

 


「いさどん」から「ジイジ」へ 〜 2018年5月3日 67歳の誕生日を迎えて

42歳でいさどんと呼ばれるようになって25年。60歳で生前葬を行ってから7年の質的転換を経て ───── 2018年4月7日の朝、いさどんに新たな想いが湧いてきました。

「これから僕は『いさどん』をやめよう。今、その想いが湧いてきた。これから僕の名は『ジイジ』という名になるようだ。そのほうがふさわしい。『ジイジ』は濁っているけれど、それは人々の汚れに向き合うからだ。世間の皆様に真実を示すため、濁りのついている皆様に伝える者という意味だ。

『ジイジ』をカタカムナでひも解くと、『ジイジ』は『シイシ』となる。シは示しだから、『ジイジ』は示しの示しの位置になる。それは大本の示しという意味でもある。つまり、示しの位置が尊いということ。『ジイジ』は、『ババジ』や『ガンジー』といった高い意識の男性の尊称を示す。そして、イは当然『ヰ』の悟りを示す。それは、高次元の潜態への還元ということで、『ジイジ』は高次の悟りの示しの示し。つまり、人々に道を示す者に対して示す存在。濁点があるのは、現象界には濁りや歪みがあるがために、そこで道を説く者はその濁りや歪みに沿いながら伝える役割ということになる。濁りや歪みに付き合うということからすると、『ジイジ』はカタカムナ的にも高い意識のメッセンジャーと読み取れる。

さらに、ジというのは、心の父という意味がある。だから、『ジイジ』は万人に対して高い意識の父という意味になる。今、僕の精神レベルはその位置にいるのだから、良い尊称だ。とてもふさわしい名だと思う。」

いさどんに『ジイジ』という名が降りてから数日後、天からいさどんに言葉がありました。
「きっかけを創るのが役割なのだからな。」

つまり、一箇所プツッと穴を開け、そこに聖なる種を入れれば、そこが細胞分裂を起こし、新たないのちが生まれてくる。それが世の中に広がれば、世界は変わっていく。だから、その種となるきっかけとなれ、ということです。

今日5月3日は憲法記念日です。毎年、憲法記念日のときには憲法議論が報道されますが、先の観えない激動の時代を迎えた今、これからこの国をどうしていくのかを一人ひとりが真剣に考える時が来ています。

いさどんが32歳の頃、次のようなビジョンが降りてきました。

「いつか、国を司る役割を持つ人々がここを訪れて、僕に問いかけるのです。
『私たちはこの国を、本当に豊かで人々が幸せになるように、一生懸命治めようとしてきましたが、これはと思うことをいくらやっても、どうにも上手くいきません。本当に国を正しく豊かに治めるためにはどうしたらいいのか、そのヒントを得るために、ここに理想を生きる人々の暮らしがあると聞いて、訪ねてきました。どうしたら、良い国を創ることができるのでしょうか。』

それに対して、僕はこう答えるのです。
『それは、制度や仕組みを創ることではありません。ここにある自然を見てください。そして、そこにいる人々の心を見てください。このような心や考え方で人々が暮らせるような国創りをすれば、本当に豊かな国になるでしょう。』」

そこで、国を司る人々に答えているのは ──── 『ジイジ』です。

『いさどん』から『ジイジ』へと変わることは、大きなターニングポイントです。いさどんの次元上昇に伴って降りてきた名は、『ジイジ』。今日2018年5月3日が、『ジイジ』として生きるスタートです。60歳で生前葬を行ってから7年の月日を経て、質的転換を迎えた今、今年2018年の再スタートの年にふさわしい名がいさどんに降りてきたのです。

皆さん、これから『ジイジ』をよろしくお願いします。

 

 


21世紀に求められる神通力

今年のはじめ、僕の中に次のステージのビジョンが湧いた。それは、「神通力」。

法華経を学ぶ人たちによると、超能力や神通力はご法度だ。そういった特別な能力は道理を欠いたものだからダメだとしたのだ。そして、法華経の教えの中で世界の解釈を完結しようとする。

しかし最近、僕は、それは違うだろうと思っている。本来、人間にはそのような能力が備わっているのだから。例えば、人間社会には婚姻制度があるが、なぜそれが設けられたのかというと、そのような制度がなければ秩序が保てなかったからだ。ところが、自然界には婚姻制度がないにもかかわらず、秩序はずっと保たれている。人間界には自我が生み出す邪な誘惑があり、秩序が乱れるので、そのような制約が必要になる。だから人々の中から邪な性質を取り去れば、封印されてきた秩序が蘇ってきて、それは生命の本質に立ち返る目覚めとして活かせるようになるのだ。

そうすると、人間が欲望の延長に翻弄され、無駄の多い人生を豊かさと思い違いしてあくせく働かなくても、人々に内在する超能力・神通力のような能力が発揮されれば、世界はシンプルでもっと豊かに生きられる可能性がある。しかし、今の人間たちのように自我に囚われていては、人間の本質であるヒトの境地には到達できない。僕にはそういった想いがちらちらと湧き出てくるから、そろそろ次のステージに行く時が来たのかと思っていた。

しかし、いっこうに次のステージに行く気になれないし、行けそうにもない。なぜなら、僕はひとりで生きているわけではないからだ。木の花というひとつの生き物の中に生きていて、ひとりだけ飛びぬけても仕方がない。ここのキャッチコピーは「ひとりは皆のために、皆はひとりのために。己を忘れて全体のために、世のため人のために生きる」というシンプルなものだ。だから、皆にも意識を上げてもらいたい。核爆弾の話で世界のリーダーたちが揺れる今、自我を超えて次の時代につながる真の見本になるものたちがそろそろ現れてこないといけないのだから。

人間の精神が研ぎ澄まされて純粋になれば、直観が降り、閃きが湧いてくる状態になる。それこそ、超能力や神通力は日常のものとなり得る。ところが、なぜ人間がそれを封印してしまったのかというと、その精神状態を日々保つことは緊張状態が続くことになり、怠ける人間にはそれを持続するのがたいへんになるからだ。「少しでも楽なように」と創意工夫し、「より豊かに」「より便利に」「より多くを得るように」という人間の探求の結果、自我が大きくなっていき、肝心の研ぎ澄まされた生命力を眠らせてきた。しかしながら、その進化は愚かしいばかりとは言えない。そこで、現代の進化を保ちながら、その生命力をよみがえらせれば、過去にも現在にもない次の道が開かれる。

ひとえに神通力といっても、神通力にはいろいろなレベルの神通力がある。例えば、見世物のような神通力や、病気直しの神通力もあるが、今、僕がイメージしている神通力のレベルは、宇宙の流れとこちらの意識が合うことによって、物事が極めてスムーズに流れる世界。もしくは、霊的な対話の証として現象化が進むことも、神通力だ。つまり、宇宙の根本の流れを掴み、それに沿っていくこと。それは個々の意志とは違う。それは、個々の意志の届かない法則の世界だから。それは根本の流れのようなものだ。しかし、それは天のたくさんの御魂たちと個々に対話することとは、また別のものだ。そこは使い分ける必要がある。

そういった仕分けが自由自在に行えれば――、例えば、天の気と対話するとか、対話するだけではなく、天の気の配慮を願うこともあれば、それは天の気が調整されるということにつながる。

神通力の世界でも、それこそ人々の興味をそそるだけが目的のものでは、NGだ。それから、奇跡を見せるために病気を治すということも重要なのだが、そういった現象界の法則に則った出来事は心が整っていくと、その物理的延長に自動的に治っていく。昔は、マジックのように病気が治るということもあったが、それも現在に至ってはどちらかというとNGだ。さらに、神通力によって魑魅魍魎の世界とつながることは、もちろんNGだ。神通力の神が、妖怪の世界とつながるようではいけない。そういった意味では、蛇や狐などの動物たちの霊に頼ることも法度だ。

つまり、神通力でも、ふさわしいものとそうでないものがあるということ。流れという意味でも、現象化を促すという意味でも、そこを仕分けないといけない。そこでは理に適った現象につながっているかどうかが大切なのだ。

そう思っていたら――、今年の終わりに不可思議な現象が起きた。今日も、ようこによる6人娘に対する英会話教室があった。この英会話教室は、普段勉強が嫌いな子たちも積極的に参加しているので、大切なことだと思っていた。なにより、子どもたちが楽しくやっている。それは、教科書に基づいて教えているのではなく、子どもたちが興味を持ったことを英語にして話しているからだ。今日はその3回目だったのだが、その途中からおかしなことが起きた。それに付き合っていながら、当初は起きていたのだが、途中から寝てしまった。英会話教室がにぎやかになっていき、その後そのにぎやかさが不快に感じられてきた。それがうるさく不愉快で、僕は夢を見ているのだろうかとも思っていたのだが、皆の声は聞こえていた。それで、不愉快な僕は近くにあるものを、まずは声のするようこにぶつけ、それから誰にということなくぶつけていた。その時の僕の中にあるものは、苛立ちだけだった。そこから、あきちゃんが英会話教室に加わったことで、さらにそのうるささが拍車をかけ、僕はイライラのピークに達した。そして、その手ごたえのない苛立ちを手ごたえのあるものにしようと、必死で手を振りかざした。そこで初めて我に返った。

実際には、僕はただ横になって休んでいただけで、物をぶつけていたわけではなかったから、この僕の苛立ちには誰も気付いていなかった。しかし、どんなに物をぶつけてもこの取れない苛立ちは一体何だったのだろうか・・・。

そう思って、そこにあるテレビのほうをふと見たら、スイッチが入っていないテレビの画面にある映像が浮かんできた。その時に、これが原因だと思った。それは今日、未解決事件の特集番組を観ていたのだが、そのひとつとして和歌山毒物カレー事件を特集していた。今回、林真須美死刑囚の長男が取材を受けて証言をしていた。彼は詐欺を働いていた親のもとに育ち、子どもながらに不思議な家だと思いながら、時々大金を持ってくる親、そして奇妙なことを企んでいる親の会話を聞きながら育ってきた。しかし、彼からすると、確かに奇妙な親ではあったが、まさか殺人を犯すような親ではなかったということだ。林真須美の判決の中でも言われているのは、なぜ彼女が夏祭りのカレーに毒を入れて、4人が死亡し、67人に重軽傷を負わせたのか、ということ。その動機がわからないというのに、彼女は死刑になったのだ。通常、動機がわからないのに死刑にはならない。ところが、その資料に書いてあったのは、精神的構造がそういった行動をもたらしたということで、彼女の苛立ちがその事件の引き金になったということだった。明らかに、彼女は精神疾患を患っていたわけではない。しかし、苛立ちが募ってそうなったとは書いてあるのだが、通常それでは死刑判決にはならないことが、死刑になっているのだ。

それは、彼女の髪の毛からヒ素が出ていて、過去に夫や知り合いの食べ物にもヒ素を混ぜて食べさせて入院させている、そういったことの経緯で保険金詐欺をしている、といった物的証拠があったからだ。そのような状況証拠からして、犯人は林真須美ということになっていった。そうしたら、彼女にどのような感情的背景があって、このような犯行に至ったのか。それは、警察も裁判官も確証がないという状態で終わっている。

そこで――、あの番組の背景にある苛立ちがこちらに移って来たのだろうか、と思った。僕としては今までの人生の中で、確かに昔はそういった類のことがあったかもしれない。しかし、今の僕は鍛えに鍛え、霊的には非常にたくましい状態だ。だから、そのようなものに影響されるものではない。ところが、なぜだかわからないのだが、子どもたちがにぎやかに勉強しているのがうるさくてイライラして、そこら中にあるものを投げつけたい気持ちだったのだ。それは、苛立ち以外の何ものでもない。

その後、ようこやあきちゃんにそのことを話していくうちに、少しずつ観えてきたことがある。

我々は肉体を持っている。肉体というものは物質だから、そこに光が当たると同時に影ができる。魂が我々の本来の存在なのだが、その魂が設計図となり、魂の思いが響きとなって世界に発せられると、それが現象化を引き起こしていく。それが現象となった時点で、我々は自我を持ち、特定する自らの枠を決め、枠以外のものを他者だと区別する。そのことによって、影ができるのだ。

その影は、物理的な光では消すことはできない。霊的な光でなければ、その影は消せないのだ。そうすると、思いの力を持って影を消すことはできるのだが、その思いの内容によっては重くなって、逆に影が濃くなることもある。それは、自我に囚われることが原因でそうなるのだ。

そして、その影は、未解決事件の背景に流れるものだと思った。それは、この世界に黒い雲のように漂う魔だ。その魔が存在する限り、いくら人に正論を語っても、健全にはならないということだ。

そこで、今年のはじめ、僕が語っていた神通力のことを思い出した。神通力は、仏教では通常使わない。なぜなら、仏教は道理の道だからだ。それに対して神通力は道理も何もなく、浄化するもの。その場を払い、いきなり結果につなげることが目的のようなものだ。そうすると、道理なくして浄化するだけだから、法華経のような道理の道からしたら、それは人を本当に正すものではないという理屈になるのだ。僕はこれまでその道理の道を生きてきたのだが、この世界には人間の自我がもたらした魔が漂っている。その魔があまりにも多くなり、それで道理が通らないものばかりになってしまったら、その雲をまずは払わないといけない時もある。そして、その雲を払う力を持たなければ、世直しはできない。

だから、今のような人々が真実をはき違えた時代には、神通力が必要になるとも思えるのだ。神通力とは、神に通じる力。その霊的な光で照らさなければ、人間に真理という光を照らしても、人間は質量を持っているためにその光が奥の魂まで射さないのだ。光が射さないから、その影があることがわからない。神通力というのは、人間の道理ではなく、霊的な光のことだ。だから、物質的に汚染されてしまった人間の思考をその光で突き通す必要がある。我々が肉体を返上し魂だけになった時に自らの実態があからさまにわかるのと同様に、そういった物事の本質を掴み取る知恵を人々が得るためには、立ち込めた魔を払い、真実の光を照らす必要があるのだ。現代の人間世界にはあまりにもたくさんの影が発生し、そこに漂う黒い雲が世界に蔓延し、多くの矛盾を発生させている今、人々にいくら正しいを語っても、人々は目覚めない状態になっている。

僕の中にも苛立ちがある。例えば、ここで語られていることは、これこそまさしく世の中を正しく導くための光だと思っても、それが邪悪なものたちにはわからない。それよりも、パチンコに行っていたほうが楽しいのだろう。それよりも、お酒を飲んでいるほうが楽しいのだろう。それよりも、ステーキを山ほど食べていたほうが楽しいのだろう。そのような快楽を求め、欲を貪る世界に成り下がってしまったのだ。これほど広大な宇宙の中で人間は無限な可能性を秘めているのにもかかわらず、なぜ人間はこれほど自我に溺れ、お金や物を追いかけ、それに翻弄されて生きているのか。良い世の中を創るどころか、その自分たちの実態でひどい世界を創り、最終的には自分自身まで陥れている。それが結果を生み、次の子孫につながり、今や嘘・欺瞞・苛立ち・犯罪に満ちた悪循環の極みの世界だ。

人間たちにこのことを受け取る心がなければ、その雲が立ち込めていることを知らなければ、雲に影響されてしまうだけだ。僕は世の中を良くするために、そして人々が目覚め、本当に晴れた心で生きていけるように伝えているが、それが伝わらないという苛立ちがある。

この世界の影が地球上に漂ってしまい、人間が肉体を持って自我を持った結果、ここまで至ってしまったのだ。そう思うと、それでは僕の言うことが伝わらないわけだ、とも思う。つまり、伝わらないものにいくら真理を伝えても、それこそ反対に受け取るぐらいだ。伝わらないものは自らの考えに執着しているのだから、それで解釈したら、美しい光すら、「なんてまぶしい迷惑な存在なのだ」と受け取るだけだ。自分が隠しておきたいことを光で照らされあからさまにされたら、それは自らの敵だ。それを有難いと思う心がなければ、どれほど尊いことであっても、それは異物に感じ、そこに価値を見出すわけがない。

そこで、どうしたらこの逆さまの解釈を正すことができるのだろうと思った時に、我々一人ひとりの中に光があり、すべてのものがブッダとなる道は用意されている。そう捉えれば、人間世界に影があり、その影に光が当たらないことが原因なのだ。だから、神通力をもってその影に光を当てていこう、と決意した。

通常、仏教では神を語らない。なぜ神を語らないのかというと、人には仏になり、最終的には宇宙の根本に到達するだけの悟りの道がある。ヒトとはそういった光を有するもの。言い換えれば、人は神の分け御魂として生まれ、それが命(みこと)となり、地上に降り、生きているものはすべて、いずれ神に還るということだ。だから、神を語らなくとも、人が精神を磨き上げ、意識が高まっていけば、宇宙と合一する。それはこの世界と一体となる道なのだから、最終的には神そのものになるということが仏教では説かれている。だから、法華経では神通力は道の中になくてもよいのだ。なぜかというと、そういった人の道に便宜を図る手段は、人々が道を歩む時に怠けさせてしまうことにもなるからだ。つまり、神通力をもって問題を解決してもらったものは、自らを磨くことを忘れ、神通力に頼ろうとするからだ。それが、道を外れることにつながる。

だからここでは、「そのようなものに頼るな。物事の道理をもって自らを観、道理をもって己を正していけるものになれ」と伝えられてきた。つまりそれは、自我に打ち勝ち、自己コントロールできるものになれ、ということだ。これが、お釈迦様の言われる仏教の本当の精神だ。ところが、神通力はダメだといいながら、組織をつくり、戒律の中でその地位を守れば悟りに至るという話になってしまい、結局人々は道を歩むことを怠ってしまっているのが現状だ。

だから、そのようなレベルの神通力はダメとはいうものの、今、世の中の現状を観てみれば、高い意識レベルの神通力は必要であることが観える。お釈迦様は「ガンジスの川の砂のごとく、衆生はおる。そのすべての衆生に仏性あり」と言われた。それはお釈迦様の意志として仏教に伝えられている。ところが、そこでお釈迦様は発していない言葉がある。その後にお釈迦様が伝えられたのは、「ただし、その道を歩んだものにだけ」ということ。つまり、いくら仏性があって、ブッダへの道があったとしても、それに目覚めて歩まないものにはない、ということだ。それで、そういった道を忘れ、歩まない現状の人間世界がある。

今、それがあまりにも忘れ去られ、人が生きる上での精神の道が何もない状態だ。そのような現状の中、いくら人には仏性があるからと歩んでも、汚れているものにいくら光を当てても、人々にはその光が迷惑に感ずることにもなる。まだ眠たい人間に、カーテンを開けて「起きなさい」と言っても、腹を立てて布団に潜っていくだけなのだから。

それで、今年のはじめに、なぜ神通力というビジョンが降りてきたのか。そして、今年の暮れまで来た。今こそ、神通力が本当に必要な時が来ている。つまり、世界の仕組みを理解したものたちが、自らの高い意識を持って、この世の中の雲を払拭していかなければ、本来ヒトとして悟れる素質があるものも、その価値を見出すことはできない。そして、さらに現状の世界が続くだけのことになる。

この世界に漂っている暗雲を払拭しなければならない。神通力をもって払拭する。僕一人の力では世の中すべての暗雲を払拭することはできないし、今はそういった一人の力に頼る時代でもない。この悟りを人々に伝え、自らを価値あるものとして腹に落とし、歩んでいくものたちが現れてくる時が来ている。その歩みが2018年にスタートする。

 

 


日出ずる国=地球(クニ)ツクリ

《プロローグ・その心、これからは日の本の国全体に説くがよい》

1991年、いさどんが40歳の夏のこと。天からいさどんに「富士の山に登れ」という声が降りてきました。「なぜですか」と尋ねると、「日の出前に、日の本の国の頂点に立て。そして命を受けよ」と伝えられました。いさどんには、なぜ富士山に登る必要があるのかまったくわかりませんでした。とにかく神様がそう言われるのだから登ろうと、富士山へ向かいました。

週末の富士山は人でごった返し、初めての富士登山だったいさどんは、すっかりくたびれてしまいました。けれども、何としても日の出前に頂上に着かなければいけない。いさどんは死に物狂いで登り、何とか日の出前に頂上に到着しました。

東の空が、だんだんと明るくなってきます。ふといさどんは、そこに一つ、星のようなものが光っていることに気付きました。「自分をここに呼んだのはあれだ」と思い、その光に向かって言いました。「お約束通り、私は今、日の出前に日の本の国の頂点に立っております。命をお伝えください。」1991年8月12日の朝4時45分頃のことです。天から言葉が降りてきました。「その心、これからは日の本の国全体に説くがよい。」

「日の本の国」とは、日出ずる国・日本のことだけではなく、日のあたる国、つまり地球全体のことです。いさどんは咄嗟に「無理だ」と思いました。自分のような者にそんな大役が果たせるわけがない。けれどもそこで、自問自答をしました。お釈迦様は「歩んでみなさい。歩めるから」と言われたのです。これまで9年間心を磨くことを学んできて、これからもその道を歩み続ける決意は揺らがない。ならばこれからも、この心を生き続けるだけではないか。

下山の時、登る時にはあんなにも辛かったのに、それを乗り越えたら「また来よう」という気持ちになっていることが不思議でした。「まるで人生みたいだ」といさどんは思いました。


 

──── それから24年の時を経て、2015年12月、タイの僧侶であるプラ・サンコム氏からの招待を受けて、いさどんと数名のメンバーは同氏が運営するマブ・ユアン自然学校に新たに建立された寺院の仏像の開眼式に参列し、セレモニーの冒頭にいさどんは「クニツクリ奏上」を行いました。

さらにそれから2年の時を経て、2017年12月2日、その寺院の落成式に参列するため、いさどんと数名のメンバーがタイへと向かいました。また、プラ・サンコム氏には「自分の故郷に今後木の花ビレッジを展開していきたい」というビジョンがあり、彼の故郷を視察することも今回の旅の目的の一つでした。

タイへと出発する数日前、富士山麓にある日本最古の大鹿窪遺跡にて、いさどんはクニツクリ祝詞を奏上。ようことみちよはカタカムナ第63首、「みろくの世」の舞を奉納してから、タイへと向かったのでした。

13000年前の大鹿窪遺跡にて

 

12月2日 第1日目・ヒ
(一つ・日・火・陽・秘かに始まる)

― 成田空港へと向かう車中にて

《タイ・タイヨウ・核融合》

ようこ:
今日タイへと向かうということで、今朝から「タイ」の「タ」の思念について考えていた。「タ」の思念は分離独立でしょ?「リ」も分離でしょ?でも、自転・公転を意味する「マワリテメクル」の「リ」の分離と、「カタチサキ」の「タ」の分離独立は違う意味なのだろうと考えていた。というのも、「タ」は「タイ」の「タ」でもあるし、「タナココロ」の「タ」でもある。以前いさどんが、「タイは癒しの国だから、マッサージなども学べるといいね」と言っていたね。その時に、「タイのタはタナココロのタでもある」と思っていた。

そして今、昇る朝日を観ていたら、「タイヨウ」も「タ」だ!と思ったの。

いさどん:
「タ」の分離独立というのは、それ自体が自立してある状態。つまり、ものの本質が強いもの。それに対して「リ」は本体からの分離という意味で、何かから付属のものが離れた状態。だから、「タ」のほうが独立心が強く、「リ」は本体からの分離だから、「リ」のほうが弱い。

ようこ:
「タイ」をカタカムナの思念でひも解くと・・・

いさどん:
独立した(タ)位置(イ)だから、タイは独特の世界観を持っているということ。

ようこ:
タイという国は本当に独特だよね。昨年プミポン国王が亡くなられた時に国民全体が悲しむ雰囲気をテレビで観ていて、そう感じていた。今年2017年を木の花では「爆発の年」と呼んでいるでしょう?「爆発」は、ある意味「核融合」とも言えるから、太陽の核融合にもつながるし、いさどんは「心の水爆」の話もしていたね。

タイ・タイヨウ・核融合・・・

いさどん:
太陽は、独立した(タ)位置(イ)の横の渦(ヨ)の渦(ウ)だから、太陽というのは完全に独立したものの渦が極端に強いということ。だから、核融合だ。それに、太陽は英語でSUN(サン)だから、「サン」の思念をひも解くと、まず「サ」は差があって狭い位置を意味し、それに「ン」がつくということは、「サ」が強いということ。つまり、極端に差があるもの。狭い位置というのは、それしかないところに強く表現されるということ。それが「サン」だ。

ようこ:
この前、「チキュウ(地球)」の思念をひも解いた時に「アース(EARTH)」でも観ていったように、日本語と英語の両方でひも解くと多角的に物事の本質を掴めるね。爆発の年の締めくくりに、このタイ行きがあるというのも、今はわからないけれど、何かありそうな予感がする。

いさどん:
タイでの新しい村づくりがどうなっていくのか。それが意外と火がついたように進んでいくのかなとも思う。

ようこ:
これまでインドでも木の花ビレッジを建ち上げようという話はあったけれど、今回は現実化する気がする。そのことが今回の旅でひも解かれていくのでしょう。

いさどん:
僕は前から、なぜタイという国に縁ができたのか、と思っていた。今回のこの旅がこのことを確認する旅になるのだろう。

 

──── 成田空港に到着し、約7時間のフライトを経て、タイ王国・バンコクに到着。そこから車にてチョンブリー州まで移動し、エコ寺院のあるマブ・ユアン自然学校に到着。エコ寺院に到着したいさどんはまず、2年前にクニツクリ祝詞を奏上した仏像に挨拶に行った。

 

《仏像からのメッセージ》

エコ寺院の仏像

いさどん:
利益(りやく)を願うものではないと思うが、2年前に招かれた仏像の開眼式では、確かに性入れをする役割を果たした。しかし、それに対する、自分が何か特別なことをしたという意識はなかった。

そして今日、何もない気持ちで、とりあえず仏像の前に座った。ここまで来たのだから、と。そうしたら意志表示があり、「共に創り上げていきましょう」と言われた。そこで「もちろんです」と答えた。それは、実は枠が大きな話でね。

タイまで来てどのような役割があるのか、それはまったく未知なる歩みだが、先のことは考えない。何の役割があり、どのような目的が未来にあるのかを考えない、今までと同じように、わからない状態でいこうと思う。与えられるものは何でも引き受けていこうと思い、意欲としては真っ白な状態でいる。飛行機に乗って7時間、車に乗って3時間も揺られながらここまで来て、何ができるのか、と思う。そのエネルギーがどこに役立つのかと思いながら来た。そうしたら、「共に創り上げていきましょう」と言われた。

そこでは、こちらから何かをお願いするということはない。「もちろんです」ということ。「もちろんです」というのは、時代が切り替わっていく時に役に立つものであるということだ。

 

12月3日 第2日目・フ
(二つ・膨らむ・拡大縮小という矛盾する二つの性質が広がる)

《毎朝、新たな太陽をいただきながら》

いさどん:
このタイの出会いは理屈とはまったく違う話だろう?だから、いただいた縁をただこなしていくだけ。そして結果がついてくる。だから、僕の心はまったく無色で無欲だ。

例えば、僕が祝詞をあげる。そうすると、それはここの僧侶の読経や子どもたちの演目とはまったく意味の違うもの。どうもプラ・サンコムは、「世界中の人たちと共に」というイメージを持っている。だから、タイからだけではなく、ブータンやアメリカから僧侶が来ていたり、ラオスやブータンの伝統衣装をまとった子どもたちがいたり、インド・ロシアやドイツからもゲストが来ている。

プラ・サンコム氏の初の試み・第1回インターナショナルパレード

ようこ:
今日の午前中に行われたパレードは、プラ・サンコム曰く、「第1回目の試みのインターナショナルパレード」ということで、「このパレードに参加する皆さんはパイオニアなのです」と言っていたね。

いさどん:
そうしたら、ようこやみちよが奉納する舞や僕の祝詞も十分に個性的な参加の役割を果たしている。そして、我々は物理的なパレードではなく、霊的なパレードの参加者だ。

寺院の落成式・夜の式典にて ー タイ舞踊の披露
「みろくの世」の舞を奉納

いさどん:
・・・そうか。プラ・サンコムには目的があって、それを成し遂げようとする道がある。彼にはそれが見えていて、それを成し遂げようとする意志があり、行動している。我々にも目的があり、それが観えている。ただ、その観えているものが何かはわからない。我々の目的は天の意志に従って美しい世界を創ること。それは、結果いただくもの。違いはあっても、今、目的に向かってやるべきことをやる立場は同じということだ。

プラ・サンコムがなぜ僕のことを「マスター」と呼ぶのか。それは、プラ・サンコムにはたくさんの縛りがあり、それを壊していくことができないからだ。それに対して、縛られていない新しいパイオニア的存在が必要なんだよ。それを突破口にして、彼の目的を果たしたい。そこに、彼の曇りや悪意はない。そこに天が目をつけて、この道をつなげ、地上に光の道の突破口を開こうとしている。つまり、プラ・サンコムの活動は、天の意志がやっているものだ。だから天は、「いつも共にあります」と言うのだ。

ようこ:
今、気付いたけれど、プラ・サンコムのプラは尊称でしょう。サンコムという彼の名前の中には「サン(太陽)」が入っているね!まさに、太陽の導きだ。

いさどん:
そこでひとつ、気付いたことがある。夜、一日が終わって眠る時、その睡眠の先には明日がある。眠る時に、眠る内容を考えない。そして、精神状態にふさわしい夢を見て、時間に縛られずに自然に睡眠が終わる。そうすると、そこに次の日、つまり新たな日が現れて、それは霊的な日の出だ。その時に現れる思考は、新たな日を生きる太陽の意志。日の出の意志。朝の閃きは、天の意志。そうやって毎日を生きればいい。どんなに忙しい日々を過ごそうとも、今日一日が終わったら、新たな一日に向けて真っ白で無垢な状態にして向かい、朝、新たな太陽をいただく。極めて新鮮に一日をスタートさせる。瞬間瞬間をこの心で無垢に生きていくことだ。そこには思惑も何もない。美しく生きるとはそういうこと。それは、天の意志を生きることであり、宇宙を生きるということだ。これが、21世紀の人類の歩み方だ。お釈迦様の時代には、まだそこまで人々は到達していなかった。今、2000年を越えたからこそ、人類の目覚めの時を迎えている。

夜空に輝く満月

 

12月4日 第3日目・ミ
(満ちる・目に見えないが心で感じるもの)

《プミポン前国王からのメッセージ》

クニツクリ奏上を行ういさどん

いさどん:
今日の午前中、仏像に向かってクニツクリ奏上をしていた時、昨年亡くなられたプミポン国王の魂が来ていた。「志を受け継いでくれて、ありがとう」と。

ようこ:
そうだよね。霊的には、私たちはプミポン国王との縁でタイに来ているようなものだものね。物理的にはプラ・サンコムとの縁だけれどね。

いさどん:
タイという国を大きく二つにわけると、タイはまさしく今、モータリゼーションの真っ只中。日本の30年~40年前の状態で、人々は豊かさの欲求を満たそうと、車を買うことが物理的な豊かさのステータスになっている。プラ・サンコム曰く、タイには50ぐらいの財閥があり、タイの政治・経済を握っているとのこと。そういった人たちが儲かるような仕組みになってしまっている。だからある意味、これから経済的には発展しようとする国なのだが、腐敗は進んでいるということだ。

それに対して、プミポン国王が提唱していた「足るを知る経済」に共鳴する人たちも少数ながらいる。「足るを知る経済」とは、物理的豊かさを追求すると人々の心が乱れ、国土が荒れ、地球環境が悪くなるということで、必要な分量をわきまえ、心の豊かさを追求することの大事をプミポン国王は提唱した。そういった意味では、まさしく木の花が提唱しているのと同じことだ。彼はとても意識が高い人だったが、残念ながら彼の精神の高さとそれを受けた国民の意識は一致しなかった。

心の豊かな国を創っていこうとする動きは、世界的には先駆けた動きだ。タイのように経済発展が後から出発した国であっても、そういった意味ではこれから世界の最先端になれるという考え方を持っている人たちもいる。ただ、それは全体数から言えば、僕が感じる限り、少数派だ。プラ・サンコムはその代表的な人なのだが、彼の立場はあくまでも僧侶なのだ。

本来、仏教は自由・平等というお釈迦様の教えのもとにあったはずなのに、男女の格差ができ、戒律でがんじがらめになってしまっている。たとえば、男性のお坊さんと女性の尼さんのランクの違いは絶対的なもの。さらに、小乗仏教でもある個人の悟りを探究するというところから、悟りのレベルがどこまで到達しているのかによって、僧侶の間にもランクがある。そして、僧侶と一般市民の間にも絶対的な差がある。そういった封建的な縦社会がそのまま現在も残っている。

僧侶たちの説法を聞くと、内容についてはまったくその通りだが、もう世界観が古くなっている。彼らは戒律を元にして教えを説いているから、戒律を超えた思考が生まれてこない。それが宗教の限界だ。逆に、そういったことではこれから宗教が時代の進化を妨げるものにもなっていく。そして一般庶民が真実を知り出すと、お坊さんに頼らなくなる。そうすると、お坊さんも自分たちの土台をすべて取り払い、一から積み重ねなければならない時が来るだろう。その時に本当に僧侶の精神を持っていたならば、潔く今までの台座を捨て、ゼロから積み上げる志があれば、やはり僧侶は今までの志の分だけ早く目覚めることとなるだろう。しかしその地位に執着すると、時代に乗り遅れ、逆に落ちていくことにもなる。僧侶たちにも、これからその覚悟が必要だ。

本来、得度する人々が減り、一般民衆が目覚める時が来ている。21世紀は民衆の目覚めの時代だからね。

 

12月5日 第4日目・ヨ
(よこしま・混沌・世・横回転の現象化の渦)

《真の自由=クニ》

いさどん:
本来、仏教の教えは平等であること。僕が言う仏教の教えとは、皆が「差」を「取り」、共に助け合って暮らすこと。それが「悟り」だ。

昨日思っていたのは、僧侶は仏教の本当の意味をもう一度問い直すべきだということ。仏教とは何ぞや、と。お釈迦様は、経典に書いてある通りのことを言っただろうか。どこに根拠があるのか、と。

そして、大切なのは、人がヒトとして時代を生きながら、その真実を見出せる力を持つこと。なぜ仏像があるのかと言うと、それは仏像にすがるためにあるのではなく、我々がブッダの精神に立ち返るためにあるのだ。

ブッダの精神とは、高い意識のこと。高い意識とは、本来、自由でなければならない。それは、戒律からも解き放たれた自由だ。そうすると、時代が変われば人の心も変わる。戒律が壊れることにより、自分たちが維持してきた組織や生き方が変わることを恐れてはいけない。時代が変わるということは価値観が変わるということであり、それが宇宙を生きるということ。だから、目の前に起きることに常に寄り添う姿勢が大切だ。

僕は昨日、クニツクリ奏上をした。実はあの時、集中して奏上していたわけではない。僧侶たちは、まったく違うものが来たという感じで、彼らなりに新鮮にそれを受け止めていたから、僧侶たちが座っていた左側の方は気にならなかったが、右側の方にいた子どもたちのことは気にかけていた。子どもたちが、これをどう受け止めるのか。この場に居続けられるのか、それとも飽きてしまうのか。飽きてしまう前に、収めてやることが大事だと思った。そうすれば、中身はわからなくとも、彼らの精神レベルのキャパを超えることはないから、「ああ、こういうものもあるのだ」と受け取れる。そんなことを思っていた。

やはり、次世代の子どもたちには良い形で渡さなければいけない。新たな時代を生きる子どもたちの精神を一切無視して、古い戒律を一生懸命語り続ければ、やがてそれは子どもたちにとって苦しいものになっていく。この学校で勉強した子どもたちはとても良い子たちだが、これから先、どこまで仏教徒であり続けるのだろうか。仮に仏教徒であり続けなくても、今までの時代をどこまで維持し続けられるのかと言えば、タイの社会の現状からすれば、やはり車も欲しいだろう。そこで、そういったものを戒律から否定するのではなく、本当に自分自身に問うて、物やお金に使われるのではなく、どう使いこなしていくのかが大切なのだ。

今現実に、仏教の中でも差別化が起きていて、そこに平和が見出せない状態でいる。だからここでは難しいと思った。そこで、何ができるのか。

昨日、確かにプミポン国王の魂を感じた。お釈迦様の心も感じた。そこで僕は、「この僧侶たちの精神の延長に、この動きが時代を乗り越えていけるのでしょうか」と問いかけたら、「だからあなたをここに呼んだのです」と言われた。そこで、「私に何をしろと言うのですか。私は先を読まない者ですからここにおりますが、一体私に何ができるというのでしょうか」と問いかけた。そうしたら、一番初めに仏像と対話した時に、「共に創り上げていきましょう」と言われたことを思い出し、こう伝えた。「その精神ならば、私はやれます。しかし今、何かをするということは、私の頭の中には何もありません。最初はとても違和感を感じていましたが、今は、何か役に立つのかもしれないと思い、落ち着いていられるようになりました。」

仏教精神をもっと広く拡大し、平等な場を創った ──── もしくは目指しているのが、木の花ファミリーのあり方だ。カタカムナまで行くと極端な拡大だが、そこまで、人間たちの精神が宇宙時代にならなければいけない時が来ている。それは古いけれど新しい。だからそれは、古くはならない。ブッダの教えも、たった2600年のことなのだから、それにしがみついてはいけない。そういった賞味期限を感じながら、地球はどんどん宇宙を先へと進んでいく。そして、次の時代が確実に押し寄せてくる。

プラ・サンコムのマスターが語っていたように、誰もが死ぬ。それは当然のことであり、だからこそ、縛られていてはいけないのだ。

プラ・サンコムは、いさどんという得体のしれない存在を「マスター」と言う。しかしそれは、仏教という枠の中では捉えきれない存在だ。そういう可能性を彼は残していきたいと思っているのだろう。しかし戒律の中で、彼はそれを表明しきれない。僕が彼に伝えたいことは、ここでの活動はとても意味のあることだが、ある程度これをやりきったら、やはり木の花村をタイに創るべきだ。そして彼はそこのリーダーとして、もっと自由に生きるべきだ。

現代の人々は、自分の考えを持ち過ぎてしまった。だから、自分を否定されることを怖がっている。そして、結局何かに囚われている。

宇宙を生きる ──── 宇宙と共にあるということは、自己否定の道だ。しかし、世の中がここまで来ると、誰もが自分自身を否定できない。しかし、本来我々は自由でなければいけない。そのことが、皆わからない。僕が奏上する祝詞を、なぜ「クニツクリ奏上」というのかと言えば、「自由(ク)が定着した(ニ)世界を創る」ということだ。

ようこ:
それはまさに、真の自由のこと。

いさどん:
人が自我による願望を叶えることをやめ、宇宙の響きと一体となった時に、必要な物事はすべて自動的に成っていく。それが、宇宙の星々の関係のような、フリーエネルギーの状態であり、自ずと成っていくということ。それは極めてエネルギーがかからず、スムーズで精妙に行われていくので、我々人間の思考では到底理解できないような状態でもある。そのような状態になった時、自らの囚われから解放される自由と、物事が自ずと成っていき、それが極めて道理にのっとっているからその心地良さに乗った自由の、ふたつの自由がそこでは感じられるようになる。

ようこ:
それが、「クニ」ということだね。

いさどん:
そう。それは我々が日常を生きている中に感じることができるもの。だから、心を磨いて自我を優先させない姿勢が大切だ。そこまで宇宙の流れが現象化してくると、自ずと事は成っていくから、それが極めて心地の良い状態。それは、宇宙遊泳で人間が自分の体重の圧力、それから大気の圧力を感じなくなるのと同じくらい、解放された状態なんだよ。それは、人間が悟りを開き、魂だけになった時の状態でもある。その状態で日常が生きられる。これは、仏教でいう「悟り」の世界。その道に気が付くということが、たとえばキリスト教で言う「福音を聞く」ということだ。

その悟りの境地に至るということは、地球に平和をもたらすためにある。平和というのは、心が解放されて、誰もが自由になっている状態のこと。プミポン国王は、亡くなってからそのことに気付いたはずだ。彼は疑問を持ちながら、その本当がわからないまま亡くなったのだと僕は感じる。そして、彼が亡くなってから気付いたのは、「ブッダの精神は戒律の中にはない」ということなんだよ。

ようこ:
だから、プミポン国王は亡くなられた直後にいさどんの元に現れた。それは、バトンタッチということ。

いさどん:
彼の理想は、この古い仏教にはない。しかし、亡くなってからそのことに気付いた。誰も、一つの生き方をモデルにして、それを正解として歩むべきではない。聖なるものとは、見本ではない。それはそのもののオリジナルの生き方の見本だ。皆が自分らしく生き、その自分らしさがこの宇宙の法の秩序に則っている世界そのものが調和であり、それが平和だ。自らに与えられたオリジナルのピースを存分に発揮し、一番ふさわしいところにはまる。そこを見つけることだ。それは他者が喜び、社会を健全にし、そして自らが存分にその生き方を喜び、希望を持って表現する道だ。

ようこ:
昨年プミポン国王が亡くなられた時にまとめたものがあるので、読んでもいい?昨年の10月15日に書いています。

 


《プミポン国王からのバトンタッチ》

一昨日の夜7時のニュースで、タイのプミポン国王の容態が不安定だということを知り、「彼はもうそんなに長くないかもしれない」と思った。

そして7時半頃、座椅子に座っているいさどんの後ろに、プミポン国王の立っている姿が現れた。その時の国王の姿は先程のニュースで映っていた現在の白髪の年老いた姿ではなく、いさどんと一緒に昨年タイを訪問した際、寺院に飾られていた若かりし頃の国王の姿だった。

2015年12月に仏像の開眼式に招かれた

いさどんの後ろに国王が立っている姿を目の当たりにした私は、「彼はいさどんにバトンタッチしてから彼の行く先に向かうのだ」と思った。

それで昨日、午後3時頃、みちよんからの「タイの国王が崩御されたことを受けて、プラ・サンコムにメッセージを送ろうと思います」というメールを見て、国王が崩御されていたことをそこで初めて知った。それでインターネットで調べてみたところ、実は彼は日本時間で一昨日の午後5時52分に崩御されていたことを知り、「彼は肉体を離れてから、いさどんの元に来ていたのだ」とわかった。

そこで気付いたこと。昨年いさどんはプラ・サンコムに招待されて仏像の開眼式で祈りを捧げた、と今日まで私は認識していたのだが、実はいさどんは霊的にはプミポン国王に呼ばれ、彼の最後の誕生日(2015年12月5日)をタイの地でお祝いしてきたのだということ。もちろん、プミポン国王というよりも、そこには天の意志、時代の流れがある。

プミポン国王は、親日家としても知られ、1963年国賓として日本を公式訪問し、2006年の即位60周年祝賀行事には天皇皇后両陛下が出席されていたそうだ。

昨年、いさどんと一緒にタイを訪問した時には、特にプミポン国王との霊的なつながりを私は感じず、一昨年のインドの旅に比べタイという地にそれほど霊的なつながりを感じてこなかったのだが、今日になってその物語がするするとひも解けてきた。

昭和天皇様が崩御された後にいさどんの元に現われ、「日本の国をよろしくお願いします」と挨拶されたこと。談話室で休んでいたいさどんに山岸巳代蔵が現われ、いさどんに握手していったこと。一昨年の11月インドのガンジー記念館で、いさどんがガンジーの聖なる魂の波動を感じ、新たな時代の幕開けにつなぐものとして、彼から魂のバトンを受けたこと。今年の花祭りの際、出口王仁三郎さんから「私が実現したくてもできなかったことを実現してください」と託されたこと。そして今回、タイのプミポン国王からバトンタッチされたこと。

木の花ファミリーに託されているものは、私の人智では到底計り知れない ──── 。だから、天の物語を共に紡いでいくだけ。想像以上の物語がすでに用意されているのだから。


 

いさどん:
あなたはやはりここにいるべきだ。なぜなら、そういった記憶を忘れずに今日のこの場につなげるのだから。

ますます、先は見えなくなった。見えなくなったからこそ、進める。これが見えていたら、先へは行けない。なぜかと言うと、見えていたら、この古い戒律の中に我々も入ることになってしまう。それは今さらできない。見えないからこそ、行ける。この先に何があるのかを楽しみにして。見えていては行けない。

すべてのものは様変わりしていくのだから、わかった時点でそのわかったことを捨てなければいけない。いつでも自由自在に方向転換できることが宇宙の実相だとしたら、いつでも自由自在に時代の要請に合わせ、自らの価値観をひっくり返すことができるはず。それが本当の意味の高い精神を有するものであり、本来の仏教精神だ。それが「クニツクリ」であり、自由になっていくこと。そこに尽きる。

我々には、時代の波を泳いでいくことしかできない。波に呑まれてはいけない。逆らいもしない。波を乗り越えて泳いでいくことだ。我々の存在は、今までの世界に在る価値観で特定できないことは確かだ。何ものであるかはわからないが、それは未来が教えてくれる。

ようこ:
だからタイの人たちにとって、私たちが奉納したことは単に異国の空気というだけではない。これは日本の伝統でもないからね。だから、「一体何ものなのだろう?」と感じるのだろう。例えばクニツクリ奏上にしても、どうも日本の伝統ではないようだけど異国の新しい感じが漂っている。いさどんの奏上している雰囲気から、何か重要なことをやっていることは確かだ、と感じている人もいた。それは、「あれ?ここはどこだろう?」という世界。その心を私たちが生きれば、人々が目覚めるきっかけとなる。

いさどん:
我々は前人未到の道を生きている。それはパイオニアということではない。これは宇宙の実相だ。それは、常に自由であるということ。何ものにも囚われない。変化・変容・変態をくり返しながら常に進化する。そして時代を生きる。それが、宇宙を生きるということだ。

そうすると、過去のたくさんの聖者たちがここに託してくる意味が理解できる。彼らの生き方は決してそこで終わっているわけではなく、時代と共に未だに生き続け、進化し続けているのだから。そこにつなげないと、皆がつながらない。これは、地球上に平和をもたらすだけではなく、霊的にも平和をもたらす道だ。

僕は昨日のプレゼンテーションの最後に、「仏教の教えによって自我を取り除くことが、21世紀の新たな時代を導くことに気付きました。ですから、世界を平和にするためには仏教の精神が必要なのです」と語った。しかしそう言いながら、「NO」とも言っている。なぜなら仏教も進化し続けるものであり、戒律で縛るものではないからだ。仏教とは宇宙の法なのだから、そこを間違えてはならない。

僕は少なくとも、自由に生きられる立場を持っている。難しいとはいえ、誇れる生き方だ。

プミポン国王の志が何であったのか。お釈迦様の志が何であったのか。それをもう一度問い直さないといけない。後の人たちが自分たちの組織を維持するためにつくった戒律に、いつまでも縛られていてはいけない。

ある意味、プミポン国王は戒律の頂点にいた。頂点にいたからこそ、ある意味自由であり、不自由であった。その両方を感じていた。意識の高い人であったことは確かだが、意識が高ければ高いほど、自らの立場というものに矛盾を感じる。彼は王として生まれてきて、お釈迦様の精神と同じものを持っていたということだ。僕はいいね、自由な場所にいるよ。

ようこ:
だからこそ、この役割を果たせる。

いさどん:
心の王ではあるが、形の王ではない。難しいけれど自由な立場を与えられている。ありがたいね。

ようこ:
ありがたいね。

いさどん:
これは難しい。つまり、心はこの地上を生きるのではなく、天を、宇宙を生きなければいけない。我々は今も宇宙空間を旅している。世界観を広げることが、唯一、次に扉を開く道だ。だから、今やっていることは間違いない。「間違いない」というのは、囚われた「間違いない」ではなく、自由を見つけたという意味での「間違いない」だ。悟りというのはそういうことだ。ある特定の位置にポジションを見つけるのではなく、自由自在に囚われないというところに見つけなければいけない。

よし!今、「ありがとう、タイよ」というフレーズが出てきたが、そうではない。「この世界と共に」ということだから、そこにタイも入っているというだけのこと。

今日は良い時間をありがとう。

ようこ:
ありがとうございました。クニツクリ奏上をしてこの時間を締めませんか。

(クニツクリ奏上)

 

12月6日 第5日目・イ
(位置・現象界に最初に現れる粒子)

ー 朝、寺院を出発する前、仏像の前でクニツクリ奏上を皆で行った。

《昇る朝日のような道しるべ》

いさどん:
今、天に語りかけることは ──── 私の思うところを生きます。それは、天の示されている美しい心を持ち、地上に美しい世界を表現すること。私の意志はそのことに何ら偽りはありません。しかしながら、地上のものたちが未だ今までの価値観に囚われ、天の示される意味を理解しておりませんゆえ、正しさを履き違えております。そこで、私は天の意志に目覚め、新たな時代と共に先駆けとしてそれを実践していくことを自覚したものとして進みます。

なぜならば、地上のものの知恵を使って先を思い、それを想定していくことは、天との対話により存在するこの世界の真実から離れるからです。我々が目指すべきもっとも重要なことは、天の意志に沿って生きること。その先について、我々は考えません。それがどのような道であっても、その苦難を受ける覚悟はありますが、歴史がそうであったように、その道を開く天の意志と共になければ、その道はただ苦難だけに終わります。

まっすぐな道の先に、昇る朝日のような道しるべを示していただく ────。わかりました。

(しばし沈黙)

今、この歩む道の先に昇る朝日のような光が射してくるのが観えた。

お釈迦様は、自らに訪れる自分の中の魔を払拭した。お釈迦様は人々を導き新たな時代を示すために、自らの心の中に訪れる魔と対峙したわけだ。・・・そうか。わかったぞ!

僧侶たちはお釈迦様に訪れた魔を想像し、それを戒律として定めたのだ。しかし、魔と対峙するということは、戒律を守ればいいということではない。それは、真っ直ぐな光への道を見極める心をつくること。だから、出来事を指しているのではない。出来事はすべて幻だ。しかし、その出来事に対するこちらの心が魔を生み、汚れをつくり、美しいものを汚していく。だから、美しい心で真っ直ぐ歩めば、この世界にあるものはすべて美しくなる。それが、天が我々に求めていることであり、そこに汚れた心を一切介在させるな、ということ。つまり、解釈を介在させるな。解釈を介在させず、自然生態系の姿のように、一切そこに駆け引きの心をはさまず、美しい行いをすれば、美しい世界になっていく。

・・・言葉で表すのは難しい。でも、わかったぞ!

魔は、人の心の中に差すのであって、人々はそれを恐れて戒律をつくった。そして、戒律を守ってさえいれば道から外れないということにしたから、人々は美しい心を見分ける力を失ってしまった。己の心が美しく、真っ直ぐに、その光に向かっているならば、そのまま行けばよい。

目的は美しい心になることであり、戒律を守ることが目的ではない。戒律は手段だ。ただ美しくなればいい。

ようこ:
結局、世の中でも仏教でも、「形」が問われているけれど、私たちは「心」を問うているわけだから。

いさどん:
心を美しくすれば、自ずと形は美しくなる。

私がそのようになればいい。もうすでに時は来ておるゆえ、私がそのように歩めば、そこに道のあるものはすべてそこに追随していく。

・・・目をつぶると、この道に出会った頃のことを思い出す。己の姿が大仏のように大きくなって、目の前にいる小さな小豆粒のような存在が、その時の自分自身であるということに気付いた時のことを。

今は目をつぶると、己が黄金に輝く巨大な魂であって、その目からこの世界を眺めている。それは、おごりでもなく、真実の目を持ってみると、そのような景色が観える。

ようこ:
だから、いさどんに現れた黄金のブッダは、人の到達すべき魂としての境地を示していた。仏像はいつも人間界を眺めているでしょう?だから、仏像を偶像として崇めるのではなく、魂のあるべき姿として観ればいい。

いさどん:
我々は仏像を崇拝しているわけではないが、けじめだからね。クニツクリ奏上を行おう。

(クニツクリ奏上後)これは良い旅だ。

ようこ:
このエコ寺院をデザインし、天井画も描いたナショナル・アーティストのプリーチャさんによると、この月は7つあって、7日間・1週間を示している。しかし、それを聞いたいさどんは、「でも、あそこに見えない新月があるから、月は8つだよ」と言っていた。

上部に新月がある

その時に私は、「第8番目の聖者」の話を思い出した。これからは一人ひとりの衆生が目覚める時代でしょう。誰もが第8番目の聖者である、ということを思った時に、この8番目の月の下のところにマハジャナカ王(ブッダの過去生)が7日7夜泳ぎきって自分のやるべきことはやりきった時に、天使が現れ、天のサポートがあって助かったという物語が描かれている、と思った。

いさどん:
決意を持って命を懸けて乗り切ったということだ。

ようこ:
あそこに描かれているのが現代のバンコクのような混沌とした乱れた人間世界だけれど、ちょうどこの新月のところに描かれているのは人間のあるべき理想世界なんだよ。

いさどん:
これは桃源郷を現している。

乱れた人間世界
人のあるべき理想の姿

ようこ:
プリーチャさんがそのことを意識して描いたのかはわからないけれど、天意としては、これからの人々の目覚めを示していると感じたんだ。

いさどん:
この世界は八方世界だから、そうすると七方に対して、見えない八方世界に人間には見えない真理がある。この天井画でも、我々が行うクニツクリ奏上でも、宇宙の成り立ちを現していて、我々はその成り立ちの中に皆、組み込まれている。

だから、人々はそろそろ上を向いて生きていかないといけない。

昇る朝日に向かって歩くいさどん

 

― その後、ニーム製品を輸入しているワサント社のあるサラブリ州に車で向かう。お昼にワサント社に到着し、午後は施設見学。

 

12月7日 第6日目・ム
(六つ・上下左右前後の六方向・無)

― サラブリ州から、プラ・サンコム氏の故郷であるスリン州に電車で向かう。夕方、スリン州に到着。大きく真っ赤な夕日に出会う。

《六角堂ではなく、八角堂を》

ようこ:
私は今まで太陽が八角形というか、正八面体と思ったことはなかった。太陽は球だと思っていたのだけれど、今、太陽を見ていたら八方に観えてね。すべては同じだと思った。

いさどん:
太陽にも、北もあれば南もある。春分から夏至・秋分・冬至もある。だから、この世界は八方世界なんだよ。

ようこ:
それを、ナショナル・アーティストがプラ・サンコムの寺院の天井画に表現していたのもすごいね。彼は「宇宙は八方だ」と言っていた。

中央の花のようなシンボルが、宇宙が八方であることを示している

いさどん:
その昔、僕が田舎の先祖の土地に八角堂を創ろうとしていた(笑)。

ようこ:
本当だね!なぜその時に八角堂だと思ったの?

いさどん:
普通、建築では六角堂というのはあるのだが、僕はなぜだか「八角堂でなくてはいけない」と思ったんだよ。

ようこ:
すでにこの世界の仕組みを感受していたんだね。

いさどん:
そして、そのまわりの土地は円にして、円の中に八角堂を建てるというイメージだった。まあ、途中で終わってしまったけどね。

「宇宙は丸く、地は方なり。」方というのは、四方ということ。

ようこ:
四方というのは、八方のことだからね。四の対向発生は八になるものね。

いさどん:
だから、四苦八苦というんだよ。

ようこ:
いさどんは、ここスリンでもクニツクリ奏上をする感じがする。先のことは行ってみないとわからないけどね。

 

12月8日 第7日目・ナ
(七つ・成る・質的転換・分身)

― 午前中はプラ・サンコム氏一族が運営する土地を見学。午後は市内を見学し、夕方、プラ・サンコム氏の故郷の寺院に招かれた。プラ・サンコム氏はいさどんにクニツクリ奏上を行うことをリクエストし、その前にいさどんは寺院に集った村人たちに対して挨拶をした。

寺院に集う村人から歓迎の読経をいただく

《この世界を清浄にするために》

いさどん:
皆さん、はじめまして(大拍手)。私たちは日本の富士山麓に暮らしています。その土地は13000年前に人々が暮らしていた、日本最古の遺跡の上にあります。ちょうど13000年前、東アジアにカタカムナ宇宙物理学を元にした高度な精神文明が栄えていました。私たちはその土地に暮らしながら、今の時代が物やお金にあふれ、人々が幸せでないことを憂い、共に助け合う暮らしをカタカムナ文明に倣いながら、心を美しくすることを最も大切にして生きています。今回、タイには友人のプラ・サンコムに招かれ、皆さんとお会いするために来ました。

これからの時代、世界中の人々が助け合って暮らし、その心の豊かさの上に幸せがあることが大切です。その大事を皆さんと共に広げたいと思っています。私は今回で3回目のタイへの訪問です。タイの国へ来ると、仏教国であることがわかります。本来の仏教の自由で平等な精神は、私たちが目指す社会創りの元となるものであり、私たちが求める精神そのものです。特に、この土地にはとても親しみを感じます(大拍手)。

ただ今から、宇宙の誕生・発展・消滅を表したカタカムナのマントラを奏上します。それはこの世界を清浄にします。皆さん、お聞きください。

クニツクリ奏上前に仏像に献花

 

12月9日 第8日目・ヤ
(八つ・飽和安定・極限)

《「やっと出会えたね」-ヤイターさんとの運命の出会い》

いさどん:
昨日、プラ・サンコムにここの土地を初めて案内してもらっただろう?実は不思議なことに、プラ・サンコムの姪のお父さんが持っている土地に行った記憶が僕にはある。そして、そこへ行った時にその隣で土地を持っているヤイターさんという女性がいただろう?彼女は70歳くらいに見えたのだが、実際は54歳だと言っていた。実は、僕は彼女に会った記憶があるんだよ。

彼女はプラ・サンコムやプミポン国王の話に賛同し、プラ・サンコムのビレッジと同じように、彼女の土地のまわりに池をつくった。池には魚がいて、ホテイアオイがたくさん繁殖していた。それに、たくさんバナナの木が植えられていた。プラ・サンコムもそれを手伝ってね。そうしたら、彼女の夫はそのことに強く反対し、それでも彼女がやり続けたら、彼女に暴力をふるい、しまいには彼女の歯が折れてしまった。彼女は今も一人でそれをやり続けている。

過去に、僕はその話を聞いた覚えがある。彼女の土地をずっと歩いていくと、途中の池にホテイアオイがたくさん茂っているのも見た記憶があるし、さらに奥に行くと豚が飼ってある場所も見た覚えがある。

池に繁殖しているホテイアオイ
豚小屋

しかし、プラ・サンコムは、今回彼女の土地へ行った時に初めてその話を僕にしたのだと言う。ところが、僕にはその景色の記憶がすべてある。それに、彼女の歯の話も僕は知っていた。だから、プラ・サンコムがその話をし出した時、「あれ?聞いたことがある話だ・・・」と思い、懐かしく感じていた。だから、余計に彼女も懐かしく感じたのだと思う。昨日、僕が彼女に「あなたのしていることはとても大切なことですね」と伝えたら、彼女は泣き出した。そんなこともあって、ヤイターさんとはとても仲良くなった。

ヤイターさんといさどんの運命の出会い

ちなみに僕の知っている豚小屋は、もう少し整備されていた。だから、もしかしたらそれは、未来のことかもしれない。

ようこ:
それを聞いたプラ・サンコムは、「それはいさどんの第六感ですね。あなたの魂がヤイターさんの元に行っていたのです」と言っていたね。

いさどん:
まさにデジャブだよ。スリンは初めて来た場所だからね。

 

― 夜行列車にてバンコクへと向かう。

 

12月10日 第9日目・コ
(極限を超える・転がり出る)

― 朝になり、バンコクに到着するまでの車中にて、いさどんとプラ・サンコム氏はスリンでの村づくりプロジェクトについて語り合った。

《日出ずる村・アルンルンビレッジ!》

いさどん:
スリンでのプロジェクトを進めるためには、まず、ビレッジの名前を考える必要がありますね。そこからスタートです。

プラ・サンコム:
タイ語で、このプロジェクトの名前は「母なる大地への感謝」です。それは、私にとっての理想のビレッジの名前でもあります。

いさどん:
そのプロジェクトの名前を村の名前にしたらいけないのですか?

プラ・サンコム:
それはあまり良くないですね・・・。何か別のものを考える必要がありますね。というのも、村の名前はもっとインパクトがあるほうがいいと思うのです。たとえば「木の花ファミリー」のように。

いさどん:
ハッハッハ。

プラ・サンコム:
たとえば、タイには「パンパン」というビレッジがあり、それは何千もの種という意味です。

いさどん:
それでは、あなたの姪に「ギン」ちゃんがいますが、「ギンギン」はどうですか(笑)?

ようこ:
日本語では、「ギンギン」と聞くと、エネルギーが強く、輝いているイメージが浮かびます。

プラ・サンコムの姪 ギンちゃん

プラ・サンコム:
それでは、「Rising Sun (昇る朝日)」はどうですか?「Rising Sun Village (日出ずる村)」というのはどうでしょう?・・・・見てください!鳥肌が立っています!!

Rising Sun Village!!

富士山に昇る朝日はぴったりでしょう??

富士山と昇る朝日といさどん

いさどん:
その昔、僕は「その心、日の本の国全体に説くがよい」と天から啓示を受けました。「日の本の国」とは地球のことです。

プラ・サンコム:
世界中には木の花ファミリーやオーロヴィルのような新たな価値観を目指すコミュニティがありますが、私のコミュニティは「Rising Sun Village」です♪

ようこ:
英語で、日本という国は「The Land of the Rising Sun (日出ずる国)」とも言われています。

プラ・サンコム:
お釈迦様の時代、お釈迦様は、「叡智とは昇る朝日のようなものだ。黄金の光のようなものだ。黄金の光を受け取ることは叡智を受け取るということだ」と言われました。

木の花ファミリーは、Rising Sun ファミリーです♪ Rising Sun(昇る朝日)とは黄金の光のことです。それは、叡智が湧き出るということであり、どのように涅槃という境地に到達するのか、悟りに至るのかという叡智なのです。

いさどん:
黄金の光だったら、黄金の鯉を持ってこないとね(笑)♪ ハッハッハ。

プラ・サンコム:
もちろんです!昇る朝日に黄金の鯉!大きな魚を育てないといけませんね(笑)。

ようこ:
Rising Sun Villageは、インパクトがあっていいですね!ちなみに、タイ語で「Rising Sun」は何と言うのですか?

プラ・サンコム:
「アルンルン」です!

いさどん:
アルンルン!いいね!!

プラ・サンコム:
皆さんの国である日本の民は、太陽から来ていると考えられていますね。ですから、日本人は「太陽の子ども」なのです。それで、木の花ファミリーは宇宙の愛を表現しているのです。なぜなら皆さんは、太陽から来たということは宇宙から来たということだと信じているからです。

私は高校生の時に日本の歴史についての本を読み、日本人は太陽の子どもだと知りました。

いさどん:
それは、天照大御神のことでしょう。

プラ・サンコム:
詳しくはわかりませんが、日本の歴史についての本を読んだ時、日本人は自らの民族に誇りを持っていると書いてありました。

いさどん:
それは、日本の成立時代のことですね。しかしその後、第二次世界大戦の時代には、日本は間違いを犯しました。軍がそれを利用したのです。戦後、その精神を日本人は失い、今は西洋的価値観に汚染されてしまっています。それは、日本人が優秀であるがゆえにできたことなのですが、今はそのことによって国が滅びようとしているのです。これから、日本人の本来の精神を取り戻す時が来ています。そして、日本人の中に新たな価値観が生まれてくる時、それは世界のモデルとなるのです。木の花ファミリーは、その一つの雛形なのです。

プラ・サンコム:
世界の人々は、日本を世界の技術大国だと見ています。しかし、木の花ファミリーはその対極を行っているので、とても斬新な存在なのです。なぜ、技術大国である日本という国に、精神性を求める木の花ファミリーのような存在があるのか?日本にあるからこそ、世界の人々は、「このような国にこのような場所があるのだ!」と木の花ファミリーの存在に驚くのです。もし、木の花ファミリーのようなコミュニティがタイやラオス、ベトナムにあったとしても、それはインパクトがありません。なぜなら、私たちはすでに自然豊かな国だからです。

いさどん:
木の花ファミリーが日本にその存在を認められるのは、難しいところです。難しいところですが、木の花の芽は絶対につぶれません。

プラ・サンコム:
はい。ですから、私たちは協力していく必要があります。共に学び、平和を維持し、愛や慈悲を表現し、母なる大地に感謝していくことが大切なのです。そして、次世代にバトンタッチしていく必要があるのです。

いさどん:
その智慧を渡さなければ、我々の世代は遺産として苦難を次の世代に残すことになってしまいます。

プラ・サンコム:
その通りです。ですから、これから木の花ファミリーとアルンルン・ビレッジが共にあるべきなのです。そして、タイの子どもたちに、木の花ファミリーの考え方や生き方を学んでいってもらいたいと思っています。

 

《2018年のテーマは「再スタート」》

いさどん:
これからアルンルン・ビレッジの形を整えていく時に、精神性を発信するという意味では、タイには仏教精神がある。仏教精神を新たにリニューアルし、「太陽のもとに」という意味での、日本とタイを合同させたような精神性に仕上げていけばいい。それを背景にして、精神性を日本から発信し、自然と融合した具体的な生活のモデルをタイに置く。そうすると、相互が足らないものを補い合ってひとつのビレッジのネットワークを創ることになる。地域の特徴を生かしたビレッジがありながら、その精神性は共通しているということ。それが最終的に、地球コミュニティになっていけばいい。

いずれにしても、次の時代は、人々が共同して生きていかなければ乗り越えていけない。その意味を若い世代に伝えていく。それは教育というよりも、次の世代の人たちはそういった精神性をすでに持っているから、それを呼び覚ましていくということ。実際に、今までのような分離の時代に抵抗感を持っている若者が現れ始めている。分離のもとに豊かさを探究していた者が、融合し共有することによって豊かさを求めていかなければ、次の時代を生き抜けない時が来ているのだから。

・・・今、来年のテーマが出てきたぞ!今年は「爆発の年」だっただろう?爆発で壊れたから、来年は「再スタート」だ。実は、「旅立ち」という言葉も出てきたのだが、これは単なる旅立ちではない。我々はすでに船出という旅立ちをしているのだから、改めて出発ということだ。ここまで歩んできたからね。

ようこ:
そうだね。日本に原爆が落ちて、戦後、日本が再スタートしたように――

いさどん:
そういった意味では、これは再々スタートだよ!

ようこ:
日本で言ったら、再々スタートだね。今日は12月9日だけれど、76年前の12月8日は日本が真珠湾を攻撃し、原子爆弾が落とされる直接のきっかけとなった日。

でも、心という意味では再スタートということなのかもね。だから、今年のキーワードは「心の水爆」なんだよ!心の水爆があって、核融合があって、来年、精神性が再スタートする!

以前からいさどんが言っていたけれど、2018年、2019年、2020年の3年がセットになっているイメージがある。2015年、2016年、2017年の3年もセットだったのだけどね。来年からの3年間は2020年に向けての準備期間に入る。

それこそ、2020年頃には、このタイとのプロジェクトも形になっていることでしょう。

いさどん:
アルンルン・ビレッジが立派な森になっているよ。あそこは自然豊かな木の花のパーマカルチャー版になるのだろう。

 

― バンコク駅に到着。

 

《プミポン国王の黄金カラー=いさどんに現れた黄金のブッダ》

ようこ:
さっき、電車の中で来年のテーマが出たでしょう?そのことを思っていたら、プミポン国王の魂を感じ、昨年彼が亡くなられた直後にいさどんの元に現れ、バトンタッチされたことを思い出した。それは霊的なバトンタッチであり、今回実際にプラ・サンコムの故郷を視察したことにより、「物理的にも日本とタイをつなぎましたから、私の役割はここまでです。あとは皆さんに託します」ということだった。

プミポン国王のシンボルカラーは黄色でしょう?いわゆる黄金なのだけれど、それが先程プラ・サンコムが話していた「黄金の光は湧き出る叡智を意味し、それは悟りに至るための叡智です」という話につながった。その黄金とはきらびやかな物理的なゴールドのことではなく、神聖なる天の叡智を黄金で示していて、いさどんに黄金のブッダが現れた時の黄金の意味とまったく同じなんだよ。

だからこれから、見えないものを見える形として現象化するために、タイと日本が共同することによって、ここから世界へ発信していくということが感じられた。タイでの滞在9日目にして、この物語の意味がひも解かれ、転がり出たと思っていた。

いさどん:
プミポン国王の意志とは違い、大多数の国民はその意志をどちらかというと無視して生きてきた。だから、国王は心が晴れて亡くなったわけではない。だから、次に託さなければいけなかった。当然、彼が生きていた時代背景もあるから、それは成しえない時の役割だった。一般民衆ももちろんそうだが、僧侶たちや国王のもとで国を運営してきた政治家たちも、その意志を進めようとしなかった。だから、プミポン国王は人生を通してその志をやりきれなかったのだ。

ようこ:
それは時代と地域性の、トキ・トコロの両方の面でそうだった。

3年前にインドに行った時もスピリチュアルな旅だった。あの時は、いさどんの魂の故郷の地であるヒマラヤにいさどんが挨拶に行くという、過去と現在をつなぐ旅だった。しかし、今回のタイへの旅は、現在と未来をつなぐ旅。いさどんがタイに縁があるといっても、過去生でいさどんがタイに住んでいたのかというと、それは感じられない。

いさどん:
僕にはタイの仏教を新しくしていく役割がある。

ようこ:
今回のタイの訪問は、いさどんの人生にとっては3回目ということだったね。タイと縁が深いということは、これからつないでいく役割があるから。

いさどん:
1回目は35年前にインドを訪れる前バンコクを経由し、バンコクの市内観光をした。2回目は2年前に訪れたマブ・ユアン自然学校、そして今回の3回目はアルンルンビレッジ!

ようこ:
今、世界中で人々の心は乱れているけれど、その建て直しがまずは、日出ずる国・ヤマトから始まり、それがタイヘと広がっていく。タイヨウの国・タイだからね。その話を成田空港へと向かうバスの中で話したね。

いさどん:
そうだね。

ようこ:
そこにつながった!爆発の年というのは核融合の年でもあるのだから、太陽の核融合の年に、タイに、太陽ビレッジ構想が始まった♪

 

― その後、クイーンズギャラリーに到着。ナショナル・アーティストのプリーチャさんに案内してもらいながら彼の展示品を鑑賞した。

 

《内なる美を現すゴールド》

プリーチャさん:
私は、プミポン国王をゴールドで描いていますが、このゴールドは物理的なゴールドを指しているのではありません。このゴールドは、内なる美を表しているのです。

― しかも、彼の作品の中には、「内からの爆発」というタイトルの作品がふたつあった。そのひとつ、「内からの爆発」は、2016年10月13日プミポン国王が88歳で亡くなられた日から翌日にかけて、プリーチャさんが仕上げた作品。もうひとつの「内からの爆発NO.2」は、プミポン国王が18歳の時に即位され、初めてスピーチを行った時の作品だ。

「内からの爆発」
「内からの爆発NO.2」

― アートギャラリーの入り口近くには、プリーチャさんと一般の人たちが共同で仕上げていく作品が飾られていた。プリーチャさんによると、左側は若かりし頃のプミポン国王、中央は死後のプミポン国王、そして右側は晩年のプミポン国王を描いたそうだ。左側と右側のプミポン国王のローブには、一般の人たちからのメッセージが書かれており、中央のプミポン国王のまわりにはメッセージを書いた人たちの名前が記されていた。

いさどんは、若かりし頃のプミポン国王のローブには、「タイ国の民衆と共にあります」というメッセージを記し、晩年のプミポン国王のローブには、「次の時代に託します。木の花ファミリーへ」というメッセージを残し、アートギャラリーを後にした。

― 夜のフライトでタイを出発し、日本に向かう

 

12月11日 第十日目・ト
(統合・融合・高次のエネルギー)

― 朝、成田空港に到着。木の花へと向かう車中にて。

《世界人類のためのプロジェクトとして》

いさどん:
ナショナル・アーティストによると、「プミポン国王は、民族・宗教を超えて、タイ国民のためだけではなく、世界の人々のために活動されました。これまでの10人のタイ国王の中で最も重要な国王であり、民衆はプミポン国王を単に国王として敬意を払っていたのではなく、タイ国の父として慕っていました」ということだった。

ようこ:
プミポン国王が亡くなられた時、国連の事務総長が「プミポン国王は国際的にも尊敬されていました」とコメントしていた。

いさどん:
それを聞いて思ったことがある。

富士浅間木の花祭り・世界中の清水が一つの釜で焚かれる

毎年1月の終わりに木の花ファミリーで開催される「富士浅間木の花祭り」では、世界中の清水が集められ、一つの釜で融合し、聖なる火で焚かれることで、新たな「クニツクリ」が始まる。つまり、「クニツクリ」とは、逆さまの時代を生きる人々が真実に目覚め、宇宙に創造された生命の星・地球で、神人合い和す平和な世界を創ること。そして、祭りの後にその清水はまた一つの海へと還っていく。

今回、我々はタイでの寺院の落成式に招待されたのだが、あの寺院は今回をもって正式に国の認める寺院として登録された。それは、プミポン国王の提唱する国創りに賛同した寺院ということだ。だから、あの仏像の体の中には世界各地の土が入れられている。それは、平和の象徴ということだ。しかも、プミポン国王の誕生日である12月5日は、世界土壌デーとなっている。

金色のカップに入れられた世界中の土が、仏像の中に入れられていく

そういった寺院の落成式に招かれる我々は、この富士山の地において世界中の水を集めた、火と水の祭りを開催している。だから、本当に縁が深いということを感じざるを得ない。

今の時代、タイに限らず、ここの生き方が求められていることは確かだ。そして、これはタイ国のためだけではなく、世界人類のためにあるプロジェクトだ。それを我々は現象化し、モデルとして、世界中の人々に示す必要がある。それがプミポン国王が望んでおられたことであるし、お釈迦様の意志でもある。

さらに、プミポン国王はそれを民衆の生活に表現したかっただろうと思う。

ようこ:
そうだね。中国の天盤の巡りによると、1927年に白陽期が始まっている。白陽期とは、民衆の目覚めの時代。実は、その年にプミポン国王が誕生しているのだから、まさにプミポン国王は民衆の目覚めのために貢献された方だった。

しかも、戦後、1946年という年は、プミポン国王が18歳で即位された年でもあるし、昭和天皇が国家の象徴となった年でもある。昭和天皇は天皇の神格性を否定し、新日本建設への希望を述べられたということだから、まさに民衆の時代の幕開けを意味している。

いさどん:
そして、人々がそれを実践していくことが、我々が次の時代へとつなげていくための役割であり、若い世代につないでいくことが我々に今、求められている。

 

― これは、新たな時代を生きる全人類へのバトンタッチ。
まずは、今ここに出会っている、あなたへのバトンタッチです。

 

21世紀のクニツクリは、
地球の細胞である私たち一人ひとりの目覚めにかかっている