この世界は無限の対向発生の連鎖によってできている

-早朝4時に目覚めて-

いさどん:
目が覚めたのには、理由がある。理由を探ろうと思って下に降りてきた。
それを素直に表現すると、これからますますユニークな生き方を実践していく。それは特定の価値観がモデルとなって世の中全体がそれを追いかけていくような、これまでの流れとは違う。ある意味独創的で、そこに湧き出すものは、斬新でオリジナル。それは世の中の流れが終焉を迎え、新たな時代に切り替わる証として我々の生き方がある。それは独創的だから、モデルがない。モデルは自分たちがなる。だからこれまでの時代が終焉を迎え、次の時代につながる何かを生み出していくだけの能力が常に我々には必要だが、それは努力して積み上げるものではない。これから切り変わっていく先にそれがあるからこそ、今、古い価値観が壊れていく。だから努力することなく、感覚的にそういった生き方を呼び覚ましていく。もしくは呼び覚ますとき、自らの中にその知恵を問うていく。
それには、常にどの分野においても対向発生的な関係が出来上がる必要があり、その延長に様々な個性が存分に表現されていく。そのためには、そういったことを強く意識していくだけの決意ある心作りをしなければならない。
その決意は個人的なものではなく、対向発生を基準とした、二人から始まる集団的意識の連鎖。そしてそれは情を挟まないものでなくてはならない。情や欲の延長の損得勘定を挟まない関係でなければならない。そういったものを挟むと純粋さが失われ、その新たな指針となるべき方向性が湧いてこない。

ここからは天の方に意識を向けてメッセージを引き出す。
現代の人間の意識レベルでは、時代が紡がれていくときに、人はその中で自らのサイクルを寿命として表現し消えていく。そのときに、たとえば藁一本の長さに限界があるように、個々の生の一本一本が複雑に絡みあって縄となり、そして時代が刻まれていく。
この時代に生を受け生きることは、それまでの過去の因縁のつながりの上に生を受け、そして自らの生をそこに絡めて表現することであり、それによってその後に役割を担う生に役割を絡めて渡すということでもある。
途中にある藁の長さが、個々の役割の範囲であるゆえ、その者はその範疇でしかものを見ない。しかし、そのようにして縄が未来へつながっていくことゆえ、今こそ過去から未来への縄の構造を理解し解釈しなければ、時代はどのような意志をそこに表現しているのか、自らが何の目的をもって生を受けているのかわからない。そういった大局に立ったところで世界があることを理解しなければ、人間がこの世界に存在していることの目的を果たすことはできない。
その時その時の状態に振り回され、自らの役割の範囲を表現するだけであるならば、この世界が過去から未来へ永遠に続いていくことの根本の目的とはずれたレベルにある。だから現代人のような自らの命の糸の範囲でしかものを捉えないのでは、この世界がなぜこのように紡がれていくのかが観えないので、その意志を受けとって生きていくことにはならない。
そうすると、世界が我らのためにあるというような錯覚にもなる。本来、世界はある場所や時を区切ってその特定だけにあるものではなく、連綿と続く生の絡み合いが過去から未来へ紡いでいくものである。
それを理解し、表現していく段階に今、人類が来た。そこには個の目的はないとも言えるし、ひとつひとつの生に焦点を当てれば、個性的な個の目的もあると言える。しかしながら、それは個々の自我を満たすものではない。個性があり、役割がある=自我を満たすこととは違う。その構造が人間にはわからないがゆえに、次の時代へどうつなげていくかということを今の人間は見出せない。それは今までの手法に囚われているからである。それは今までの手法を手放し、新たな視点を受け入れる姿勢で時の一瞬に立ったとき、時が教えてくれる。しかし、まっさらで純粋な状態になれないならば、その先の道は湧いてこない。

ここからまた、地の方に意識を戻して語ると、このユニークな生き方が自らの願いや意志では湧き出してこないということは、生きることの目的がそういった個人的なものの意識レベルを超越しているからこそ、生きることに対する願いがないのである。
それは、目的を捨てる、考えを捨てる、自我を捨てるということ。そのように生き、生に寄り添うならば、自ずとやるべきことが湧き出し、明快に歩むことが出来る。とりあえず今、僕とあなたの組み合わせでこの話を伝えるのは、この関係をもってその指針を生み出し、それを確立し示す。改めてこれを語るのは、今までのこの歩みに対する姿勢がこれから来るであろう歩みには十分であるとは言えないからである。それは、もっと凛とした姿勢で臨まなければその役割は果たせない。あなたには十分にその役割を引き受けて果たす意志はあるとみるが、その姿勢はまだ不十分である。どちらにしても道なるものを降ろし示す役割ゆえ、純粋であることはもちろん、自我におぼれることなく、その決意はふさわしいものでなくてはならない。この道を歩むものの常として見本はない。そして、理解者はない。理解する者たちは我々がその与えられた役割を果たした後に、その段階をもっておいおい現れてくる。前もっての理解者はいないと思え。
ひとつだけ心配はいらぬことがある。それは約束の道ゆえ、これを歩んで成就しないことはあり得ない。そこに迷いが生ずるとしたならば、自我が迷いをつくるだけである。極めて簡単なことだ。しかし、自我があるものにとっては難しい。今や、この時を迎えると、この現象の世界にあるものたちは全て亡者とみなしてよい。

分かった。なぜこの早朝に目覚め、あなたに語り出したのか。今日はひまつぶしメニューのコンテストの日。それも新たな時代の流れの現れ。そこでこの姿勢を示す。難しい話をかみ砕いて話す。その精神の上でアルゼンチンでの会議に使われる、次の時代を示す経済プレゼンを仕上げてもらいたい。マスコミの話を聞いていると100%お金の話ばかりする。
では、お金の話ではなければ何につなげたらいいのか。それは絆、真心。「マココロ。」
「ココロ」とは、繰り返し(コ)、転がり出た(コ)、うつろなもの(ロ)。これは宇宙の創造原理だ。

みかこ:

「金の世は済みておる」と金神様は言っている。

いさどん:

「金の世は済みておる」と金神様が言って、これだけ世の中が金の話一辺倒になるということは、末期症状ということ。

みかこ:

お金でうまくいく世の中は終わり、次の時代へのつなぎの時期ということかな。ということは末期症状ということか。

いさどん:
お金の次に何が来るかといったら、マココロ。そして命の絆。命の絆というのは作る必要のないもの。それはもともとあるもの。宇宙の根本原理。
絆は「キツナ」か、「キスナ」か?
「ス」なら「元のエネルギーが発生し(キ)、継続し(ス)、質的転換する(ナ)。」マココロと一緒。

みかこ:
そうか、宇宙の原理がこの世界に現れると命の絆になるんだ。

いさどん:
「ツ」なら「発生したものが(キ)、集い(ツ)、質的転換をする(ナ)。」
その絆の元の原理は、対向発生。今、この場は対向発生している。
この世界には無限の対向発生があり、その連鎖によってこの世界はできている。向き合うことを拒否するから、事が成らない。北朝鮮もどこかの国と対向発生すればそれでいいのだ!

みかこ:

相手を求めているんだね。単独で空砲を打ち上げている状態だものね。

いさどん:
それはむなしいよ。

みかこ:
相手をする国が現れれば態度が変わるかもね。

いさどん:

そうだね。

みかこ:
寂しいんだ。

いさどん:
そう寂しいんだよ。なぜならこの世界の根本原理は対向発生だから、自らのアクションの受け皿がなければむなしくなる。そこで、地に受け皿がないものは天と対向発生すればいいんだよ。そこではエゴに独占されているものは対象とはならない。個と個だけではなく、個は集団と対向発生することもできる。

みかこ:
天と地の対向発生もあれば、地のもの同士の対向発生もある。

いさどん:

だから、個と集団との対向発生もある。

今ここで理解するべきことは、あなたと僕には対向発生による役割があるということ。ただ、今までの姿勢では不十分なところがある。だから、もっと凛としなさいということ。そうでないと、滞ったり事が成らないだけではなく、動きや流れが悪くなる。さらに、精度を上げよ。これからは、それぞれの役割を果たすためのパートナーシップの対向発生の精度を上げていくこと。

みかこ:

しっかり受け取ります。凛とするとはどういうこと?

いさどん:
凛とするということは、しゃんとすることだよ。

みかこ:
一本柱を通すということか。

いさどん:
「リン」とは、分離する(リ)ことを強める(ン)ということ。それは自立するということ。

みかこ:

しっかり立てということか!明快だね

いさどん:
そう。でないと対向発生にならない。

 

Source of photo:www.aritearu.com/Life/Sky/Hubble/NGC2207.htm

 


ヒトイズム

─ ヒトという存在の実体は 何ものなのか ─

 
いさどん:
出口王仁三郎聖師がこの世界の仕組みを説いていたのは、今からおよそ100年も前のこと。今解明されてきているようなことがわかっていたかどうかは別としても、人としてあるべき姿勢はとっていた。それが「宗教」であってはならないということで、彼らは「大本」と名乗った。当時の日本の人口は5000万人ほどだったが、日本人の約4割が信者だったという説もある。

当時は、天理教などの宗教が世の中をリードしていた時代だった。そういう時代だったということなのだろうが、様々な教えを説く人が現れて、どれも宗教になっていった。王仁三郎聖師の弟子であった岡田茂吉氏は、独自の宗教観を持つに至り、世界救世教を立ち上げた。同じく王仁三郎聖師の弟子の谷口雅春氏は生長の家を立ち上げ、そこから影響を受けた五井昌久氏は白光真宏会を立ち上げた。みんな組織宗教となり、それが今も存在している。そういう時代だった、ということでもあり、そういった人々は、今に至る組織宗教の道を創ってきた張本人たちだとも言える。
彼らは、人として外れた心をしていたわけではない。だから、このような結果になって申し訳ないというか、本人たちも不本意なことではあるだろう。歴史を振り返れば、空海や最澄が出てきた時代もあれば、親鸞や日蓮が出てきた時代もあり、世界的な音楽家が相次いで誕生した時代というのもあった。時代がそういったものを生み出しているのだ。時代の要請を受けて出てきているのだからやむを得ないとはいえ、彼らの教えは見事に組織宗教への道を歩んできた。

ともこ:
そう思うと、本当に時代の意志を感じ取ることが大事だね。時代が今どう進もうとしているのかを感じ取り、それに沿って生きる。だけどそう考えると、「時代を創る」ということは果たして人間に可能なことなのかな。

いさどん:
時代には、骨組みがある。それは星と星との関係や、太陽系が銀河を何周回ったとか、らせんをどれだけ描いたかということによって変化していく。星々の振動や自転や公転によって、大枠が決まっていくんだよ。
その大枠の中を、トキが進んでいく。そして星々の振動や回転によって、打ち出の小づちのように、現象が振り出される。その振り出される時に、この世界へのひとつの味付けのような形で、そこに存在する者たちが何らかの形で関わることはできるかもしれない。星々が紡ぎ出すサイクルには様々なものがあり、例えば今の人間の寿命なら80年だ。それは宇宙からしたらほんの一瞬のことだろう。そこについては、もしもこの仕組みを理解したならば、自らの意志によって何らかの影響を与えることはできる。
しかし大枠については、例えば惑星や恒星の動きのような全体のリズムに至っては、コントロールすることは不可能だろう。それはもっと大きな意志に委ねられている。明らかに宇宙は生きていて、意志を持っているのだから。ただ、もしも我々の魂の次元が高くなり、視野が拡大して魂が完全に巨大な宇宙にちりばめられ、その巨大な宇宙に存在する司令塔のようなものに組み込まれるとしたら、大枠の動きとなって全体のリズムに関与する側になることも可能だ。そこまでの可能性が、人間には与えられている。

大切なのは、そういった領域を想像し、そこに思考が関わっていること。それによって初めて可能性が開く。まったく考えもしないような世界には、絶対に関与することはできない。固定概念に囚われず、いかにフリーにものごとを考えるかということだ。
しかしそのフリーな思考が、何の根拠もないものでは意味がない。そこにはやはり道理が通っていなければならない。その道理のスケールが大きいか小さいかというだけの話だ。

スケールを広げて、何億年という単位で時間軸を観てみよう。何億年というのは星の生死のサイクルだ。我々人間は、1年というサイクルを紡いで、およそ80年という寿命を持っているが、星々は何億年というサイクルを紡いで、何十億年、何百億年というサイクルで存在している。
太陽や地球はおよそ46億年前に誕生し、今日まで来ている。そしていずれは賞味期限を迎えて消滅していく。太陽の生命活動は、「誕生」して「維持」して「破壊」して、そして「空」になるという「成住壊空」のプロセスを辿っており、それで1サイクルだ。その太陽に惑星として関わる地球のサイクルは、もっと小さい。その地球に関わる生命のサイクルは、それぞれもっと小さく、微細だ。そこで何十億年というサイクルの意識を持っていたら、地球のサイクルに関わることはできるわけだ。

そういったスケールで考えてみよう。いつか地球が三次元生命を維持することができない状況に陥る時、生命の種を新たな場所へと移住させる。物理的に言えば、例えば元素のような生命の一番元となる単位のものを移住させる。霊的には、魂を引き連れていく。物理的要素を束ねている魂たちがいて、それを引き連れて新たな場所へと移住する。これはまさしく、宇宙版ノアの箱舟だよ。
それは、例えばこの地球上で木の花ファミリーを束ねて引き連れていくのと同じこと。スケールが大きいか小さいかだけで、仕組みは同じだ。宇宙を旅して新たな銀河へ向かい、そこに三次元生命を発生させる。その次元の発想を持っていれば、将来そこに関わることができる。何億年というサイクルを意識の中に持っていれば、十億年単位でそれを表現していくことができる。この宇宙空間で新たにそれをやろうとすることは、不可能ではない。なぜなら、地球にこういったものがいつしか始まったということは、どこかにあったものが移住してきたということになるのだから、地球が既にそれを立証しているのだ。

───── すごいね。今ね、目の前で、ブルーの光が点滅していたんだよ。いつも目の前にブルーの光が見える。その光というか、雲のようなものが、ぽわっ、ぽわっ、と暗闇の中で点滅していた。それが今、だんだんゆっくりになって、ゆっくりになって・・・・ああ、今、消えようとしている。
最初はブルーで、中心が白かった。その青白い光がだんだんブルーになって、ゆっくりになるに従って紫になって、それでだんだん・・・・光が小さくなっていく。紫の中心は明るいね。とても点滅がゆっくりになっている。ぽわっ、ぽわっ、と、終わっていく。何か、銀河雲の中に消えていくようだ。

ああ、そうか ───── 。

ある星が光っているということは、生きているということだ。それが終末を迎えると、光が強くなり、やがて消滅していく。そして完全に光が消えて、生命活動をしていない星が、宇宙空間にはたくさんあるそうだ。それは、見えないんだよ。存在がわからないんだよ。闇の中にあるものだから。
人間は、生命活動が活発な星だけを確認している。しかし実は、ダークマターと言われる闇の中にも、生命活動を終わって休止している存在があるそうだ。

ともこ:
それって、すごい数なんじゃない?

いさどん:
すごくいるんだよ。ひとたびある星が強い光を発すると、その光が休止している星々に当たり、それがたくさんあるから雲のように見える。太陽の光が降りてきた時に、水蒸気の粒がたくさんあると、それに光が当たって雲に見えるでしょう。それと同じだよ。今突然、そんな風景が目の前に現れた。

大切なのは、どこまで思念をフリーにして広げられるかということだ。フリーになれば、思考は自動的に湧き出てくる。例えば目が自動焦点になっているように、焦点をぐっと絞って観る。それを意図してやるのではなく、瞬間瞬間のニーズに合わせて、自動的に焦点が絞られていく。だから、気付きは自動的に湧き出てくる。それは自分の頭であれやこれやと思考を回して出てくるようなものではないんだよ。
その気付きの自動焦点機能が働くようになるためには、どうしたらよいか。それには、自らの精神を研ぎ澄ませて、無我の状態でいるということだ。研ぎ澄ませて無我の状態でいるということは、緊張も一切ないということ。リラックスして自由自在な状態だ。その状態で、思考を巡らせてみる。

「人生」というと、地球上で人として生きるという意味だね。しかし「人存」というと、人として存在するという意味になる。それは、人生よりももっと永遠なるものとして存在し、スケールもずっと大きい。人間は今、80年まで寿命を延ばして人生というサイクルを持っているが、人存というサイクルは、それこそ星と同じように、何億年というスパンで存在する。それだけのスケールのサイクルを、人として存在する。

ともこ:
人生っていうと、そこには生死があるよね。人存には、死がない?

いさどん:
宇宙創成のプロセスは、「ヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナ・ヤ・コ・ト」という数理で表すことができる。その始まりである「ヒ」から最終の「ト」までのプロセスを理解し、それらを統合して成り立つ存在が、ヒトだ。それが時代人(じだいびと)であり、時代主義(Eraism=エライズム)を生きる存在だよ。
英語には” humanism(ヒューマニズム)”という言葉があるでしょう。超自然的な存在よりも人間の理性や尊厳を重んじる人間中心主義のことで、その元になっているのはhuman(人間)だ。それに対して、人間が魂だけの状態になり、宇宙の始まりから終わりまでの仕組みをマスターした存在をヒトというのだから・・・・ヒトイズム!これはヒトイズムだよ!

やはり、世の中がここまで行き詰まってくると、人々に新たなフロンティアの夢を与えなければいけないね。新たなフロンティアとは宇宙時代にあり、それは次の時代を語れる人でなければ与えることはできない。
今、社会は欲の渦に巻き込まれて成り立っている。それは自制心でコントロールできるものではなく、どこかで振り切ることが必要だ。しかし、個人は既に、こんな社会はおかしいと感じ始めている。そして社会と一線を画しながら、それを止められずにいる。だから、社会よりも先に個人が目覚めていくだろう。

ともこ:
この世界の仕組みをマスターするのに、やっぱり星ではなくて、人としての形態をとる必要があるの?

いさどん:
ヒトというのは、人間という地球上で物理的に進化してきたもののことではないんだよ。それは、物理的に進化してきたものが最終的に到達する目的地点であり、宇宙にはもともとヒトという意識レベルの存在があったはずだ。なぜなら、ヒトとは宇宙の仕組みをマスターした存在を言うのだから。
ついつい人間たちは、ヒトのことを人間と勘違いする。人間とヒトでは、定義が違う。ヒトは形ではない。宇宙の法を理解し、マスターした存在をヒトと言うのであり、それは目覚めということでもある。

昔、人々は天の星々を見て、今自分はどこにいるのか、季節はどのように巡っているのかを知っていた。まず、太陽を見る。次に月を見る。そして星を見る。命と天体が直結し、それによって自分たちが生かされていることを理解していた。それは思考を超えたものだ。人間の中にはそれを感受する受信機のようなものが内在していて、その時代にはそれがまだ生きていた。今は全て携帯などに置き換わってしまったけれどね。

ともこ:
カレンダーができて、時計ができて、そういうものを頼りに今の人間は生きている。だけどそれも元をたどれば、すべて天体をベースにして創られている。

いさどん:
だから、すべては星なんだよ。天体なんだよ。すべては天の意志だ。どうしてそんな当たり前のことを忘れてしまったのだろう。今もそれによって生かされているのに。
我々が天体の動きを感じるのは、目や耳などの五感で感じる程度のものだろう?それを眼耳鼻舌身意という五感+一感、つまり六感で解釈していくのだが、その奥に、それを統括しているものがある。その統括しているものが、受信機になっている。それが我々の体だ。体は全細胞の集合体であり、細胞の一つひとつが受信機だ。その受信機が星々と対話して、我々は生きている。それがヒトの本当の姿だよ。それなのに、そのことをまったく考えもしないのは、ある意味退化している。それを復活させるのが、目覚めるということなのだろう。それが時代人であり、ヒトなんだよ。

昔はそういった位置に行った者を聖人と呼んだ。するといつしか神格化されてしまい、仏像のように祭壇に祀られて崇められ、身近な存在ではなくなっていった。しかし本来、すべての人がその領域へ行く潜在能力を持っている。その時代が始まった。誰かを崇めるのではなく、日常会話の中でそれが語られたり、表現されていく時代だ。

人間は何か滞りに出会うと、それを不愉快なものだと捉え、滞りを避けようとする。しかし滞りを乗り越えた時、そこでは必ず一回り進化した新たな世界に出会う。つまり滞りとはとても大切なものであり、我々にはその滞りの正体を見極めるだけの余裕が必要なんだよ。
それには、0.5秒待てばいい。どういうことかと言うと、地球46億年の歴史を1年に例えると、イギリス産業革命が起きたおよそ250年前から現在までは、たったの2秒間だ。その2秒の間に人間社会は劇的な変化を遂げたが、それも宇宙の歴史からしたらほんの一瞬のことであり、時代は常に先へ先へと進みながら、確実に変化し続けている。そしてそれはひとつらなりの物語となって、永遠に続いていくんだよ。そういった大きな視点を持てずに自らの物理的寿命に囚われて何とか解決しようとすることは、とても気の短いことだとも言える。
そこで、0.5秒待てるかどうか。その余裕がなければ、宇宙の実体は観えてこない。

例えば、医者が病気について「今病気はこのように進んでいて、それをこういう風にすればこうなって良くなりますよ」と言うのは、科学的分析の結果の話であり、人間が理屈で理解して納得できる世界だろう。しかし、この世界は人間の理屈を超えたところで成り立っている。だから科学や理屈で考えて納得できるところを超えた時に、奇跡が起きるんだよ。

宇宙は奇跡の連続だ。なぜなら、もともと人間の思考のキャパを超えたところで成り立っているのだから。だから宇宙を生きるという意識レベルを考えるのならば、科学や理屈を超えたところでものごとを受け取る器を持つことが必要だ。そうでなければ、真実は観えてこない。
それには、人間壊しをすることだ。人間を壊して、ヒトとして存在する。それがヒトイズムだ。

さて、それがこれからどのように世界に現れてくるのかが、楽しみだ。

 

 

Source of image:www.stuffhood.com/post/emma-lindstrom


円が縁を紡ぐ 〜 人間からヒトへ

— 世界は常に我々に 次のA’を与えている —

 
いさどん:
昔、仕事で自宅のあった小牧市から豊田市に行くために、高速道路を走っていた時のこと。車を走らせていると、道路上の車線を区切る白い破線が、ピッ、ピッ、と後ろに流れていく。それがトキの流れに見えた。

小牧から豊田に向かうということは、小牧が過去になり、豊田は未来になる。未来の豊田から白い破線がサーッと流れてきて、過去の小牧へと遠ざかっていく。破線は次々と絶え間なく流れてきて、一瞬一瞬豊田が近付き、小牧が遠ざかるのだ。仕事が終わって帰る時には方向が逆になり、今度は小牧が未来で、豊田が過去になる。破線は小牧から豊田へと流れ、徐々に小牧が近付き、豊田が遠ざかっていく。

何だこの世界は、と思った。その時、僕は豊田から小牧へと向かっていたが、それはある場所からある場所へ移動しているのではなく、時間に乗っているのだということに気が付いた。破線の一つひとつがトキの区切りで、それが未来から現在に近付いて来て、過去へと遠ざかっていく。そんなふうに思えた。そして、横の景色が後ろに流れていくのが、出来事の流れに見えた。

当時のアメリカの大統領はレーガンだった。留まることなく後ろへ流れていく白い破線をトキの流れのように感じながら、遠い国に生きる人々も、例えばアメリカの大統領ですら、この薄っぺらな時間に乗っているのだと思った。現象として存在しているものは皆、この時間に乗っている。それはとても薄っぺらだ。このトキの乗り物からほんの一瞬でも外れたら、見えなくなる。死ぬとはそういうことだ。

もしかすると、この薄っぺらな時間から外れたら、死ぬのではなく消えるということなのかもしれない。そしてまたこの薄っぺらな時間に戻ってくることができたら、消えたものがパッと現れる。

過去というのは、薄っぺらな瞬間をトキが漫画のコマ送りのように渡り歩いてきた結果今に至って、認識しているのだから、過去は今もある。そうすると、未来も、実はある。もしかすると、我々は、トキと共にこの薄っぺらな瞬間の羅列をコマ送りのように渡り歩いているから、トキが動いて、現象が起きているように見えるのかもしれない。パタパタパタと漫画がコマ送りされて動画になるように、宇宙には瞬間瞬間がすべて存在し、延々と連なっていて、そこを渡り歩きながら我々は存在しているのではないか ――― 。

そんな思いを巡らせながら、高速道路の白線が後ろへ流れていくのを見ていた。この上に、アメリカの大統領でも何でも、すべてが乗っている。我々は時間人間だから、常にトキと共にある。この世界が流れている。

 
移ろいゆく世界

トキが止まらず、こうして動いているということを、人間はわかっているようでわかっていない。本当に早く動く。個人で言ったら、それは死が近付いてくるということだ。そして全体から言ったら、トキが進んで時代が動いているということ。そのメカニズム ――― メカと言うべきかどうかわからないが、トキの動きを発生させているのは天体の動きだ。天体の見えない歯車がかみ合って、トキという見えないものを過去から未来へと一方通行に動かしている。
そして驚くべきことは、その巨大なトキとトコロの仕組みが、また元へと還ると来ている。元といっても、A地点からA’へ行くわけだから、同じではない。そんなことを一体全体何が存続させているのだろう。それは思考してわかるものではない。あるから、あるのだ。

例えば、人間の体も同じことをしている。今日というA地点から明日というA’地点へ移りゆくように、毎日の羅列がトキと共に寿命を消化していく。ある部位の細胞が、寿命が来て垢となり、体から離れていくと、その部位には新たな同じ役割の細胞が生じ、体全体の維持を担っていく。しかしそれは、元のAではなく、1サイクル進んだA’なのだ。その連続によって、全体の老化が進み、寿命が尽きていく。
その時に、時々間違いが起きる。それが病気の元となったり、例えばガンのようなものを発生させることにもなる。なぜ間違いが起きるのかというと、人間が法則に沿って生きないからだ。しかしながら、そういった人間の性質も含めて、それが法則なのである。

DNAの中には、過去の体験が情報として刻まれている。そこには、病気を引き起こす要因など、そのものの性質を示す様々な情報がある。そこを解明し、病気の要因を取り除けば、その病気になることはなくなる。DNAの配列を病気の心配のない健康なものにすれば、完璧な設計図に基づいた健康体の見本のような人間を創ることも可能だろう。
ところが、人間には個性がある。一人ひとりがオリジナルかつユニークであるように、大本の設計図から少しずつずらして創られている。それが自我の表現であり、クセ性分であり、個性だ。既製品のように同じものを創るのではなく、すべての存在がオリジナルであることがこの世界の目的である。それが生命の特徴であり、同じものは何ひとつない。人間は自我を持ったがために法則から外れもするが、そういった人間の性質すらも法則の内にあるのだ。

そこで思うようにならない人生に出会ったとしても、悩むことではない。ただ、移ろいゆく世界を受け入れていく。それは「いただきます」ということだ。
「いただきます」とは、「頂き」が「増す」ということ。「頂き」とは頂上のことであり、それが増すということは、登れば登るほどその山がどれほど高いかがわかる、終わりなき道であるということだ。「いただきます」という姿勢が、精神性をどこまでも高めていく。

世界は移ろいゆくもの。それを、今日も昨日と同じでありたいと願ったり、今の富を保ち続けようと執着したり、何かを失うことを嘆いているようでは、移ろいゆくことに対して抵抗する心が生まれ、そこから悩みや苦しみが発生する。かつてお釈迦様は、生老病死は人として生きることの定めであり、人として生を受けることは四苦八苦に出会うことであると説かれた。生老病死は移ろいゆく世界の象徴であり、人生そのものだ。そこに抵抗するから苦しみが発生するのであり、ただ「いただきます」と受け入れてゆく精神状態になれば、四苦八苦は自ずと消える。

ともこ:
おもしろいね。例えば過去のある一時点で出来事が起き、それに対してネガティブな感情が発生したとするでしょう。そしてその後もその感情を引きずって落ち込んだりするけれど、宇宙には瞬間瞬間がすべて連なって存在し、私たちもそこを渡り歩きながら生きているとしたら、それは過去の出来事によって起きた感情がずっと継続しているのではなく、毎瞬毎瞬、そのネガティブを持ち続けることを自分が選択していることになる。世界が次へ次へと移りゆく中で持ち続けるのだから、ある意味その姿勢はすごく積極的だよね。

いさどん:
出来事自体は何も感情は表現していない。そこに感情的に反応している自分がいるだけだ。自分の中にあるクセ性分がその感情を引き起こしている。そこに気付けば、悩み苦しみはたちどころに消えるだろう。

 
世界を感じ取る

すべてのものは動いている。それを一直線に進んでいるかのように見る捉え方は、動いているものの本質をつかんでいない。本質がつかめていないと、単純なものの捉え方をする。一直線にものを見ていては、ただ左から右へと流れていくように一瞬一瞬を無自覚にやり過ごすだけで、その全容を捉えることはできない。

トキが経つとは、「今」が移りゆくということ。刻一刻と今が刻まれ、世界が移ろいゆく。今この瞬間も、トキは刻まれている。
僕は毎朝目が覚めると、「ああ、また朝が来た」と思う。日常の中でも、道路の破線が、ピッ、ピッ、と後ろへ流れていくように、「また行った」「今も行った」と、絶え間なくトキが流れ続けていることを感じる。毎瞬毎瞬、新鮮なトキがやって来る。朝が来て、夜が来て、また朝が来て、夜が来る。それを延々とくり返す。ただトキが流れているだけではなく、そこには常に新鮮な出来事との出会いがある。トキは留まることなく新鮮な瞬間を刻み、新たな出来事との出会いを我々に提供し続けている。それはとてつもないエネルギーだ。そのエネルギーによってこの世界が動いているのだが、ほとんどの人はそのことを意識せぬまま、トキのもたらす動きの中にどっぷりと無自覚に浸かっている。

なぜこれが存在しているのだろうか。このような思考回路が動き出した者には、世界はとても新鮮で不可思議なものに観える。しかしそこに意識が向かない、或いは興味のない人々にとっては、何を言っているのだろうという世界だ。言葉で表現するのは無理なのかもしれない。それは言葉で表すものではなく、感じ取るものだから。

我々はトキに乗って動いている。そうしてこの世界が移りゆくことを、時代と言う。我々生命が存在する世界を動かしているトキと時代は、生命そのものだ。
人々はその存在を意識していない。意識したとしても、それに逆らうことはできない。それは目で見ることはできない。しかし、確実にある。とてつもないエネルギーで世界を動かし、紡いでいる。それはいったい何ものなのだろうか。

 
それはあたかも銀河のようだ

トキは一方通行に、コッ、コッ、コッ、コッ、と確実に刻まれてゆく。それが昨日から今日、明日へと進むのを一直線に見ているのは、思考の幅が狭いからだ。単純な発想で見ていると左から右に動くように見えるが、ものが動くということは、そこに必ず中心となる一点がある。そして縁のあるものがその周りに集い、回転するという形になって初めて、ものが動くことが持続する。直線ではなく、円運動をしているのだ。
それは「縁」というもので紡がれる。「円運動」とは、「縁運動」でもあるのだ。縁とは、約束事。縁という見えない糸があり、それがバラバラであったものを約束のようにつないで、全体が回り、巻き込んでいく。それはあたかも銀河のようだ。

6-6p

円の中心の一点は、止まっているかのように見える。しかしその一点も、さらに大きな役割のもとに何かの周りを回っている。中心が止まっている状態になったら、外の円運動も起きない。すべてが連動して動いているからこそ、個々の円も成り立つのだ。

そう聞くと、科学する人々は「それはどういう仕組みですか」と聞いてくるかもしれない。それを解明し、立証するのがその人たちの役割だ。
インドのある聖者は、素粒子のことを「宇宙電子」と言った。インドの思想に素粒子という概念はなかったが、彼らは素粒子の存在を理解していた。では素粒子を物理的に説明できるかというと、それは物理的に解説するものではなく、この世界はそういったものでできている、ということに過ぎない。それは素粒子よりもさらに微細な、宇宙最極小微粒子である「カ」も同じことだ。物理的に説明するものではなく、それがあることを感じるものであり、それが真実だ。人間には、それを感じる能力がある。
アインシュタインが相対性理論を頭の中で思い描いた時も、その時点では物理的な裏付けはなく、後から立証されていった。今でこそ人々はそれを素晴らしいと称賛しているが、ではそれが立証される以前に同じことが語られていたら、同じようにそれを認めただろうか。物理的に立証されてもされなくても、人が「そうだ」と感じることが真実なのだ。

 
世界は生命そのもの

ともこ:
人は解明できないことを、物理的な理屈をつけて解釈したがる。それでは「なぜ生命は生まれたのか」というような話になってしまうね。

いさどん:
なぜ生命が生まれたのかというと、世界があるからだ。この世界は生命そのものであり、それを立証するために三次元生命が生まれた。その三次元生命の発生の元となっているのが縁であり、縁とはこの世界の秩序をつなぐもののことを言う。
この世界は、秩序を持って動いている。秩序があるから生命は発生する。そして秩序があるということは、その奥に、秩序を束ねている意志があるということだ。その究極を神という。なぜ生命が生まれたのかと言えば、そこに秩序があるからであり、世界が生命であるということを悟らせるために三次元生命が創られたのだ。
しかしそこに秩序が観えないものにとっては、神はいないことになる。そして生命は発生しない。秩序を観たとしても、その秩序をどのレベルで観ているのかによって、神の存在も、生命の成り立ちも、変幻自在に変化する。同じ生命であっても、その人間の意識がどこにあるのかによって観えるものが変わってくるのだ。そのくらい世界は変幻自在であり、至るところにその種は遍満している。科学が探求していく先にも、常にその答えは待っている。

この世界の成り立ちは円運動から成り、それは秩序のもとに、約束通りに動いている。約束通り動くには、軸が必要だ。すべてのものの中心には軸があり、それがもう一つ大きな軸の周りを回っている。地軸があるから地球は自転し、振動し、歳差運動をしながら、太陽の軸のもとにその周りを回っている。そして太陽もまた同じように自転しながらセントラルサン(銀河の中心)の周りを回り、銀河も同じように、さらに大きなものの周りを回っている。単独で存在しているものは何ひとつない。すべてが無限に連鎖して、その関係の中で互いの存在を成り立たせている。ということは、世界がひとつだということだ。

 
「縁」とは「円」

このように複雑な動きが、なぜ継続してあり続けることができるのか。ものとものとは、互いに存在し合うために対向発生をする。そこでは約束事のもとに縁が生まれ、円運動をすることによって縁が紡がれていく。
そこでひとつの円を区切って見ると、中心は止まっているように見える。例えば太陽暦の視点から見ると、太陽は止まっている。しかし視野を広げてみると、太陽ももうひとまわり大きな縁によって円運動をし、らせんを描きながらさらに大きなものの周りを回り続けていることがわかる。そのらせんとは、私たち生命のDNAの構造と同じだ。

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太陽系や宇宙というマクロの世界も、DNAのようなミクロの世界も、同じ構造で成り立っている。人間が人生を生きる上で出会う出来事や人間関係も、それと同じ構造になっている。おもしろいことだ。
これからの時代を生きる人々は、そのような宇宙的仕組みを理解し生きることで、個人的な欲望や野心によって生きるのではなく、大いなる意志(時代の流れ)に寄り添っていくことに目覚めなければならない。

 
混乱にも意味があり、一瞬のことである

2016年も世界中で様々な出来事が起こり、世の中は大きく混乱している。どのような対策をとっても出口を見出せない、泥沼のような混沌とした状態が続いているが、世界のリーダーたちは、表面的な対策でその解決が図られるかのように、今なお同じような対策を取り続けている。それもいずれは、無意味だということに気付く時が来るのだろう。

視野を広げて観れば、今の混乱も意味があることであり、一瞬のことであることがわかる。我々の寿命を80年とすると、冥王星の1周である248年のサイクルからしたら3分の1だ。地球の46億年の歴史を1年に例えたら、我々の80年の寿命はたったの0.7秒だ。1秒にも満たない。
高速道路の白線がピッ、ピッ、と後ろへ流れていくように、トキは留まることなく確実に刻まれていく。その中で、無数の生死が繰り返されている。そのとても巨大で複雑なメカニズムは、とても単純な仕組みでできている。ということは、ものごとを観る視点を変えれば、とても簡単に理解できるということだ。

 
その視点をあなたは持てるか

そうやって心を大きく広げながら、ふっと肉体目線になる。今、木の花では「ロータスランド」というアンテナショップをオープンさせるための準備をしているが、それもこの壮大なトキの流れからしたら、ほんの一瞬の出来事だ。そう思いながら、地上で生きている限り、その一瞬のサイクルに付き合っていくことで命が紡がれていくことを意識し、それに付き合っていく。もしもそれに付き合わない立場でトキの動きを眺めるというのなら、命を返上して上から眺めていくことになる。
上から眺めるには、意識が高くなることが必要だ。もうひとつ大きな意識の命のサイクルに入るから俯瞰できるようになるのであり、対象と同じサイクルに乗っかっていてはそれを俯瞰することはできない。そこを超えた意識になってこの世界を眺めると、全体を俯瞰しながら「ちょっと方向を変えてみようかな」というように、この世界を運営する側に立つことになる。その領域に行けるかどうか。

ともこ:
そうやって世界を俯瞰して運営するのも、自分の心を観て自分をコントロールしていくのも、同じ仕組みだね。

いさどん:
同じだよ。我々の思考回路も天体の動きも同じ仕組みになっていて、その仕組みをどこに当てはめたのかというだけだ。大宇宙に当てはめたのか、地球生態系に当てはめたのか、個人の人生に当てはめたのか。

 
トキの旅人

いさどん:
円運動には、必ず中心の軸がある。中心の軸とは、トキ軸だ。現象界は、「トキ」と「トコロ」の対向発生によって成り立っている。縦のトキ軸に対しトコロ軸という横の働きが生まれ、現象が発生し、その連なりが時代を紡いでいく。
その一部を切り取って見ると、それは十文字に見える。それがカタカムナ文字の「+」=「ト」(統合を表す)だ。しかしそれは平面上に表すからそうなるのであり、実際はトコロ軸は回転運動をしている。そして留まることなく進み続けるトキ軸にトコロ軸がついていくということは、トコロ軸の円運動は常にらせんを描くことになる。さらに、中心のトキ軸も、もうひとつ大きなトキ軸の周りを回っており、それもらせん運動になっている。とても複雑な関係だ。

すべての現象は、円運動をしている。その円運動の関係の中で出会う現象に自らがどのような縁を持っているのか ――― 近いのか遠いのか――― それによってトコロが移り変わり、互いに対向発生をしながら円運動を続けていく。それが人生だ。
円(縁)は無限にあり、そのすべての中心をトキ軸が貫いている。つまり、この世界はいたるところがトキ軸だらけだ。我々の体はおよそ60兆個の細胞から成っているが、その細胞の一つひとつをトキ軸が貫いている。なんという宇宙ロマンだろうか。

そしてらせんを描いているということは、そこには必ずサイクルがある。円の一つひとつに固有のサイクルがあり、我々の一生である80年というサイクルもあれば、虫の一生である何ヶ月というサイクルもあり、バクテリアなら何秒ということもあるかもしれない。星々なら何十億年、何百億年だ。ミクロからマクロまで、無数のトキ軸が複雑に連鎖しており、そのすべてを束ねて貫くのも、トキ軸だ。その仕組みが理解できると、トキを紡ぐ時代は生き物であり、その時代を生きる我々は、トキの旅人であると言える。

縁が切れれば円運動は止まり、現象が消える。それは、円運動が縁を継続させているということだ。

ともこ:
昨日、なぜ日本の通貨の単位は「円」なんだろうと考えていたら、ちょうど今日いさどんから円の話が出てきたのがおもしろい。

いさどん:
お金は社会の血液であり、世の中を巡り巡って隅々までをつなぎ、また戻ってくる。すべてが円運動だ。そしてそれは、縁で紡がれていく。我々の体の中をめぐる血液と同じ仕組みであり、役割だ。

ともこ:
私たちの命も円運動によって成り立っている。円運動がなくなれば、トキ軸が消滅し、現象も消える。

いさどん:
それが死だよ。寿命というのは、例えるならはずみ車の動きのようなもので、回転が始まると縁ができて、そこにひとつの生命としての形が成り立ち、その生命固有のサイクルが始まる。そしてその回転が終わる時が寿命だ。回転が強くて広いほど長いサイクルになり、弱ければ短いサイクルになる。それが他の円運動と複雑に連鎖して、壮大な生命の織物を織りなしているのがこの世界の実態だ。

 
すべては宇宙の始まりから終わりまでを紡ぐひとコマ

ともこ:
なぜ自分は存在しているのだろう、と思う。縁によって紡がれた結果「私」という形が存在しているけれど、そもそもなぜ縁は発生するのか。少なくとも自分で意図して私を私たらしめている気はしないのだけど、縁が発生するということは、そこにやはり意図が働いているということ?

いさどん:
縁は、意図が働くことで生まれる。意図とは、糸だ。縁という見えない糸がバラバラのものをつなぎ、回転が起きて、現象(形)が生まれる。

人間には、自らが認識している自分と、認識できていない自分とがある。それはどういうことかと言うと、人間はある段階に至ると、それまで認識せずにいた新たな自分を発見する。しかしその自分とは、認識する以前からずっとあり続けたものだ。
現在の自分が成立する以前から、自分というものはある。過去の自分がつくったものが因となり、その結果として現象が現れる。それを因縁という。この世界は、因縁にふさわしく現象が起きる因果応報の仕組みで成り立っている。遠い過去からずっと続いてきた物語として現在があり、今この瞬間も紡いでいる縁が次の出来事につながり、そこからまた新たな縁が生まれて次の出来事へとつながって、物語は未来へと続いていく。因縁の始まりは宇宙の始まりであり、因縁の終わりは宇宙の終わりだ。それは永遠に続くということ。すべての存在は、宇宙の始まりから終わりまでをつないでいるひとコマだ。

宇宙の終わりとは、潜象界に還るということ。成住壊空で言えば、「空」の状態だ。空とは永遠であり、我々現象界の存在には解釈できない世界だから、一瞬の点であるとも言える。
宇宙は、誕生、維持、破壊、空という成住壊空のプロセスを延々とくり返している。その終わりのひとコマは、次の始まりのひとコマと重なっている。そこは空であり、永遠だ。しかし我々現象界の者には、終わりが即始まりであるかのように見える。法華経に「三千塵点劫(さんぜんじんでんごう)」という言葉がある。宇宙は誕生から消滅までを三千回繰り返してきたのだと言う。三千回というのは、それだけ気の遠くなるほど、無限にくり返しているということだ。

それだけのスケールでものごとを考えるようになると、身近なことに囚われなくなる。しかし囚われないからと言って、今目の前にあること、例えば朝起きたり、食事をしたり、仕事をするという日常のことをおろそかにするということではない。すべての現象は自らの意識レベルにふさわしく存在するのだから、それを無きものにしてはいけない。それは壮大な宇宙ドラマからすれば瞬時のことであるのだから、囚われる必要もない。囚われずに、情報としてそれと付き合っていくことだ。

 
人間にとって最大のテーマ

人々は物語の一部を切り取り、それを自分だと思っているが、すべてがつながって現在の自分がある。その一部を区切って捉えていては、真実にたどり着くことはできない。瞬間瞬間紡がれている因縁によって現象は次へ次へと変貌し、そのうちに過去が記憶の彼方へと追いやられると、今記憶している自分だけが自分であるかのように思うのだが、記憶の彼方の自分が築いた因縁の結果が、今のあなた自身だ。ということは、自分は宇宙そのものである、ということになる。

ようこ:
「インネン」の思念をカタカムナでひも解くと、「イ」は「位置」を意味する思念で、「ン」はその思念を強めるもの、そして「ネ」は「根」を表している。つまり、位置が特定されるとそれが根のように見えないところでぶわぁっと広がっていく。それが因縁なんだよ。

いさどん:
つまり因縁とは、とても根深いものだということだ。過去の因縁の結果が今に現れているということは、逆に言うと、今起きている現象が、見えない根、即ち過去の因縁を示しているとも言える。つまり、現在の自分自身を深く観察すれば、過去世に想いを馳せなくとも、自らが過去にどのような歩みをしてきたのかが観えるということだ。

ともこ:
同じ出来事であっても、それをどのように解釈するかという瞬間瞬間の自分の心の状態が未来の縁を紡いでいく。

いさどん:
意識が高いのか低いのか、広いのか狭いのか、それによってトコロ軸の振幅や、サイクルの緻密さが変わる。それをどう表現するのかは、自分次第だ。人にはそれぞれその人固有の歴史があり、過去の体験をもとにした情報がその人の人間性や性質によってDNAに刻まれていく。その情報が元となり、未来が創られていく。だから縁を紡ぐ意図とは、生命輪廻を司る宇宙法則そのものであり、その人自身の意図でもある。

ともこ:
だけどこういう仕組みを知らなければ、意図も無自覚な意図になる。それでも意図と言えるのだろうか。

いさどん:
それは無自覚に紡いできた意図が、無自覚に表現されている状態だ。それを自覚して生きる状態になれば、生きること自体を自己コントロールできるようになる。それがどんどん拡大していくと、生命であるこの世界を運営する側にまで育っていく。自分すらもコントロールできずに翻弄されて生きるレベルもあれば、この世界を運営する側に立つ者にもなれるのだから、人間の可能性は本当に幅が広い。
可能性を開くには、そこを探求する意欲が必要だ。それを求める意欲があれば、トキはそこに到達するために動く。このトキという列車の行き先は、意図によって変わっていくのだ。意図が働かなければ、単なる無自覚の時間がどんどん経つだけになる。それを無自覚の意図と言う。

ともこ:
例えば何かの事故に出会えば、多くの人は自分を被害者にして相手を責めるけれど、それも実は過去の自分が築いた因縁によって出会っている。そうかと言って、じゃあ全部自分が悪いんだとすればいいのかというと、そういうことでもないね。

いさどん:
それは、ものごとの成り立ちを学ぶ学習の機会だからね。だからこそ、そこに感情が入ってはいけない。感情を入れずに客観的に捉えれば、それは学習の機会となり、この世界を理解するための積み重ねとなっていく。そのことによって自らのキャパを広げ、より高く広い意図のもとに人生を歩むことができるようになる。
逆に言えば、自らの感情に囚われて特定の概念でものごとを解釈していては、いつまでもそれを学習の機会とすることはできず、同じ状態に留まり続けることになる。それは、常に変化変容し続けるこの世界からしたら、落ちていくということだ。世の中には、自らが感情的になっていることすらわからない人々がたくさんいる。冷静に判断しているつもりでも、実は無自覚な感情に基づいて判断しているのだが、本人にはそれがわからない。現代は、そういった人々の感情が募り、国家規模で感情と感情のぶつかり合いが生じ、それが難しい時代を創る大きな原因となっている。
自らを冷静に観て、自身が何者であるかを知るということは、人間にとって最大のテーマだ。自らがどのような状態でいるかによって、可能性を限定することにもなれば、どこまでも無限に広がっていくことにもなるのだ。

 
壮大なるクセ性分

縁は、円によって継続していく。トキ軸の動きは一直線に見えるが、区切らずに見ればすべて円運動になっている。円運動がトキ軸の動きに連動すると、らせんとなる。太陽系の惑星たちがらせんを描きながら太陽を回り、太陽もまたらせんを描きながら銀河を回って宇宙を進んでいく動きは、この世界の構造そのものだ。

太陽系の惑星には、それぞれに個性がある。「伝達」や「素早さ」を表す星である水星は太陽の一番近くを高速でクルクルと回り、「愛」や「美しさ」を表す金星は安定して美しい真円の軌道を描き、地球は微妙な楕円軌道をグゥウン、グゥウンとグルーヴを刻みながら回り、「情熱」や「行動」を表す火星は極端な楕円を描きながらダイナミックに回っている。軌道もスピードもそれぞれで、その動きはクセ性分そのものだ。太陽の周りをその星らしく回りながら、互いに連携し合い、共に進んで、全体がハーモニーを奏でている。
それぞれの星はクセ性分のまま一定のリズムでサイクルを刻み、ワンパターンに進んでいる。それが個性として約束通りに存在しているから、互いに連携することができる。太陽系のトキ軸は太陽だが、太陽もまたクセ性分のままに、約束通りに進んでいる。

ともこ:
そうか!クセ性分とは秩序なんだ。まったくクセがなく完全にフリーだったら、そこにサイクルは生まれないから、約束もできず、連携しようがないよね。

いさどん:
そう。クセ性分が秩序だ。木の花ファミリーというコミュニティで言うと、僕がトキ軸で、みんなはその周りをクセ性分のままに回っている。僕が向かうべき方向を示すと、それに沿っていく者もいれば遠く離れていく者もいて、もう戻って来ないのかと思えばやっぱりメンバーだから遠回りしながらも戻ってくる。
クセ性分とは、言い換えれば個性のこと。自らがどのような特性を持ち、全体の中でどのような動きをしているのか。ただ無自覚にクセ性分のまま行動すれば全体の調和を乱すことにもなるが、それを客観的に捉え個性として活かせば、多様性を広げ、全体の可能性を開くことになる。なくすのではなく、有効利用するということだ。
クセ性分があるから、この世界に動きが生まれ、現象が起きる。人間も惑星も銀河もクセ性分を持って存在している。その究極の壮大なるクセ性分が、神の実体だ。

ともこ:
そうだね!神様にクセ性分があるから、世界に秩序があるんだね!地球や太陽が秩序を持ってらせん運動をしているから、毎日同じように朝が来て、夜が来て、四季が生まれて、私たちの命の営みが可能になる。もしも秩序がなくてみんなバラバラに動いていたら、四季もなければ一日もないから、作物を育てようにもいつ種まきしたらいいのかもわからないし、そもそも生命自体が発生しようがない。クセ性分があるからこそサイクルが生まれて、生きていける。

いさどん:
それは命の約束事だ。神のクセ性分というルールの中で、すべてのものは存在している。
星々は一つひとつが本当に個性的だ。そして単独で見ると偏っている。例えば木星は「拡大」や「発展」が役割であり、土星は「制御」や「そぎ落とし」が役割だが、拡大ばかりでも、そぎ落としばかりでも、コミュニティは成り立たない。単独では成り立たないものが集い、それぞれの個性を表現しながらネットワークすると、全体でバランスが取れていく。一つひとつは個性的で偏っていながら、全体が調和している。それが宇宙の法則だ。
庶民が目覚めるとは、そういうことだろう。中国の天盤の巡りによれば、21世紀は「庶民の目覚めの時代」だと言う。これまでは「豊かさとはこういうものだ」とか「優秀であるとはこういうことだ」というように、それぞれのイデオロギーや宗教によって定義付けをし、皆が一律に同じ理想を追い求めてきたが、宇宙の実体はそうではない。あなた自身が、実は極めて個性的で、他にはないオリジナルな存在なのだ。そのことに無自覚でいると、個性は単なる不調和の原因ともなり得るが、それを十分に理解し、自分にしかできない役割を果たすことで社会に還元していけば、「ここにあなたがいてくれてよかった」というように、あなた自身が活かされていく。そのハーモニーを創るのが庶民の時代だ。一律の価値観で既製品化していくのではなく、誰もが個性的で、活かされる。そうしたら、いらない人はいない。それはとても豊かな世界だ。

 
当たり前の「宇宙評論家」

ともこ:
いさどんを見ていると、楽しそうだな、と思う。いさどんは何かをする時に、一人でやるということがないでしょう。例えばプレゼンを作る時はみかちゃん、鬼の面ならりょうちん、木の花菌ならひろみちゃんというように、場面ごとにいろんな人やチームと、木の花のメンバーに限らず外の人ともパートナーシップを組んで事にあたる。それだけ個性的な人たちと何かをすれば、それぞれに違った世界がそこに生まれる。一人では表現できなかったことが可能になっていく。それはこの世界の仕組みそのものだと思う。

いさどん:
それはとても面白くて楽しいことだよ。僕は全てを与えられているわけではない。感覚的なことや智恵が湧き出すことはあるが、それを全て自分でやろうとしたら、やりきれないだろう。例えば鬼の面でも、今回はこういうものだというひとつの感性のようなものはあるが、それを創る人は別にいる。いろいろなことに関わってそこに何かを提供しながら、どれも自分がやっている気持ちでありながら、実はどれも自分一人ではやれない。そこにいろいろな人が個性を発揮しながら関わっていくことで、普通ではできないようなことがやれるようになる。これからは、そういった個人の活かし方の時代が始まるのだろう。

ともこ:
それはどこでも起こり得るのだろうと思う。今はまだ、意識が自分という枠の中に囚われているから各自がバラバラに動いているけれど、意識が解放されていけばどこでもそれが起きるようになる。

いさどん:
自分の中で自己完結したいと思う人間は、一人でそれを抱える。僕は表面を泳いでいるようなものだ。いろいろなことに関わりながら、どれひとつ、一人でやっているものはない。それもひとつの個性なのだろうね。

ともこ:
いさどんは、悩む時でも自分のことではなく人のことで悩んでいる。

いさどん:
「どうしたらいいだろうか」と思うのは人のことばかりだね。自分のことは、「こういう性質のものだ」と捉えているから、そこに感情が動くことはない。それが一種の定めとも言えるだろうか。定めと言うと固定されているもののようだが、固定されているのではなく、あえて言うなら「宇宙評論家」のようなものだ。

ともこ:
それも個性だね。

いさどん:
しかし僕が語っている内容自体は、個性的ではない。僕が語っているのはこの世界の法則であり、個性的でも何でもない、当たり前の話だ。人々はなかなか自我から抜け出せず、世界を客観的に観ることができないから、僕が個性的に見えるかもしれないが、ひとたびその視点に立てば極めて当然のことを語っているに過ぎない。
生命は皆一定のサイクルでらせんを描いており、トキが昨日から今日、明日へと進んでいく日常はらせん構造だ。もともと星がそのように動いているのだから、我々もすべてその仕組みによって成り立っている。その一部だけを切り取って、わからないと否定する自我のフィルターをかけ、新たな情報を取り入れようとしない姿勢を取っていると、「理解できない」という結論になる。しかし、囚われのない姿勢でそれを情報として受け取り、道理に沿って考えてみれば、当たり前に理解できることだ。

ともこ:
その中で毎日生かされているんだものね。今こうして世界の仕組みを聞いて、改めて「すごい!」と感動しているけれど、こんなふうに驚いていること自体が、いかに日々そういうことを観えずに生きているかということだね。

いさどん:
それだけ視野が狭いということだ。自分の身近なところしか見ていない。

ともこ:
昔、時計もカレンダーもなかった時代には、人々は天体の動きを観て季節の巡りを知り、それを狩猟や農に反映することで、生活を成り立たせていた。天体が世界の移り変わりを教えてくれる唯一の手掛かりで、そこに意識を向けることで命をつなぐことができた。生きることと天体の動きが直結していたんだね。

いさどん:
かつて人々は、天と対話していた。そして宇宙を生きていた。その瞬間の空気を感じ、湿度を感じ、天変地異や獣の脅威なども直観でかぎ分け、そこから逃れて生きてきた。それだけ鋭い直観力を持っていたということだ。
その直観とは、天の天体の動きを感じとるものであり、一瞬の危機、即ち点を感じとるものでもあった。それによって自らの命を継続させることのできた者がDNAを未来へつないできたのであり、その末裔が我々だ。つまり我々は、天と点を感じ取る直観のDNAの延長線上に生み出された遺産のような存在なのだ。
しかし、現代の人間はそれをすっかり忘れて物質的な欲望に溺れ、本当に必要なものを嗅ぎ分ける直観力が麻痺している。それ故に、生命にも、社会にも、現代は大きな混乱が生じているということだ。

 
点(一点)とは、天(宇宙)である

トキは絶え間なく流れ、瞬間瞬間未来が近付き、過去が遠ざかっていく。そしてそれは円運動だから、1周して戻ってくるのだが、1年というサイクルであっても一生というサイクルであっても、同じA地点に戻るのではなく、1らせん分進んだA’地点に至ることになる。

回転が止まってトキ軸が消滅すれば生命は終わるが、その生命を構成していた要素はそれぞれの微細なサイクルに入る。肉体は、人間としてのサイクルが終われば、原子のサイクルに戻り、やがてまた次の役割のサイクルへと組み込まれていく。死とは、どのサイクルに所属するのかが変わるだけのこと。毎日体の一部が自然に還っていくことや、食べ物を取り入れて体の一部にしていくことは、生死の連鎖であり、円(縁)運動であり、らせん運動だ。

ともこ:
この間、「出発(たびだち)プロジェクト」について話し合っている時に、みかちゃんが生命の仕組みの図を描いた。図ではトキ軸は一直線に描かれていて、ずっと同じように流れて見えるけれど、あの図の「人生」以外の部分、つまり死の期間というのは「点」なんだと言っていたね。

みかちゃんが描いた生命の仕組みの図
みかちゃんが描いた生命の仕組みの図

いさどん:
死には、二つある。一つは、現象界(ある世界)の死。それは「見える世界」と「見えない世界」を行き来しており、肉体は解体されても、魂は解体されない。そしてもう一つが、潜象界(ない世界)の死。魂が解体され、すべての源である潜象界へと還り無に帰する、悟りの結果至る世界だ。

目に見える形の世界を成立させているのは、その奥にある目には見えない世界だ。心や人間性、物の性質といったものは、目に見えない。その「見えない世界」と「見える世界」の対向発生によって成り立っているのが、現象界だ。そこでの死は、見えるところから見えないところへ行くということ。そしてある一定の期間が経つと、また見えるところへ戻ってくる。見える、見えない、見える、見えない、というサイクルをくり返しているのが現象界の生死であり、そこにはずっと一定のトキが流れ続けている。

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それに対して、潜象界の死は消滅である。消滅するということは自我のなくなった状態だから、そこでは何かを解釈するということ自体が存在しない。トキも消滅する。だからそこは点であるとも言えるし、我々生きている者が解釈できないサイクルに入ったのだから、ものすごく長いとも言える。それは、「あってあるもの、なきてなきもの」。長くて、短い。それを現象界の思考で捉えていては、てんでわからない。(チーン♪)点(一点)とは、天(宇宙)なのだ。

現象界(ある世界)は「見える世界」と「見えない世界」から成る二重構造となっており、さらにその源である潜象界(ない世界)までを含めると、世界は三重構造になっている。「見える世界」と「見えない世界」が対向発生をしているように、「ある世界」と「ない世界」も対向発生をしているのだ。

現象界の生死のサイクルは「見える」と「見えない」が交差する二重らせん構造だが、そこに潜象界の生死のサイクルを加えると「ない世界」までを行き来する三重のらせん構造になる。現象界の中だけでのらせんと、潜象界までを含めたらせんがあるのだ。そしてその中心を、トキ軸が貫いている。
現象界のサイクルではトキはずっと一定に流れ続けているが、潜象界までを含めたサイクルではトキは流れたり止まったり、流れたり止まったりしている。そうして宇宙は発生と消滅を繰り返しており、そのサイクルを図に表すと、蓮根のように見える。それが「蓮根宇宙」だ。

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ようこ:
「トキ」も「トコロ」も、「統合」を意味する「ト」から始まる。その統合が「発生(起・キ)」しているのが、「トキ」。そして「トコロ」の「コ」は転がり出ること、「ロ」は中空状のものを表している。つまり、トキという統合したエネルギーが流れていて、そこから転がり出てトコロが生まれ現象が起きるのだけれど、それは実体のない移ろいゆく中空状のものだということ。

いさどん:
トコロが発生するということは、そこに現象が起きるということであり、それは目に見えるから確実なもののように思える。しかし、目に見える形というのはどんどん移りゆくから、実際はつかみどころがない。「見える世界」とは、つかみどころのない世界なのだ。だから、現象界を「諸行無常」と言う。
我々は形を持って「見える世界」へ現れるが、それはいっときの姿であり、形の奥にある「見えない世界」こそが我々の実体であると言える。そしてそのどちらの世界もトキと共に流れ、移ろいゆくものだ。

ようこ:
トコロは中空で、中が空っぽであるからこそ、トキ軸がそこを貫くことができる。

いさどん:
トキだけでも、トコロだけでもこの世界は成立しない。それは対向発生して同時に双方を成り立たせている。

 
「わかったか?」

ともこ:
神様はおもしろい世界を創ったね。

いさどん:
ひも解けばひも解くほど、「ここまでくまなく散りばめられているのか!」と感動するほど、目には見えない微細なミクロの世界から巨大なマクロの世界まで、すべてが同じ法則のもとにあり、本当に緻密に配慮され尽くしている。しかしその法則とは、とても単純だ。この世界の隅から隅まで余すところなく配慮された本当に緻密な世界を創りながら、その仕組みはミクロからマクロまでが極めてワンパターンに連なって、壮大な世界が創られている。
僕はこの世界を創られた大本の実体に想いを馳せると、そのあまりの素晴らしさに「よくぞここまでやりましたね」と感動して、愛おしくなるくらいだよ。そう思っていたら、今、あちらの方からニヤッとして、こう返ってきた。「わかったか?」
想いを共有し合えた ―――――― すごいね。

そこに宇宙の実体がある。我々人間の思考が法則に馴染んでいくと、その実体はどんどん解明されていく。しかしそれは永遠のもの、無限のものであり、どこまでも先がある。

今、地球上で、人々は宗教の名のもとに神を語る。しかしそれは、自らの感情に乗せて神を見ている。だから神の名のもとに対立が生まれ、戦争が起き、人々が死んでいく。いかに狭い視野でものを見ていることか。
感情に乗せては、神の実体は観えない。感情に乗せているということは、自分自身のクセ性分のままにものを見ているということ。それでは実体は観えない。真実は観えない。感情を抜きにして、自分自身のクセ性分も抜きして、自らをフリーにして感じ取ることが大切だ。それは感じ取るものだから、言葉で語ることはできない。
だからこそ、まずは自分を知るということ。自らのクセ性分を知り、いかに偏ってものごとを観ているかを客観的に知ることが、この世界を知るきっかけになる。

ともこ:
でもなかなか人間にはそれができない。伝えられても伝えられても、自分の実態が見えない。

いさどん:
それは自分の内側からしか外を見ていないからだ。自我というフィルターを通してしかものが見えていない。自分がある限り、その自分の内側から外を認識する目線はあるのだから、それはそれでいいのだが、同時に、自我のフィルターを抜きにした外側から同じように自分を観る目線が必要なのだ。それは、自らと他者との距離がなくなるということ。他者の目線が自らの目線であり、自らの目線が他者の目線になる。そこは何の境もない、「あなたは私、私はあなた」という世界だ。そのあなたと私の差を取ることが、差取り=悟りにつながる。

その世界を体現するためには、人々は群れて、運命共同体として生きる必要がある。その昔、厳しい自然の中を人々が群れというひとつの生命として生き残ったように、我々はもう一度群れて、コミュニティがひとつの生命として生きることによって、この世界の真実を現していく。それは、個が個に走り過ぎて自我からしかものが見えなくなった現代社会が混乱から抜け出す、唯一の方法だ。それをやらずして、いくら理想世界を語ろうとも、新しい世界は生まれてこない。
さて、そのことを解釈できる精神状態に到達できるかどうか。そこにすべての答えがある。

ともこ:
神様がニヤッと笑いかけた心を、いさどんと神様は共有している。今こうして話を聞いていると、私もその心を感じるよ。

いさどん:
僕は神の存在を感じると、涙が出てくる。

ともこ:
いさどんは、ただその心をみんなに伝えようとしているだけなんだよね。みんなで感じて、心通じ合おうとしているだけなんだよね。

いさどん:
僕は神を感じ、その偉大さを何とか人々に伝えようとする。しかし「神はいる」と言うと、人々は自分の意識レベルで「神はいる」と考える。するともう、そこで心は通じていない。
神の偉大さを語れば、人々は自分の中の概念で偉大さを解釈する。するとやはり偉大さは伝わらない。そこで「それは感じ取るものだ」と言うと、人々はやっぱり自分の意識レベルで感じようとする。どうやっても通じない。
それは無理なことなのかもしれない、と思う。今のあなたのようにその場面に出会った人は、その場に漂う空気を感じて「そういうことか!」と感じることができる。感じるためには、ただその場にいるだけではなく、そこに寄り添う姿勢が必要だ。しかし自分流の概念を保っている者は、どこまでも自分流の解釈をする。だから心通じ合うことができない。――― それも仕方のないことだね。

ともこ:
本当に、ただ通じ合おうとしているだけなのにね。みんな自分の自我を通して見るから、それがわからない。

いさどん:
神はこの世界の実体だから、どの切り口からでもアクセスし、感じることができる。それは、宗教が積み上げてきたものとは違う。目的が違う。宗教とは本来、願い事を叶えたり救済したりするためのものではなく、この世界の実体を理解するための道なのだよ。
こうして言葉にした時点で、既に微妙に違っている。この世界の実体を理解すると言うと、人間的には知識として学習するかのような話になるが、そうではない。自分自身が世界そのものであり、その一体感を理解して存在するということだ。
――― そこまで行くと、地球上の出来事など、どうでもよくなるね。切り口は無限にあり、そのどこからでも「もう何でもいい」という心にたどり着ける。それはある意味「無」の境地だ。しかし現象は無ではなく、「ある」。実体はあるのだ。

ようこ:
例えば大人ミーティングの場でみんなが「ああもう何でもいいね」という心になったら、それは全体がいい段階まで来ているという証だね。

いさどん:
そういった場ができると、訪れる人が「あれ?ここはどこだろう?」と不思議な感覚になる世界ができる。

 
自我は満たすものではなく、超えていくもの
~ 人間から、ヒトへ 〜

今、来年3月21日のプレオープンに向けて、ロータスランドの準備が進んでいる。昨日、数ヶ月ぶりにここを訪れたYさんが、「ここがものすごく変化していることを感じる」と言っていた。ロータスランドの一部はカフェになる予定で、食事のカロリーを表示する必要があると思っていたら、ちょうど彼女は管理栄養士としての実績があり、ぜひロータスランドの運営に関わりたいと言う。彼女は夢を追って九州に行き、一生懸命やったもののうまくいかなくて僕のところに相談に来て、ロータスランドの話に出会った。
ロータスランドは、我々が意図して始めたわけではない。ただその時々の出会いをいただき、流れに沿って進んでいくと、今回の彼女との出会いのように必要な時に必要な人やものとの出会いが訪れる。彼女はこれまで一生懸命自分で考えて計画を立ててやってきたが、何もうまくいかなかったと言う。僕がロータスランドの計画がどのように出来上がってきたかというこれまでの経緯を話すと、「どうしてそんなにうまくいくの?」と言うので、「それは縁をたどっていくからですよ」と答えた。
自分の頭で考えて企むと、縁を無視した自我の欲求によってやることになるから、うまくいかない。この世界には、トキを軸としたトコロのサイクルがある。そのサイクルから外れるということは、この世界の実態から外れるということ。そのサイクルに乗れば、ことは自然と流れていく。そして物事(トコロ軸)は自ずと成っていく。それには、ある境地に至らないと出会えない。

何かひとつ行き詰まっても、例えばAで行き詰ってもA’があるように、行き詰まりの先に次の世界があるからこそ、突破口は開かれる。同じように見えても、そこに現れるのは1サイクル進んだA’であり、前とは違うものなのだ。そこで、自我を超え、「答えをいただく」という精神になることが肝要だ。自我は満たすものではなく、コントロールし、超えるものである。その精神になると、流れに沿ってやるべきことが自ずと湧いてくる。
人間は、自我によって自らを生かそうとし、いろいろなことを企む。しかし、自我を超えてこの世界を観てみると、世界が我々に秩序を与え続けていることがわかる。世界は常に我々に、次のA’を与えている。理解しようとしまいと、我々はその仕組みの中で生かされているのであり、今日は常に、昨日とは違う新鮮な世界なのだ。

その仕組みを理解した時、人間は「ヒフミヨイムナヤコト」と進む宇宙の始まりから終わりまでを理解する存在 ―――― 即ち、「ヒト」となることだろう。

大宇宙は巨大な生命だ。銀河、太陽系、地球、生態系、国家、我々の体、細胞の一つひとつまで、すべてが相似形になっており、とてつもなく巨大なマクロの世界も、目には見えないミクロの世界も、すべてが同じ仕組みで動いている。この世界は相似形の渦だ。

いったい誰がそれを動かしているのか。
それは「大いなるもの」としか言えない。

 

 


 

囚われを外したら

そこは宇宙だった

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2017年2月19日~3月18日
「1ヶ月間の真学校」開催!

何か問題が起きた時「自分は悪くないのになぜこんな事が起きるのだろう」と思ったことはありませんか。
人は問題を見つけると、とかく自分の外に原因を探し、周りを変えようとします。ところが周りはどうにも変わることなく、問題だけが積み重なり、今や家庭の中から地球規模に至るまで、どこもかしこも問題だらけの、行き先の見えない世の中となりました。
しかしそれは視点を変えれば、大転換のチャンスでもあるのです。

1ヶ月間の真学校は、人生の問題のあるなしに関わらず、生きることの突破口を開く場です。そこに特定の正解はありません。一人ひとりが客観的に自己を捉える冷静な目を養い、視野を広げ、その人らしい人生を自ら切り開いていく力を身に付けます。

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【日程】
2017年2月19日(日)~3月18日(土)
【会場】
木の花ファミリー
【定員】
15名 定員に達し次第受け付けを締め切ります。
【参加費】
18~22万円 収入に応じたスライド制です。受講料や食費など1ヶ月間の滞在費全てを含みます。
【内容】
「農」「食」「医」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」と多彩な切り口の講座を通して、受講生一人ひとりの心の性質や人生の使命、そして時代の流れを読み解きながら、この世界の真実を観抜く心の目が開かれるよう、いざないます。
講座例:人格を学ぶ講座(カルマ読みと地球暦)/コミュニティ創設講座/天然循環法の畑作・稲作/ファシリテーション/世界観を広げる/菩薩の里の経済/自然療法プログラム/食養生/有用微生物群の培養/天然醸造味噌作り/創造性と芸術/カタカムナ/性と宇宙/自然災害と防災/持続可能な心の持ち方

講座詳細やこれまでの受講生の体験記はこちら!

→ 1ヶ月間の真学校ブログ

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目覚めれば、世界はわたし

今年の7月16日から18日に開催された「第10回大人サミット」では、宇宙的そして歴史的に観ると、この世界がどのように観えるのかについて語られました。大人サミット2日目の午後、太陽とわたしたち生命の関係から、太陽系における地球の意味、そしていのちの本来の姿についていさどんが次のように語りました。

 

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太陽の活動と地球のマグマ活動の関係は、わたしたちにとってとても重要なことです。今、地球はマグマの活動期に入っています。これは地球の事情ではありません。太陽の黒点の活動が地球のマグマの活動と連動しています。そして地震と火山の噴火を誘発しているのです。

今、世界の先進国が宇宙の中でもっとも観測しているものは、「太陽」です。なぜなら、太陽は地球のマグマの活動に影響を与えているだけではなく、太陽の変化が地球の活動に直結しているからです。たとえば、景気が良いとか悪いとか言いますね。それで安倍首相や日銀の総裁は公定歩合を上げたり下げたりしながら、景気を誘導しています。しかし、景気とは「気」のことであり、わたしたち人間の「気」分も経済活動をはじめとする人間の営みもすべて、実は太陽が左右しているのです。太陽が左右していることを人間の人智で表面的に対処しても、事は人間の思うように成らなくて当然です。それは病気に対する対症療法と同じです。人間は一方で癌細胞をつくっておき、その一方で抗がん剤でその症状を抑えているのですから、それでは矛盾の中で生きていることになります。そのように捉えたときに、太陽が人間に指針を与えていることが観えてきます。太陽は地球の進むべき方向を示し、人々の心がそこから外れて滞りが生まれれば、太陽は自らの意志を人間に伝えるために天変地異を起こし、「その姿勢を改めなさい」とメッセージを送ってくれているのです。

わたしたちはその観えない法則の存在を知り、その意志を受けて生きていく時代に突入したのです。それを理解し表現することが天の気を読み、宇宙を生きることです。この世界には必ず流れがあるのです。

人生を生きるときに、どの人も自分のために生きています。自分のために生きることは、自分の働きによって生きるということです。しかし本来、この世界は共同で成り立っています。皆によってこの世界は成り立っています。ですから、「働く」ということは、この世界が正常につながっていくために、全体の中のポジションを担っていくということなのです。「働く」の本来の意味は、「傍(はた)を楽(らく)」にすることなのです。ですから、本来生きるということは、自分のために生きるのではなく、世のため人のために生きることなのです。そうしたら、生きるために必要なものはすべて、世の中が用意してくれるのです。それがこの世界が動いている仕組みです。そうやって生きる人には、お金が必要なときにはお金が現れてきます。人材が必要なときには人材が現れ、物が必要なときには物がやって来るのです。あとは、自分が全体の中でふさわしい役割を果たせばいいのです。このような話を聞くと、「そんなうまい話があるのだろうか?」と人は思うものですが、宇宙の構造は完璧に成り立っていますよね。ですから、このように人々が生きれば、宇宙の星々の成り立ちのように、地球上にも精妙でダイナミックな世界が現れてくるのです。そういった仕組みを永遠に紡いで動いている、この世界には流れがあるのです。

さて、皆さんはその流れを読むことができるでしょうか?

流れを読めずに生きている人たちがいます。それは自分のことばかり考えているからです。自分の都合ばかり考え、そういう人に限って、「なぜわたしはこんなに一生懸命やっているのに、物事がうまく行かないのだろう?」と思うのです。そのように一生懸命やっているエネルギーが空回りしているのであれば、うまく行くわけがありません。逆に流れに乗っていると、一生懸命やらなくても、目の前にあることだけをやっていれば、事はトントンとうまく進むのです。そのような場では、自然と自分がしたことに対して、「ありがとうございます」という感謝の気持ちが湧いてきます。それとは逆に、自分がしたことで生きている人は、「自分がやったことが実ったのだ」と傲慢なのです。これからは、そういった精神で生きていくと、たいへん生き辛くなっていきます。

わたしたちはどのような仕組みで生きているかというと、太陽があるからです。わたしたちの地球が自転し、公転し、太陽と共に宇宙を動いているから、時間が存在するのです。動くということは、ここからここまでという場所を創ります。ですから、わたしたち人間が働くということは、宇宙の法の中にいるのです。それが、生きることの実体です。このように、真実の実体を理解し、広い世界観を持つことが大切です。そして、それを生活に表現していくことが、わたしたちが生きる上でもっとも重要なことなのです。

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これは太陽の黒点運動と地震発生の関係を表しています。この赤いラインは地球上で地震が起きたときの死者数を示しています。興味深いことに、太陽の黒点数が下がるときに大地震が起きているのです。この流れで行くと、来年あたりには地震で多くの人が死ぬ可能性があります。

「太陽の黒点の数は11年周期で増減を繰り返している。黒点数が減少する時期は太陽活動が停滞し、太陽の磁場が弱くなるため、それまで太陽系に侵入できなかった銀河からの透過力の大きな宇宙線が地球に届くようになる。この宇宙線が地球内部を加熱すると、外核から放射される熱エネルギー量が多くなるため、地震や火山の活動が活発になるのではないかと推測されている。」

よく考えてみると、生命であるわたしたちは光そのものです。すべての生命は光の産物です。そして、それを発している元は太陽です。ですから、わたしたちの存在は思考から肉体まですべて、太陽が握っているのです。あの太陽がわたしたちのすべてであり、常に何かをわたしたちに伝えているのです。しかし、日中の太陽に語りかけてはいけませんよ。目がおかしくなりますからね(みんな、笑)。昇る朝日や沈む夕日に語りかけることが大切です。昇る朝日を食べると、一日の活力を与えてくれます。昇る朝日は食べるのです。日中の太陽は、わたしたち生命を育ててくれます。そして沈む夕日は浴びるのです。そうすると、一日活動した体を癒してくれます。そして、感謝して一日を終えることができます。朝日に対しては、「いただきます。」そして夕日に対しては、「ありがとうございます。ごちそうさまでした。」このように太陽と人間が意識でつながるようになったら、きっと太陽は「ようやく人間たちはわたしの存在の意味を理解するようになった」と思うことでしょう。 

太陽系的に言えば、太陽系全体の意志は、太陽の意志です。ですから、わたしたちは太陽の意志を受けて、地球にこのような時代を運営しているのです。さらに、地球は太陽系の第三惑星であり、生命を育むための絶妙な位置にいます。わたしたち生命は金星にも火星にも暮らすことはできません。

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ここで地球暦を見てみましょう。中心にあるのが太陽です。太陽の次の水色の惑星が位置するところが水星の軌道です。軌道がドーナツ状になっているのは、太陽から遠くなる地点と近くなる地点との差があるからです。つまり、水星の軌道はこれほどぶれています。水星は秒速48kmで太陽のまわりを88日間かけて一周します。金星はその外にあり、綺麗な円を描いています。音楽で言えば、金星の動きはメトロノームのようです。水星は直観力・情報伝達の星であり、金星は女性性を表す星です。そして、その次に来る地球は現象化の星です。ですから、地球上では想いがすべて現象化します。さらに、地球は変化をする星でもあります。緑色の惑星が位置するところが地球の軌道ですが、薄いドーナツ状になっています。2016年の太陽から一番近いところは1月3日に当たり、一番遠いところは7月5日に当たります。地球の軌道は精度が良いのですが、少しだけぶれています。

この「少しだけぶれている」ことがポイントです。そのため、地球上では大きな気候の変化はありませんが、微妙な変化が地球の生命活動の刺激となり、生命の星として存在しています。金星のように完璧な軌道を描いていれば、そこでは変化がなく、生命は生まれません。カタカムナで言う、ヒフミヨイムナヤコトのコが転がり出るように、ギャップが生まれないと生命は育まれないのです(詳細については、「大人サミットBOOK・2日目午前」をご覧ください)。地球は太陽からこの微妙な位置にあり、微妙に軌道がぶれるからこそ、この微妙なぶれが生命を育むのです。

地球の外側にある大きなドーナツは火星の軌道です。火星は高速でこの軌道を描いています。火星は男性性・行動力を表す星です。太陽系の1兆分の1の縮尺では、地球の軌道は直径30cmです。

さらに、わたしたちが地球上に生まれ出た瞬間に、太陽系のどの位置に惑星があるかによって、わたしたちの人生は決まるのです。水星から火星までの内惑星からはその人の精神性、そして木星から冥王星までの外惑星からは社会性が読み取れます。ということは、太陽がわたしたちに影響を与えているだけではなく、星と星の対話がわたしたちの人生そのものを決めているのです。

皆さん、「自分は自分」だと思っていませんか?実は、星がわたしたちの人生に大きな影響をもたらしているのです。太陽がわたしたちの生きる意味を示しているのです。そう考えると、わたしたちは人間なのでしょうか?それとも、宇宙人なのでしょうか?このように捉えれば、わたしたちは宇宙人に決まっていますね。宇宙を生きるとは、常に天の気にお伺いを立て、「わたしは次に何をしたらいいですか?」「明日はどのような行動をしたらいいですか?」と天に伺いながら生きることなのです。それが、「天命を生きる」ということです。

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ここで「命(いのち)」という字を見てみましょう。天命は天の命と書きます。つまり、天から意志が降りてきて、いのちになったのです。ですから、わたしたちは「みこと(命)」です。「命」の字の中にある「口」は祭壇を示します。そして、「口」以外の部分は、人が集うという意味もありますし、神官が帽子をかぶり天に伺いを立てる姿を表しています。つまり、祭壇があり、天に対してひざまずき、「どのように生きたらいいでしょうか?」と伺っているのです。それが「命」です。わたしたちはいのちですから、常に天に向かって「どのように生きたらいいのでしょうか?」と伺い、天と共に生きることが本来の姿なのです。

ところが、現代人は天の存在をてんで忘れてしまい(チーン♪)、自分の都合だけで生きています。上に心を向けることもありません。たいてい、「何か落ちていないかな?」「良いことはないかな?」と都合の良いことばかり考え、下ばかり見ているのです。それが下の目線です。横の目線になると、同じ土俵で対立するわけですから、「自分が獲得してやろう」「奪ってやろう」というよこしまな心になるのです。

天を意識していると、天の意志が降りてくるのです。ですから、「いただく心」になるのです。わたしたちは宇宙人なのですよ♪ここで伝えたいことは、少し目線が変わると、まったく違う世界に出会うということです。

目覚めれば、世界はわたしです。
目覚めなければ、世界は世界、わたしはわたしです。

 

僕は今までこういったことを天からいただいてきたのですが、困惑していました。
それは語れば語るほど、変な人だったからです。
しかし、2012年12月21日に真中(まなか)を過ぎ、その後の3年半が過ぎ、質的転換した今年2016年6月21日をもって、何を語っても大丈夫だと思うようになりました。
それは、天が味方しているからです。
新たな時代の扉は完全に開いたのです。
そしてこれからは、語れば語るほど、「やはりそうだったよね!」と共鳴する人がたくさん現れてくるのです。
それは、今の社会現象を観ればわかります。
今、世界中の国も民族も社会も個人も、混乱しています。
ですから皆さんが、古い囚われから自らを解き放ち、新たな気分で天の気を伺いながら素直に生きていったら、この世界の問題事は自動的に消えていきます。

 

 


時代の変化とともに真理すら変わっていく世界

今年の7月16日から18日に開催された「第10回大人サミット」では、宇宙的そして歴史的に観ると、この世界がどのように観えるのかについて語られました。その中でも、以下のいさどんによる分析は、参加者の皆さんにとって目からウロコの視点でした。

■    ■    ■

 
ガンジーは非暴力による運動を唱えてきました。しかし、ガンジーは非暴力という暴力を使っていたことを皆さんは知っていましたか?ガンジーは拳を振りかざしませんでしたし、銃で撃つことはしませんでしたが、拳を上げ銃を使う人たちに暴力を使わずに対抗したのです。つまり、そこで対立の対象となったのです。ですからその後、「ガンジーは勝利した」と言われたのです。つまり、暴力の世界には勝ち負けという勝利があるのです。もし、本当の非暴力であるならば、そこに勝利はないでしょう。そうした真実が今、明らかになってきたのです。ガンジーも微妙な世界の中にがんじがらめになっていたのです(チーン♪)。それは、闇の時代へ向かっていく中の正義だったのです。ですから、闇のピークを超えると、その正義の質が問われるようになるのです。平和活動家が「戦争反対!」と言って新たな対立を生み出しているように、非暴力主義者は「非暴力で戦おう!」と言って対立関係の対象となるのです。それは戦いのひとつなのです。

一昨年、2014年の11月に僕はインドへ行き、デリーのガンジー記念館を訪れました。ガンジーの魂は僕にこう語りました。「新しい時代が始まりましたので、皆さんにつなげていただきたいと思います。よろしくお願いします。」彼はわかっていたのです。彼の時代はそういった時代だったので、彼は非暴力という旗印のもとに戦っていたのです。

その昔、ジャンヌダルクという人がいましたね。彼女はまさに戦士です。彼女は英雄とされてきましたが、彼女が英雄ではいけないのです。日本にauという会社はありますが(みんな、笑)、それでえーゆーとか言って(チーン♪)

それとは逆に、ヒトラーが上行菩薩であるという捉え方もこの世界にはあるのです。ヒトラーという魂が地上に降りる前、天の神様はたくさんの優れた魂たちに、「この役割は地上では人々のうけは悪いが、大切な役割であるゆえ、誰かそれを引き受けてくれる者はおらんのか?」と尋ねました。しかし、地上で悪人とされる役割を引き受けようとする者はなかなかいなかったのです。そのときに、勇気ある魂が「それではわたしがその役割を引き受けましょう」と言って、地上に降りてきました。そして見事、その難しい役割を成し遂げたのです。役割を終え、天に還っていったとき、天にいる魂たちからは「難しい役割だったが、おまえはよくやった」と褒め称えられ、その魂は上行菩薩として悟りに至りました。わたしたちの中には、ヒトラーという存在は悪の権化としての認識が定着していますが、あのような出来事を起こす人間がいることによって、人々は自らの行いを戒めることができるのです。

もしも、そういった悪人の人生を生きる者たちがわざわざそれを役割として生まれてきているとしたならば、善人と言われる人々はそういった悪人の役割をする人々に支えられて、善人の立場にいることになります。ですから、この世界には善も悪もなく、ただ人間の可能性の枠の中の役割があるだけなのです。そういったことを自らの感情や特定した視点から判断するのではなく、広い世界観のもとにすべてのことを情報として判断し理解した上で、活かしていくことが大切なのです。

このように、悪の中に善があり、善の中に悪があるのです。すべては宇宙の成り立ちであり、神様の意志なのです。2012年12月21日に闇のピークを超えた今、これまでの価値観が逆転するトキを迎えました。今までは聖域があり、聖なる存在であるキリストやお釈迦様について触れてはいけない、ガンジーの正義について触れてはいけない、ヒトラーは悪人だ、とすべて善悪を決めていた時代だったのです。ところが宇宙の法に沿って観てみれば、善があり、悪があり、正しさがあり、間違いがある――、それはどれも解釈によって正しいのです。そういったことがすべて明快に観える時代が訪れたのです。

本来、地球も宇宙の中にありますから、カタカムナ宇宙理論で解釈すると、現象化されたものはいずれ潜象界へ還ります。そうすると、すべてリセットされます。そして、響きという宇宙創造の原料に戻り、また現象界に現れてくるのです。それは時代に応じた現象の元となって現れてきます。わたしたちはここで今、何が正しくて、何が間違っているのかを議論しているのではありません。ましてや、わたしたちは正しい側にいましょうという話をしているのでもないのです。そういったことを言えば、政治家や哲学者、宗教家の世界になってしまいます。

大切なことは、どこにも属さず、ただ情報として現象を観るだけの位置に自分が立てるかどうかです。それは、自らから閃きが湧くということです。それは真我が目覚めている状態です。そこに宇宙(天)の法が降りてくるのです。それは直観です。それが五感の次にあるわたしたちの秘められた能力です。