線路は続くよ 天までも

人は、自分が歩んだ結果、そこに道ができるのだと思っています。それが人生だと思っています。しかし、仏道というお釈迦様が説いた道は、「この世界には道がある」と伝えています。それを見つけ、そこを進みなさい。その道は、線路のようなものです。線路ですから、そこに乗ってしまえば脱線することはありません。その線路の上を進みたくないと思えば脱線することもあるでしょうが、その道を進もうという思いがある限り、どんなに障害があろうとも、その上を進むようになっているのです。

その線路の上を進む中で、様々なことに出会います。それを素直に受け取っていく心さえあれば、出会うことはすべて、先へ進むためのエネルギーへと変えていけます。その線路の枕木の一つひとつは、変化です。変化であり、進化です。先へ向かうとは、必ず進化することであり、それは上へと向かっていく道です。つまり、自我を取っていく道です。魂として、天へと向かう道なのです。

この線路は、一人ひとり誰もに与えられています。そして、必ず先へ、必ず上へと進むようになっています。ところが、自ら勝手に下へ落ちていくための線路を敷く者がいます。そうすると天は現象を起こし、戒めて、方向が間違っていることを伝えます。あれ!間違っていた!ではどの方向に進めばいいのだろう、と上を見上げた時、人間は元の道へと戻ることができるのです。しかし、いくら天が救済のために現象を起こし、痛みを与えても、それを与えられた人間が上を見なければ、ではそのまま行きなさい、ということになります。
それは、進めば進むほど、下降していく道です。本来上昇していく道が下降していくのですから、進めば進むほど差が広がっていきます。そうすると、やがて修正が効かなくなるのです。そういうことも、この世界にはあるということです。

人間は、人生を30%の定めのもとに生まれてきます。そして残る70%は、自由が与えられています。その70%の自由によって、自ら落ちていくものもいます。
30%は、この世界を生きる上で、自分の力ではどうにも変えることのできない宿命です。それはいただくものです。その30%を、徹底して生きればいいのです。ところが人間は、70%の自由にばかり心を奪われ、30%を忘れてしまうのです。そうすると、自らの存在価値すら失い、取り返しのつかないところまで進んでしまうのです。
70%の自由を正しく使えるか、間違って使うかについては、それぞれの個性の違いはありますが、仕組みは皆同じ条件です。正しく使えない者は、それにふさわしい痛みを与えられます。そこでの痛みは、救済です。その救済の手に乗れば、痛みを学習として、正しく進むことができます。一方、70%の自由を正しく使う者は、現象として痛みをもらいません。痛みが伴わないことにより、進んでいる方向の正しさを確認していきます。痛みを伴わないと、人は奢って「これでいいのだ」と自我を増幅させるものですが、どんなに正しい道を歩んでいても、常に「これは天のご意向だ」という心があれば、ずっと痛みや問題ごとなく歩んでいけるのです。

その歩みは、人々の見本となります。この世界が始めからそのような完成形ばかりで構成されていれば、今の世の中のような不幸や混乱はなかったことでしょう。しかし、それでは面白くない。この世界がダイナミックではない。喜びがない。愚かしさがあるからこそ、それに対する尊さがあり、孤独があるからこそ愛があり、辛い道があるからこそ喜びがあるのです。

愛や、尊さや、喜びは、愚かしさを表現するためにまかれた肥料のようなものです。そして、人生という素晴らしい食べ物をいただくのです。そんなふうに食べ物を育てるのは面倒だから、最初から肥料を食べておけばいい、ということには、この世界はなっていません。すべてを現象化に預け、初めてその尊さがわかるのです。地球は、その表現をする場所なのです。

 

私は、この世界と共にある。
私の悲しみは、世界の悲しみである。 私の喜びは、世界の喜びである。

 

 


「いさどん」から「ジイジ」へ 〜 2018年5月3日 67歳の誕生日を迎えて

42歳でいさどんと呼ばれるようになって25年。60歳で生前葬を行ってから7年の質的転換を経て ───── 2018年4月7日の朝、いさどんに新たな想いが湧いてきました。

「これから僕は『いさどん』をやめよう。今、その想いが湧いてきた。これから僕の名は『ジイジ』という名になるようだ。そのほうがふさわしい。『ジイジ』は濁っているけれど、それは人々の汚れに向き合うからだ。世間の皆様に真実を示すため、濁りのついている皆様に伝える者という意味だ。

『ジイジ』をカタカムナでひも解くと、『ジイジ』は『シイシ』となる。シは示しだから、『ジイジ』は示しの示しの位置になる。それは大本の示しという意味でもある。つまり、示しの位置が尊いということ。『ジイジ』は、『ババジ』や『ガンジー』といった高い意識の男性の尊称を示す。そして、イは当然『ヰ』の悟りを示す。それは、高次元の潜態への還元ということで、『ジイジ』は高次の悟りの示しの示し。つまり、人々に道を示す者に対して示す存在。濁点があるのは、現象界には濁りや歪みがあるがために、そこで道を説く者はその濁りや歪みに沿いながら伝える役割ということになる。濁りや歪みに付き合うということからすると、『ジイジ』はカタカムナ的にも高い意識のメッセンジャーと読み取れる。

さらに、ジというのは、心の父という意味がある。だから、『ジイジ』は万人に対して高い意識の父という意味になる。今、僕の精神レベルはその位置にいるのだから、良い尊称だ。とてもふさわしい名だと思う。」

いさどんに『ジイジ』という名が降りてから数日後、天からいさどんに言葉がありました。
「きっかけを創るのが役割なのだからな。」

つまり、一箇所プツッと穴を開け、そこに聖なる種を入れれば、そこが細胞分裂を起こし、新たないのちが生まれてくる。それが世の中に広がれば、世界は変わっていく。だから、その種となるきっかけとなれ、ということです。

今日5月3日は憲法記念日です。毎年、憲法記念日のときには憲法議論が報道されますが、先の観えない激動の時代を迎えた今、これからこの国をどうしていくのかを一人ひとりが真剣に考える時が来ています。

いさどんが32歳の頃、次のようなビジョンが降りてきました。

「いつか、国を司る役割を持つ人々がここを訪れて、僕に問いかけるのです。
『私たちはこの国を、本当に豊かで人々が幸せになるように、一生懸命治めようとしてきましたが、これはと思うことをいくらやっても、どうにも上手くいきません。本当に国を正しく豊かに治めるためにはどうしたらいいのか、そのヒントを得るために、ここに理想を生きる人々の暮らしがあると聞いて、訪ねてきました。どうしたら、良い国を創ることができるのでしょうか。』

それに対して、僕はこう答えるのです。
『それは、制度や仕組みを創ることではありません。ここにある自然を見てください。そして、そこにいる人々の心を見てください。このような心や考え方で人々が暮らせるような国創りをすれば、本当に豊かな国になるでしょう。』」

そこで、国を司る人々に答えているのは ──── 『ジイジ』です。

『いさどん』から『ジイジ』へと変わることは、大きなターニングポイントです。いさどんの次元上昇に伴って降りてきた名は、『ジイジ』。今日2018年5月3日が、『ジイジ』として生きるスタートです。60歳で生前葬を行ってから7年の月日を経て、質的転換を迎えた今、今年2018年の再スタートの年にふさわしい名がいさどんに降りてきたのです。

皆さん、これから『ジイジ』をよろしくお願いします。

 

 


どうぞ、地球が喜ぶ生き方をしてください ~私たちが菜食をする意味~

先日、木の花を訪れたアメリカ人のアナンヤといさどんとの会話の中で、こんなお話がありました。


アナンヤ:
昨日、草刈りをしていたら、草の中からたくさんの虫が出てきました。草を刈れば、彼らの住処を奪うことになりますし、たくさん殺すことにもなるでしょう。ここでは肉や魚を食べませんが、牛や豚などの命を奪わないということと、草や虫たちの命には何か違いがあるのでしょうか。

いさどん:
それは僕から教わらなくとも、あなたがこれからピュアな存在となっていけば、自然にわかることです。でも、とても大切な投げかけですから、今解説しますね。聞ける相手がいる時には聞けばいいのですが、本来、人が目覚めるということは、他人に聞かなくても自然に自らの中から湧き出してくるものなのです。

私たちは、この物理的な肉体の中に、DNAとして膨大な情報を持っています。しかし、私たちは霊的な存在でもあるのですから、真実は、この物理的DNAの情報量よりもはるかに膨大な情報を、霊的DNAとして持ち合わせているのです。そこに目覚め、アクセスできるようになると、近代文明が求めてきた学問的知識は幼稚なものであることがわかるでしょう。
氷山は、水面上に出ているのは全体の約10%だと言います。残り90%は水面下に沈んでいて、表からは見えません。これまでの歴史の中で、人類は物理的な目覚めの進化の過程の中で、今、脳の10%を使うようになりました。残る90%は、まったく使っていないとは言いませんが、有史以来の文明に貢献したのは、ほとんど10%の方でした。残る90%の脳にアクセスできるようになると、閃きが湧いてくるようになります。偉大なる先人であるキリストや仏陀、孔子などは、学校にも行っていなければ師匠もいなかったのですよ。ですから、私たちにとって大切なことは、知識で覚えようとすることではなく、感じることです。生きることを感じるのです。

そこで先ほどの質問に対してですが、小話をひとつご紹介しましょう。
昔、僕がまだ畑の現役だったころ、土手の草刈りをしていました。その畑には、生姜とウコンが植えられていました。僕はその管理をしていたので、草が生えれば草刈りをします。しかし、生姜とウコンの間に生えている草は取りますが、同じ植物である生姜とウコンは残していくのです。
そこで僕は、疑問に思いました。同じ植物なのに、この差別は何だろうかと。そうしたら、今僕に刈られている草が、こう教えてくれました。

──── それでいいのですよ。私たちは、そういう存在なのですから。今あなたは、私が土手の草である状態を見ています。でもあなたが、刈った後の私を生姜の畑に入れてあげれば、私はいずれ、あなたの育てる作物になるでしょう。ウコンのところへ持っていけば、ウコンになるでしょう。私は、あなたが大切にしている存在にもなるのです。
あなたが刈り取った草をそのままそこにおいておけば、私はまた土手の草となり、あなたに刈られることになるでしょう。そのことに私たちは、何の抵抗も感じない存在なのです。ですから、それでいいのですよ ────

そこで僕は、自分の目指している境地はこの雑草たちの境地だ、ということに気付いたのです。この世界は、なんて素晴らしいのだろう、と。

では、動物と植物の違いはどうでしょうか。
植物は、そこに種が落ち、芽が出ます。そして木ならば何十年も何百年もそこにいます。それは、自然のままに育つということです。そこへ我々が切り倒そうとしてチェーンソーを持って行っても、彼らは「やめてくれー!」と逃げては行きません。木が逃げていったら大変ですね(笑)。つまり、それはカルマが少ないということです。そもそも、彼らは光合成によって成り立っています。太陽のエネルギーを使い、水と炭素の化合物を作ることで成り立っているのです。
一方、動物たちは、我々人間が近付いていくとペットでない限り逃げますね。動物は、植物よりもカルマが多いのです。そしてさらにカルマが多いのが、人間です。動物よりは魚の方がカルマは少ないですが、それも同じことです。そして、命がまだありながら、その途上で屠殺されたカルマというのは、肉体がなくなってもカルマの迷いが存在しています。
例えば、ライオンがシマウマを食べる時には、その生命の存在をすべて、自らの命に変えます。そうすると、シマウマの魂も自然循環の中に入ります。それは殺されたわけではありません。循環の中に入っただけです。それは循環を健康な状態に保とうとする自然の作用なのです。それを、ライオンがシマウマをつかまえて食べるところだけを区切って見ると、弱肉強食に見えるでしょう。自然界は、小さく区切って見ればどこもそうなっています。しかし大きく観れば、すべてのものが活かされていく循環の中にあります。命というバトンが次へ次へと渡されていくのです。

他にも、肉を食べる必要のない理由はいろいろとあります。もちろん魚もです。それを人が食べたいと思うのは勝手ですし、食べることに対して何も言いませんが、人が本当に目覚めたら、自ずと食べないことを選択するでしょう。
現代の食肉生産は、霊的にはとても汚れたものになっています。かつてユダヤ人がアウシュビッツで殺されていきましたが、屠殺の現場も同じようなものなのですよ。今年の初めに木の花にケア滞在に来ていた女の子は、農業大学の実習で豚の牧場へ行き、豚がどのように飼育されているかを見て大きなショックを受け、それがきっかけで心の病気になりました。ひどいことに、雄豚は睾丸をつぶされるのだそうです。そうすると去勢されて、肉が柔らかくなるからです。それは一例であり、食肉生産の現場ではもっと恐ろしいことがたくさん行われているようです。
幸いなことに、私たちはこのような暮らしをしていますから、そのような恐ろしい食べ物を食べなくても生きていくことができます。これはとても重要なことです。菜食は健康とおだやかな心をつくるのに貢献しますが、私たちは自分たちの健康が目的で菜食をしているわけではありません。3時間もあればその全容をあなたに伝えることができますが、それは単純なことではありません。ですから、それを食べずに生きられることは、とても誇らしいことです。

(菜食の意味については、木の花ファミリー通信第90号「食から始まる意識革命」をご覧ください。)

今、20世紀型社会の偽りの仕組みが暴かれ始めています。マスコミは様々なことを暴きますが、実はそんなことは重要なことではありません。それは時代が切り替わる時に、当然のこととして起きているだけなのです。何よりも大切なことは、次の時代をどう生きるかということに気付くことです。

どうぞ、次の時代の歩みに、切り替えてくださいね。そして、地球が喜ぶ生き方をしてください。私たちが生きることは、私たち自身の自我や願望を満たすために生きているのではありません。私たちが存在する世界の表現に貢献するために、私たちはその役割を果たし、その結果、生かされているのですから。どうぞ、地球が喜ぶ生き方をしてください。

 

 


21世紀に求められる神通力

今年のはじめ、僕の中に次のステージのビジョンが湧いた。それは、「神通力」。

法華経を学ぶ人たちによると、超能力や神通力はご法度だ。そういった特別な能力は道理を欠いたものだからダメだとしたのだ。そして、法華経の教えの中で世界の解釈を完結しようとする。

しかし最近、僕は、それは違うだろうと思っている。本来、人間にはそのような能力が備わっているのだから。例えば、人間社会には婚姻制度があるが、なぜそれが設けられたのかというと、そのような制度がなければ秩序が保てなかったからだ。ところが、自然界には婚姻制度がないにもかかわらず、秩序はずっと保たれている。人間界には自我が生み出す邪な誘惑があり、秩序が乱れるので、そのような制約が必要になる。だから人々の中から邪な性質を取り去れば、封印されてきた秩序が蘇ってきて、それは生命の本質に立ち返る目覚めとして活かせるようになるのだ。

そうすると、人間が欲望の延長に翻弄され、無駄の多い人生を豊かさと思い違いしてあくせく働かなくても、人々に内在する超能力・神通力のような能力が発揮されれば、世界はシンプルでもっと豊かに生きられる可能性がある。しかし、今の人間たちのように自我に囚われていては、人間の本質であるヒトの境地には到達できない。僕にはそういった想いがちらちらと湧き出てくるから、そろそろ次のステージに行く時が来たのかと思っていた。

しかし、いっこうに次のステージに行く気になれないし、行けそうにもない。なぜなら、僕はひとりで生きているわけではないからだ。木の花というひとつの生き物の中に生きていて、ひとりだけ飛びぬけても仕方がない。ここのキャッチコピーは「ひとりは皆のために、皆はひとりのために。己を忘れて全体のために、世のため人のために生きる」というシンプルなものだ。だから、皆にも意識を上げてもらいたい。核爆弾の話で世界のリーダーたちが揺れる今、自我を超えて次の時代につながる真の見本になるものたちがそろそろ現れてこないといけないのだから。

人間の精神が研ぎ澄まされて純粋になれば、直観が降り、閃きが湧いてくる状態になる。それこそ、超能力や神通力は日常のものとなり得る。ところが、なぜ人間がそれを封印してしまったのかというと、その精神状態を日々保つことは緊張状態が続くことになり、怠ける人間にはそれを持続するのがたいへんになるからだ。「少しでも楽なように」と創意工夫し、「より豊かに」「より便利に」「より多くを得るように」という人間の探求の結果、自我が大きくなっていき、肝心の研ぎ澄まされた生命力を眠らせてきた。しかしながら、その進化は愚かしいばかりとは言えない。そこで、現代の進化を保ちながら、その生命力をよみがえらせれば、過去にも現在にもない次の道が開かれる。

ひとえに神通力といっても、神通力にはいろいろなレベルの神通力がある。例えば、見世物のような神通力や、病気直しの神通力もあるが、今、僕がイメージしている神通力のレベルは、宇宙の流れとこちらの意識が合うことによって、物事が極めてスムーズに流れる世界。もしくは、霊的な対話の証として現象化が進むことも、神通力だ。つまり、宇宙の根本の流れを掴み、それに沿っていくこと。それは個々の意志とは違う。それは、個々の意志の届かない法則の世界だから。それは根本の流れのようなものだ。しかし、それは天のたくさんの御魂たちと個々に対話することとは、また別のものだ。そこは使い分ける必要がある。

そういった仕分けが自由自在に行えれば――、例えば、天の気と対話するとか、対話するだけではなく、天の気の配慮を願うこともあれば、それは天の気が調整されるということにつながる。

神通力の世界でも、それこそ人々の興味をそそるだけが目的のものでは、NGだ。それから、奇跡を見せるために病気を治すということも重要なのだが、そういった現象界の法則に則った出来事は心が整っていくと、その物理的延長に自動的に治っていく。昔は、マジックのように病気が治るということもあったが、それも現在に至ってはどちらかというとNGだ。さらに、神通力によって魑魅魍魎の世界とつながることは、もちろんNGだ。神通力の神が、妖怪の世界とつながるようではいけない。そういった意味では、蛇や狐などの動物たちの霊に頼ることも法度だ。

つまり、神通力でも、ふさわしいものとそうでないものがあるということ。流れという意味でも、現象化を促すという意味でも、そこを仕分けないといけない。そこでは理に適った現象につながっているかどうかが大切なのだ。

そう思っていたら――、今年の終わりに不可思議な現象が起きた。今日も、ようこによる6人娘に対する英会話教室があった。この英会話教室は、普段勉強が嫌いな子たちも積極的に参加しているので、大切なことだと思っていた。なにより、子どもたちが楽しくやっている。それは、教科書に基づいて教えているのではなく、子どもたちが興味を持ったことを英語にして話しているからだ。今日はその3回目だったのだが、その途中からおかしなことが起きた。それに付き合っていながら、当初は起きていたのだが、途中から寝てしまった。英会話教室がにぎやかになっていき、その後そのにぎやかさが不快に感じられてきた。それがうるさく不愉快で、僕は夢を見ているのだろうかとも思っていたのだが、皆の声は聞こえていた。それで、不愉快な僕は近くにあるものを、まずは声のするようこにぶつけ、それから誰にということなくぶつけていた。その時の僕の中にあるものは、苛立ちだけだった。そこから、あきちゃんが英会話教室に加わったことで、さらにそのうるささが拍車をかけ、僕はイライラのピークに達した。そして、その手ごたえのない苛立ちを手ごたえのあるものにしようと、必死で手を振りかざした。そこで初めて我に返った。

実際には、僕はただ横になって休んでいただけで、物をぶつけていたわけではなかったから、この僕の苛立ちには誰も気付いていなかった。しかし、どんなに物をぶつけてもこの取れない苛立ちは一体何だったのだろうか・・・。

そう思って、そこにあるテレビのほうをふと見たら、スイッチが入っていないテレビの画面にある映像が浮かんできた。その時に、これが原因だと思った。それは今日、未解決事件の特集番組を観ていたのだが、そのひとつとして和歌山毒物カレー事件を特集していた。今回、林真須美死刑囚の長男が取材を受けて証言をしていた。彼は詐欺を働いていた親のもとに育ち、子どもながらに不思議な家だと思いながら、時々大金を持ってくる親、そして奇妙なことを企んでいる親の会話を聞きながら育ってきた。しかし、彼からすると、確かに奇妙な親ではあったが、まさか殺人を犯すような親ではなかったということだ。林真須美の判決の中でも言われているのは、なぜ彼女が夏祭りのカレーに毒を入れて、4人が死亡し、67人に重軽傷を負わせたのか、ということ。その動機がわからないというのに、彼女は死刑になったのだ。通常、動機がわからないのに死刑にはならない。ところが、その資料に書いてあったのは、精神的構造がそういった行動をもたらしたということで、彼女の苛立ちがその事件の引き金になったということだった。明らかに、彼女は精神疾患を患っていたわけではない。しかし、苛立ちが募ってそうなったとは書いてあるのだが、通常それでは死刑判決にはならないことが、死刑になっているのだ。

それは、彼女の髪の毛からヒ素が出ていて、過去に夫や知り合いの食べ物にもヒ素を混ぜて食べさせて入院させている、そういったことの経緯で保険金詐欺をしている、といった物的証拠があったからだ。そのような状況証拠からして、犯人は林真須美ということになっていった。そうしたら、彼女にどのような感情的背景があって、このような犯行に至ったのか。それは、警察も裁判官も確証がないという状態で終わっている。

そこで――、あの番組の背景にある苛立ちがこちらに移って来たのだろうか、と思った。僕としては今までの人生の中で、確かに昔はそういった類のことがあったかもしれない。しかし、今の僕は鍛えに鍛え、霊的には非常にたくましい状態だ。だから、そのようなものに影響されるものではない。ところが、なぜだかわからないのだが、子どもたちがにぎやかに勉強しているのがうるさくてイライラして、そこら中にあるものを投げつけたい気持ちだったのだ。それは、苛立ち以外の何ものでもない。

その後、ようこやあきちゃんにそのことを話していくうちに、少しずつ観えてきたことがある。

我々は肉体を持っている。肉体というものは物質だから、そこに光が当たると同時に影ができる。魂が我々の本来の存在なのだが、その魂が設計図となり、魂の思いが響きとなって世界に発せられると、それが現象化を引き起こしていく。それが現象となった時点で、我々は自我を持ち、特定する自らの枠を決め、枠以外のものを他者だと区別する。そのことによって、影ができるのだ。

その影は、物理的な光では消すことはできない。霊的な光でなければ、その影は消せないのだ。そうすると、思いの力を持って影を消すことはできるのだが、その思いの内容によっては重くなって、逆に影が濃くなることもある。それは、自我に囚われることが原因でそうなるのだ。

そして、その影は、未解決事件の背景に流れるものだと思った。それは、この世界に黒い雲のように漂う魔だ。その魔が存在する限り、いくら人に正論を語っても、健全にはならないということだ。

そこで、今年のはじめ、僕が語っていた神通力のことを思い出した。神通力は、仏教では通常使わない。なぜなら、仏教は道理の道だからだ。それに対して神通力は道理も何もなく、浄化するもの。その場を払い、いきなり結果につなげることが目的のようなものだ。そうすると、道理なくして浄化するだけだから、法華経のような道理の道からしたら、それは人を本当に正すものではないという理屈になるのだ。僕はこれまでその道理の道を生きてきたのだが、この世界には人間の自我がもたらした魔が漂っている。その魔があまりにも多くなり、それで道理が通らないものばかりになってしまったら、その雲をまずは払わないといけない時もある。そして、その雲を払う力を持たなければ、世直しはできない。

だから、今のような人々が真実をはき違えた時代には、神通力が必要になるとも思えるのだ。神通力とは、神に通じる力。その霊的な光で照らさなければ、人間に真理という光を照らしても、人間は質量を持っているためにその光が奥の魂まで射さないのだ。光が射さないから、その影があることがわからない。神通力というのは、人間の道理ではなく、霊的な光のことだ。だから、物質的に汚染されてしまった人間の思考をその光で突き通す必要がある。我々が肉体を返上し魂だけになった時に自らの実態があからさまにわかるのと同様に、そういった物事の本質を掴み取る知恵を人々が得るためには、立ち込めた魔を払い、真実の光を照らす必要があるのだ。現代の人間世界にはあまりにもたくさんの影が発生し、そこに漂う黒い雲が世界に蔓延し、多くの矛盾を発生させている今、人々にいくら正しいを語っても、人々は目覚めない状態になっている。

僕の中にも苛立ちがある。例えば、ここで語られていることは、これこそまさしく世の中を正しく導くための光だと思っても、それが邪悪なものたちにはわからない。それよりも、パチンコに行っていたほうが楽しいのだろう。それよりも、お酒を飲んでいるほうが楽しいのだろう。それよりも、ステーキを山ほど食べていたほうが楽しいのだろう。そのような快楽を求め、欲を貪る世界に成り下がってしまったのだ。これほど広大な宇宙の中で人間は無限な可能性を秘めているのにもかかわらず、なぜ人間はこれほど自我に溺れ、お金や物を追いかけ、それに翻弄されて生きているのか。良い世の中を創るどころか、その自分たちの実態でひどい世界を創り、最終的には自分自身まで陥れている。それが結果を生み、次の子孫につながり、今や嘘・欺瞞・苛立ち・犯罪に満ちた悪循環の極みの世界だ。

人間たちにこのことを受け取る心がなければ、その雲が立ち込めていることを知らなければ、雲に影響されてしまうだけだ。僕は世の中を良くするために、そして人々が目覚め、本当に晴れた心で生きていけるように伝えているが、それが伝わらないという苛立ちがある。

この世界の影が地球上に漂ってしまい、人間が肉体を持って自我を持った結果、ここまで至ってしまったのだ。そう思うと、それでは僕の言うことが伝わらないわけだ、とも思う。つまり、伝わらないものにいくら真理を伝えても、それこそ反対に受け取るぐらいだ。伝わらないものは自らの考えに執着しているのだから、それで解釈したら、美しい光すら、「なんてまぶしい迷惑な存在なのだ」と受け取るだけだ。自分が隠しておきたいことを光で照らされあからさまにされたら、それは自らの敵だ。それを有難いと思う心がなければ、どれほど尊いことであっても、それは異物に感じ、そこに価値を見出すわけがない。

そこで、どうしたらこの逆さまの解釈を正すことができるのだろうと思った時に、我々一人ひとりの中に光があり、すべてのものがブッダとなる道は用意されている。そう捉えれば、人間世界に影があり、その影に光が当たらないことが原因なのだ。だから、神通力をもってその影に光を当てていこう、と決意した。

通常、仏教では神を語らない。なぜ神を語らないのかというと、人には仏になり、最終的には宇宙の根本に到達するだけの悟りの道がある。ヒトとはそういった光を有するもの。言い換えれば、人は神の分け御魂として生まれ、それが命(みこと)となり、地上に降り、生きているものはすべて、いずれ神に還るということだ。だから、神を語らなくとも、人が精神を磨き上げ、意識が高まっていけば、宇宙と合一する。それはこの世界と一体となる道なのだから、最終的には神そのものになるということが仏教では説かれている。だから、法華経では神通力は道の中になくてもよいのだ。なぜかというと、そういった人の道に便宜を図る手段は、人々が道を歩む時に怠けさせてしまうことにもなるからだ。つまり、神通力をもって問題を解決してもらったものは、自らを磨くことを忘れ、神通力に頼ろうとするからだ。それが、道を外れることにつながる。

だからここでは、「そのようなものに頼るな。物事の道理をもって自らを観、道理をもって己を正していけるものになれ」と伝えられてきた。つまりそれは、自我に打ち勝ち、自己コントロールできるものになれ、ということだ。これが、お釈迦様の言われる仏教の本当の精神だ。ところが、神通力はダメだといいながら、組織をつくり、戒律の中でその地位を守れば悟りに至るという話になってしまい、結局人々は道を歩むことを怠ってしまっているのが現状だ。

だから、そのようなレベルの神通力はダメとはいうものの、今、世の中の現状を観てみれば、高い意識レベルの神通力は必要であることが観える。お釈迦様は「ガンジスの川の砂のごとく、衆生はおる。そのすべての衆生に仏性あり」と言われた。それはお釈迦様の意志として仏教に伝えられている。ところが、そこでお釈迦様は発していない言葉がある。その後にお釈迦様が伝えられたのは、「ただし、その道を歩んだものにだけ」ということ。つまり、いくら仏性があって、ブッダへの道があったとしても、それに目覚めて歩まないものにはない、ということだ。それで、そういった道を忘れ、歩まない現状の人間世界がある。

今、それがあまりにも忘れ去られ、人が生きる上での精神の道が何もない状態だ。そのような現状の中、いくら人には仏性があるからと歩んでも、汚れているものにいくら光を当てても、人々にはその光が迷惑に感ずることにもなる。まだ眠たい人間に、カーテンを開けて「起きなさい」と言っても、腹を立てて布団に潜っていくだけなのだから。

それで、今年のはじめに、なぜ神通力というビジョンが降りてきたのか。そして、今年の暮れまで来た。今こそ、神通力が本当に必要な時が来ている。つまり、世界の仕組みを理解したものたちが、自らの高い意識を持って、この世の中の雲を払拭していかなければ、本来ヒトとして悟れる素質があるものも、その価値を見出すことはできない。そして、さらに現状の世界が続くだけのことになる。

この世界に漂っている暗雲を払拭しなければならない。神通力をもって払拭する。僕一人の力では世の中すべての暗雲を払拭することはできないし、今はそういった一人の力に頼る時代でもない。この悟りを人々に伝え、自らを価値あるものとして腹に落とし、歩んでいくものたちが現れてくる時が来ている。その歩みが2018年にスタートする。