21世紀のいのちの捉え方

近代の医療の発展は、目覚しいものがあります。その現場では、常にいのちは長らえることを前提に扱われています。
いのちの捉え方として、たとえば最先端の医療を受け、いのちが長らえるための最善の方法をとっていのちをつなぐことを考える人もいますが、その分だけ人が幸せに生きられるのかというと、そうばかりではありません。長い人生=幸せな人生とは言えないのです。中には長くて幸せな人生を送る人もいるかもしれませんが、短くても充実した人生を終える人もいるものです。その人の魂にふさわしい寿命というものがあるのです。ですから、生まれる前にもらってきた寿命が尽きると、人は健康であっても事故などによって死ぬこともあるのです。

そこで、残された人たちが後から振り返り、「あのときに別の行動をしていればあの人が事故で死ぬこともなかった」と思ったとしても、そういうわけにはいかないのです。生きていると、「~だったら」と人は思うものですが、それならそれをやり直せるのかというと、そうではありません。仮にやり直すことができたとしたら、この世界はとてつもなく複雑になってしまって、全く先に進めなくなってしまいます。

そこで、人は必ず死に、その寿命は決まっているということを前提に考えると、その中身をどのように生きるのかということが大切なのです。それについては生きる中身に自由が与えられているのですから、満足し納得して死ぬのか、それとも悔やんで未練の心で死ぬのか、全てはその人の裁量の中にあるのです。

死を迎えることは、人生の区切りをつけ、次のステージに行くことでもあるのですから、亡くなった人を見送る人たちは、死者に対して、「こうだったらよかった」「ああだったらよかった」と考えるだけでも、その人が次のステージに行くための後ろ髪を引くことになるのです。
生死の流れからすると、亡くなった人たちは必ず次へ行かなければいけないのです。ですから、そこでは未練を持つのではなく、その人との出会いから感情を入れずに学ぶことが大切なのです。学ぶことがその人の死を生かすことになるのです。
生きている者からすると、その人の生き様を見せてもらったのですから、「あの人はこう生きてこのような結果を迎えたのだから、自分はこのように生きていこう」と自らの生き方につなげ、学ぶことが、人の死を生かすことになるのです。どんな人の生き様であっても、それが殺人者であろうが、自殺した人でも、一つ一つの事例として残された人に見せてくれているのです。

よくある話として、余命3ヶ月と宣告されると、「どのようにその期間を過ごしたらいいのでしょうか?」という質問をご家族から受けることがあります。その時に僕が答えるのは、その人が亡くなっても、その人の生き様(人生経験)は残った人たちの中に生かせるということです。ですから、生きている間にその人を観察し、なぜ今のような状態になっているのかを理解した時に、その人の人生を自分も生きたと捉えることができるのです。
わたしたちは自分ひとり分の人生を歩んでいますが、縁の近い人の生き様は身近で赤裸々に見せてもらっているのですから、それを自分も経験したと同じように捉えることができるのです。ですから、そこから学び、自分のこれからの人生に生かすと、死は世代を超えて生き続けることになるのです。

さらに、亡くなった本人自身の学びが不十分だったとしても、残った人たちがその人の生き様から学び、生かしてくれたということになると、本人から悔やみがなくなって次への旅立ちの手助けにもなるのです。それは、死に対するいろいろな教えがあることも同じことです。そうやって、死を生かすと、死者は次にまた肉体をもらってくるときに、それが生かされて、そこでの悟りから次の段階のスタートが切れるのです。そのような捉え方をすると、死も生かされるのです。それが死者を見送る上で最も大切なことです。

今、僕が話していることは、亡くなった人に対して、お経をあげていることと同じことです。寿命を迎えいのちが尽きたことを悟りながら、その寿命が尽きたことの意味とその人の生き様を、死んで旅立っていく者もこれから生きていく者も共に学んで、次につなげ、生かすことができるのです。

世の中には、水子で亡くなった者に対して、実際にこの世界に生まれてきて生きていないにも関わらず、3歳の時には七五三でお祝いし、生きていたら小学生だからとランドセルを買ってお供えし、それから「あの子が生きていたら25歳になるから、お嫁さんをもらってあげましょう」とお人形までつくって飾るような風習もあるのです。これは迷いの世界です。これでは、情が、亡くなった魂を迷わせてしまうのです。
ですから、寿命が尽き旅立ったことに対して学ばせていただき、そして「ありがとう」と感謝の気持ちで見送ると、亡くなった魂もスムーズに次の輪廻に入ることができるのです。上にいる限り、魂のレベルは変わりません。ですから、肉体を持って生きている間に学び、次に生まれてくる時のために、今世の学びを生かし、自らの魂を進化させていくことが大切なのです。

そういった道を開くという意味でも、情ははさまずに見送ることが大切です。人間の感情や思考によって、魂のあり方は全て決まるのですから。昔は人の情が深く、宗教的なものに縛られる時代もありましたが、時代が進んできた今、新たな時代にふさわしいいのちの捉え方が必要なのです。

時代を振り返ってみると、お釈迦様の時代にお葬式はしませんでしたし、今の宗教が行っているような年忌を問うたり、お盆の供養などは全くありませんでした。お釈迦様は輪の中の空間に宇宙を観て、そしてこの世界は無常であると説きました。無常であるということは、感情や愛情を一切抜きにして、冷静に物事を観るということで、そこに空(くう)を観たのです。しかし、それが後に人々が生や死に対する未練を持つことによって、その未練を満たすためにお葬式をしたり、死者の年忌を問うことになったのですが、それは元々のお釈迦様の教えではないのです。

死は、亡くなった人との別れでもあり、ある意味その人とのそこからの新たな出会いでもあるのです。さらに、寿命が尽きてふさわしい旅立ちをするという意味で、死は神聖なことであり、生に対する当然の道なのです。死は次の道への旅立ちなのですから、本来は祝福とともに迎え、見送ることでもあるのです。ですから、最善の見送り方は、旅立つ人の死を生かし、残った人たちが明るく生きていくことです。そこで、いつまでも死を悲しむようでは、その死を生かすどころか、亡くなった魂の足を引っ張ることにもなってしまうのです。そのように死に対して囚われている人々は、真実とは逆さまに生きていることになります。

人は生きている時には「けど」「でも」と言いますが、これが一番心を汚すことになるのです。そして、人生の中ですでに起きてしまったことに対して、「本当は~だったら」と思うことがさらに迷いを深めることになります。たとえば、自分が宝くじを買ったのと同じ場所で他の人に一等が当たっていたとしたら、「あの時に宝くじを全て買い占めていたら一等が当たっていた」というような話も出てくるのです。ですから、「~だったら」という話ぐらい、道理に合わない話はありません。その時その時の事実しかないのですし、それが答えなのです。

この世界を観てみると、宇宙の構造自体が二度と同じところへは行きません。一日も、昨日と今日は宇宙空間的には違う場所にあるのです。春・夏・秋・冬と一年は過ぎていきますが、昨年の春と今年の春は、空間的にも時間的にも違うのです。ですから、宇宙空間では常に先へと進んでいるのです。そうやって、亡くなった人も次のステージへと入っていくのです。

実際に、肉体も火葬にすれば灰になり、それは炭素や窒素になって空気中に漂い、いずれ植物に吸われ、動物に食べられ、そしてまたいのちとして巡ってくるのです。このように、わたしたちのいのちを地球生態系という、もっと大きな生命として捉えていくこともできるのです。そうすると、わたしたちの存在は、大きないのちの中の新陳代謝の一つにしかすぎないのです。

ですから、この世界に死はありません。ただ、形を変え、つながっていくだけなのです。今回の人生が終わったからといって、その魂の旅が終わったわけではないのです。いのちを束ねる魂というものがあるとしたら、肉体の中に魂がある限り、その形態のいのちはあり続けます。そして、その肉体から魂が抜けると、肉体という有機物はそこで束ねる縁がなくなり、時間の経過と共に自然に還っていくのです。つまり、その人を形成していた魂はあり続けるのですが、それはこの世界ではなく異次元世界にいて、そしてまたこの世界に生まれて来て、学びを積み重ねていくのです。

その仕組みを13000年前の上古代カタカムナ的視点で観てみると、この世界は、「見える世界」と「見えない世界」からなる「現象界」と、そのさらに奥にある「潜象界」で成り立っているのですが、普通の人は死ぬと見えない世界に行きます。
見えない世界とは、心や魂が存在する世界です。通常、わたしたちの魂は見える世界と見えない世界を行ったり来たりするのですが、その魂がこの世界の仕組みを悟ると、その奥にある潜象界に還っていくのです。そこは、お釈迦様の言われる悟りの世界であり、現象界の奥には潜象界という「ない世界」があるのです。
それに対し、「ある世界」は見える世界と見えない世界を行ったり来たりする現象界を指します。

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死を迎え、肉体の衣服を脱いだ先は、見えない世界で魂として存在しています。ただ、それでも「ある世界」にいるので、見える世界と見えない世界を行ったり来たりしています。それを繰り返しながら、学びを積み重ね、「ある世界」の仕組みを悟ると、今度は「ある世界」と「ない世界」を行ったり来たりすることができるようになるのです。神は「ない世界」に存在します。そして、「ない世界」へ行くためには、一切の情がなくならないといけません。ですから、人間もいずれ「ない世界」へ行き、この世界の単なる原料に還っていくのです。

そこでの「ない世界」というのは、ないけど、「ある」を包含しているのです。そこには何があるのかというと、現象界を創るための響きがあるのです。聖書でも、「はじめに言葉ありき」と表現され、想いだけがあり、それは響きなのです。
響きという音の思念があるだけですから、潜象界にはたとえば「ア」という音と「イ」という音がそれぞれ存在しているのです。音には全て意味があるのですが、それはこの世界を創る素材であって、それがこの現象界に現れてきて、「ア」と「イ」が縁があってつながると、「アイ」になるのです。それは、一人ひとりの人間の魂についても同じことです。たとえば「アイ」という魂をバラバラにして潜象界に送ると、「ア」と「イ」の響きだけになって、それは「ない世界」の状態です。そして、そこに縁が生じ、現象界に現れると「アイ」という魂になり、「アイ」という人生(現象)が表現されるのです。

このように、この世界に存在するものに死はないのです。それは、宇宙のはじまりから現在に至るまで縁とともに巡り続けているだけのことであり、これからもあり続けるのです。

こうしたいのちの仕組みを人々が理解するようになるのが、21世紀です。そうすると、なぜ生きているのか、生きるとはどういうことなのか、死ぬとはどういうことなのかを人々は紐解くことができるのです。そして、そういった真実に目覚めると、生きている意味を実感しながら生きていくことができるのです。

それが本来の人間の姿であり、わたしたちのいのちが存在する目的なのです。

 

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私たちの生きる宇宙の仕組みをひも解く「カタカムナ研究会」が、毎月木の花ファミリーにて開催されています。この世界のカラクリを知り、誰もが“うれしたのし”と生きていく新しい時代への入口が、ここにあります。どなたさまもどうぞお越しください!

次回開催予定

【日時】
集合:2015年11月9日(月)

11:05 JR身延線「西富士宮」駅 又は 10:51 富士急行「大石寺」バス停(送迎あり)
お車の方は11:30までに木の花ファミリーおひさまハウスひまわりへ直接お越し下さい
解散:2015年11月10日(火) 昼食後(送迎あり)

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【会場】
木の花ファミリー(地図はこちら
静岡県富士宮市猫沢238−1

【定員】
15名

【参加費】
8,640円
(1泊2日、宿泊・お食事・送迎・保険料・税込み)

日帰り参加の場合:1日につき3,240円
(お食事別途)

*同性の方との相部屋をお願いする場合がございます。
*オプションにて、木の花ファミリーの施設見学やプレゼンテーションのご提供も可能です。

【詳細とお申し込み】
下記リンク先よりどうぞ!

カタカムナ研究会のご案内

 


地球談話を実践する人々 ~ムルンくんといさどんの対談~

2015年9月10日、内モンゴル出身の27歳のムルンくんといさどんが対談する時間がもたれました。中央大学で経済学を学ぶムルンくんは、「日本古代文明を学びたい」ということで8月に開催されたカタカムナ研究会に参加し、今回木の花ファミリーを訪れるのは2回目となります。対談の場には、木の花ファミリーで長期滞在しながら、「希望の光プロジェクト」「大人サミット」を企画している36歳のあわちゃんも同席していました。

*「地球談話」はこちらをご覧ください。

■     ■     ■     ■

いさどん:
21世紀に入り、わたしたちは今、いくつもの大いなるターニングポイントを迎えています。その一つとして、250年前のヨーロッパ産業革命以降の物理・科学を発展させてきた時代から、物理・科学の奥にあるものを探求していく時代に入りました。それは、先日あなたが学んだカタカムナ的宇宙観もその一つですし、自然や宇宙の奥にある意志(法則)もその一つです。そこには秩序があり、その秩序のもとにわたしたち人類は今という時代を迎えて生きているのです。
そうすると、人間の存在する目的は自分たちにとって都合の良い世界を創ることではなく、この世界の意志と共に全ての生命を意識し、その豊かなネットワークに貢献し続けることが真の在り方なのです。ですから、わたしたちを取り巻く自然や地球の声を聞き、その意志を受けてこの世界に反映していくことが大切なのです。モンゴルの血を受け継いだ人たちは本来皆シャーマンなのだとあなたは語っていましたが、人間というものは本来皆そういった存在なのです。

ムルン:
そうですよね!

宮ノ下でお祈りをするムルンくん
宮ノ下での祈りの儀式

いさどん:
今朝、あなたは木の花ファミリーの聖地である宮ノ下で祈りの儀式を行っていましたが、あのような行為は物理的な発展が目的の人たちからすると、迷信的で意味がないことだと受け取られるかもしれません。しかし、実はあのような行為や精神性こそがこの世界の意志(法則)に通じ、この世界を動かしているのです。
2012年12月21日の銀河の冬至を迎え、東洋的精神文明が開花していくサイクルに入った今、人々が新たな時代の真実に目覚めていく時が訪れたのです。あの土地から北東の方角に富士山があり、北東の方角は艮(うしとら)と呼ばれ、地球神が存在する方角なのです。ですから、その方角に富士山があるということは重要な意味があるのです。あの聖地は、天とつながるための祭典を行う場所です。2014年から毎年7月26日に富士山麓でも開催されるようになったマヤの新年の式典も、あの聖地で執り行われています。

ムルン:
来年はぜひその式典にも参加させていただきたいですね!本来、富士山は聖なる山なのですから、あれほど多くの人たちが登ってはいけないのです。

いさどん:
そうですね。富士登山は本来、そういった精神を持っている人々が自らと対話し、天の意志を降ろすためにあったのです。日本では昔、修験道と呼ばれる信仰を持つ人たちが山にこもって厳しい修行を行い、それは悟りを得るためのものでした。今、沢山の人たちが富士山に毎年登りますが、そこで大切なことに気付くきっかけになれば、それはそれでいいのです。ところが、単なる観光で終わってしまう人がほとんどです。

ムルン:
今の時代の人たちは本来の在り方を忘れ、欲望のままに思い切り走っているのです。しかし、そういった価値観がちょうど今転換期を迎え、母なる大自然が人々を目覚めさせようとしています。それが自然災害となって今地球上で頻繁に起きており、こういったことは今後ますます多くなっていくことでしょう。

いさどん:
そうですね。自然災害は単なる自然現象ではなく、人間の在り方を転換させるための自然からの意志表示とも受け取れますね。

ムルン:
そして、人々が目覚めた後に必要とされる社会モデルとして、木の花ファミリーはその仕組みをすでに確立しているのです。モンゴルの先生から聞いた話なのですが、木の花ファミリーのような自然と調和した生き方は地球のためでもあり、太陽系のためでもあり、宇宙からの指令でもあるのです。

いさどん:
宇宙が指令を降ろしても、それを人間がスムーズに受け取らないと、最終的には痛みを伴ったメッセージ(自然災害などの災難)が与えられるようになります。

ムルン:
僕にはそれが観えています。なぜなら人間たちはこれほどメッセージを与えられても、全く聞く耳を持たないのです。僕がこういう話を始めると、人々は経済の話を持ち出します。確かにご飯を食べることは現実問題必要なのですが、このような話は別次元のことなので、ご飯を食べることと対等にしてはいけないのです。

いさどん:
それは、生きることに対する意識を転換しないと理解出来ない世界ですね。

ムルン:
そうですね。やはりその主な原因は、250年前にイギリスから始まった工業文明です。人々はその文明が始まる前は自然と調和した暮らしをしていました。ところが、産業革命以降、西洋的物質文明が世界中に広まり、自然とのつながりが徐々に切れていったのです。欧米人には、神様が創ったものを自分たちの手で創るという考えがあったのです。彼らは自然の法則も知っていると思うのですが、それに反した物質文明をどんどん発展させていきました。

いさどん:
そこで神様の創ったものを自分たちの手で創ると考えた時に、神様の代理で創っているという意識があればいいのです。ところが、神様の存在を抜きにして、自分たちで出来るという意識になってしまったところから、地球上に様々な矛盾をもたらすようになってきました。それは、自然の仕組み(天の意志)と人間の活動が完全に遊離してしまった状態です。ですから、「天地」の「地」だけで生きている状態なのです。人間の能力はたいへん優れていますが、その物理・科学の極みは軍事力であり、核爆弾はこの世界に矛盾として存在しています。

ムルン:
その軍事力で破壊されるのは、自然です。僕にはその自然の悲鳴が聞こえるのです。

いさどん:
仮に軍事力で破壊されなくても、場合によってはこれを使用して戦うぞという意志が地球上にあるだけでも、地球の魂はずいぶん傷つけられるのです。それだけ対立の波動は地球上に蔓延しているのです。実際に戦争を起こさなくても、人間が欲望のもとに物を大量消費することも、そしてそういったものをゴミとして大量に廃棄することも、同じように自然のバランスを壊す行為となります。地球という生命の循環ネットワークは優しいものなのですから、常にそれをイメージしながら、他者に対しても地球に対しても優しい日々を生きていくことが重要なのです。

今朝、あなたは宮ノ下で富士山に向かって両手を広げて大いなるものと対話していましたね。

ムルン:
はい。

いさどん:
あの精神を持って科学が発展していったら、物理・科学ももっと優しいものになるはずです。もっとも、その精神を持っていれば、物理・科学はそれほど必要なくなるのです。そして、そこではさらに優れたものが現れてきます。

ムルン:
そうなのです!産業革命以降、今まで科学がこの世界をリードしてきましたが、これからの時代はこうした精神性が世界をリードしていくことになると思うのです。

いさどん:
天に向かって両手を広げ、天と共に生きることの喜びや感謝の気持ちを持って日々を生きるという精神からしたら、今の人類の在り方は天を全く意識しないで下だけを見て、損得勘定だけのネットワークになっています。それは対立の波動を地球にもたらすことになるので、そのことに対して地球や太陽系、そして宇宙自身がNOと言っているのです。現実に今、金融システムのようなバーチャルな世界でお金を動かすだけで儲かるような仕組みはおかしいでしょう?

ムルン:
そうですね。

いさどん:
今、そういった仕組みが転換する時を迎えているので、経済学を勉強している意識ある若い人は今の経済の在り方を変だと思うのです。

ムルン:
そうなのです!僕が今勉強しているのは貨幣経済ですが、それは本当の経済学ではないのです。本当の経済は、政治よりも政治で、哲学よりも哲学なのです。しかし、今の経済は人間がただお金をまわしている行為にしか過ぎず、それでは経済と言えないのです。

いさどん:
お金をまわすことは循環という意味ではいいのですが、そこで問題なのはお金をまわしながら奪い合っている世界です。

ムルン:
そうですね。お金を持っている一部の人たちが儲かっている状態です。

いさどん:
お金は本来、わたしたちの体で言うと血液のようなものであり、社会の生命の流れなのです。そうすると、わたしたちの体で言えば、血液は末端まで行き渡って、綺麗に循環し、どこか一箇所に留まっていない状態が健康なのです。ところが、今の社会では一部の優秀な人たちがお金儲けをすると皆の憧れの的にもなるのですが、それと同じことがわたしたちの体で起きたら、動脈硬化のような病気の症状と同じことになります。

ムルン:
そうですね。リーマンショックも同じことですね。

いさどん:
ですから、今の社会は体で言えば生活習慣病が悪化してひどい病気の状態に皆が憧れていることになります。これほどの矛盾はないのですが、これほどわかりやすい話をしてもまだわからない人たちが世の中には沢山いるのです。これはとてもわかりやすい話でしょう?

ムルン:
はい。だからこそ、僕たちはカタカムナのような古代の叡智を学ぶ必要があると思うのです。カタカムナには物理学と天文学、それから哲学も含まれていますね。

いさどん:
カタカムナはこの世界をマクロにもミクロにも分析できるのです。カタカムナは宇宙物理学と言われていますが、わたしたちの細胞や素粒子よりももっと微細な仕組みを示しているのです。さらに、わたしたちが今まで認識していなかった現象界の奥にある潜象界の存在まで示しているのです。

ムルン:
実は、現代科学が探求しようとしているのは、まさにカタカムナのような世界なのです。ただ、カタカムナの時代の人々はその世界を脳の中に持っていたのですが、現代の人たちはその世界を全て物理的に創ろうとしていると思うのです。

いさどん:
今の人たちもそれを脳の中に持ってはいるのですが、その能力を休めているだけなのです。

ムルン:
そして、それを脳の中ではなく、その優れた能力を物理的探求に偏って外の世界で使っているから、地球にとって大変なゴミを生み出すことになっています。

いさどん:
そこで、現代物理・科学の恩恵をもって人々の営みがこれほど多くの矛盾を地球上にもたらしている今、これまでの人類の在り方を転換する時が訪れているのです。だからこそ、あなたのような人が生まれてきたのであり、木の花ファミリーのような生き方が現れてきたのです。

ムルン:
ある意味、今は東洋文明と西洋文明の切り替え時にありますよね。この切り替え時には、日本という国が非常に重要な役割を果たすのです。これから東洋的精神文明の時代が始まっていくという意味では、僕は中国という国、それから習近平をとても応援しているのです。今、政治闘争をしている習近平が今後どのような行動を取るのかを僕は注目しています。後2年ぐらいでその闘争は終わるだろうと僕は観ています。その時に、習近平がどのようなクニツクリをするのかに僕はある意味期待しているのです。
僕がなぜ彼を評価しているのかというと、彼は伝統的な文化が大好きなのです。彼は昔の中国の本を読むそうですが、彼には東洋という夢があるのだと僕はいろいろなものからそれを感じたのです。もちろん僕にも東洋という夢があり、東洋にはもう一度世界を良い方向へ導く役割があると思うのです。

いさどん:
それは木の花ファミリーでよく語られている「文明周期説」でも説明されています。ヨーロッパ産業革命以降の250年間で西洋文明は栄え、そして終焉を迎え、これからは東洋文明がそれを引き継いでいく流れなのです。その中で日本と中国はとても重要な役割を果たすことになるでしょう。

名称未設定

ムルン:
地球の歴史においても、これからの日中関係は大事なものになっていくと感じています。しかし、今の中国はダメですね。習近平が東洋という夢を実現し、本格的にクニツクリに取り組むようになってから、日本と中国が連携していくことが重要なのです。それは地球に対しての大きな貢献となることでしょう。

いさどん:
日本は70年前に侵略戦争をしたでしょう。あの戦争は、僕は侵略戦争だと思うのです。しかし、その侵略戦争のもう一つの目的は大東亜共栄圏という、今でいうEUのような国家共同体をアジアに創ることだったのです。あれから70年の時を経て、東洋的精神文明が花開く時代がこれから始まろうとしている今、中国と日本、そしてもちろん北朝鮮や韓国も含めてこの東アジアの国々が地球上の理想国家のモデルになると観ています。それが、僕が昨年中国から訪問されたグリーンビルディングの人たちに伝えたことです。

ムルン:
先程テレビのニュースで自然災害が取り上げられていましたが、あのような災害が今、皆の目の前で起きています。それが東洋文明を求める始まりなのです。今、まさにそれが激しく始まっているのです。

いさどん:
あなたと話していると、今わたしたちが発信していることに対してあなたがそれを聞いて反応しているのではなく、わたしたちが発信しようとしているものの奥にはあるビジョンがあるのですが、その同じビジョンをあなたはすでに持っていることがわかります。ですから、これは一つの源から降りてきた同じビジョンを、地球上の色々なところから色々な世代が発信しようとしている世界的な動きの現れですね。

ムルン:
そうですね。昨日僕は木の花ファミリーの皆さんと話をしていたら、木の花ファミリーのようなライフスタイルがこれからどんどん世界に広まっていくビジョンが一瞬にして浮かんだのです。そこで、僕は木の花ファミリーで政治・経済の研究所を創ってほしいのです。そして、その研究所を創ることによって、世界中の人々がもっとここに集まってくるようになるのです。

いさどん:
それはきっと、わたしたちが単独で創るというより、あなたのような特に若い世代の人たちが中心になって進め、ネットワークしていく中で世界に広がっていくものだと思うのです。当然、わたしたちも実践しているその一つの事例として重要なポジションにあるのでしょう。それは、今までの物質至上主義の社会から、新たな時代のライフスタイルの提案という意味で、国際的な動きとしてそのような研究所を立ち上げていったら面白いと思うのです。

あなたは、これから世界人として人類の目覚めのために貢献していく役割を確認するために、きっとわたしたちと出会ったのでしょう。

ムルン:
そうですね。僕は先祖のおかげで自分の使命を知ることが出来ました。6年の修行を経て、僕をこの道に導いてくれたのは全て先祖のおかげなのです。大昔、僕の先祖たちはモンゴルの歴史に関わるような立派な人でした。しかし、今の時代は才能を持ちながらも、何をしたらいいのかわからない人たちが沢山いるのです。また、木の花ファミリーの生活スタイルのもとになる精神性は本当に大切なものなのですが、今の世の中にはそれを説明する仕組みがまだ確立されていないのです。ですから、それを政治・経済・社会の分野において、学術的に伝えていくことが求められると思うのです。

いさどん:
僕があなたの話を聞きながらイメージしていたのは、たとえばモンゴルだったら遊牧という形で自然と動物と人間という循環の中にその精神があるのです。それは宇宙の星と星の関係や地球生態系ネットワークと何も矛盾していません。日本であれば、農耕という形で自然と人間、そして畑や田んぼという循環の中にその精神が存在しています。それは当然、ネイティブアメリカンやインカの人たち、そしてイヌイットの人たちの中にも存在しています。そのような人たちの生き方が持続可能であることの延長に、人々の価値観が変われば、いつでも精神性豊かな世界が現れるのです。

今まで人類が探求してきた歩みはある意味実験でもあったのです。ですから、人類の叡智として科学が探求されてきたことは間違いではありませんでした。ただ、西洋的物理・科学・テクノロジーが進化していった結果、人間は高い物理的能力を得ましたが、その代わりに天や自然を忘れ人間の欲望が一方的に暴走していったのです。ですから、天と共に対話しながら行うべきところを、人智だけで考え進めるようになってしまったのです。そして、人類はとても能力が高く優秀だと錯覚してしまったのですが、それは世界に持続可能な在り方をもたらしませんでした。その結果、傲慢な人間の姿勢として様々な問題を地球上にもたらしてきたのです。持続可能ではない豊かさをいくら追求しても、それはいずれ崩壊を迎えるのです。

いくつもの大いなるターニングポイントを迎えた今、人類は広い世界観を持って天と共に対話しながら、これからどのように地球を運営していくのかを考える時が来ているのです。地球は星と星の関係で成り立っているのですから、これから明らかに人類は精神的にも物理的にも宇宙を意識していく時代に入ります。その段階では、わたしたち人類は宇宙をどのように考え運営していくのかという時代に移行していくのです。

ムルン:
今、一人ひとりが選択を迫られる時が来ているのです。その時に、木の花ファミリーはすでに新たな時代のモデルを確立しているのですから、一般の人たちが見てもわかるような仕組みを示していく必要があるのです。

いさどん:
一般の人たちが見てもわかるということは、一般の人たちがここを訪れた時に、ここの人たちが普通に暮らしているのに、平等であり、将来に対して何も不安がない生活を送っているということです。それは政治・経済・教育・医療・福祉のみならず、子育てにおいても見本になると思います。

ムルン:
ここの生活の中の全てがこれからの時代の見本になると思います!ここの皆はそのことを生活の中で実践している人たちであり、学者の役割はそれを理論化して世の中に発信することです。これから人類が生きる方向性を選択していく時に、人類にとってその転換がスムーズに行われるように、僕はこうした活動をしていきたいのです。

いさどん:
ちょうど3日前にある大学で講演をしてきたのですが、そこに参加していた人たちは現状に問題を感じながらも、その代替案を持っていなかったのです。ところが、木の花ファミリーと出会ったことによって代替案があることがわかったのです。木の花ファミリーの生活は今の社会にとって必要な大事な仕組みを全て網羅しているのです。

曼荼羅

ムルン:
この仕組みの名前は何ですか?

いさどん:
わたしたちは「天然循環ライフスタイル」と呼んでいます。

ムルン:
これに先程僕が提案した政治・経済研究所を入れてほしいですね。

いさどん:
政治を司る人たちはこの中心にいて、「菩薩の里」の精神性のもとにこういった活動を運営していくということです。経済は本来、お金儲けのためにあるのではなく、中国の古典に「経世済民」という言葉が登場するように、「世を経(おさ)めて民を済(すく)う」ことなのです。つまり、経済は世のため人のためということであり、世の中を正しく治めるものなのです。

ムルン:
それが本来の経済なのです。しかし、今の経済は全く違います。

いさどん:
今の経済や政治は主義・主張をベースにして対立し、自分たちの都合の良い世界を創るものになっています。

ムルン:
僕が思うのは、僕たち人間はこの現代社会をもっと分析する必要があるということです。まだまだ現代社会の分析が足りないと思うのです。木の花ファミリーでは人としての正しい生き方を見つけ、21年間実践してきたと思うのですが、その上に現代社会の分析をすることによって、現代社会の問題がもっと明らかになると思うのです。

あわちゃん:
11月21日から23日にかけてこの生き方に賛同する人たちが集まって「大人サミット」というものが開催されるのです。その中で産業革命以降の歴史を分析し、これからどういうモデルが人類にとって必要なのかを考える場を持ちます。

いさどん:
彼はその大人サミットの企画リーダーです。

あわちゃん:
僕も政治経済学部出身なので、ムルンくんやいさどんの言うことはよくわかります。

いさどん:
そういう意味であなたたちはとても重要な役割をこれから担っていくと思います。彼は木の花ファミリーのメンバーではありませんが、木の花ファミリーメンバーというのはファミリーの中にいてファミリーのために生きる人なのではなく、次の時代を開き地球の未来を創っていく人のことなのです。ですから、外の人たちがこのようなイベントを企画して、わたしたちはその一つのモデルとしてつながり、共に発信していくことが大切だと思うのです。

ムルン:
これから世界中の人材が集まってきますからね。そして集まってくる人たちは、心の壁がなく、言葉で説明しなくても心が通じ合って交流できる人たちなのです。

いさどん:
最近、特に中国や台湾の人たちが木の花ファミリーの生き方を学びに訪れます。本来、共同で暮らすということは、近代においては共産主義が始まりだったはずなのですが、共産主義の人たちは今、そのような精神をすっかり忘れてしまっているのです。しかし、原始共産主義とは元々そういうものだったのです。

ムルン:
共産主義にはその部分は入っています。

いさどん:
ですから、ここはある意味理想の共産主義社会なのです。ただ、ここの共産主義には、古代カタカムナの精神も含まれているのです。

ムルン:
共産主義はある意味人が考えて創ったものだと僕は思うのですが、木の花ファミリーの生き方は違うのです。それは、もっと奥にあるものによって成り立っている世界なのです。それは大きな違いです。

いさどん:
あなたは本当によく理解していますね。共産主義には産業の「産」がついているように、人間がより良い世界を創るにはどうしたらいいかと考えて創られた仕組みなのです。しかし、わたしたちがここで実践していることは宇宙・銀河・太陽系・地球の姿を生活(生きること)に表現することであり、それは全てネットワークしているのです。ですから、これからの時代はそのネットワークを理解したものたちが、そのネットワークの法に沿って地球上でその生命ネットワークに貢献していく豊かさを追求する時代なのです。

ムルン:
僕には木の花ファミリーで使用されているこうした貴重な資料が文章化され、本として出版されるビジョンが観えているのです。そして、人々はこの資料を通じてというより、その仕組みを通じて理解していくのです。それは、新たな時代への鍵がその仕組みを通じて紐解かれるということです。そのためには木の花ファミリーメンバー一人ひとりが研究者となっていくことが大切なのです。

いさどん:
木の花の人たちの研究所は、日々の生活です。

ムルン:
ここで暮らしている人たちはそれが普通のことだと思っているのです。しかし、外の世界の人たちからすると、この生活は大いなるチャレンジなのです。

いさどん:
その仕組みは、わたしたちが中で役割を果たすことと、たとえばあなたやあわちゃんのような人たちがネットワークしていくことで成立するものです。

ムルン:
僕としては、すでに木の花ファミリーの一員となって共に活動していくつもりでいます。

いさどん:
皆が地球人としての意識を持ったら、地球は一つなのですから、皆家族なのです。そのような意識を持った人たちがネットワークすれば、さらに宇宙人としての意識まで到達することが出来るでしょう。

そして、日本の富士山麓だけにこのようなモデルがあるのではなく、いずれ世界中の聖地から叡智が噴き出していくイメージが僕にはあります。さらに、地球上にいる人間が目覚めると、人間一人ひとりが聖地になり、叡智が噴き出す場になるのです。人類が人として生きる真の意味を理解するきっかけとして、わたしたちはこの生活を通して一人ひとりの心に光を灯しているのです。そして、そういった人たちが沢山現れ、ネットワークすると、大きな美しい光になるのです。地球が光のネットワークで包まれていくことを願って、これからも共に活動していきましょう。

ムルン:
もちろんです!いずれ、ここには世界中の先住民族の智慧が集まってくることでしょう。今日は大切なお時間をありがとうございました。

いさどん:
こちらこそありがとうございました。また共に語り合う場を持ちましょう。

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10月31日(土)・11月1日(日)、
ムルンくん企画による下記のイベントを開催します。

古代日本と遊牧民族の叡智が融合し、未来を創造する
〜 モンゴルの草原から来た青年の吹き起こす風 〜
第一章「大地」

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ムルンくんといさどんが、私たち地球生命にとって「大地」とは何か、地球とは何かを宇宙スケールで語り合い、現代の人々が忘れている大地との絆を呼び覚まします。
そして参加者の皆さんとともに未来社会のあるべき姿を描き、行き詰まった現代社会の突破口を開いて希望ある次世代の生き方を地球上に実現します!

【日時】
集合:2015年10月31日(土)
11:05 JR身延線「西富士宮」駅 又は 10:51 富士急行「大石寺」バス停(送迎あり)
お車の方は11:30までに木の花ファミリーおひさまハウスひまわりへ直接お越し下さい。
解散:2015年11月1日(日)13:30頃(駅・バス停まで送迎あり)

【会場】
木の花ファミリー
〒419-0302 静岡県富士宮市猫沢238-1

【主催】
NPO法人ぐりーんぐらす
*木の花ファミリーとの連携のもと様々な社会貢献事業を行っているNPO法人です。

【内容】
■ モンゴルの大草原出身のムルンくん、木の花ファミリー創設者いさどんによる「大地」をテーマとした講演。古から伝わるそれぞれの文化を切り口に宇宙スケールで語ります!
■ 私たちの中に眠っている心を呼び覚ます木の花楽団コンサート。
ムルンくんによるホーミー、カタカムナ63首の舞他。
■ 参加者座談会
*2日目の昼食は、木の花茶会のスペシャルメニューを召し上がっていただきます。

【定員】
30名
*先着順です。お申し込みはお早めにどうぞ。
*ご宿泊は20名までとなります。

【対象】
基本的に世の中の全ての方々

【参加費】
ご宿泊 8,500円
(1泊2日の宿泊やお食事、最寄り駅・バス停への送迎、保険代、消費税を含みます。)
日帰り 3,000円
(お食事と消費税を含みます。送迎が必要な場合は別途500円をいただきます。)

【スケジュール】(当日の様子にあわせた変更あり)
unnamed■ 1日目
—11:30:木の花ファミリー集合・受付け
—12:00-14:00:お食事・休憩
—14:00-17:00:講演
—17:00-18:30:入浴・フリータイム
—18:30-19:15:お食事
—20:00-21:00:コンサート
—21:30:木の花ファミリーの大人会議
*自由参加
■ 2日目
—08:00-10:45:座談会
—11:00-13:00:お食事 *木の花茶会
—13:30頃:解散(JR身延線・西富士宮駅または大石寺バス停へ送迎あり)

【お申し込み】
下記リンク先よりお申し込みください。
「モンゴルから来た青年の吹き起こす風」お申し込みフォーム

【お問い合わせ】
NPO法人ぐりーんぐらす
TEL:0544-67-0485 FAX:0544-66-0810
E-mail:info★npo-greengrass.org(担当:永山)
★を@に変えてください。

ご不明な点は、どうぞお気軽にご連絡ください。

ムルンくんは、このイベントへの想いを下記の詩に表現しています。

ムルンの詩2

地球の未来を創造するこの歴史的なイベントへ、
皆さまのご参加をお待ちしています!

 

→ イベント詳細はこちら

 

 


宇宙から一人ひとりにオリジナルな人生が託されている

2015年マヤ新年の日、地球に祈りのウェーブを巻き起こす式典の中で、いさどんは次のように語りました。

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■     ■     ■     ■

今日2015年7月26日、マヤの新年・11MENの祭典に立ち合わせていただきました。そしてその最中に、ひとつの文字が浮かんできました。それは、「時(トキ)」という文字です。マヤ暦はおよそ20000年前から始まりました。その歴史をたどれば、今わたしたちはカタカムナを学んでいますが、そのカタカムナ以前に太平洋という地球上で一番大きな海にムー大陸があったそうです。そのムー大陸が消滅したとき、時(トキ)の文明を東に移し、マヤの文明にしたのです。そして、言魂の文明を西に移し、ユーラシア大陸の端に存在していたヤマトの国に移したのです。それから13000年の時を経て、一昨年、わたしたちはそれをカタカムナの学びとして出会いました。そして昨年から、メキシコの太陽マヤ族最高司祭の尊母ナー・キン氏との出会いにより、このヤマトの地で、マヤの新年の祭典が行われるようになったのです。

歴史を振り返ってみますと、2012年12月21日に25800年ぶりの銀河の冬至を迎えました。わたしたちの地球にも冬至はありますが、冬至とは光がもっとも少ない闇のピークのことです。わたしたちは太陽の生命エネルギーをもとにして、地球上で生命活動を行っています。そして、全ての生命が自分という個性をいただいて、時代を紡いでいるのです。その太陽の一螺旋である25800年ぶりの銀河の冬至が2012年12月21日に訪れ、この日を持ってマヤ暦は終わっています。それは、時(トキ)の文明を継承したマヤの人たちが、太古の昔にそういった宇宙の仕組みや太陽の構造を理解していたということです。

これまで、わたしたちは新たな時代を迎えるための心の準備をしてきました。一人ひとりが自らの個性的な心の歴史を知って、カルマを読み解き、そして新たな心とともに新たな時代を迎える準備をしてきたのです。それが木の花ファミリーの21年の歴史です。

そしてくしくも、新たな時代の扉を開けることになった4年前の東北の震災3.11を持って、わたしたちは地球暦に出会ったのです。地球暦に出会って、わたしたちは自分個人を生きているのではなく、星々の対話を受けて、宇宙の意志を一人ひとりの人生に表現していることがわかってきました。

こうした様々な出会いのもとに、今日2015年7月26日、わたしたちはこの富士山麓の地で地球一周の始まりとしてマヤの新年の祭典を迎えています。この祭典はヤマトの国・日本で始まり、そして24時間かけて地球を一周していくのです。

イメージしてください。宇宙を意識した人々の心が羽ばたくようにウェーブとなって、地球を一周するのです。つまり、地球は丸く、時代は途切れることなく永遠に紡がれながら、わたしたちはひとつの世界を生きているのです。

地球上にはまだまだたくさんの争いや様々な困難がありますが、これは人間以外のものが創ったものではありません。それは、人間が自我を自らのためだけに活かそうとして生きてきた結果なのです。それも、それほど長い期間のことではありません。時をさかのぼれば、およそ250年前のヨーロッパ産業革命以降のことでしょう。さらにもう少しさかのぼれば、800年、1600年くらい前のことでしょう。それ以前、人間は自然とともに生かされ、生命ネットワークの中の役割のひとつとして他の生命とともに繁栄していました。

今、この時を迎え、人間の中で自我が沸騰しています。しかし、これは悪いことなのでしょうか。

それは決してそうではありません。人間の可能性と高い能力を知るためには、思い切りその能力を表現する必要があったのです。そして現実にそれを表現したときに、その問題点も噴き出してきました。それが今の時代です。今、それをコントロールする時(トキ)が訪れ、そして自らのカルマを表現する言魂によってコントロールしていく時代になったのです。今、トキとトコロ、マヤとヤマトが出会って、この祭典につながったのです。

そのように考えますと、わたしたちは自分でわかっている範囲で生きているわけではないのです。星の対話によって時代が刻まれているのであり、それは宇宙の仕組みで生きているのです。その仕組みの中で、わたしたちは常に変化・変容・変態を繰り返しながら進化しているのです。

そういったことをイメージしながら、調和の世界を地球上に表現していきましょう。わたしたち人類は、非常に優れた能力と大きな影響力を持っています。人類が目覚めたら、次の時代にはきっと、この地球生命、さらに宇宙に大きな貢献をするような魂となって育っていく姿がイメージできます。

時代は21世紀に入り、ようやくそのような時代になったのです。2012年の銀河の冬至を迎え、新たな扉が開き、2013年・2014年・2015年と3年間その変化の準備期間をいただいて、2015年はその最後の年です。この新年が明けると、いよいよ新たな時の流れを世界中の人々が感じるようになり、人類も地球自身も新たな宇宙時代を迎えるのです。

それぞれの歩みがあるとしたならば、木の花ファミリーは世界に先駆けてそのことに気付き、目覚めたものとしてこの生活を通して表現するものなのです。これは今後の木の花ファミリーの生き方にますます反映され、そして宇宙を通し、地球ネットワークを通して、全世界に広がっていくものだと確信しています。今日のこの快晴は、天がそのような意志を示されていると感じながら、皆さんとともにその自覚を持って歩んでいきたいと思っています。

木の花の歩みが始まったのが21年前だとしたら、やっと今、時が追いついたのです。人は土星の30年のサイクルで生きていますが、最初の30年で自らが何者かを知ります。そして自らが何者かがわかったら、次の30年でそれを人生に表現するのです。そして、60年でその結果をいただき、その後旅立つための仕上げの準備をするのです。木の花ファミリーの20年から30年に向けての今後の10年間は、きっと新たな時代を紡いでいく大きな役割を果たしていくのでしょう。

そういった意味で、わたしたちは宇宙を生き、時を生き、時代を刻んでいるのです。その中のトコロという場にわたしたちの存在があるのです。ですから、心をしっかりと観て、宇宙・トキ・トコロを意識しながら生きていくことが、生命として、そして大きな役割をいただいている人間としての目的なのだと感じています。

それは、宇宙から一人ひとりにオリジナルな人生を託されているのです。そして、人々は自我から解放され、この世界のために天の意志をいただいて生きていく時代に入ったのです。それは、価値ある素晴らしい人生です。自分のことは自らで責任を持ち、高い意識で歩んでいきましょう。そして、地球上にみろくの世を実現させましょう。皆さん、これからもよろしくお願いします。

一人ひとりにオリジナルな人生が託されている
一人ひとりにオリジナルな人生が託されている

 

 


いつか死を迎えるときに

人はいつか、必ず死ぬものです。そして、その時は今回生きたことに対する清算をする時でもあるのです。そのときにその結果をどう受け取るのか、ということを木の花ファミリーでは一番大切にしています。これは、私たちにとっては当然のことですが、全ての人が生きる上でもっとも大切なことと言えるでしょう。

過去の歴史を振り返ってみると、どのような宗教であっても、そのことを最も大切にしてきたはずなのです。そして、そのことに目覚め気付いたものたちは、そこを大事にしてきたはずです。だからこそ、本当を目指すものたちは日常から意識を離し、取り組んできたはずなのです。

ところが、それが宗教化されてきたがために、その肝心なところを失い、社会にごまをすって理解されようとするような、もしくは社会に認められるために媚びを売る損得勘定で成り立つようなあり方に変わってきています。そして、その探究の目的は、自らを高めていくのではなく、自らの願いが叶う現実化に重きを置くようになったのです。

そこで、私たちが生きていることに対してどのような力が働いているのか、どのような仕組みのもとに私たちが生きているのかというと、この世界との関係に私たちが生きている要素はないのです。しかし、そういった立体的かつ広い捉え方でものを観たときには、それがそうだとわかっても、日常働いてご飯を食べ生きている現実の中で、自らの願いを叶えることを優先していけば、それが当然のようになってしまうものです。そして、今の世の中を観ると、そういった意識レベルの人々が大部分を占めています。

しかし、人間が自然の中で生かされていた過去の時代においては、そうではありませんでした。木の花ファミリーの精神性のように、生きることのベースは自然と共にあったわけです。そこでは生きることの術(スベ)を天にお伺いを立て、天の気と共に生きていたのです。

現代では、人間のテクノロジーの進化のもとに、物理的豊かさがマインドコントロールのように人々の意識の中に植えつけられているので、内面ではそういった大事を感じながらも、現実にはそういったことを否定する生き方をしているのです。そこで、「真実は何なのか?」という求道心から、大事を大事として生きているのが木の花ファミリーの生き方です。それは、私たちに与えられた最も大切なこととして、誰にも譲ってはいけないことなのです。一般社会ではそのことがまだ十分に実践しきれていない時代に現れ、「それを実践しきるとこのような生活ができるのです」と示すことが私たちの存在する意味なのです。

そうすると、広く深く物事を捉えていけば、この生き方が個人の幸せを追い求めることを優先するのではなく、時代的に新たな人類の歩みにとって最も大事な生き方を示すということは明白なことです。物事を浅く捉える人々にとっては、自らの願望を叶えることが最も優先されることからすると、自己コントロールすることは苦痛を伴うことになってしまうのでやりきれないことになるのです。そこで、多くの人は、自らがやりきれないこと=悪いことにしたいのです。さらに、心に濁りや歪みがある人々は、真理を攻撃や批判の対象にすれば自らの正当性が通る、という安易な発想にもなってしまうのです。

そのようなことは、これまで世界中の様々なところで行われてきました。それは、自らの主観と合わないという理由で相手を間違っているとし、世界中で宗教戦争のような紛争が起きていることもそこが元凶になっていますし、国家やイデオロギーがそういったことの追い風にもなってきました。そしてその結果、勝ったもの勝ちの世界になってきたのです。しかし、本来この世界は、時代が刻まれることによって変化・変容がもたらされ、そして天体や宇宙法則のもとに自然に成っていくことなのです。人間はそれを自らの力で成し遂げてきたように錯覚しながら生きてきました。

人が生きて、終末を迎えたときに問われるのは、「濁り」なのです。人生の内容のことは何も問われません。そこでは心の濁りだけが浮き彫りになり、自らの生きた結果として問われることになるのです。

人は誰でも死ぬのです。そして、その本質を問われるところを通って、次のステージへ向かうのです。その次のステージが結局今と同じところなのか、下がるのか、それとも今よりレベルが上がるのかは、今世をどのように生きたかによって決まります、そしてそれは、学校で学んでその成果を試験で問われ、次にどのようなステージに行くのかのテストのようなものなのです。

今の人間たちは、物理的にはこれほど豊かになりましたが、結局物理的なものを優先して世界に反映すればするほど、人間はそこだけに囚われ、能力が高く豊かだと思うものなのです。そして、そこでは過去にはなかった矛盾を積み重ね、いずれそのツケを払うことになる現実が来るのです。そして、多くの人はそういった現実を目の当たりにしても、まだそのことに気付けない状態にあるのです。

人類はこれまでの歴史の中で、戦争をはじめとする多くの地獄を経験してきましたが、それよりもはるかに複雑で罪の大きな痛みを経験するところに立っているのです。私たち人類が今、そういった大切なステージにいることに気付いたら、これから私たちはどのような側に立つべきなのでしょうか。

自我の側に立つのか。天の側(宇宙の側)に立つのか。

私たちはどのような側にも立てるのです。

今、人類は自らの中に多くの矛盾を抱え、矛盾を発生させ世界に撒き散らしています。ですから、私たちは自らの欲望に翻弄されていることに気付き、矛盾を発生させない状態になることによって、次のステージへ行くことを目指すべきなのです。

木の花ファミリーの生き方は、個人の事情で反映されるものではいけないのです。それは人類のために、地球のために、時代のために生きる物語なのです。そこに個人の事情を反映させているようでは、とてもこの役割はやりきれません。そして、私たちがそれをやりきったときに、「これだけの世界が創れるのですね」と世の中に範を示すことになるのです。

ところが、この生き方を歩み、それがどれほど大事だと思っていても、まったく果たせない可能性もあります。その歩みの歯車がかみ合っていなければ、エネルギーはたくさん使っても、自我の囚われの繰り返しでまったく進んでいなかった、という答えをもらう場合もあるのです。

ですから、その志にふさわしい位置まで到達しようと思うことは、真剣でないといけないのです。登山にたとえると、ふもと付近ではハイキング気分で行けたしても、頂上付近では命をかけて進んでいくようなことなのです。

今の社会のあり方は面白いもので、かたや社会から高い評価があると思えば、人間がここまでの世界を創り上げたことに対して新たな次の時代からは真逆なことだと捉えられることでもあって、とてつもない矛盾の中に今、私たちはいるのです。しかし、そのとてつもない矛盾に気付いたときに、とてつもない変身の可能性を今、目の前に人間たちは秘めているのです。それは、人間がこの世界に大きく貢献する可能性と、この世界においてとてつもない罪を犯す可能性の両方を持っているということです。

何億年という単位では、人類どころか、生命が絶滅することさえありました。人類の存在は、たかだが数百万年のことなのです。

そのような時代の中で、人は尊い存在であるからこそ、このような矛盾を抱えることができるとも言えるのですが、宇宙は果てしなく物語を刻み続けるものであり、人々はその地球ステージを生きていることが理解できていないのです。その意識レベルの中に自分たちが存在していることに気付いていないのです。

矛盾とは、真実に目覚めるためのものでもあります。この世界の全ては相似形でできているのですから、探求すればするほどその解釈はどんどん深くなっていき、そしてその究極の矛盾の解釈は、相反する存在の理解につながるのです。そこでは、物事の一方から離れて解釈できるところまで行くことが大切なのです。それは、物理的世界を超越してしまうことであり、私たちは今ここにいながらにして、宇宙が理解できるところにいるのです。
 
 


その証はそなたの生まれた月日に現れている

今日、5月3日はいさどんの64歳の誕生日です。今日はその生まれた月日にちなんだお話をご紹介します。

*いさどんのこれまでの歩みやシャーマンとの出会いについては、一つ前の記事「木の花記 〜金神様の巻」をご覧ください。
 
■    ■    ■    ■
 
いさどん:
僕が39歳のときに、田舎の滝神社の氏神様に「私は元々このような道を歩むものとして生まれてきたのですか?」と聞いたことがある。それはシャーマンのすみ子さんとの出会いがあって、その後すぐにお釈迦様が僕のもとから去られたときのこと。滝神社の氏神様との対話の中で明かされたことなんだよ。

すみ子さんは僕に御中主大神という名をくれた。その名は神様によって降ろされた。だから、すみ子さんが言うには、「古田さん、神界名が降ろされたので差し上げますね」ということで与えてくれた。それで、僕のご先祖にとても興味を持っていたすみ子さんが、「古田さんのご先祖様にご挨拶に行きたい」と言うので、一緒に田舎に行くことになった。

田舎に着き、まずは仏壇にご挨拶をしてから、その後氏神様にご挨拶をしたいということで、滝神社へ向かった。そこで初めて、僕はシャーマンを通して滝神社の氏神様と対話することになった。それともうひとつ、滝神社には三柱の神がおいでになって、一柱は伊勢神宮の系統のおたちゅう様といい、霊的には僕の先祖に当たる神様。もう一柱は、滝神社には滝が御神体としてあるのだが、その滝の権現という、おじいさんのような雰囲気のひょうきんな神様がおられた。そしてもう一柱として、滝神社の祭神である氏神様がおられるわけだ。しかし、この滝神社の祭神は実は本神ではなく、留守居を預かっており、本神が降りてくる前に仮に降りている神様だった。

すみ子さんと久しぶりに滝神社を訪れたとき、氏神様が「そなたのことは幼少より見ておったぞ。やっとそのようなものになったのか」と喜ばれていた。僕としては、「そんな小さな頃から見守られておられたのだ。僕が本殿の上の銅版の屋根に登って体を温めたりしていたことも見ておられたのだ」と昔のことを思い出しながら、感激した。

そこから、氏神様と僕との関係がわかってきたのだが、その後、今度はひとりで滝神社に行くことがあった。そして、氏神様にこう尋ねた。「私は今、お釈迦様のご縁をいただいてこのような道を歩んでいるものですが、神様にお伺いしたいことがあります。私は元々このような道を歩むものとして生まれてきたのですか。それとも、私の存在を天が見初め、指名を受けてこのような道を歩むようになったのですか」と尋ねた。

そうしたら、「そなたは生まれる以前より、この道を歩むものとして生まれてきた。その証は、そなたの生まれた月日に現れている」と言葉が降りてきた。それが、昭和26年5月3日、日本国憲法施行の日。そして、5月3日午前3時生まれの三男坊で、5.3.3。5は十二支の5番目である辰のエネルギーであり、一年の中で最も生命力が豊かなとき。そして3は、生命が満つる。それで、3がふたつということで三々九度になり、5.3.3から「いさみ(偉佐美)」と名付けられた。ということで、「生まれる前より、約束のもとに地上に生まれてきた」ということを伝えられた。

だから、すべて物事は始めから、約束通りになるように仕組まれていた。そこで僕が気付いたことは、いつも新しい学びが僕の中から湧いてくるのだが、書物を読んでもそれは新しいことを知って記憶していくというよりも、「そうだった、そうだった」と心が納得して思い出していく状態ということ。お釈迦様も元々は法華経という宇宙の法を完全にマスターした魂として降りてきて、人間としての苦難の中からそれを思い出しながら説いていかれた。それは、低いほうから高いほうへ順番に仏道として道を説かれたように、僕にもどこかで、「この全ての行き先を自分はすでに究めている」という心がある。ただそれは、トキとトコロのはたらき(働き・傍楽)の役割によって順番に出てくるものであって、全てが一気に出てくるものではない。それは、新しい知識を得ることではなく、自らの中にあるすでにマスターしているものが智慧として湧き出てくるものであって、自らの中に全ての智慧として仕込まれている。

ようこ:
それは、誰しもがそうなんだよね?新たなものを得ているのではなく、思い出している状態ということは。

いさどん:
それは、自我という鎧を取れば、全てのものがそうなる。だから、お釈迦様は「ガンジスの川の砂の如く、衆生はおる。その全てに仏性あり」と言われた。その要素は、自我の鎧を脱ぎ捨てればあるのだが、自我の鎧にまみれてしまっている人間には、自我を通して出てくることになる。だから、自らの内から真理が湧いてくるのではなく、外から知識で学ぼうとするほうに意識が行ってしまう。

だから、そういったことを理解できた自分にとっては、ただ粛々と自らの中から湧き出てくる想いを正攻法で表現し、心をしっかりと天に向かって立て、心をまっすぐに道を歩んできた。その姿勢が自らの天命を成就させる道と心得ている。

この世界に生きているものとして、自らの自我に囚われて生きているものを不幸という。この世界に生きているものとして、この世界の運行や成り立ちの上に人生を与えられ、その仕組みのままに生きているものを尊いといって、それを喜びという。人間の世界にはたくさんの喜びがあるが、愛にもランキングがあるように、喜びにもランキングがある。そして尊さにもランキングがあって、その違いは、その人がどこを観て心を働かしているのか、にある。

それは、山登りにたとえてみるとよくわかる。下にいるものは上から見える景色は見えないが、上にいるものは下を通って今、上にいるので、下のことは全て理解できる。しかし、常に上はあり続けるので、その上はわからない。だから、上を目指すものは、常にいただく心で高みを目指していく。謙虚であればあるほど、高みが与えられる。それを、登り詰めたとひとたび錯覚したものは、登り詰めたとして全てをわかったつもりになる。そうすると、それから上は観えないことになる。ましてや、自らの行き先を見失って行き詰ったものは、そのことを喜ばないといけない。それは、自らの「自我」に行き詰ったのだから、「その道を行くな」と封印されて、「本当の道を行きなさい」と愛を向けられている。そこでは、「ありがとうございます」と自我を捨てて、いただいた縁ある心に寄り添っていけば、必ず道は開かれる。そこには、自分が学んでいくとか、会得することはない。謙虚であれば、それは自動ドアのように、開かれていく。

だから、「究める」ということは、「登り詰める」ことではない。道が極まっていくということは、星と星の関係や、時代の歩みでもある。そこには、個人の意志は薄い。しかし、そこに個人はいる。その時代を表すための個人がいる。それは、役割という形で存在している。一人ひとりが天より与えられた役割に気付き、自分らしくそれに徹したときに、自らが道を開くのではなく、時代が道を開いていく。そして、その時々時代を感じ、トキとトコロが整ったときに、ふさわしい出会いがあって、流れが来て、事が起きていく。そして、時代が開かれていく。そこには、己というものがとても大切な存在として現れてくると同時に、それは時代が開かれていくためだから、そこに己はない世界。そこに成り切ることが、尊い歩みにつながる。

誰の中にも宇宙の仕組みが流れている。ただ、意識がその存在を知り、そこに向かないと、それが観えない。そして、意識が高くなればなるほど、同じ景色でも宇宙の存在がいかに尊いのかが紐解かれていく。しかし、それは自らが紐解いていくものではなく、気持ちが整い、意識がそこに向かえば、観えてくるものなのです。

そういった真理に出会ったものとして、またこのような不可思議な人生をいただいたものとして、これからも人々に伝えながらこの道を歩んでいく。そして、気付いたものたちが沢山現れれば現れるほど、この世界は粛々と時代の扉をダイナミックに開いていく。