いさどんの七夜物語 – 第一夜 「思い出す」

七日七夜でこの場に質的転換を起こします ーーー
そんな想いから始まったいさどんの七夜物語、第一夜です。
(詳しくは「序章・秋分前夜」をご覧ください。)

 

9月24日 「思い出す」

いさどん:
今日は9月の24日です。昨日は秋分でした。1年の4分の1を残して、いよいよ最終コーナーに入ろうとしています。春分を起点とする地球暦で言うと、1年の半分が過ぎたところです。
四半分、半年、1年という区切りがありますが、毎日が区切りです。毎日その日にあったことを振り返り、次の日に生かすと、我々が生きている意味を毎日自覚することができます。

では区切りという意識のない人はどうやって生きているかというと、また同じ日が来たと思っているだけで、毎日起きている新鮮な出来事を振り返らないのです。それはどういう状態かと言うと、上がりもせず下がりもせず、ピーーーーッと一直線に進んでいる状態です。
そこに出来事が起きたとします。それがその人にとっていいことだったとしましょう。それで一時的に上に上がっても、必ずそれを帳消しにする何かが起きます。なぜかと言うと、宇宙は±0だからです。
それは、日ごろの意識がピーーーッと一直線で、昨日も今日も明日も、1年前も1年後も変わらないまま生きていて、生きている目的について何も考えていない状態です。
しかし、生きているといろいろなことに出会います。そこで何故だろうと考えます。ピーーーッと一直線の意識の人は、辛いことがあるとへこみます。そしてそれを忘れるために、何か別のことを考えたりします。そううやって帳尻を合わせて、へこんだことを忘れていくのです。するとまたへこむことが起き、また帳尻合わせを考えます。そしてトータルで見ると、ピーーーッと一直線になって何も進歩していない状態です。
そういった毎日を人間は送りがちになるので、区切りというものがあるのです。

春分と秋分は、1年の中で昼(光)と夜(闇)の長さが同じになる日ですね。その日に、人はなぜかお墓参りをします。
「彼岸(ひがん)」という意味を知っていますか?彼岸とは彼の岸と書き、あちらの世界を指します。それに対して「此岸(しがん)」という言葉があります。此岸とは此の岸と書きます。つまり、ここが此岸です。
川を渡って向こう側に渡ると、彼岸になります。人生は修行ですから、此岸でいろいろなことを経験し学び、そして川を渡って、彼岸という理想郷にたどり着くことになります。仏教では、此岸に生きると四苦八苦に出会うから、そういったことに囚われないようにこの世界のことを悟りなさいと説いています。ピーーーッと進むとポコンと落とし穴に出会います。そして、落ちたところから上がるために帳尻合わせをします。そしてまた上に上がる。それを繰り返しながら進んでいくと、何かに似ていませんか。

みんな:
心電図。

いさどん:
そう、心臓の鼓動ですね。それが帳尻が完全に合ってピーーーッと一直線になると、現象界からあちらの世界へ行く、つまり死ぬということです。生きているということは、へこむこともあれば、上がることもあり、それがどういうことなのかを悟っていくということです。

18538

苦楽という言葉があるでしょう。楽の前に苦がありますね。この世界は、発生し拡大していくことを陽だとしたら、収縮して消滅していくことを陰と言います。多くの人は、陽しか見ていません。しかし、この世界の仕組みは陰が元になって陽が発生しているのです。苦楽でも、苦しいことがあって楽があるのです。楽があって苦しいと示しているのではありません。苦しいことがあるからこそ、楽がわかるのです。私はなんて不幸なんだろう、と思うのは、不幸しか見ていないからです。苦しいをとことん感じたら、あとは楽があるばかりです。

もっとも、それはゲームのように考える話ではありません。幸せに生きるためには苦しいを最高に経験したらいいんだ、ということかというと、そうではない。この世界に生きていると、苦しいことに出会います。お釈迦様はそれを「四苦八苦」と言いました。この世界に生きる人間の性分のことです。人間の中にそういったことに出会う種があるということです。
この世界には仕組みがあります。苦しい経験は、それを起こす仕組みがあるということです。その仕組みを学習できたら、その奥には楽が現れる仕組みがあるのです。そうしたら、苦しいということは楽への旅であるというこの世界の道理がわかった時に、苦しいことは楽しいことを湧き立たせる元となるのです。

中には、苦しい修行こそありがたいのだと、滝に打たれたりするでしょう。嫌だと思うこと、辛いと思うことに向かいなさい、と言うけれど、そういったことも極端な話ですし、誰もが行うべきことなのかわからないですね。それはそれでその人の道として尊重しますが、大切なのは、誰もが当たり前に生きる中で、当たり前にいろいろと起きることを通して、その人にそってその現象が何であるかを知ることです。

僕が6月の終わりから大人ミーティングに出なくなって、3ヶ月が経ちました。今日ここに来たのは、喪が明けたからではありません。このままではいけないと思ったからです。このまま放っておくと、「全人幸福」という看板を掲げながら実際の生活の中ではそういった意識を全く持っていないヤマギシ会と同じ道を歩むことになります。
今日はヤマギシ会からゲストも来ています。今そこで笑っていますが、僕はよくあのようなところで生活ができると思うのです。ここはまだ入り口ですが、そういった日々の中に浸かってしまったら、自らの本当の姿は見えなくなるものです。そこまでいくと重症です。だからまだわかるうちに、このままいくと同じ状態になるということに気付くべきです。これは、たまたま先輩がいてその先の姿を見せてくれているから、そういったことはわかりやすいですね。このような状態に、人間は陥りやすいのです。楽ばかりを求めて、欲しいものが得られればそれで満足して、苦を大事にしない。

ですから、楽ばかりを求めていくと、ちょっとしたことでも苦になるのですよ。そうかといって、わざわざ苦ばかりを求めることも必要ないですね。苦が何であるかを知り、その苦を示しているこの世界の仕組みを知ると、楽がどういった仕組みで発生してくるのかがわかり、楽に溺れなくなります。これを知ることが生きることの目的です。
生きるとは、自主的なことですよ。ピーーーッと一直線の心電図では、ただ日にちが経って年を重ねただけで、生きている目的を果たさず、その人の価値は何も変わらないのです。ただ感情のままに思考が湧いて、その思考のままに行動し、そのまま年月が経ったら寿命が来て死を迎えることになります。
それは、生きていくものの本来の姿ではありません。この世界(宇宙)は変化・変容・変態を繰り返しています。別の言い方をすれば、進化・発展・成長をしているということです。ですから、変化しないということはその法則から外れているのです。それを意識せず、同じことを繰り返していくと、希望を失い、生命力のない存在として死を迎えることになります。

なぜこのような話を始めたのかというと、ここの人たちにもそういった兆しが観えてきたからです。このまま放っておくと、本当にヤマギシ化します。
これは、今日ヤマギシ会からゲストが来ているから言っているのではありません。僕は(ヤマギシ会の創始者である)山岸巳代蔵さんから「あとはよろしく」と託されたのです。しかし、現状のヤマギシ会の人々は「全人幸福」という理想を掲げながら、本来の目的を果たすことを忘れています。ヤマギシの人たちが木の花に出会った当初は「自分たちの目指していたものはこれだった!」と思い出し、刺激を受けて、この精神をもう一度取り戻そうと思っていたこともありました。しかし、本来の目的を何よりも優先することを怠っていたものだから、本来の目的を思い出し、こうやっていかなければならないと思ったとたんにそれを負担に感じて、そこから目を背けるようになりました。当初はとても熱心だった人たちも、今ではそんなことがあったことも忘れ、日常の生活に漬かり、ピーーーッと一直線の状態で生きています。
このまま放っておくと、ここもそうなりかねません。しかし、ここはそうはなりません。なぜだかわかりますか。

みんな:
いさどんがいるから。

いさどん:
そうです。僕がいるからです。だからこの3ヶ月間、僕がいない実験をしたのです。いないと言っても一緒に暮らしていて何か特別なことがあれば口を出すわけですから、実験と言ってもソフトなものです。みんな、本当に僕がいなくなったらどうしますか?

さちよ:
困る。

いさどん:
困るという話ではないでしょう。こまるのはカタカムナの八鏡文字の小丸だけです。(チーン♪)
カタカムナは、宇宙物理です。ものごとの表面しか見ていない近代科学や物理学が解き得ない世界の捉え方です。この広大な宇宙の実体もそうですが、カタカムナは、この世界に存在している我々の命や、細胞や、原子、素粒子、その元となる極小微細単位である「カ」までを解き明かします。その「カ」はどこから来るのかと言うと、潜象界という現代人が認識していない世界からやって来ます。
この世界は陰陽から成り立っています。我々は形を先に認識するので、形が先にあるものだと思っています。しかし実は、我々が現象界にいるから形を先に認識しているだけのことなのです。

ある人にとって、その人が満足の状態でいる位置があるとします。しかし世の中の人々がそれよりもさらに満たされている位置にいれば、これでは足りないと思うようになるでしょう。しかしそれよりもっと低い位置にいてその世界しか知らず満足していれば、そこで十分だと思うものです。
先ほどの心電図で表すと、問題ごとが起きた時に下がるとしますね。すると少し上がっただけでも、ああ楽になった、と思うものです。それが何かによって与えられたものだとしたら「ありがたい」ということにもなります。
しかし、その先にはもっと楽があるのです。それなのにそこで満足してしまう。人には自らの性分と価値があり、そこから湧いてくる感情のままに思いを巡らせ、行動していると、ピーーーッと一直線の変化のない人生を送ることになります。人生には必ず上がり下がりの刺激があるのに、それを無視しているのです。

しかし、学ぶとか、成長するとか、進化・発展するという視点に立つと、自らの物理的かつ精神的願望を叶えるための変化ではなく、意識を高め、視野が広がることに生きる目的が移行していきます。ピーーーッと進んでいって下がった時には「そうか、こういうことがあると下がるのか」と学習し、それがどうすれば上がっていくのかがわかるようになる。その客観的な視点に立てば、出来事や欲望に翻弄されることなく、冷静に物事に取り組めるようになり、その人の精神的価値が上がっていくことになります。そのことを意識しないで日々を送るということは、その人の価値はどんどん下がっていくことになります。しかし、価値が下がることは捉え方によってはありがたいことになりますね。どんどん苦しくなっていくわけですから。そこには「気付きなさい」というメッセージが隠されているのです。

何かあった時に「大事にならなかったからまぁいいや」と出さずにいると、それはピーーーッと一直線の人生を歩むことになります。いいことも、みんなと共有し、進化発展していく。悪いことならなおさら出して、みんなの知恵をもらい、学び、発展していく。そして周りの人たちはそのことを通して「ああ、自分もそうだ」と学びの輪が広がっていく。
みんながそういった意識を共有すると、これが新しい時代のモデルだと、微笑ましい場をイメージすることができます。それを観ているのは、私たちだけではありません。この世界を私たちに託している天も観ているのです。そのために、天は私たちに上がるも下がるも与えているのです。
ピーーーッと進んで、下がって、上がる。元に戻り、またピーーーッと進んで、下がって、上がる。これが生きるということですね。心電図もそうでしょう。それがピーーーッと一直線になったらご臨終ということですね。それは、誕生・発展・進化から、収縮し、消滅するプロセスが一区切りついたということです。さらに、死を迎え、魂が肉体から離れると、生きていた時の人生は何だったのかということを振り返ることができ、次の大きなサイクルの中にあることが観えてきます。人生とは、大きくも小さくもその繰り返しです。

ピーーーッと一直線のまま1日が過ぎ、1年が過ぎ、そのまま80年経って死んだとしたら、何をしに地球に生まれて来たのでしょう。それでは、人間の持っている可能性を存分に使わず、脳の大部分は働かないままです。
感情が湧いてくるのは、心が欲に翻弄されているからです。愛情の情とは欲から生まれる執着のことです。自分の子どもに愛情を持つのは子どもに欲をかけるということで、親の情で汚れをつけることになるのです。
脳は、本来それをチェックする働きをするためにあるものです。私たちには日常的に、楽したい、得したい、これは嫌だ、あれがいいという感情が自然に出てきます。それをわかっているつもりになっていても、多くの人は無自覚に感情のまま生きているのです。なぜならカルマ(=垢)にまみれていることを自覚していないからです。
アカの思念をカタカムナの単音で読み解くと、「カ」は宇宙の極小微細単位です。

      ア
      ア
      カ
      カ

 

 

 

 

「カ」は「ヒ」と同じ始まりの位置に小丸がありながらトコロ軸(横軸)が突き抜けているので、現象界の奥にある潜象界を構成する最小単位です。「ア」は高次元の響き。ですから、アカとは、宇宙の極小微細単位が構成していたものから分離し、新たな可能性に向かうことです。垢が落ちるということは、その垢自体も新たなものを構成するし、元のものも、垢が落ちたことによってきれいになり、リニューアルする。その行為自体が高次の生命活動であり、生命の元になる現象(新陳代謝)を示しているのです。それが現象界を創り出しているのです。すごく大事なものでしょう。それは、私たちの心の垢の性質も同じことです。

私たちの太陽は、約27日をかけて自転します。そして25800年ごとに一つのらせんを描きながら、2億2600万年をかけて天の川銀河を一周しています。その太陽の周りを地球が周っています。周りながら、春分、夏至、秋分、冬至という時を刻んでいます。地球の動きは、単に同じ場所にいる太陽の周りを周っているのではなく、らせんを描く太陽の周りを周りながら進んでいるのです。
星という現象界の形に現れたもので捉えると、わかりやすいですね。それと同じ構造で、宇宙の創世がカタカムナの八鏡文字に表されているのです。私たちの体の設計図であるDNAも同じ構造をしています。この世界は相似形でできていますから、地球生態系も同じ仕組みで成り立っています。

5-6
カタカムナ第5首

カタカムナの八鏡文字の小丸は、ヒフミヨイムナヤコトと進むに従い移動していきます。それはこの世界が発生する物理性を表しています。「ヒ」は地球暦で言う春分の位置にあり、「イ」は秋分の位置にあります。私たちは、1年で見ると、今「イ」の位置にいます。

      イ
      イ
     匕
      匕
地球暦で見る春分点と秋分点
地球暦で見る春分点と秋分点

惑星の動きで見るとわかりやすいですね。それは現象界に現れていて、我々の目や想像力で確認できることだからです。しかし、カタカムナのヒフミヨイムナヤコトのプロセスは、目には見えません。「ヒ」は潜象界、つまり我々現象界の人間にとっては「ない世界」の段階でのすべての始まりを表しています。「イ」が現象界の入り口。それがムナヤと進んで準備ができて「コ」で転がり出て「ト」で統合し、次に「ア」となったら現象が始まるので、ヒフミヨイムナヤコトはすべて現象が始まる前の潜象過渡の状態です。そしてそれは平面ではなく、球体の中で、春分、夏至、秋分、冬至と立体的に巡ってくるものです。
ちょっと難しいですね。現代の人間の頭では、それが理解できないのです。13000年前のカタカムナ人は、それを直観で理解していました。それがだんだんモノ・カネを求める自らの欲望に支配され、その結果情に翻弄されて、天と共に生きることを忘れてしまったのです。

6

12900年前の光のピークから、闇のピークである2012年12月21日の銀河の冬至へ向かう中間点の6450年前と前後して、メソポタミア文明などの現代文明の始まりとなる文明が台頭してきました。その遺産として紙が発明され、文字が発達したのです。それから、みんなが紙に書くことで物事を伝えるようになり、脳が物事を二次元で捉えることに慣れてしまいました。
私たちの脳は本来、八鏡文字で示される宇宙の構造を立体的に捉えられる能力を持っています。しかし、近代において人類は、紙のような二次元で物事を捉える脳だけを発達させてきたのです。だから、損か得か、良いか悪いか、多いか少ないか、という二元論で物事を解釈するようになってしまいました。般若心経の色即是空、空即是色のような世界観が真理の主流になり、ただ境地を求める表面的な物事の捉え方になったのです。

今まで、私たちはそういった意識レベルにいたのです。僕もそうでした。そしてそれに翻弄され、表面的な結論を出してきました。もしも人生を勝ち負けで表現するとしたら、負けとは、自らに囚われた思考に翻弄されることです。それは、自分のクセのままに思考して、それが実現するようにと願い、行動している状態です。それは、我のままに生きているということです。

その精神状態では、宇宙の構造を理解することはできません。それは自分の頭で思考を回すのではなく、上から降りてくるものを受け取っていくことによって理解できるものだからです。ですから、自らに囚われた思考を回しているようでは、上から降りてくるもの受け取ることはできないのです。直観を研ぎ澄まし、この世界に遍満する法則(メッセージ)を感じ取ることで、瞬時に物事の道理を捉え、「そうか!」とか「なるほど!」とか「これだ!」と合点すると、それまで自分がやって来たことのずれが観えてきます。そういった思考が回り始めると、宇宙の法則と共に生きることになるのです。

先日、大町ビレッジへ行った時に、カトケンがネギの種を蒔いていました。レイキで畝に線を引いて、手で細かく蒔いている。家庭菜園ならそれでもいいけれど、うちは農業法人ですよ。権兵衛(播種機)を使えばもっと早くきれいに蒔くことができます。それは昔僕が畑をやっている時に始めたやり方です。玉ねぎの種でもきれいに蒔けます。
うちは除草剤を使わないので、玉ねぎの芽が出たら今度は除草が大変です。昔は手で草取りしていましたが、とても手間がかかるし腰も痛くなるので、何とかいい方法はないだろうかと考えて生まれたのが太陽熱消毒です。あれは、最初は失敗から生まれたんですよ。とびっきりいい苗をつくろうと思って、7月の暑い時期に畑にたくさんボカシを入れたんです。それからしばらくしてキャベツの苗を植えたら、全部しおれてしまった。なぜだろう、と思って畑に近付くと、ブワーッと熱気が来たんです。びっくりして土に触ったら、60℃以上ありました。ボカシの量が多くて、発酵したんですね。
これは大変なことをした、こんなところに苗を植えちゃいけない、と思い、しばらく置いておいて、9月になってから玉ねぎの種を蒔きました。その頃になるともう熱は収まっていましたから。その時に、あっと思いました。熱のおかげで、雑草の種がみんな枯れていたことがわかったのです。おかげで草取りはほとんどしなくて済みました。その上、土が完熟していたのでとびっきりいい苗ができました。だけどその苗で作った玉ねぎは、みんなトウ立ちになりましたね。そこでまた、玉ねぎは小さいころに肥料を吸い過ぎるとトウ立ちするということがわかりました。そんな試行錯誤の中で、太陽熱消毒の智恵が生まれたのです。
その後も、畝は東西に向かって立てるものだと思っていたら太陽熱消毒の場合は南北の方がまんべんなく光が当たっていいことがわかったり、まだ熱が落ち着かないうちに人参を蒔いて失敗したりということを繰り返しながら学んでいきました。
そういうことは、どこかで勉強したものではないのですよ。ものごとを単体で見ていると、つなげることはできません。何かをやる時にふっと湧き出したものが、こちらにも応用できるぞ、あちらにも応用できるぞ、とつながっていく。それは、ヒフミヨイ、マワリテメクル、ムナヤコトと潜象界から進んできて、次のアウノスヘシレの「ア」が発生したところから自動的にいろいろなことが起きて、教えてくれるのです。

その時に、その起きたできごとをよーく観ることです。それはメッセージですから、「いただきます」の精神でいただいていくと、物事はとんとん拍子につながって滞りなく進んでいくのです。
いいと思うことは、そのままやっていけばいいですね。失敗の場合は、失敗の可能性が10あるとしたら、その失敗によってまずは最初の1つが消えるということです。学習すれば、失敗の可能性を確実に1つ減らせます。2回失敗すれば、2つ消せますね。どんなにカンが悪くても、10回失敗すればあとは当たりがあるだけです。

ダメなことの奥には、必ず学びがあります。学ぶ意志のある人は、心電図の下がったところでも学びます。そして、それを次につなげていきます。それが、現象と対話をする人です。
そのコツは、直観で感じ取ることです。そうしたら、物事がつながり、スムーズに事が進みますから、毎日が楽しくなります。自らの考えに囚われ、同じところに引きこもっていたら、同じような毎日が過ぎるだけですね。引きこもっていたら、太陽が周っていることも意識できません。まこっちゃんなんて3年も引きこもっていたのですから、もったいない時間でしたね。それはその人のカルマです。そのカルマに相応しい学び方をしたということです。「マコト」をカタカムナの思念で読んでみましょう。

ちなつ:
まこっちゃんいないよ。

いさどん:
いいんです。それがその人の徳だということです。大事な場面にいないということが、今のその人の人柄を表しているのです。

みかこ:
だけど何でこんなに大事な日にいないの?

いさどん:
そうやって「それじゃダメでしょう」と言うのが、人の欲というものです。この人はこうやって大事なことを逃すんだということを理解したら、だからこそ逃がしてはいけない、ということを自らに対して思えばいい。それは頭を回して段取りを組むのではなく、今を「いただく」ということです。
ここは、自分と人を区別しない場です。人に対して「ここが問題だよ」と伝えることは、本当に愛のある場として、相手のことも自分のこととして伝えるということで、それはとても大事なことです。自分の能力には限界があります。しかしすべてをいただきますという心になったら、人の力も自分のものとして備わるということです。

八鏡文字も同じです。一人の人間の名前を読むと、小丸の位置に偏りがあります。一人では、この世界を受け取るには限界があるということです。そしてその性質によってもたらされる縁を「カルマ」と言います。しかし、様々な偏った者が集まり、群れる(調和する)と、全体ではバランスが取れていくのです。
この世界に命が発生する時、完全な潜象界に不完全が生まれ、ものとものの差ができるからこそ、現象界に転がり出てくるのです。その不完全な者たちが集まり調和し、内も外もない世界ができたら、そこは完成された美しい世界になります。

ここは完成された世界ですか?まだまだ、そうではないですね。それは、みんなの心が一つになっていないからです。そしてこの道を歩むことの本当の目的が、まだ十分にわかっていないからです。それで自らの心に囚われ、不完全なままの自分を大事にしているのです。
自分に足りないところを人からいただき、また、自らの能力をみんなに与え、ありがとうございますという心になったら、すぐに美しい場所ができますよ。

(ここで「マコト」、続いて「リュウシロウ」がカタカムナで読み解かれ、それぞれの特徴が明快になる。)

いさどん:
自らを所有していると、自分の性質を客観的に伝えられても、自らの思い描いていたイメージと違うことから、それを受け取ることができません。そしてカタカムナや地球暦の捉え方に疑問を持ちます。しかし真実は、宇宙の法則に従い、今のあなたがその性質で存在しているということを示しているだけなのです。
それを理解すれば、今あなたがいる位置が客観的に観え、そこからどのように歩んでいけばいいのかということがわかり、自らの意志によって未来を創造していくことも可能となるのです。

私たちは、日本という国に暮らしています。「クニ」とは自由が定着したところ、という意味です。それがわかると、クニに生きるということは、自由自在に生きるということになるのです。
そういったことを自らの人生に表していくためには、どんな時でも自らを緻密に観て、その性質がどのように周りに反映されているかを観ていくことが大切です。それは畑で作物を育てる時でも、ご飯を作る時でも、日常の中のどこででも必要な、大切な姿勢なのです。

のんちゃんが毎日酵素玄米をとぐ時に、カタカムナのウタヒをあげていますね。あの姿には欲がないのです。その心がいいですね。
でもね、欲はあってもいいんですよ。カタカムナの48音の思念には、実は大変なパワーがあります。その48音がこの宇宙を創っているのですから。正しい、美しい、濁りのない欲を持ったら、この世界を美しくすることができます。欲の奥にどのような意志を持っているかによって、世の中を良くもすれば悪くもできるのです。だから自分を磨かなければいけないのです。
だけど人は我欲にまみれたまま、良くなりたいと言います。それでは良くはなりません。当たり前のことです。
そのことが理解できたら、そこにはたちどころに気持ちの良い風が流れ、物事はスムーズに進み、誰かがそこを訪れた時に「なんて気持ちの良い場所だろう」と思うことでしょう。長年病気だった人も、そこに行くだけで治るでしょう。

そんなふうに美しくなるための根源は、どこにありますか?
そう。一人ひとり、自分の中にありますね。

一人ひとりが自らと向き合い、自らをきれいにして、いつも自らを観察して正しくコントロールできたら、どんな場所に行っても物事はすべてスムーズに進むでしょう。それどころか、地震も火山の噴火も起こる必要がなくなるでしょう。なぜなら、私たち一人ひとりの心に地球が連動しているからです。

これから、七日七夜をかけて、心の質的転換をします。
なぜ心を磨く必要があるのか。先日の3日間の「宇宙おじさんの人生講座」でも、冒頭にその話をしました。もしもその意味が理解できたら、もう講座は必要ないのです。けれどもなかなか理解ができないから、繰り返し繰り返しその心に触れる必要があるのです。一時変わったからといって喜んでいてはいけません。一生自分と向き合っていくのです。なぜなら、この世界(宇宙)は、永遠に変化・変容・変態を繰り返しているからです。

誰もが心の中に、宇宙の情報の源(宇宙図書館)を持っています。誰かの考えをもらおうとか、新しい知識を仕入れようという意識の人は、みんなメモを取ります。そうではなく、もともと自分の中にあるものにアクセスし、「ああそうだった」と、その情報を思い出すということです。誰の中にも、そのメモがあるのです。それが生命の姿であり、そして、人間の本当の姿なのです。

 

 

 


いさどんの七夜物語 – 序章 「秋分前夜」

木の花ファミリーは、現代社会の行き詰まりに突破口を開く次世代の生き方を探求する場として、創立以来、時代と共に変化しながら、メンバー一人ひとりが心を磨くことをもっとも大切にして歩んできました。その結果、皆が心から安心して暮らせる豊かな場を築いてきましたが、いつしかその豊かさに甘んじ、一人ひとりが真剣に自分と向き合い変化し続ける意識が薄らいでいく、ということが起こりました。このことを感じたいさどんは、今年6月、1年でもっとも光の多い夏至のころから、毎晩の大人ミーティングに参加しなくなりました。
そして3ヶ月後、光と闇がちょうど半々となる秋分の前夜に、いさどんは久しぶりに大人ミーティングに姿を現しました。

1年で闇のピークとなる冬至を越え、今年も残すところあと3日。2015年「船出の年」最後のいさどんブログは、大人ミーティングに出ない間もずっと皆の成長を見守り続けていたいさどんが、秋分前夜を皮切りにあふれるように語り続けた七日七夜の物語をお届けします。無限にあふれ出す宇宙の叡智を浴びながら、この世界の真理を探求する7日間の旅へようこそ!
(写真は、秋分の日の朝日です。)

 

9月22日 秋分前夜

いさどん:
皆さん、遠くに座っていても、下を向いて何か作業をしていてもいいですが、意識はこちらへ向けていてください。

今朝、すごく大事な話をしました。どんな話だったのかというと、今は全くそれが出てきません。ただ、大事な話であったことは間違いありません。
では今日僕が何でこの場に来たのかというと、語り出せば出てくるからです。語り出せば出てくるということは、僕の中に確固たるものとしてそれがあるということです。しかし今何だったのかと考えても出てこないということは、考えて出てくるものではないということです。それは、時が来れば湧き出してくるものです。

僕は40歳でそれまでの仕事をやめました。今は64歳ですから、あれから24年経ったということです。
僕の人生は、とてもおかしな人生です。僕は30歳でこの道をいただきましたが、始めの頃は上からのメッセージを疑っていました。それこそ悪魔か何かが僕を騙そうとしているのではないかとも思いました。しかしそのメッセージはその都度、道理が通っているのです。だから疑いながらも、道理の通る方を選んできました。

始めの頃は、その道理は僕の意志とは別のところにありました。ですから、どちらかというと、それは僕にとっては自らを否定する方にありました。それでもそちらの方が道理が通っているから、常にそちらを選んできました。
だけど、みんなは違いますね。そちらの方が道理が通っているとわかっていても、自分の意志の方を選ぶ。そうすると、結果的にバカを見ます。
自らの意志とは違うけれども道理の通る方を選んできたのが僕の人生です。その結果、今こういった暮らしが出来上がりました。

一昨年、ある女性と22年ぶりに再会することがありました。
彼女は、僕ととても深い縁があった人です。しかし僕がここに来てから22年間はまったく縁がありませんでした。ところが一昨年再会しました。縁が深いと、22年も経ってからでも復活するのです。

彼女は僕と再会する前に、こんな夢を見たそうです。宇宙人がやって来て、彼女をさらっていこうとしました。彼女は、自分は地球から離れるんだ、それもいいか、と思い、仰向けになったまま、体がどんどん宙に浮いていくのに任せていましたが、最後に街が見たいと思って、体をひっくり返して下を見ました。その時、地球から離れる前にもう1度いさみくんに会いたい、と思ったそうです。そうしたら体がくくっと下に降りて、元に戻った。彼女は結婚して子どももいるけれど、その時、夫や子どものことはまったく頭に浮かばなかったそうです。そしてその後、偶然インターネットで僕を見つけて、再会することになりました。
普通、20年も経ったら互いの気持ちは変わっているものでしょう。ところが彼女は22年ぶりに再会してここに来ても全く違和感がありませんでした。そして彼女の心は、ここにどんどん定着しています。家に帰れば普段の生活があるわけですから、ギャップを感じて苦しくなるものですが、彼女は苦しい感じがまったくしないのです。それは、「道」があるのだということに気付いたからです。

それを聞いた時に、僕という人は一体どういう存在なのだろうと考えました。すると、カタカムナの単音の思念が浮かんできたのです。
「イサミ」をカタカムナで表すとこうなります。

      イェ
      イェ
      サ
      サ
      ミ
      ミ

 

 

 

 

「偉佐美」のイは、「ヰ(イェ)」の方です。まっちゃん、これを単音の思念で読み解いてください。

まっちゃん:
3文字の場合は、普通、真ん中の文字から読みます。まず「サ」にはいろいろな思念があるけれど、「心の隙間」「狭い隙間」「動きの始まり」という思念があります。

いさどん:

なぜ始まりかと言うと、「サ(差)」ができることによって現象化するから。もしもまったく差がなかったら、それは「サトリ」の状態だから、始まらないのです。
「ミ」は「満つる」。満つっているけれど、これはまだ現象界に現れる前の、潜象過渡の状態です。

59

みかこ:
「ミ」は「観る」。心で感じるもの、ということでもある。

いさどん:

「観る」とは、奥にあるものを観るということ。この目では見えないのです。

みかこ:
「ミ」には「みつご」という意味もあって、電気、磁気、力が満ちていること。でもそれは目には見えないでしょう。

いさどん:
電気、磁気、力というのは、この現象世界の物理的原理。何かの現象が起きるのは、その3つの働きがあるから起きている。だけど、現象は目に見えても、その奥にある3つの働きは目に見えない。だから、浅く見ている人にはわからないのです。

まっちゃん:
「ヰ」は、「サ」と「キ」の重合した状態。重合とは、七重、八重、九重を超えて十重に至ると、八鏡文字で表されている大円が溶けて一体化する、つまり悟りの状態になるということ。

みかこ:
八つの小円も、この次元まで来ると小円も溶融し、境界面に密集していた高密度の小円の密度差が取れる。それが悟り。

いさどん:
カタカムナで言う精神位置の、一番高い、仕上がったところだということ。

みかこ:
この形は鳥居の形を表し、悟りを意味する思念を持つ符号であるとも言っている。

いさどん:
そうすると、この「イサミ」という名前は、まだ隙間にあって、そろそろ動きだそうとしている状態で仕上がったもの、奥にいて満つっているものを表している。現象界にはまだ現れていない。
どこにいるかというと、ここに現象界と潜象界の間の壁があって、現象界に現れる少し手前のところで、準備ができている状態。その位置にいて、現象界の人からは見えない。見えないところで、完成された心を持ってそこにいるということです。

かつて、僕はこういう道をいただいて、いったいどんな役割があるのでしょうかとお釈迦様に聞いたことがあります。なぜかと言うと、いろんな人に心の道を語ってきましたが、いつも手応えがあるようなないような状態だったからです。
表面的にその人が楽になるという意味では、手応えがありました。だけど僕は、楽になってもらうためにやっているわけではないのです。あなたが、楽になる前に苦しかったことの意味を理解しなさい。苦しいとは尊いことであり、苦しさがあったからこそ、楽になった時にこの世界の有り難さに気付くことができた。そのことをわかるために伝えているのに、みんなは楽になることだけを求めて、それで終わりにするのです。
だから多くの人は、自分が苦しみから解放されると「ありがとうございました」と言ってそれ以上学びに来ませんでした。それで僕は、孤独になっていました。

大事なことは、どこからでも理解できます。四方八方どこでも自分の鏡ですから、どんなにありがたいことからも愚かしいことからも学べるのです。全てはそのためにあるのに、人は自分に都合のいいことだけを受け取って、苦しみが取れたらそれで良しにして、その苦しみの本当の意味を理解しないで終わっていきます。それではいけないでしょう。中には、「ありがとうございました」と言ってお礼を置いていこうとする人もいました。だけど僕は、そんなことが目的で語っているわけじゃない。だから、お礼は受け取りませんでした。

そんなふうに矛盾を感じていた時に、お釈迦様に聞きました。「私はどういう者なのでしょうか」と。その質問の奥にどんな心があったかというと、「私は理解されたい」という想いがありました。それは、僕を理解してほしいということではなく、僕が語っていることを理解されたい、ということです。それは、本当に人が楽になる道だからです。
だけど人々は、浅く受け取って「ありがとうございました」と言って帰って行きました。だから、ものごとの奥をずっと観続けて、生きるとは何であるかを知っていくということを忘れるのです。清涼飲料水を飲んだように一時的にはスカッとして爽やかになっても、その後が続かないから、また清涼飲料水が必要になるのです。
僕はそれが不可思議で仕方ありませんでした。それで「私がやっていることはいったい何なのですか」とお釈迦様に聞きました。僕が理解されたいとか、評価されたいとかいうことではなく、かけたエネルギーが無駄にならずに相手の中で生きるように。そしてその人が自分の愚かしさに気付いて大切な生き方をするようになるように。簡単に言えば、幸せになるように。もっと言えば、本当の価値が上がるように。そういう想いがありました。でもなかなかそうはなりませんでした。

本当ならば、同じことをグダグダと続けなくても「やめた!」と言ってサッと切り替えれば、別の人生があるのです。それなのに同じことを繰り返すのが、その人の癖、性分、つまりカルマです。
そのカルマからの解放を表すのが、「ヰ」の文字。僕は今、肉体を持ってこうやって生きているのだから、それを人々に伝えることで本当に成っていくのだろうと思っても、いっこうに動きが進まない。
それでお釈迦様に質問をしたら、こう返事が返ってきました。
「おまえが生きているうちは、おまえが伝えたいことは世の中に理解されない。」
それは、おまえのやっていることは効果がないという意味ではありません。おまえはそれだけの覚悟を持って、それをやる気があるか?ということを問われたのです。

一昨年、不二阿祖山太神宮へ参拝した時に、天から「難しいことを与えておるゆえ心していけ」というメッセージがありました。わかっております、とその時は思いましたが、その後にいろいろと起きたことを考えると、改めて、本当に難しいことを与えられたと思います。僕が伝えようとしていることと、相手に伝わることがまったく真逆になることもあるのですから。面倒くさいったらありゃしないし、いい加減わかりなさいよという気にもなります。
それでも、何度も同じことを繰り返す人に対しても、もう知らないとは言わずに付き合ってきました。わかってほしいのにわからない者たちだな、と思いながら。

その時に僕はどこにいるのかというと、潜象界と現象界の間に壁があって、その壁の手前にいる。潜象界から現象界に語りかけても、それは現象界の人間にとっては「ない世界」からのメッセージだからわからないのです。
「イサミ」という名はすべて潜象過渡であり、「サ」は現象界に入っていく始まりを表しています。「ヰ」は、現象界ですべてのことが起きた後の最終到達地点。僕は潜象界の側にいて、満つっている状態です。ムラムラムラというのか、モコモコモコというのか。だけど、人間の体を持っているから、それを語ります。「サ」から「ヰ」まで、つまり始まりから仕上げまでを語ります。だけどみんなは、僕がいくら高い視点のことを語っても、自分の足元しか見ていない。いくら僕がこっちだよと言っても、足元の低いところにしか興味がないのです。

それで僕は、お釈迦様にさらに質問をしました。私の道はどのような道なのでしょうか、と。そうしたらお釈迦様は、こう言われました。

「おまえは今、一にいる。あるいは二にいる。しかし、道は十への道である。そのおまえが、私の道はどこにあるのでしょうかと十を聞いている。
私は、その問いには答えない。なぜなら、肉の体を持って生きる人間は、答えをすぐに求めたがるから。形をすぐに求めたがるから。もしも私が十を答えたら、おまえは一にいれば三に行きたがり、三にいれば五に行きたがり、七に行きたがり、十を求めるだろう。もしくは、いきなり十に行きたがる者もいるだろう。
しかし、一は必ず二に通じ、二は必ず三に通じ、三は必ず四に通じる。そして九まで行けば、自ずと十になる。
今、おまえは私に問うている。それは、私に通ずる道にいて、私の道はどこにあるのでしょうかと問うているとのである。ならばおまえのすることは、今一にいるとしたら、二に進みなさい。二に行ったら、三に進みなさい。三に行ったら、四に進みなさい。次の場所は必ず観える。しかし一にいては、三は見えない。
一つずつ進んで九まで行けば、自ずと十は観える。それが道だ。」

そしてお釈迦様は、「おまえは八十にして滅する」と言われました。なるほどと思いました。僕は四十で仕事を辞めると決意していましたが、それは折り返し地点だったのです。
そしてこう言われました。
「おまえが生きている間は、おまえの言うことは世の中に理解されない。つまり、世の中に道は開かれない。しかし、おまえが滅したら、世の中にそれが広がり始める。」

僕が八十歳ということは、2031年です。2031年に、世の中がそういう時代の扉を開けるということです。
2012年の12月21日に銀河の冬至があり、宇宙の扉は開きましたね。そこから2031年までは、19年間のギャップがあります。その間は理解されないということは、世の中が本当には動き出さないということです。お釈迦様は、それを覚悟して行けということを言われたのです。
僕は、世の中の扉が開く前の土台をつくる人間です。そういう役割なのです。そう思っていたら、ちゃんと扉を開ける役割の魂が生まれてきましたね。銀河の冬至を越えて、世の中に質的転換を起こして成す役割の魂たちが生まれて来ています。

6月の終わりから、ずっと僕は大人ミーティングに出ていませんでした。このわからない話をみんなにどうやって伝えたらいいだろうと考えていました。わからないはずです。理解されないという役割で生まれてきているのだから。
本当は、安倍総理でもパン国連事務総長でもアメリカ議会でも、この話を聞かなければいけないのです。今度アメリカで、日本とアメリカと韓国が話し合いをしますね。今年、日中韓で話し合いをする前に、アメリカの意向を聞かなければいけないということで集っています。名目上は北朝鮮対策ですが、本当の目的は中国対策です。そんなことをやっている限り、いつまでもこの状態は続くでしょう。だからこそ、彼らは僕の話を聞かなければいけないのです。それは、僕の話ではなく、僕を通して湧き出てくる天の意志を聴くということです。

だけど、まだそういう時は来ていません。でも少なくとも、ここの人たちは僕の話を聞かなければいけない。この不可思議な生き方は、「なるほど!そういうことか!」というとびっきりの合点がないと生きていけないでしょう。では世の中はなぜ合点がなくても生きていけるのかというと、欲と我にまみれているからです。汚れているからです。
だけどここではこんなにも汚れを取ることを大切にしているのだから、それを取らずにいて、何を目標にして生きるのですか。目標を見失ったまま、どうして前へ進めるのですか。

僕の役割は潜象過渡ですから、まだ世の中からは観えません。しかし宇宙は既にそうなっています。宇宙はそうなっているけれど、現象化されるにはまだ時間がかかりますから、その間に新しい時代を迎え入れる心の準備をみんなができるように、僕はこれをやっています。ものの奥を観ようという意志を持った人にだけ、初めて通じるのです。
潜象過渡から伝えられることは、汚れが取れないと観えません。だけど僕は肉体を持って、現実に現象界に現れています。だからみんなは、僕を利用しようと思ったらいくらでも利用できるのです。だけど、利用する意志を示さなければ、利用できないですよ。観ようとする心、引き出そうとする心、学ぶ心がなければ、利用できません。それではもったいないでしょう。
利用しようという意志があれば、僕はどこまでも出ていきますよ。それは、みんなが僕に対してどうするということではなく、あなたはなぜ今ここにいるのか、自分は何者なのか、どうしてこの道を選んでいるのか、ということを明快にするということです。

昔僕がお釈迦様に、私の人生は何なのですか、どこへ行くのですかということを聞いた時に、答えをいただきました。どこへ行くのかという答えはなかったけれど、そこへ行く姿勢を教えられました。それが答えです。そして歩んでいけば、ちゃんと形は観えてくるのです。

明日は秋分。いよいよ今年も第四コーナーです。来年の指針も出ました。着々と天は用意されています。
700年の伝統を持つ奥三河の花祭が、ここに「富士浅間木の花祭り」として継承されました。花祭は国の重要無形民俗文化財ですが、今やここには世界各国から祭りのための聖水が集まって来ています。いったいどこまで進化していくのでしょう。
カタカムナ勉強会は、今年からカタカムナ研究会になりました。そうしたら、それに参加したモンゴルの青年が、ここを人類の歩むべき新たな道を探る研究所にしましょうと言いました。
僕はかつてお釈迦様から、名前から人のカルマを読み解く「カルマ読み」をいただきました。さらに3.11と共に、惑星配置からその人を読み解く「地球暦」がやって来ました。それでより深く人を読み解けるようになり、自然療法プログラムが進化しました。そして一昨年カタカムナと出会い、カタカムナの思念から読み解けるものがカルマ読みや地球暦とぴったり一致するのです。地球暦の太陽から冥王星までの九つの惑星は、カタカムナのヒフミヨイムナヤコトで十で悟りに至る道とぴったり符合します。そんなことを、いったい誰が考えたのでしょうか。

ヒフミヨイムナヤコト

地球暦は、ここで進化、発展しています。カタカムナも、いよいよこれまでの熟成期間を経て、これまで潜象界にあったものが現象化していくのです。これから独自のカタカムナ理論ができあがっていきます。まっちゃんをどうやって活かしたらいいだろうと考えていましたが、活かしどころが見つかりました。少し前まではずっとグダグダしていて、もう好きにしろと言いましたが、これからは好きにしろではなく、ちゃんと役に立ってもらいます。

まっちゃん:
そうします!

いさどん:

地球暦に出会ってから、僕とみかちゃんで力を合わせて読み解きを進化させてきました。これからは、まっちゃんと力を合わせてカタカムナを深めていきます。そうやって、ことが成っていく時に一人ひとりに役割があるのですよ。今、新プロジェクトの計画がありますが、全てそこにふさわしい人がはまっていくのです。現世的には仕事としてですが、霊的には、自分の魂のはまりどころにパズルのピースのようにはまるということです。
そうやってみんなが活かされて、それが社会にメッセージとして発信されていく。これから、今の社会にはまることのできない人材がたくさん集まってくるでしょう。そういうことを、我々は真剣に考えなければいけません。それは、損得勘定で考えることではないのです。宇宙はフリーエネルギーであり、潜象界から無尽蔵にエネルギーが供給されています。道理に沿ったものには、必要なエネルギーが与えられます。その心になったら、何でも可能になるのです。

僕は今日、大事なことをみんなに伝えました。みんなはそれを聞いて、この現象界でどうしたらいいと思いますか。

ヒロッチ:
ありきたりなことだけど、ここの役割を世の中に対して果たしていく高い自覚を持つことが一番だと思います。

なかのん:
ものごとの奥を観ていく。

いさどん:
その結果何を求めるのですか。

なかのん:
宇宙の意志を感じる。それでどうなっていくかはわからないけれど。

あや:
世界を清浄の地に導くということをする。

いさどん:
そういう目的のために我々はこの道を歩んでいるわけですから、それはこの先にある結果のことでしょう。それがいつ来るのか、どういう形になるのかはわかりません。けれども、揺るがない目標です。この道を知ってこの道を歩み出した者は、本来そこから外れるということはないはずなのです。

えいこばあ:
意識していく。

みちよ:
天意を感じて生きていく。

いさどん:
その目的は?

みちよ:
天の意志を現象化して、調和的な社会を創ること。

いさどん:
あなたが創るの?

みちよ:
天のプロジェクトのもとにみんながやっていく。

いさどん:
そのプロジェクトを感じるためには、何が必要なの?

あや:
我を捨てる。

まっちゃん:
我を超えるじゃない?

あわ:
自らの役割を果たす。

あつこ:
人のために生きる。

やじー:
道具になり切って使っていただく。

いさどん:
みんな正解ですね。外れている人はいない。それをまとめて言うと、大切な道を生きているという自覚を持つということです。それができたら、今みんなが言ったことは自動的に成っていきます。簡単でしょう。大事を生きている。だから大切に生きなければいけない。忘れちゃいけないんだ、ということです。

それだけ大事だということは、いい道を生きてありがたいな、得したな、ということではないのですよ。僕がみんなに伝えたいのは、責任があるということです。ここがやり切らなければ誰が扉を開けるのか。

そういったことを想って生きれば、具体的なことは自動的に成っていきます。大事だということがわかったなら、すべてのことの一番にこれを置いて考えることです。そうしたら、良い世界ができるでしょう。

 

 

いさどんの七夜物語 – 第一夜「思い出す」へ続く

 

 


あなたはこの世界のために生まれてきています

 ~21世紀の癌の処方箋・「囚」から「閃」へ~

 
僕はこの世界の観察者です。世の中のあり方や人のあり方、自然のあり方を常に観察しています。そうすると、そこにはいろいろな法則があることが観えてきます。ところが、ほとんどの人々は自らの中に湧いてくる欲望や興味を優先させているため、そこに法則があることを気付けていません。ですから、人間が創り出した世界はその法則を無視しているために、地球上に矛盾を発生させることになっています。今、人間社会はその矛盾のピークを迎えています。それはある意味、人間の能力の高さの証明でもあります。しかし、能力が高いからといって、その能力は常に良い方向に表現されるとは限りません。その能力の高さを、戦争のような極限に負をもたらすために使うこともあるからです。

そういった現状の中で、わたしたち人類はとても不健康な日々を送っています。その不健康な現象の一つが病気の蔓延です。今、日本人の死亡原因の一位は癌です。そこで、癌細胞の気持ちを僕は考えてみました。彼らはある意味能力が高く優秀な細胞です。自分たちの適切な範囲を知っており、その環境が整うと爆発的に勢力を拡大します。どこに勢力を拡大するのかというと、他の生命の中に寄生しながら広がっていくのです。ですから、この世界で癌細胞だけが独立して生きることはありません。常に何かに寄生しながら存在しているのです。このような話をすると、地球という器の中にいる今の人間の現状を想像できませんか?

癌細胞は自分たちが活動するエリアをつくり、その枠の中に入っています。人が自らの考え方の中に囚われている状態を、漢字で「囚」と書きます。これは、枠の中に人が入っている状態です。この枠の下の部分を取り去ると、玄関ができて外からの情報が入ってきます。そして、上の部分も取り去ると、上からは天の法則が入ってきます。そうすると、「囚(とらわれ)」が「閃(ひらめき)」になるのです。

囚われの状態とは、頭の中で思考がぐるぐるとまわり、自らの価値観から生まれる考えだけで生きている状態です。それに対して、閃くという状態は上から降りてくる直観と、内から湧き上がる想いの両方によって生まれます。この閃きの状態を「縦」の思考と呼びます。それに対して、囚われの状態を「横」の思考と呼びます。横の思考は、縦の思考に沿うと、健全に働くようになるのです。そして、この縦(Ⅰ)と横(一)の両方を合わせると十(重合)となり、これは地球の構造と同じです。わたしたちの体も同じ構造でできており、太陽系、銀河、さらに宇宙も同じ構造になっているのです。キリスト教の十字架も同じです。カタカムナでは、これを一(ヒ)から十(ト)までの道ということで、それを十(ヒト)と読み、完成された人間の姿を表します。それは、悟りに至ったヒトの姿です。

名称未設定

癌細胞は、自分たちが活動するエリアを見つけると、そこで自分だけの世界をつくります。しかし、人間の胃の中に癌細胞が増殖する環境が整ったとしても、通常、癌細胞は広がりません。なぜなら、人間の体の中には癌細胞を抑える免疫力があるからです。そこで癌細胞は、自分たちの存在するエリアの法則に従い、門を開き、「閃」という状態で役割をするようになったら、正常細胞として働くようになるのです。

しかし、「癌」という漢字を紐解くと、「品」物を「山」のように抱えると「病」気になる、という欲深な性質を示しています。癌細胞は能力が高く、自分たちのエリアをどんどん広げていく細胞ですから、自らが胃の中の役割に徹することよりも、いろいろな役割を持つ細胞を癌細胞に変えてしまうのです。そうして、癌細胞一辺倒の世界をつくり上げていきます。そして、癌が増殖していったエリアの機能は壊れてしまうのです。結局、わたしたちの体の中の重要な機能が停止すると、いずれ全体の生命機能は停止することになります。その結果、癌細胞も共に死滅するのです。癌細胞は本来、その癌細胞が寄生している全体が健全であると、癌細胞も共に存在していけるのですが、それを無視して自分たちだけの世界を広げるために能力を使うと、自分たちも消滅するはめになるのです。

しかし、癌細胞だけが問題なのではありません。本来わたしたちの体は、癌細胞と正常細胞がバランスをとるようになっています。ですから、癌細胞が増殖するということは、必ずわたしたちが自らの体の生態系を乱すような原因を持っており、それが癌細胞の増殖を手助けしているのです。たとえば癌細胞がより増殖するような食べ物を取り、環境をつくっていたり、癌細胞と共鳴するような心の状態を保っていることが挙げられます。癌細胞は品物を山のように抱える欲深な状態に共鳴する細胞です。その考え方は自らに囚われ、まわりに対して門を開かない状態です。そうした状態は、まわりのものたちと調和し、連携しない性質を示しています。

元々、癌細胞は癌細胞として存在していたのではありません。条件が整うと、正常細胞が癌細胞化するのです。このように癌細胞を捉えていくと、地球上の今の人類の姿に観えてきませんか?人間も、元々自然から発生したものであり、生命の循環の中にあったものが自我を得て、ある条件のもとにエゴを優先させていった結果、地球にとって癌細胞化するのです。まさしく、今の人間は地球上の癌細胞として存在しています。そういった意味では、地球に対して負荷をかけ続けている現代社会のリーダーたちは、癌細胞のボス的存在とも言えます。本来、人類は地球生命と共存・共栄する立場にいると捉えると、新しき人類のリーダーたちはその考え方を今までの価値観とは全く逆転させる必要があるのではないでしょうか。

そのような姿勢を人類が取り続けるようであれば、今後も宇宙や地球生態系はそういった行いに対し様々な現象を通して問題という形で、気付きを与えていくことでしょう。それは、「他者とつながりなさい。そして調和しなさい」というメッセージです。さらに、「あなたはこの世界のために生まれてきています。この世界があなたを生み出したのです」と伝えてくれているのです。

昔の人々は、それほど癌にはなりませんでした。しかし、今の人々に癌はとても多いのです。最近の統計によると、日本人の三人に一人は癌で亡くなっており、一生のうちに二人に一人は何らかの癌にかかると言われています。そこからは、今の人々の自らのことを優先して他者のことを思わず、お金や物に執着し抱え込んでいる姿が観えてきます。それはなぜかというと、人と人がつながらず、生きることに不安を感じながら生きているからです。今の人々はお金や物が沢山あることが幸せであり、そのことが社会で成功したことだと錯覚しています。しかしそれは、本来人間があるべき尊い存在としての姿からは逆の姿なのです。

そういったことを癌細胞はわたしたちに教えてくれています。癌細胞は、「あなたの生きる姿勢がまさに癌細胞のような存在なのですよ」と教えてくれているのです。そして、あなたの心が開かれ、調和的になると、癌細胞はその役割を終え、自ずと消えていくのです。

21世紀に入り、人類は多くの面で行き詰まりを迎えています。しかしそれは、この世の中が問題なのではありません。あなたのほんの小さな日常の囚われが大きくなって、連鎖し、地球規模の現状となって、この世界全体を形成しているのです。それと同時に、わたしたち一人ひとりの身近な問題や悩みも、同じ延長としてこの世界は示してくれているのです。ですから、そうしたすべての問題を解決するためには、一人ひとりがそのことに気付き、まずは自らのほんの小さな囚われから解放されていくことが、問題解決の鍵となるのです。皆さん一人ひとりの手の中にその鍵は託されています。

誰一人として、自らが癌細胞のような存在ではありたくないはすです。わたしたちは本来、この世界のために生まれてきたのですから、この世界のために貢献し、誇りを持って人生の終わりを迎えることが真のヒト(十)の生きる目的であり、人としてのあるべき姿なのです。もう一度、あなたも自らと向き合い、人はどのように生きるべきなのかを考えてみてください。

 
まずは、あなたの「囚」を「閃」へ。

 

 


21世紀の人のあるべき姿 ~前編~

2015年10月31日から2日間、内モンゴル出身の27歳のムルンくんが企画した「古代日本と遊牧民族の叡智が融合し未来を創造する~モンゴルの草原から来た青年の吹き起こす風 第一章『大地』」と題したイベントが木の花ファミリーにて開催されました。その2日目に行われたムルンくんといさどんの対談の様子を以下にご紹介します。

※なお、9月10日に行われたムルンくんといさどんの対談は、「地球談話を実践する人々~ムルンくんといさどんの対談」からご覧になれます。

 

宮ノ下広場にて お祈りをするムルンくん
宮ノ下広場にて お祈りをするムルンくん

いさどん:
今朝、木の花ファミリーの聖地である宮下で儀式をしているムルンを観て、ムルンという人を紐解いてみたら面白いと思いました。僕も30歳の頃から普通ではない人生を歩んできましたが、ムルンは30歳前にして力強い志とともに一途に生きています。そして、それはこれからどんどん育っていくことでしょう。僕は今64歳で、あなたは27歳なので、年齢差は大分ありますよね。あなたにそれだけ早く志の花が咲くということは、あなたにはそれだけ大きな役割があるのだろうと思うのです。

宮下で儀式をしている時に、ムルンはこの世界に向けて言葉を発していました。そして、そこにはこの世界の意志に応えているムルンの姿がありました。それが、本来の人のあるべき姿なのです。

カタカムナでムルンという思念を紐解いてみましょうか。

みかちゃん:
「ム」は六方向への拡大・縮小が極まるということで、「無」にも通じます。

いさどん:
「ム」は般若心経で言うと、「無眼耳鼻舌身意(むげんにびせっしんい)」と色即是空のことです。この世界は無から始まって、無にまた還ります。ですから、ある意味悟りの境地とも言えるのです。

それから、カタカムナで言うと、「ム」はヒフミヨイムナヤコト(一二三四五六七八九十)の六にあたり、「産(ム)す」という思念もあります。「産す」はこの世界の物事が発生する段階です。カタカムナの思念によると、「ヒ」は秘かに始まることを意味し、見えないところで秘かに現象の種が産まれ出すということです。そして、「フ」はそれが二つに割れることを意味し、それが四つになって八つになって、この世界の物事が始まっていきます。「ミ」はそれが満つっている状態です。そして、「ヨ」は時が産まれ混沌としている状態であり、その次の「イ」で位置が決まります。ヒからイまでは潜象界のことであり、まだ現象界に現れていない状態です。そして、そこから「ム」が始まります。つまり、潜象界に秘められたものの位置が決まったら、産して、現象の元ができたということです。「ム」の段階では、全く汚れていない無の状態です。それがいろいろなものに触れ、現象化が進んでいくと、汚れがついてくるのです。その最初の質量を持つ発生の段階が「ム」なのです。

ホワイトボード

そして、「ル」とは、その行為の継続、その状態を保つことです。ですから、「ム」の状態を保ち、「ン」とは前の音を強くするのです。そうすると、この人は非常にわかりやすい人であり、この世界に現れてくる最初の美しい状態で志を強く保っている人ということになります。それが「ムルン」という人です。ですから、とても一途な人です。27歳でその大事を示し生きていったら、その見本になる人ですね。

今、ふっと湧いたのですが、なぜあなたはこのような活動をするようになったのですか?

ムルン:
今から生まれてくる子どもたちは、僕よりももっとエネルギーが高く、もっと優れたいのちたちです。しかし、その子どもたちが今の社会システムの中で生きていったら、たいへんなことになってしまいます。だから、僕はその子どもたちのために新たなシステムを創りたいのです。闇の時代の矛盾が起きているこの世界では、誰かがそれをやり始めないといけないのです。僕にはその役割があるのです。

いさどん:
昨晩のウエルカムコンサートでは「何億年もの時を越えて」という歌が歌われましたが、その中に「闇の時代は終わりを告げて 光の時代へと向かってゆく」という歌詞があります。それは、まだ闇の時代にいて、いよいよ闇の時代が終わるということを歌っているのです。それは言わば、満(ミ)つって、混沌(ヨ)として、位置(イ)が決まる段階です。ですから、闇の側にいて、光の時代を迎えようとしている状態なのです。まさに木の花ファミリーの歩んできた道は、その状態です。そして、それがいよいよ産(ム)して、「そういった時代になったのだ!」と示していくのがあなたの役割です。そして、これから生まれてくる子どもたちはその先の未来を創っていく人たちです。

今、時代は非常に早いスピードで変化しています。今までの人類の歴史を振り返ってみると、250年前のヨーロッパ産業革命以降、物質的なものを究めてきた時代でしたが、それはある意味逆転現象でした。つまり、自らの心に湧いてきた想いを叶えることが幸せだと思って生きてきたことが、かえって自らを苦しめてきたのです。そして、皆が幸せになろうとしてきたことが、かえって世の中を混乱させてきたのです。

ですから、本当の自分を観るという意味で人類は今、思考の質的転換(ナ)をしないといけないのです。

ムルン:
僕の場合、本当の自分は光なのです。太陽の光がボンと自分の中に入ってきて、それが肉体の中に混ざって、僕は生まれてきたのです。

いさどん:
それはお母さんのお腹の中にいた時の話ですか?それとも、生まれてからの話ですか?

ムルン:
僕が生まれる前の話です。

いさどん:
それは、自分が光だった時代ということですか?

ムルン:
そうではなく、一つの魂はある意味エネルギーですよね。そのエネルギーがいろいろなものと関連しているということです。光は宇宙が成り立っている一部であり、その一部から僕が来たということです。

いさどん:
光は物質です。ですから、わたしたちの物質の元になっているのです。宇宙は、ヒフミヨイムナヤコトという一から十の仕組みによってできています。ト(十)は統合という思念で仕上がりの状態であり、ヒ(一)は始まりの思念であり、太陽の日でもあり、燃える火でもあり、光でもあるのです。ですから、あなたの話はその通りなのですが、なぜそういうことをあなたは確信を持って話すのでしょうか。そこのところを聞きたかったのです。普通の人はそういったことを自信を持って語らないものです。

ムルン:
僕はそういったことを自然に感じますね。

いさどん:
それはムルンが自然に感じて、自分の中で当然のように語ることはかまわないのです。それはあなたのルーツですからね。しかし、自信を持って自分の記憶を語ったとしても、まだそのことをわからない人たちは「この人は何を言っているのだろうか?変わったことを話しているなあ」と思ってしまうのです。

ムルン:
実は、これはいさどんのせいなんですよ(笑)!いさどんと話していたら、説明をしなくても、自然とそういう会話に入れるので慣れてしまったのです。

みかちゃん:
ということは、ここに来るまではそういう話をしてこなかったということですか?

ムルン:
僕はあまりこういう話をしてきませんでした。

いさどん:
自分の中に秘めていたのですね。

ムルン:
それは、相手が理解してくれないからです。ただ、相手が少しわかりそうな人であれば、僕はたくさん話をしますし、その人も喜んでくれます。

いさどん:
先程、僕は30歳の頃から変な人だったという話をしましたね。その頃、世の中は高度成長の真っ最中ですから、土地を買えば絶対儲かり、株を持っていれば絶対儲かる時代だったのです。そのような時代に、まわりがどんなにその大事がわからなくても、自分の心の中で秘かにその想いを持ち続けながら歩んできました。最初の頃は自分の中にその想いは満つっていても、語れなかったですね。それが、少しずつ語れるようになってきました。こういったことは僕の中では本当のことですから、語ってきたのです。しかし、今はそれを多くの人に語れる時代になったのです。ですから、あなたが宮下で儀式をして、そのことに皆が立ち会う時代になったのです。先を少し見通してみると、それを受けて実行する人たちがもう生まれてきています。そうすると、ある意味これは順番なのです。僕のような人が現れ、それに共鳴して生きている木の花の人たちがいて、さらに木の花の存在をどこかで感じ集まってくる人たちや、それを受けてあなたのような人と出会っているのです。しかし、あなたは明らかに、僕が30歳の頃とは違う社会に生きています。そして、さらにそれを受けて、子どもたちはわたしたちとは明らかに違う価値観で社会を創っていくことが観えるのです。

ムルン:
そうです。今、生まれてきている子どもたちは、僕が持っているものをすでに持って生まれてきているのです。

いさどん:
そういうことをあなたが語れるのは、確かに僕のせいなのです(笑)。僕がそういったことを理解しているので、あなたは今まで秘めていたものを語っているのですが、それを僕は解説しているのです。

ムルン:
そうですね。生きていくことは成長していくことですから、一番大切なことは自分をよく見つめ、自分とよく対話をすることです。僕がなぜこの道を歩んでいるのかというと、僕はずっと自分の心の声を聞いてきたのです。そうやって自分の心に従い、自然からエネルギーをもらいながら、転んでも泣いても歩んできました。そして少しずつ成長していくと、自分というものが何であるのか、自分がこの世界でしたいことは何なのか、そしてもっと大きな自分の役割は何なのかという質問が自分の内から湧いてくるのです。そして、それをしっかりと考えることが大切なのです。その結果、自分の精神世界とつながり、バランスが良くなって、自分の役割がさらに定まっていくのです。その時に、人は初めて行動することができるのだと思っています。

いさどん:
今、あなたが話していることは、あなたの歩みとして内に秘めてきたことです。しかし、これからは自分が経験してきた歩みを皆の歩みとして外に表していくことが必要なのです。自分の中で秘めているものは自らの心を強くし、この歩みを進めてきたものでもあるのですが、これからは皆が「そう言えば自分もそうだった!」と忘れていたことを思い出すために使っていくといいでしょう。

ですから、今までは、「これを話してもわからないだろうから、人には話せない」としてきたことを、これからは、今はわからないけれど縁があった人にはそれを語っていき、人々がわかるための手助けをする立場に立つのですよ!

ムルン:
それなら僕も言いたいのですが(笑)、皆、僕と同じなのです!

いさどん:
そうですね。先程あなたは、「自分は光だった」と言いましたが、皆同じ存在なのです。全てのものは太陽の光によって生命が育まれています。太陽がなければこの世界に生命は存在できないこと、そして光から全ての生命が始まっていることをどこかで認識していればいいのですが、多くの人々はそのことを忘れています。ですから、この世界に様々な矛盾が存在していることに危機感を持ち、27歳という年齢でそういったことを大事にしているムルンを観て、僕もこのぐらいの年齢の時からこの人生が始まったことを思い出しました。

僕はこの道を与えられた時にこう言われました。「そなたが生きているうちに、この世界は事が起こらん。」つまり、僕はこの世界が新しい時代を迎える前の土台を創る役割であり、だから生きているうちに本当に社会に認められることはない、と言われたのです。

また、この世界で東北を指す艮(うしとら)の方角は鬼門と呼ばれ、神聖な場所を指すのですが、わたしたちは聖地富士山を東北に見て暮らしています。その向こう側に不二阿祖山太神宮という日本最古の神社があり、そこと縁あって一昨年出会ったのです。富士山をはさんでわたしたちが西南にいて、あちらが東北にいるのです。インドに対して日本が東北の方角にあるということも意味があるのですが、不二阿祖山太神宮には天之御中主(アメノミナカヌシ)という太陽系神と、富士浅間木の花祭りの金神様でもある国常立大神(クニトコタチノオオカミ)の二神が祀られています。そこを初めて訪れた時、その神殿でこう言われました。「難しいことを与えておるゆえ、心してゆけ。」つまり、僕が与えられている役割は今の世の中の人々がなかなか理解しにくい難しいことであり、相当覚悟していけ、ということなのです。実際に、僕がどれほど語っても、世の中の多くの人々はまだ自分自身の欲望に囚われていますから、人としての本来のあり方を理解しないのです。

そこで、僕の名前をカタカムナで紐解くと、偉佐美の偉はヒフミヨイのイではないのです。漢字を見るとわかるのですが、偉という字の中に「ヰ」が入っています。これは井戸の井でもあり、湧き出るという意味です。さらに、このヰは全てを理解した悟りを指します。ヒフミヨイムナヤコトと宇宙の全てがつながって統合されると、いよいよ現象界ができていくのですが、現象界では物が発生しますから、物と物に差が生まれるのです。ですから、「サ」というのは物と物の差であり、差ができると動きができ、この世界の動きが始まるのです。そこで「ミ」は、準備が整い満つっている状態です。ということは、心は悟って、いよいよ始まるぞという状態になり、その状態が満つっているということは、まだ現象が始まらないということです。たとえば、家がありますね。僕はその一番奥にいて、物事はこうだからこう始めていけばいいのだと外に向かって示している状態です。しかし、外にある世の中は、まだ動かないのです。ですから、僕の位置というのは、それをどうしたものかと思案している状態でもあるのです。

ホワイトボード2

そして、ムルンという人が現れました。ムルンは、僕が家の中にいて示していることを受けて、「僕がそれを現象化につなげましょう」という人なのです。ですから、僕は潜象界にいて満つっている状態を保っており、あなたは現象界にいて僕の想いをつなげていく役割になるのです。そして、さらにその次にはイサナという宇宙人が生まれています。今2歳なのですが、イサナの「ナ」は質的転換という意味です。「わたしが現象を起こします」という力強い人が次に控えているのです。そのように、「ミ(三)」から「ム(六)」、「ナ(七)」と時代が進んでいく流れを紐解いていくと面白いですね。

みかちゃん:
「ヰ」をもう少し説明すると、ヰはこの世界に発生し、現象界に形が現れ、そしてまた元の世界に戻っていくという一通りの経験をして、高次元へ還元されたということです。だから、発生する前の段階とは違うのです。

いさどん:
それは、ヒフミヨイムナヤコトの全てを統合して仕上がり、悟って、また戻ってくるということです。それは、現象界へ現れ、いろいろなことを経験して全てがわかると、この世界で修行をする必要がなくなって、もう一回元の世界へ戻り、わかった者として潜象界にいるということです。それが悟りの世界です。

僕の名前には面白いエピソードがありまして、なぜ僕の名前がついたかを父親に聞いたことがあるのです。そうしたら父親は、「生まれた日が5月3日で三男坊。だから、5・3・3でイサミとした」と言うのです。そして元々、「伊佐美」という字を考えて役場に行ったと言うのです。そうしたら、役場の受付の人が「これは伊勢の伊ですから、こちらの偉のほうがいいじゃないですか」と言ったというのです。それを聞いた父親は、頑固者で人の言うことを聞かない人なのですが、その時には「そうですね」とそうしたというのです!それで、僕の名前は「偉佐美」となったのです。

偉いという字がついたことで、僕には昔からプレッシャーを感じることがありました。自分のことをたいして賢いとも思わないし、たいして立派な人だとも思っていなかったので、自分の名前がプレッシャーになることもあったのです。しかしいつの頃からか、自分はこの字をもらう宿命だったと思うようになりました。そして、この字でなければ、イサミのイはヒフミヨイのイ(五・位置という思念)になるのです。それに対し、ヰはヒフミヨイムナヤコトという物事の始まりから終わりまでを悟った最終段階の状態です。昔はその字をもらったことをプレッシャーにも感じてきたのですが、今はその仕組みを語れていると思うのです。

ムルン:
僕もたくさん悩んできたのですが、僕の時代はもっと明快です。僕の時代は悩んでいたものを形にしないとダメなのです。

いさどん:
それがプレッシャーということですか(笑)。

ムルン:
そうですね(笑)。

いさどん:
その時代にはその時代に生きる人のプレッシャーがありますからね。

ムルン:
はい。だから、難しいのです。

いさどん:
実は、この世界に現れるということ自体が、プレッシャーなのです。ただ、そのプレッシャーをどこで感じるかなのですが、自分自身のことで自業自得にプレッシャーを感じる人もいれば、なかなかならない世の中を憂いて世の中のことでプレッシャーを感じる人もいるのです。ですから、どれほどのスケールでプレッシャーを感じているかが、その人の意識波動の位置なのです。

ムルン:
いさどんの話を聞いていて思ったことは、実は僕の名前にも物語があるのです。僕が最初に親からもらった名前は実は中国語の名前で、呉雪芳という名前でした。僕の兄が雪清という名前だったので、ただそれに合わせただけであり、特にこの名前に意味はないのです。それからどういう物語が起きたのかというと、14歳の時に僕は村を離れ、草原をまわりました。そして大都会に行って、勉強するために学校へ行ったのですが、僕のふるさとの出身の人が先生をしていたのです。その先生が僕の名前を記録する時に、「雪芳」という字が「雪峰」に変わってしまったのです。その時は、なぜその先生が僕の名前を間違ったのか、それは意図的なのか、わかりませんでした。しかし、そこから僕の名前はパスポートでも何でもこの雪峰という字になったのです。

そして、今なぜ「ムルン」という名前なのかというと、僕の兄が2歳の時に僕のおじさんの5番目の弟が兄のもとを訪れ、兄にムルンという名前を与えたのです。ムルンにはモンゴル語で川という意味があり、そのモンゴル語の字はとてもきれいです。しかし、兄は中国語の名前を使っていたので、ムルンという名を使うことはありませんでした。そこで、僕は高校まで雪峰という名前を使っていたのですが、高校時代に僕が今話していることや想っていることの形が出てきました。さらに、僕は中国でも内モンゴル出身なので、自分のルーツに憧れる想いが湧いてきたのです。そこで、「僕はモンゴル人なのに、なぜモンゴル語の名前ではないのか?」と思い、「兄はあの名前を使わなかったから、先輩からもらったあの名を僕がもらおう」と思ったのです。

ムルンくんとボード

いさどん:
あなたはどちらかと言うと、中国人というよりも、モンゴル民族の意識のほうが強いということですね。

ムルン:
小さな頃からそれは強かったですね。僕は小さな頃から、村を守るという意識があったのです。僕はモンゴルの先生から、「モンゴル語の名前がないとダメだよ。そしていずれ、君の雪峰が溶けて、川になるよ」と言われたことがあります。山から雪が溶けていって川になる、というのが僕の物語なのです。そして、それは後からわかったことであり、途中でその意味は全くわかりませんでした。

いさどん:
雪峰というのは、そこに山があって高い位置にあるということで、それは意識が高いということですが、まだその状態では人々のいのちにはなっていないのです。山に降っている雪が溶け、川となって流れてきて初めて、人々はそれを飲み、その水がいのちとして生きていくことになるのです。

ムルン:
その意味が高校時代に解け始めたのです。

みかちゃん:
だから、ムルンという名前には深い意味があります。ただ、山にいるだけではダメなのです。「小聖は山に住み、大聖は町に住む」という言葉があるように、小さな聖人は山に住むことに対し、大きな聖人は町に住んで一般大衆に説いていくのです。

いさどん:
僕は1000年前に地球に降り立ったのですが、その時僕はヒマラヤで行者をしていました。地球に慣れ、宇宙の意識をこの地球上に降ろすためにはまず、ヒマラヤで暮らし、そこで修行をする必要があったのです。カタカムナで言う、ヒフミヨイムナヤコトは、一(ヒ)から十(ト)までの道です。そうすると、ヒからトまでを学ぶということは、ヒト(人)の道を学ぶということです。そして、ヒトであることの意味を学び、悟って昇天すると、俗世に生きなくなるものです。しかし、悟った者の悟りは何のためにあるのかというと、それは悟らない者のためにあるのです。普通、「わたしは悟りたい」と言うと、自らの欲望の延長に悟りたいということです。ところが、「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは一切衆生のためにあり」と言うように、悟った者には悟らない者のためにその道を示す役割があるのです。そこには、「自分のため」はないのです。そうすると、ヒマラヤなどで修行をし、悟った者は昇天していくのですが、次にまたこの世界に戻ってきた時には一般の人々の中に入り、そしてわからない者のために生きるということになるのです。

ですから、僕には宇宙から地球に来て、最初にヒマラヤに降り立ち、その後に里に降りてきたという魂の歴史があるのです。そして、こういったことはずっと前から、僕にはわかっていたことなのです。中学、高校の頃にはもうわかっていました。

 

後半へ続く ~

 

 


宇宙から一人ひとりにオリジナルな人生が託されている

2015年マヤ新年の日、地球に祈りのウェーブを巻き起こす式典の中で、いさどんは次のように語りました。

150726-104621

■     ■     ■     ■

今日2015年7月26日、マヤの新年・11MENの祭典に立ち合わせていただきました。そしてその最中に、ひとつの文字が浮かんできました。それは、「時(トキ)」という文字です。マヤ暦はおよそ20000年前から始まりました。その歴史をたどれば、今わたしたちはカタカムナを学んでいますが、そのカタカムナ以前に太平洋という地球上で一番大きな海にムー大陸があったそうです。そのムー大陸が消滅したとき、時(トキ)の文明を東に移し、マヤの文明にしたのです。そして、言魂の文明を西に移し、ユーラシア大陸の端に存在していたヤマトの国に移したのです。それから13000年の時を経て、一昨年、わたしたちはそれをカタカムナの学びとして出会いました。そして昨年から、メキシコの太陽マヤ族最高司祭の尊母ナー・キン氏との出会いにより、このヤマトの地で、マヤの新年の祭典が行われるようになったのです。

歴史を振り返ってみますと、2012年12月21日に25800年ぶりの銀河の冬至を迎えました。わたしたちの地球にも冬至はありますが、冬至とは光がもっとも少ない闇のピークのことです。わたしたちは太陽の生命エネルギーをもとにして、地球上で生命活動を行っています。そして、全ての生命が自分という個性をいただいて、時代を紡いでいるのです。その太陽の一螺旋である25800年ぶりの銀河の冬至が2012年12月21日に訪れ、この日を持ってマヤ暦は終わっています。それは、時(トキ)の文明を継承したマヤの人たちが、太古の昔にそういった宇宙の仕組みや太陽の構造を理解していたということです。

これまで、わたしたちは新たな時代を迎えるための心の準備をしてきました。一人ひとりが自らの個性的な心の歴史を知って、カルマを読み解き、そして新たな心とともに新たな時代を迎える準備をしてきたのです。それが木の花ファミリーの21年の歴史です。

そしてくしくも、新たな時代の扉を開けることになった4年前の東北の震災3.11を持って、わたしたちは地球暦に出会ったのです。地球暦に出会って、わたしたちは自分個人を生きているのではなく、星々の対話を受けて、宇宙の意志を一人ひとりの人生に表現していることがわかってきました。

こうした様々な出会いのもとに、今日2015年7月26日、わたしたちはこの富士山麓の地で地球一周の始まりとしてマヤの新年の祭典を迎えています。この祭典はヤマトの国・日本で始まり、そして24時間かけて地球を一周していくのです。

イメージしてください。宇宙を意識した人々の心が羽ばたくようにウェーブとなって、地球を一周するのです。つまり、地球は丸く、時代は途切れることなく永遠に紡がれながら、わたしたちはひとつの世界を生きているのです。

地球上にはまだまだたくさんの争いや様々な困難がありますが、これは人間以外のものが創ったものではありません。それは、人間が自我を自らのためだけに活かそうとして生きてきた結果なのです。それも、それほど長い期間のことではありません。時をさかのぼれば、およそ250年前のヨーロッパ産業革命以降のことでしょう。さらにもう少しさかのぼれば、800年、1600年くらい前のことでしょう。それ以前、人間は自然とともに生かされ、生命ネットワークの中の役割のひとつとして他の生命とともに繁栄していました。

今、この時を迎え、人間の中で自我が沸騰しています。しかし、これは悪いことなのでしょうか。

それは決してそうではありません。人間の可能性と高い能力を知るためには、思い切りその能力を表現する必要があったのです。そして現実にそれを表現したときに、その問題点も噴き出してきました。それが今の時代です。今、それをコントロールする時(トキ)が訪れ、そして自らのカルマを表現する言魂によってコントロールしていく時代になったのです。今、トキとトコロ、マヤとヤマトが出会って、この祭典につながったのです。

そのように考えますと、わたしたちは自分でわかっている範囲で生きているわけではないのです。星の対話によって時代が刻まれているのであり、それは宇宙の仕組みで生きているのです。その仕組みの中で、わたしたちは常に変化・変容・変態を繰り返しながら進化しているのです。

そういったことをイメージしながら、調和の世界を地球上に表現していきましょう。わたしたち人類は、非常に優れた能力と大きな影響力を持っています。人類が目覚めたら、次の時代にはきっと、この地球生命、さらに宇宙に大きな貢献をするような魂となって育っていく姿がイメージできます。

時代は21世紀に入り、ようやくそのような時代になったのです。2012年の銀河の冬至を迎え、新たな扉が開き、2013年・2014年・2015年と3年間その変化の準備期間をいただいて、2015年はその最後の年です。この新年が明けると、いよいよ新たな時の流れを世界中の人々が感じるようになり、人類も地球自身も新たな宇宙時代を迎えるのです。

それぞれの歩みがあるとしたならば、木の花ファミリーは世界に先駆けてそのことに気付き、目覚めたものとしてこの生活を通して表現するものなのです。これは今後の木の花ファミリーの生き方にますます反映され、そして宇宙を通し、地球ネットワークを通して、全世界に広がっていくものだと確信しています。今日のこの快晴は、天がそのような意志を示されていると感じながら、皆さんとともにその自覚を持って歩んでいきたいと思っています。

木の花の歩みが始まったのが21年前だとしたら、やっと今、時が追いついたのです。人は土星の30年のサイクルで生きていますが、最初の30年で自らが何者かを知ります。そして自らが何者かがわかったら、次の30年でそれを人生に表現するのです。そして、60年でその結果をいただき、その後旅立つための仕上げの準備をするのです。木の花ファミリーの20年から30年に向けての今後の10年間は、きっと新たな時代を紡いでいく大きな役割を果たしていくのでしょう。

そういった意味で、わたしたちは宇宙を生き、時を生き、時代を刻んでいるのです。その中のトコロという場にわたしたちの存在があるのです。ですから、心をしっかりと観て、宇宙・トキ・トコロを意識しながら生きていくことが、生命として、そして大きな役割をいただいている人間としての目的なのだと感じています。

それは、宇宙から一人ひとりにオリジナルな人生を託されているのです。そして、人々は自我から解放され、この世界のために天の意志をいただいて生きていく時代に入ったのです。それは、価値ある素晴らしい人生です。自分のことは自らで責任を持ち、高い意識で歩んでいきましょう。そして、地球上にみろくの世を実現させましょう。皆さん、これからもよろしくお願いします。

一人ひとりにオリジナルな人生が託されている
一人ひとりにオリジナルな人生が託されている