地球は真釈天技場

いさどん:
みんなはこの生き方を楽しんでいるだろうか?

ともこ:
楽しんではいるだろうけれど、まだまだ楽しみきれていない。

いさどん:
充実はしていると思うが、楽しめてはいないだろう。これが楽しめるようになったらいい。

ともこ:
楽しめたら桃源郷だね。この間ここを訪れたある人が「もっと楽しむことですよ」と言っていた。

いさどん:
しかし、楽しむにもレベルがある。どのレベルで楽しんでいるのかという度合いがあるから、一概に言うことはできない。
目指しているものに到達しなければ楽しむことはできないが、それは目指しているものがどのレベルにあるかによって変わってくる。目指すものが高くて到達できずに楽しめていないこともあれば、目指しているものが低くて到達しているから楽しんでいるということもある。どこを目指すのかによって変わってくる。それはつまり、その者の目がどこを向いているのか、旬がどこにあるのかということだ。
そこで、無理に高いものを目指して楽しめていないことも問題だが、低い所で楽しめているからそれでいいというものでもない。自らがどの位置にいるのかということが客観的に観えていないと、楽しめているのかどうかもわからない。

先日ロータスカフェで「経済革命」のプレゼンテーションをしながら、皆は話についてこれているだろうか、と思った。彼らが考えたこともないような話をしているのだから。考えたこともないような話だからこそ聞いていられる、ということもあるのだが。
我々が無意識に毎日行動していることがこの世の中の混乱になっていたり、格差を生んでいたり、現代の様々な問題の原因になっていませんか、と問いかけると、そこについてはみんな理解する。道理が通っているから、「そう言われればそうだな」とわかる。では自分の生き方を今から変えるかというと、そうはならない。

ともこ:
ならないね。昔自分が会社勤めをして暮らしていた時も、これではいけないと思いつつ、どうしたらいいのかがわからなかった。結局は心のことだから、一般社会にいようとどこにいようと本当はできることがあるんだけど、わからなかったな。

いさどん:
社会にいてもできることはあるが、社会にいてはできないということもある。仮に頭でわかったところで、社会にいる限り、自分一人がそんなことをしても世の中が動くだろうかというと、動かない。だから少なくとも、その理解が確実に現象化して大きなうねりになる動きを見付けるか、もしくはその中に入ることをしないと、結局はその理解もただの知識として持っているだけになる。そして何も変わらない。
しかし、生きているということは、自動的にその動きの中にいるということでもある。自分がそういった行動を取ろうが取るまいが、確実に世界はその方向へ向かっているのだから、生きていることによってそこに参加していることは確かだ。大事なのは、そのことをよく理解して行動しているかどうかということだ。
自分一人が行動したとして、世の中に対しては大した力になれないとしても、世界の流れには呼応しているのだから、それを自らの人生の結果につなげたければ、その意識を常に持って生きていくということだ。

何かが成就するかどうかは、結局時代の側が握っており、それは自らの手の届かないところにある可能性がある。今回の人生でそこに旬がなく成就しなかったとしても、それに対して道理をしっかりと積み上げて旅立てば、次にそれが起きる旬に生まれてくる可能性もある。そしてそこで事が成る。だから、ここで終わりとしないということだ。

ともこ:
自分の思考が二元論的であることを日々感じている。そうではないと思いつつ、無自覚のうちにものごとを「これはいい」「これは悪い」と判断している。今の話のようにずっと先までつなげて捉えるのではなく、今だけを見ているからそういう判断に陥りやすいのかな。

いさどん:
そこだよ。二元的な教育を受けてきた現代人は二元論に慣らされている。だから、ついついそこで結論を出したがる。しかし実際は、二元論ではなく、三元でも四元でもないところに世界の実体はある。我々は形の世界にいる。そこは本来三元の世界だが、現代人の思考は三元にすらなっていない。
しかし、世界の実体はもっと多次元の中にあり、いいとか悪いとか単純に決めることのできないものなのだから、この世界に存在するあらゆることはすべて認められることだ。どんなに理不尽なことであっても、現象化が可能だということは、認められることなんだよ。そのことを理解すると、ものごとを「これはいい」「これは悪い」と判断して固定する視点に囚われなくなる。しかしそこまで悟ってしまうと、人はそれぞれ他者にはないオリジナルな個性を持って役割を果たしているのだが、その役割もなくなってしまうことになる。
例えば道を極めて聖者となった者に対して、本来、そこに御利益を求めるということ自体があり得ないことだ。聖者とは、何人の側にも立たない者。そこに御利益があるのではなく、己の側に立たず、単に宇宙の法則と同化しているにしか過ぎない。元々の仏教の世界観は、そこにすがって御利益を求めるようなものではなく、ただ人として生きることの道しるべとしてあるものだった。ところがその境地まで至らぬ者たちが、自らの飯の種としてそれを利用した結果、現在の御利益宗教や葬式仏教につながっていった。
寺院には仏塔や仏像があるが、それに対してどんな心で向き合うべきかといったら、本来、そういった仏教的建造物は、この世界の実体をわかりやすくひも解くための道具にしか過ぎない。そんなものに向き合わなくとも、直接自然と向き合い、その奥にある仕組みや法則、即ちこの世界の実体を感じることができれば、それで道は開かれる。この世界は真釈天技場(しんしゃくてんぎじょう)なのだから。

ともこ:
真釈天技場?

いさどん:
昔僕が田舎に創ろうとしていた道場の名前だよ。それは地球のことだ。だから、我々が地球上に肉体を持って人として生きるということは、地球という心の道場に修行に来たようなものなんだよ。真釈天技場の「真」は真実の真、「釈」は解釈の釈であり、お釈迦様の釈でもある。仏教の真理とは「天」を理解する「技」である、というのが真釈天技場の意味であり、その道場が地球なんだよ。
僕が「私は特定の場所を指定してそこに人々が道を求める場を創ろうとしているが、本来人間が真実を理解するための場所はどこなのか」と天に問うたら、「真釈天技場」という文字が降りてきた。その5文字の示す意味を解釈していくと、そのために地球は創られているのだから、地球上すべてがそうだということだ。ということは、宇宙空間はそうではないということ。もともと宇宙には、地球のような三次元生命世界がなかった。そして宇宙の魂たちは、コンパクトにかつ短期間に宇宙の法則を学ぶ世界を求めていた。だから、その総意によって地球が創られたんだよ。地球上には、これほどまでに多様な生命が無限のネットワークを織りなし、宇宙の法則が凝縮して表現されている。宇宙中を探しても、こんな世界はない。

ともこ:
私たちは真釈天技場に生きてるんだ。

いさどん:
だから地球上ならどこでもいいのだが、南極と北極のような極地に近い所はあまり適さない。一日を体験するのに理解し難い場所だから。赤道に近い所は生命力旺盛で変化は激しいけれど、その変化は常にワンパターンで四季の移ろいもあまりないから、ここも適地とは言い難い。大陸の中は、海の影響がなく変化が極端で、四季の微妙な機微に欠ける。
そういう意味で言うと、中心から斜め45度上にある日本の環境はいい。四季があり、海に囲まれて変化に富んでおり、極めて真釈天技場として相応しい場所にある。

ともこ:
日本はある程度南北にも長いから、日本国内でもバリエーションがあるね。

いさどん:
斜め45度は艮の方角であり、人間の体で言うと心臓の位置だよ。インドを地球のへそとか子宮だとすると、日本は心臓の位置になる。
人間の体のどこかに問題が起きると、その問題は血液を通って心臓に戻ってくる。送り出した血液が問題のある場所で汚染されてまた戻ってくるのだから、心臓は情報が集約される場所だ。本来日本はそのような位置にあるのだが、それだけの役割がありながら、現代の日本人は本来の大和心を忘れ、アメリカボケしている。
現代は、文明800年周期説で表されているように、この800年間世界をリードしてきた西洋文明に代わって、東洋文明が台頭してくる切り替えの時にある。その時に、より多く矛盾が発生するのは東洋の社会だ。西洋文明が西洋文明であるのは当然のことであり、それは800年ごとに東西の盛衰が入れ替わる文明のサイクルに沿い、ごく自然にこれから低調期に入っていく。ところが、これまでの東洋は東洋でありながら西洋かぶれをしていたのだから、本来の東洋的傾向が台頭してくる時に、そのギャップを埋め合わせる分だけ、より多くの矛盾が発生することになる。これから真実が紐解かれていく中で、東洋はより激しく変化するが、その激しい変化の中に、新たな時代への指針が生まれてくることになるだろう。

ただ、こういったことを語れば語るほど、ある意味孤独を感じるものでもある。なぜこのような思考が湧き出してくるのかというと、そういった思考の次元に意識がアクセスしているから話すのだが、それに共鳴する者は限られている。そういった解釈に触れれば人々は「なるほど」とは思うだろう。道理が通っていれば、否定はしない。実際に起きている現象もそれを明らかに裏付けている。しかしだからと言って、そういった刺激を受けて人々が生き方を変えるかというと、そこまではいかない。
今は、ピコ太郎が世界的にウケるような時代だ。今朝、福島と熊本の被災者がくまもんを通じて支援し合うということがテレビで放送されていた。NHKが視聴率を上げるための物語で、とても浅い話だが、そういった話題は人々にはウケるだろう。しかし、それでは今の社会の根底にある矛盾を根本的に解決することにはつながらない。

ともこ:
私はよく動画を編集するけれど、その時に思うのは、映像というのは編集者のバイアスがかかることなしには成り立たないということ。数ある情報の中でどれを採用するのか、長いコメントのどの部分を切り取るのかは編集者にかかっていて、その情報も嘘ではないけれど、一つの作品として仕上がった時に、それは完全に編集者の意図による寄せ集めになる。もっとも、編集者の意図も時代の流れだとも言えるけれど。

いさどん:
それを言うならば、今の情報はすべてがそうだ。本来そういったことは、自らの意図を乗せているということを自覚して行うことが大切だ。そこに気が付かなければ、自分が正義の旗印のもとにいるかのようになり、その時点で情報提供ではなくなってしまうことになる。
編集者の意図が乗るのは仕方がない。どこかで意図を持たなければ単なる出来事の羅列になってしまい、物語として成立しないことにもなる。それではわかりにくいから意図が乗るのはよいとして、そこで編集者が自らの感情が入っていることを理解し、そのことに配慮すると、フリーな映像になる。
先日、アニメ映画『この世界の片隅に』についてのクローズアップ現代を観たが、あれは極めて表面的な作品だった。それを時代の風潮として取り上げる番組には意図が働いていた。しかしその意図が観えない視聴者は、テレビの中で語られるミーハーな感想に乗っていってしまう。

なぜそうなってしまうのかというと、日頃から自らの意思をよく表現していないし、物事をよく観ていないから、出来事の奥にあるメッセージを感じ取るような思考を巡らせていない。思考を巡らせるとは、やりくり算段をするということではない。それは自動的に湧き出してくるものだ。例えば目が自動焦点になっているように、心の焦点をぐっと絞って観る。意図してやるのではなく、瞬間瞬間の状況に合わせて自動的に思考が巡る。そうすると気付きが湧いてくる。それは、人智を回して出てくるものではない。
その気付きの自動焦点機能が働くようになるためには、どうしたらよいのか。それには自らの精神を研ぎ澄ませて、無我の状態でいることが最もふさわしい。研ぎ澄ませて無我の状態でいるということは、緊張も一切ないということ。リラックスして自由自在に物事に対処できるということ。それができていない状態で生きることは、人生の奇跡に滞りを発生させることになる。滞りの種を播きながら生きているようなものだ。自らの人生にも、世の中にも。

この世界には流れがある。自らが常に流れと共にあれば、滞りは発生しない。流れに沿って動けばよいだけだから、難しくもなく、とても効率的だ。エネルギーも少なくいける。そのためにはやはり、自らを研ぎ澄ませることだ。
本来、地球上に生きるということは、宇宙の精妙なる法のもとに存在することを、極めて短期間に、そしてコンパクトに体得できる道場に生きるということ。それは、我々人間が生命として地球上に生まれ、生命ネットワークの中で役割を果たす(他者のため)ということと、自らを磨き高次の存在として目覚めていく(自らのため)ということの、二つの生きる目的を果たすことだ。それを同時に達成できる宇宙に存在する唯一の場所が地球であり、それが真釈天技場なのである。

 


 

「自分」という囚われを解き放ち

地球に生まれてきた本当の意味を知りたい方へ

2017年2月19日~3月18日
「1ヶ月間の真学校」開催!

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囚われを外したら

そこは宇宙だった

 
何か問題が起きた時「自分は悪くないのになぜこんな事が起きるのだろう」と思ったことはありませんか。
人は問題を見つけると、とかく自分の外に原因を探し、周りを変えようとします。ところが周りはどうにも変わることなく、問題だけが積み重なり、今や家庭の中から地球規模に至るまで、どこもかしこも問題だらけの、行き先の見えない世の中となりました。
しかしそれは視点を変えれば、大転換のチャンスでもあるのです。

1ヶ月間の真学校は、人生の問題のあるなしに関わらず、生きることの突破口を開く場です。そこに特定の正解はありません。一人ひとりが客観的に自己を捉える冷静な目を養い、視野を広げ、その人らしい人生を自ら切り開いていく力を身に付けます。

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【日程】
2017年2月19日(日)~3月18日(土)
【会場】
木の花ファミリー
【定員】
15名 定員に達し次第受け付けを締め切ります。
【参加費】
18~22万円 収入に応じたスライド制です。受講料や食費など1ヶ月間の滞在費全てを含みます。
【内容】
「農」「食」「医」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」と多彩な切り口の講座を通して、受講生一人ひとりの心の性質や人生の使命、そして時代の流れを読み解きながら、この世界の真実を観抜く心の目が開かれるよう、いざないます。
講座例:人格を学ぶ講座(カルマ読みと地球暦)/コミュニティ創設講座/天然循環法の畑作・稲作/ファシリテーション/世界観を広げる/菩薩の里の経済/自然療法プログラム/食養生/有用微生物群の培養/天然醸造味噌作り/創造性と芸術/カタカムナ/性と宇宙/自然災害と防災/持続可能な心の持ち方

講座詳細やこれまでの受講生の体験記はこちら!

→ 1ヶ月間の真学校ブログ

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ヒトイズム

─ ヒトという存在の実体は 何ものなのか ─

 
いさどん:
出口王仁三郎聖師がこの世界の仕組みを説いていたのは、今からおよそ100年も前のこと。今解明されてきているようなことがわかっていたかどうかは別としても、人としてあるべき姿勢はとっていた。それが「宗教」であってはならないということで、彼らは「大本」と名乗った。当時の日本の人口は5000万人ほどだったが、日本人の約4割が信者だったという説もある。

当時は、天理教などの宗教が世の中をリードしていた時代だった。そういう時代だったということなのだろうが、様々な教えを説く人が現れて、どれも宗教になっていった。王仁三郎聖師の弟子であった岡田茂吉氏は、独自の宗教観を持つに至り、世界救世教を立ち上げた。同じく王仁三郎聖師の弟子の谷口雅春氏は生長の家を立ち上げ、そこから影響を受けた五井昌久氏は白光真宏会を立ち上げた。みんな組織宗教となり、それが今も存在している。そういう時代だった、ということでもあり、そういった人々は、今に至る組織宗教の道を創ってきた張本人たちだとも言える。
彼らは、人として外れた心をしていたわけではない。だから、このような結果になって申し訳ないというか、本人たちも不本意なことではあるだろう。歴史を振り返れば、空海や最澄が出てきた時代もあれば、親鸞や日蓮が出てきた時代もあり、世界的な音楽家が相次いで誕生した時代というのもあった。時代がそういったものを生み出しているのだ。時代の要請を受けて出てきているのだからやむを得ないとはいえ、彼らの教えは見事に組織宗教への道を歩んできた。

ともこ:
そう思うと、本当に時代の意志を感じ取ることが大事だね。時代が今どう進もうとしているのかを感じ取り、それに沿って生きる。だけどそう考えると、「時代を創る」ということは果たして人間に可能なことなのかな。

いさどん:
時代には、骨組みがある。それは星と星との関係や、太陽系が銀河を何周回ったとか、らせんをどれだけ描いたかということによって変化していく。星々の振動や自転や公転によって、大枠が決まっていくんだよ。
その大枠の中を、トキが進んでいく。そして星々の振動や回転によって、打ち出の小づちのように、現象が振り出される。その振り出される時に、この世界へのひとつの味付けのような形で、そこに存在する者たちが何らかの形で関わることはできるかもしれない。星々が紡ぎ出すサイクルには様々なものがあり、例えば今の人間の寿命なら80年だ。それは宇宙からしたらほんの一瞬のことだろう。そこについては、もしもこの仕組みを理解したならば、自らの意志によって何らかの影響を与えることはできる。
しかし大枠については、例えば惑星や恒星の動きのような全体のリズムに至っては、コントロールすることは不可能だろう。それはもっと大きな意志に委ねられている。明らかに宇宙は生きていて、意志を持っているのだから。ただ、もしも我々の魂の次元が高くなり、視野が拡大して魂が完全に巨大な宇宙にちりばめられ、その巨大な宇宙に存在する司令塔のようなものに組み込まれるとしたら、大枠の動きとなって全体のリズムに関与する側になることも可能だ。そこまでの可能性が、人間には与えられている。

大切なのは、そういった領域を想像し、そこに思考が関わっていること。それによって初めて可能性が開く。まったく考えもしないような世界には、絶対に関与することはできない。固定概念に囚われず、いかにフリーにものごとを考えるかということだ。
しかしそのフリーな思考が、何の根拠もないものでは意味がない。そこにはやはり道理が通っていなければならない。その道理のスケールが大きいか小さいかというだけの話だ。

スケールを広げて、何億年という単位で時間軸を観てみよう。何億年というのは星の生死のサイクルだ。我々人間は、1年というサイクルを紡いで、およそ80年という寿命を持っているが、星々は何億年というサイクルを紡いで、何十億年、何百億年というサイクルで存在している。
太陽や地球はおよそ46億年前に誕生し、今日まで来ている。そしていずれは賞味期限を迎えて消滅していく。太陽の生命活動は、「誕生」して「維持」して「破壊」して、そして「空」になるという「成住壊空」のプロセスを辿っており、それで1サイクルだ。その太陽に惑星として関わる地球のサイクルは、もっと小さい。その地球に関わる生命のサイクルは、それぞれもっと小さく、微細だ。そこで何十億年というサイクルの意識を持っていたら、地球のサイクルに関わることはできるわけだ。

そういったスケールで考えてみよう。いつか地球が三次元生命を維持することができない状況に陥る時、生命の種を新たな場所へと移住させる。物理的に言えば、例えば元素のような生命の一番元となる単位のものを移住させる。霊的には、魂を引き連れていく。物理的要素を束ねている魂たちがいて、それを引き連れて新たな場所へと移住する。これはまさしく、宇宙版ノアの箱舟だよ。
それは、例えばこの地球上で木の花ファミリーを束ねて引き連れていくのと同じこと。スケールが大きいか小さいかだけで、仕組みは同じだ。宇宙を旅して新たな銀河へ向かい、そこに三次元生命を発生させる。その次元の発想を持っていれば、将来そこに関わることができる。何億年というサイクルを意識の中に持っていれば、十億年単位でそれを表現していくことができる。この宇宙空間で新たにそれをやろうとすることは、不可能ではない。なぜなら、地球にこういったものがいつしか始まったということは、どこかにあったものが移住してきたということになるのだから、地球が既にそれを立証しているのだ。

───── すごいね。今ね、目の前で、ブルーの光が点滅していたんだよ。いつも目の前にブルーの光が見える。その光というか、雲のようなものが、ぽわっ、ぽわっ、と暗闇の中で点滅していた。それが今、だんだんゆっくりになって、ゆっくりになって・・・・ああ、今、消えようとしている。
最初はブルーで、中心が白かった。その青白い光がだんだんブルーになって、ゆっくりになるに従って紫になって、それでだんだん・・・・光が小さくなっていく。紫の中心は明るいね。とても点滅がゆっくりになっている。ぽわっ、ぽわっ、と、終わっていく。何か、銀河雲の中に消えていくようだ。

ああ、そうか ───── 。

ある星が光っているということは、生きているということだ。それが終末を迎えると、光が強くなり、やがて消滅していく。そして完全に光が消えて、生命活動をしていない星が、宇宙空間にはたくさんあるそうだ。それは、見えないんだよ。存在がわからないんだよ。闇の中にあるものだから。
人間は、生命活動が活発な星だけを確認している。しかし実は、ダークマターと言われる闇の中にも、生命活動を終わって休止している存在があるそうだ。

ともこ:
それって、すごい数なんじゃない?

いさどん:
すごくいるんだよ。ひとたびある星が強い光を発すると、その光が休止している星々に当たり、それがたくさんあるから雲のように見える。太陽の光が降りてきた時に、水蒸気の粒がたくさんあると、それに光が当たって雲に見えるでしょう。それと同じだよ。今突然、そんな風景が目の前に現れた。

大切なのは、どこまで思念をフリーにして広げられるかということだ。フリーになれば、思考は自動的に湧き出てくる。例えば目が自動焦点になっているように、焦点をぐっと絞って観る。それを意図してやるのではなく、瞬間瞬間のニーズに合わせて、自動的に焦点が絞られていく。だから、気付きは自動的に湧き出てくる。それは自分の頭であれやこれやと思考を回して出てくるようなものではないんだよ。
その気付きの自動焦点機能が働くようになるためには、どうしたらよいか。それには、自らの精神を研ぎ澄ませて、無我の状態でいるということだ。研ぎ澄ませて無我の状態でいるということは、緊張も一切ないということ。リラックスして自由自在な状態だ。その状態で、思考を巡らせてみる。

「人生」というと、地球上で人として生きるという意味だね。しかし「人存」というと、人として存在するという意味になる。それは、人生よりももっと永遠なるものとして存在し、スケールもずっと大きい。人間は今、80年まで寿命を延ばして人生というサイクルを持っているが、人存というサイクルは、それこそ星と同じように、何億年というスパンで存在する。それだけのスケールのサイクルを、人として存在する。

ともこ:
人生っていうと、そこには生死があるよね。人存には、死がない?

いさどん:
宇宙創成のプロセスは、「ヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナ・ヤ・コ・ト」という数理で表すことができる。その始まりである「ヒ」から最終の「ト」までのプロセスを理解し、それらを統合して成り立つ存在が、ヒトだ。それが時代人(じだいびと)であり、時代主義(Eraism=エライズム)を生きる存在だよ。
英語には” humanism(ヒューマニズム)”という言葉があるでしょう。超自然的な存在よりも人間の理性や尊厳を重んじる人間中心主義のことで、その元になっているのはhuman(人間)だ。それに対して、人間が魂だけの状態になり、宇宙の始まりから終わりまでの仕組みをマスターした存在をヒトというのだから・・・・ヒトイズム!これはヒトイズムだよ!

やはり、世の中がここまで行き詰まってくると、人々に新たなフロンティアの夢を与えなければいけないね。新たなフロンティアとは宇宙時代にあり、それは次の時代を語れる人でなければ与えることはできない。
今、社会は欲の渦に巻き込まれて成り立っている。それは自制心でコントロールできるものではなく、どこかで振り切ることが必要だ。しかし、個人は既に、こんな社会はおかしいと感じ始めている。そして社会と一線を画しながら、それを止められずにいる。だから、社会よりも先に個人が目覚めていくだろう。

ともこ:
この世界の仕組みをマスターするのに、やっぱり星ではなくて、人としての形態をとる必要があるの?

いさどん:
ヒトというのは、人間という地球上で物理的に進化してきたもののことではないんだよ。それは、物理的に進化してきたものが最終的に到達する目的地点であり、宇宙にはもともとヒトという意識レベルの存在があったはずだ。なぜなら、ヒトとは宇宙の仕組みをマスターした存在を言うのだから。
ついつい人間たちは、ヒトのことを人間と勘違いする。人間とヒトでは、定義が違う。ヒトは形ではない。宇宙の法を理解し、マスターした存在をヒトと言うのであり、それは目覚めということでもある。

昔、人々は天の星々を見て、今自分はどこにいるのか、季節はどのように巡っているのかを知っていた。まず、太陽を見る。次に月を見る。そして星を見る。命と天体が直結し、それによって自分たちが生かされていることを理解していた。それは思考を超えたものだ。人間の中にはそれを感受する受信機のようなものが内在していて、その時代にはそれがまだ生きていた。今は全て携帯などに置き換わってしまったけれどね。

ともこ:
カレンダーができて、時計ができて、そういうものを頼りに今の人間は生きている。だけどそれも元をたどれば、すべて天体をベースにして創られている。

いさどん:
だから、すべては星なんだよ。天体なんだよ。すべては天の意志だ。どうしてそんな当たり前のことを忘れてしまったのだろう。今もそれによって生かされているのに。
我々が天体の動きを感じるのは、目や耳などの五感で感じる程度のものだろう?それを眼耳鼻舌身意という五感+一感、つまり六感で解釈していくのだが、その奥に、それを統括しているものがある。その統括しているものが、受信機になっている。それが我々の体だ。体は全細胞の集合体であり、細胞の一つひとつが受信機だ。その受信機が星々と対話して、我々は生きている。それがヒトの本当の姿だよ。それなのに、そのことをまったく考えもしないのは、ある意味退化している。それを復活させるのが、目覚めるということなのだろう。それが時代人であり、ヒトなんだよ。

昔はそういった位置に行った者を聖人と呼んだ。するといつしか神格化されてしまい、仏像のように祭壇に祀られて崇められ、身近な存在ではなくなっていった。しかし本来、すべての人がその領域へ行く潜在能力を持っている。その時代が始まった。誰かを崇めるのではなく、日常会話の中でそれが語られたり、表現されていく時代だ。

人間は何か滞りに出会うと、それを不愉快なものだと捉え、滞りを避けようとする。しかし滞りを乗り越えた時、そこでは必ず一回り進化した新たな世界に出会う。つまり滞りとはとても大切なものであり、我々にはその滞りの正体を見極めるだけの余裕が必要なんだよ。
それには、0.5秒待てばいい。どういうことかと言うと、地球46億年の歴史を1年に例えると、イギリス産業革命が起きたおよそ250年前から現在までは、たったの2秒間だ。その2秒の間に人間社会は劇的な変化を遂げたが、それも宇宙の歴史からしたらほんの一瞬のことであり、時代は常に先へ先へと進みながら、確実に変化し続けている。そしてそれはひとつらなりの物語となって、永遠に続いていくんだよ。そういった大きな視点を持てずに自らの物理的寿命に囚われて何とか解決しようとすることは、とても気の短いことだとも言える。
そこで、0.5秒待てるかどうか。その余裕がなければ、宇宙の実体は観えてこない。

例えば、医者が病気について「今病気はこのように進んでいて、それをこういう風にすればこうなって良くなりますよ」と言うのは、科学的分析の結果の話であり、人間が理屈で理解して納得できる世界だろう。しかし、この世界は人間の理屈を超えたところで成り立っている。だから科学や理屈で考えて納得できるところを超えた時に、奇跡が起きるんだよ。

宇宙は奇跡の連続だ。なぜなら、もともと人間の思考のキャパを超えたところで成り立っているのだから。だから宇宙を生きるという意識レベルを考えるのならば、科学や理屈を超えたところでものごとを受け取る器を持つことが必要だ。そうでなければ、真実は観えてこない。
それには、人間壊しをすることだ。人間を壊して、ヒトとして存在する。それがヒトイズムだ。

さて、それがこれからどのように世界に現れてくるのかが、楽しみだ。

 

 

Source of image:www.stuffhood.com/post/emma-lindstrom


お釈迦様の時代の悟りから21世紀の悟りへ

僕が中学3年生のときに思ったことがあります。僕の父親は生まれは本家の長男で、社会的にも地位があり、自分の思ったように生きている人でした。近所の人からは、「本家の兄様で筋の通ったことを言う人」ということで、一目置かれていました。しかし、彼には敵・味方がいました。僕はそういった父親が嫌だったのです。僕は皆に支持される人生を生きたいと思っていました。しかし、父親はそのような敵・味方がありながらも、多くの人に支持されないといけない政治家をしていたのです。その立場は嫌いな人からも支持をもらうために、そのような人たちにもへつらわないといけなかったのです。それで選挙に出ると、父親のことをとても支持してくれる人もいれば、大反対して彼を落選させるための候補者を立てるような人たちもいました。僕はそういったことがとても嫌でした。それで、本当に筋の通った生き方をしようと思ったのです。しかしながら、筋を通すということは、ある意味筋のわからない人たちの反対に出会うこともありますが、少なくとも自分が筋を通したことに対して揺るぎのない心を持ちながら歩んでいくことを心がけ、これまで生きてきました。

それで中学3年生のときに、「このまま僕が自分の心にメスを入れないで生きていけば、親子だから父親のようになるだろう。だからこそ、今から自分の心にメスを入れるのだ!」と決意したのです。そこから僕は高校進学を決め、高校ではそれまでの自分では考えられないような生徒会活動に参加したり、応援団をやってみたりと、自分の苦手だと思うことを積極的にやっていきました。なぜなら、それが自分を変えることだと思ったからです。

自分を変えるとは、内から湧き出た想いと向き合い、日頃から自分が苦手だと思うことにチャンレジしていくことです。つまり、自分にとって嫌なことに向き合っていくその心が自分を新たな世界へいざなっていくのです。

多くの人々は「これは嫌だ!」「あれは嫌だ!」と嫌なことを遠ざけて、心地良いと思うことを正しいとして生きる傾向にあります。それは時として、自身の実態と向き合わなければならない場面では、自分自身の実態から逃げるような姿勢を取ることにもなるのです。そのような人生を積み重ねていくと、「あなたは一体何のために生きているのですか?」ということを問われることになります。

人が生きているということは、「四苦八苦」と言われるように、いろいろな問題に出会うことになります。なぜ、わたしたちはその四苦八苦に出会うのでしょうか。それは自らが自業自得で招いたことなのですから、そこを学びクリアしていくためです。つまり、わたしたちの生きた結果、その答えとして四苦八苦に出会っているのですから、それは自らの生きる姿勢の結果出会ったことになります。わたしたちが人生を学びとして生き、人間性の成長につなげていくならば、そうした自分自身の性質に向き合い、その性質の問題点をクリアしていくことが、わたしたちが生きる目的ということになります。ですから、出会ったことを学びとし成長につなげていけば、人生は四苦八苦から解放されることになります。

今から2500年ほど前、お釈迦様は「人として生を受けることは四苦八苦に出会うことである」と説かれました。当時の人々にとって生きることは食べることでした。つまり、今日一日食べられるかどうかが生きられるかどうかを左右するような、必死な時代だったのです。ですから、生きることは苦に出会うこととして、生きる定めを生老病死につなげて説かれたのです。そのような時代には、お釈迦様は「この世界に生まれ存在することのすべてが苦痛である」と説かれ、生まれ出ることが苦痛の始まりであり、生きることが苦痛の連続なのですから、その苦痛から逃れるためにはどうしたらよいのかと説かれたのです。当時、世の中は特定の権力者に支配され、民衆には希望のない混沌とした時代でした。ですから、「生まれてくることがいけないのだ」と生きること自体を否定的に捉える時代だったのです。

そこで小乗仏教で象徴されるように、現世が苦痛であることから少しでも功徳を積んで生まれ変わり、次の生まれ変わりは良い人生が生きられるようにと人々は願うようになっていきました。それがさらに大乗仏教になると、苦痛の世界から極楽浄土を求めご利益的救済への道に変わっていったのです。そこでは本来、自我を超越する道であった探求の道が、苦痛から解放されたい願望を叶える道に変貌し、そのことにより結果として人々はカルマにまみれていくことになったのです。

大乗仏教の代表的な経典である般若心経は、色即是空といって、すべてを「空(くう)」にして境地に逃れることを説いています。しかし、苦痛からの解放を求める者に手法として「このように思えばいいのだ」と伝えたところで、その想いが湧き出す自分がいる限り、苦痛から逃れることはできません。そこで座禅を組み瞑想をしたところで、その結果は迷走につながることになるのです。それは、実態の伴わないバーチャルな体験に基づく境地を求めるものです。そこで現実に囚われない境地に至ったとしても、肉体という現象を持っている限り、わたしたちが「無」になることはありません。そのようなバーチャルな境地に至ったところで、現実の問題事は何も解決されません。そういった空(無)を掴むような心境に至るのが、般若心経の限界なのです。さらに、実体のない仏や神をつくってそこにすがり、救われようとするのが南無阿弥陀仏です。それは、どのような生き方をした者も、ひとたび天に向かって呪文を唱え救いを求めれば極楽に至るという、インスタントに人々を救済する魔法の教えです。そういった組織宗教になってしまった教えは、「どうか、わたしを救ってください」という精神の人々を亡者に仕立ててしまったのです。

それに対し、仏教の究極の教えとされる法華経の教えでは、色即是空とは言え、実体はあることを説いています。現実に宇宙はあり、トキは動き、宇宙は永遠に紡がれていく――、そうした宇宙の実体を理解し、宇宙そのものである自分自身がどのようにそれを喜びとして表現し、この世界で役割を果たしていくのかが、法華経の本来の教えなのです。しかし、現代の人々はそこまでの解釈をしていません。法華経すら、ひとたび南無妙法蓮華経と唱えれば救われるという、結局南無阿弥陀仏と同じご利益宗教になってしまっているのです。

本来、生老病死の実体を知れば、そこから逃げる必要はまったくありません。その実体を理解し、「ヒト」としてどのように生きたらいいのかを悟れば、この地球上にいながらにして宇宙の法のもとに生きることができるのです。「ヒト」とはこの世界の始まりから終わりまでを悟り、統合した者のことです。それが、「無」の状態で「有」を生きるということです。ですから、何でも「無」としてはいけないのです。それは、「無」もしくは「空」の状態で「有」を生きる術を身につけることです。そこに至れば現象界という「有」の世界で、無欲という「無」と、「空」という何も特定していない「いただく」精神になることができるのです。それがこの世界の大本(潜象界)を理解し、現象が潜象界(ない世界)から現象界(ある世界)に現れることの意味を理解することであり、現象界に生まれ出た人間の本来の意味を理解することなのです。わたしたちは生きることで、地球に肉体を持つことの意味を発見できるのです。

宇宙は「成住壊空(じょうじゅうえくう)」と言って誕生・維持・破壊・空を繰り返しています。「成住壊空」の「空」の状態が涅槃(ニルヴァーナ)の境地です。しかし今、わたしたちの世界は「成住壊空」でいう「住」の段階にあります。ですから、「住」の道をどのように生きるのかを語るとき、「住」にいながらにして涅槃を目指すことは本来おかしいのです。それは今を生き、「成住壊空」の仕組みがわたしたちの日常に遍満していることを知ることから、始まるのです。

時代は21世紀に入り、2000年から3000年の新たな1000年サイクルに入った今、わたしたち人類は生きることの真の意味を悟る時代を迎えています。お釈迦様の時代は、「人として生まれ出でると四苦八苦して生きるのが大変だから生まれてくるな」というのが悟りを目指す目的の原点でした。ところがそういった苦しみの世であるにもかかわらず、後の世は、人は減るどころか急激に増え、人々は四苦八苦から逃れるどころか、欲望におぼれ、かえって苦痛の種を人生にまき散らし、その結果世の中は人々の四苦八苦の渦に巻き込まれ、混乱の極みに達しているのが現状です。

中国の天盤の巡りによると、地球上に宗教がもたらされたのは今から約3000年前のことです。そして3000年の時を経て、今、宗教の時代は終焉を迎え、わたしたち一人ひとりが目覚めていく民衆の時代を迎えています。新たな時代を生きる人々は、願望を叶えることや救済を求めるのではなく、自らが自らを正しく悟ることによって、自我に翻弄されることなく、誰にも救済される必要のない、高い意識の存在となれる時代を迎えているのです。

そこで2000年からの新たな1000年紀は、欲望と共に拡大し得たものを必要なものと不必要なものに仕分け、そぎ落としていく時代です。人間は他の生物と違い、食べていければそれで満足していくものではありません。植物や動物なら、自らの生命を維持できる環境が整っていれば安定して存在しています。ところが、人間は生きていられても、それだけでは安定しないのです。人生に希望や喜びがあることによって、安定するのです。ですから、いくらお金を持っていても、そこに希望や喜びがない限り、さらにお金を求めるようとするのです。そこで、本当の生きる目的が観えていれば、お金やものに執着したり翻弄されなくなります。ものは少なくても不安になりませんし、人と共有することが魅力的になり、その境地に至れば真の希望や喜びが湧いてくるのです。21世紀から始まる人類の歩みは、そのような心の価値と出会った喜びや、心が成長し霊的な豊かさを通して、「ヒト」としての本来の悟りに至る道なのです。

しかし、たとえば今現実にニコチン中毒やアルコール依存になっている人たちに、「そこから解放されると喜びですよ」と伝えても、現状の状態でそれを手放すのは彼らにとっては苦痛を感じること以外の何物でもありません。何かの中毒になっている人にはそれは無理な話です。ここで大切なことは、「なぜ今の自分はその中毒を引き起こすものを必要としているのか」を理解し、自然にそういったものがいらなくなる状態になることです。今の時代、多くの人々は様々な中毒症状を引き起こしていることに気付いていません。一生懸命幸せになりたいと願っても、自我に囚われていたら、自らを不幸にしていきます。そして、わたしたち一人ひとりの中にある矛盾が地球上にこれほどの矛盾をつくっているのです。

近代科学が進み、天文学の解釈も進み、キリストやお釈迦様の時代には解釈できなかったことが今、紐解けるようになりました。人類がその優れた能力を使い、ここまで宇宙を解き明かせるようになったからこそ、今、わたしたちは生きることの真の意味を悟れる時代が訪れたのです。宗教の時代のお釈迦様は苦から逃れることの悟りを説かれましたが、21世紀に入った今、わたしたちは新たな時代の悟りを迎えようとしているのです。

宗教の時代の初期は、個人が個の悟りを求めてブッダとなった時代でした。それが、優れた聖なる人の見本となりました。しかし、これからの時代は「すべての衆生に仏性あり」というお釈迦様の言葉にあるように、わたしたち一人ひとりが宇宙の真理に目覚め、すべての人々がブッダとして目覚めその自覚をもって生きる時代です。さらに、「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは一切衆生のためにあり」とお釈迦様が説かれたように、他者の目覚めが自らの願いであり喜びとなったとき、それこそが新たな時代の人々の姿なのです。

僕の話は個人レベルの話が常に地球レベル、そして宇宙レベルになります。日常生活が地球レベルであり、宇宙レベルなのです。なぜなら、この現実は地球の自転と公転、太陽と惑星との関係、銀河との関係によって紡がれており、大宇宙の中に繰り広げられている物語だからです。そこまで自分自身を広げ、その精神をもって日常生活を生きることが人類には可能なのです。わたしたちはその境地に至れば、自らの自我に翻弄されることなく、この世界を自由自在に生きることができる存在です。それが、21世紀を表現する時代に込められた願いであり、わたしたち人類が果たすべき役割なのです。

 

Source of photo:www.tbs.co.jp/heritage/feature/2012/201201_06.html

 


時代の大局と共にある人々へ、エールを送ります

タイの代替教育学校から留学生として木の花ファミリーにやってきた、高校生のナッちゃんとマインちゃん、そして先生のワンちゃん。3ヶ月間の滞在を終えた最後の日、3人といさどんが話し合う時間がありました。

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いさどん:
いよいよ、最後の日になりましたね。この3ヶ月間は、短かったですか、長かったですか?

ナッちゃん:
短かったです。通常なら3ヶ月はとても長く感じますが、ここでの3ヶ月は本当に短かったです。

いさどん:
僕はこの出会いをとても大切なものだと思っています。だからと言って、この先に何か具体的なことを期待しているわけでもありません。大切なことは、皆さんが何か新しいものを取り入れて、変化することです。そして変化した姿でタイに戻ると、周りの人々もそれを感じて、反応が変わるでしょう?
とかく人は何かを得ると、それをもって何かを起こそうとします。そういった意欲を持つことは大切です。その時に、あなたが起こすことへの答えとして、周りの人たちの意識レベルにふさわしい反応が返ってきます。そしてその反応に応えていくということが、冷静な対応です。
3ヶ月間というサイクルの中で、今はひとつのポイントでもあります。皆さんが自分は変化したと思っている以上に、周りはそれを感じるはずです。ここに来てすぐの頃には、ごはんがおいしくて食べ過ぎて、体重が増えるという変化があったでしょう?(笑)でも、今はまた元に戻りましたね。3ヶ月というのは、ちょうどいいサイクルなのです。

ワンちゃん:
そうです。3人とも体重が元に戻りました。

いさどん:
体は元に戻ったけれど、心は大きくなりましたね。それがお土産です。次のサイクルに行ってみましょう。答えはその先にありますから。

マインちゃん:
責任と共にタイに戻るのだと感じています。

いさどん:
僕は、伝統的な優れた教えというものには、あまり興味がありません。新しい時代には価値観がガラリと変わります。僕は、21世紀をどう生きるかということについてはたくさんの情報を持っていますから、それをまた皆さんに共有できたらと思います。来年の2月から3月にかけて1ヶ月間の真学校が開催されますから、ナッちゃんもマインちゃんもそれまでに英語をしっかり勉強して、受講できるくらいになるといいですね。
皆さんからは、この3ヶ月間の感想は何かありますか?いいことはたくさんあったと思いますが、例えば何か大変だったことはありますか?

ナッちゃん:
タイの学校では週に2日休みがあるので、ここの人たちのように毎日働くのが少し大変でした。

いさどん:
「働く」というのはね、本来、生きることそのものなんですよ。ここではみんな、今の社会のようにお金を得るために義務的に労働するのではなく、生きるための毎日の行動として働いています。自然界に休日はないでしょう?人間でも、例えば食べることや排せつすることを休む人はいませんよね。

ワンちゃん:
ここの皆さんのエネルギーに感心します。日中は働いて、夜も遅くまで大人ミーティングをしているのに、皆さんの魂がとてもいい状態なのを感じていました。私は時々朝に「もっと寝ていたいな」と思うことがありましたが、「みんな働いているんだから、こんな風に怠けていちゃいけないわ!」と思って起きるようにしていました。

いさどん:
ハッハッハッ。働くことを義務的に考えると、そうなるんですよ。僕は、もしも休日を与えられたとしても、いつもと同じように生活しますよ。統計によると、現代の一般的なサラリーマンの暮らしは、月曜から金曜まで過酷な労働をし、土曜にストレス解消して、日曜に家族サービスをするのだと言います。そのサイクルが、実は生命本来のサイクルを壊しているのです。
それはいつから始まったのかというと、日曜日を安息日と定めて休息しなさい、というユダヤ教やキリスト教の発想から始まっています。それは本来の教えに基づいているのではなく、教会が勢力を持つ過程で、教団を維持するために信者をつなぎとめようとして、週に1回は教会に来るような仕組みを作ったのです。
日本でも、30年ほど前までは週休1日が一般的でした。僕の親の世代は、休みは月に1回でした。もっと昔の人たちは、休日なんて取らなかったでしょう。その頃の人々は、今のように毎日過剰に労働をするのではなく、リズムを刻んでいたのです。
ところが生活が西洋化するに従い週休2日制が取り入れられ、それが世界基準のようになりました。僕が子どもの頃は、みんな欧米に憧れていましたね。夏に1ヶ月も休暇を取るようなライフスタイルは、憧れの的でした。一方でウォールストリートには、寝ることも惜しむような、日本人よりも働いている人々もいます。
大切なのは、リズムを刻んでいくことです。そしてなぜそのリズムが必要なのかということを、理解していることが大事なのです。

今、僕は皆さんに「毎日働きなさい」ということを伝えようとしているわけではありません。僕が伝えたいのは、義務的に生きるのではなく、積極的に生きましょうということです。

ナッちゃん:
タイの学校での毎日の暮らしは、義務的なことがとても多いです。

ワンちゃん:
授業料がタダということもあって、何かをやりなさいと言われれば、義務としてそれをやらざるを得ないような環境です。学校や社会の仕組みがトップダウン式になっており、学校は形式的に生徒たちの意見を聞きはしますが、生徒たちは「私たちの意見を取り入れもしないのに何で意見を聞くの」と思っています。

いさどん:
それは学校に伝えてあげればいいのではないですか。その勇気が持てるかどうかですね。

ワンちゃん:
勇気を持って伝えても、どんな結果が得られるかはわかりません。

いさどん:
わからないのがいいんですよ♪でも今までの皆さんの姿勢からは、どうせうまくいかないだろう、という空気が感じられます。

ワンちゃん:
例え伝えたとしても、何で言われたことに従わないのかと頑固者扱いされるのがオチです。

いさどん:
そこで諦めるから、そういう結果になるのではないですか。
義務的に生きていると、ストレスが溜まりますね。そしてストレスが増えたから、休みが必要になりました。ストレスを解消するためにお酒が必要になったり、特別な食べ物が欲しくなったり、レジャーに出かけるようになりました。ストレスが多い社会では、性も乱れます。食べることでも何でもそうですが、人が欲求を持って何かを得ようとすることは、すべてストレスから来ているということに気付かなければいけません。
そして社会は、ストレスを発生させ、それをビジネスチャンスとしています。ビジネス優先の世界がストレスを生み、そこにそれを解消したいという欲求が生まれ、それがビジネスにつながって、経済が膨らんでいくのです。ストレスの延長線上に、最終的に到達するのは病気や争いです。そうすると、医師や弁護士が活躍する世の中になります。それが問題なのです。優れた能力を持つ人々が、医師や弁護士など、本来ない方がよい職業を選ぶようになりました。それも「お金になるから」という安易な発想で選ぶのです。

ナッちゃん:
医者や弁護士だけでなく、本来必要のない職業についてお金持ちになっている、頭のいい人たちがたくさんいます。

いさどん:
そうすると、人はお金に取り込まれ、お金のために生きていることになります。それを解消するには、自分と向き合う必要があるのです。自らの発している感情がどういったところから出てきているのかに向き合い、そこをチェックする力を持たなければ、感情のおもむくままに無自覚に行動して、ただ欲望を叶えようとする世界が広がっていくことになります。
そう聞くと、多くの人が「それは大切なことだ」と思いますよね。しかし、実際に行動する時には、自分の中にある感情に負けてしまうのです。

ナッちゃん:
本当にそう思います。インスタグラム(画像共有サイト)で、例えば誰かが「この映画を観に行ってすごく面白かった!」と言うと、私も「やるべきことのリストにこの映画を加えなくちゃ!」となって、実際に今、3つの映画がリストに入っています。そして映画を一つ観るのに200バーツ(約600円)のお金を使います。3つなら600バーツです。それで映画を観に行けば、ポップコーンを買ったり飲み物を買ったり、映画を待っている間にお店を見てかわいい服やカバンがあればそれも欲しくなって、結局映画以外にもたくさんお金を使っちゃいます。

いさどん:
それは誘惑ですね。そしてそういった精神状態が、今の巨大な経済を支えています。そこには何かを人と共有するのではなく、自分だけがそれを得たい、という感情が働いており、それがたくさんの無駄な消費を発生させて、経済を大きくしています。

ナッちゃん:
ポケモンGOのようなゲームもそうですね。自分はこれだけ獲得したぞ!ということを見せびらかして、人の気持ちをかき立てています。

いさどん:
それは完全にバーチャルな世界ですね。そういうものに乗っていくことが自分をどこにいざなうかということを、冷静に観る心が必要です。
過去に宗教は優れた生き方を表現しましたが、それは良い社会を創るばかりではなかったですね。結局、人々の欲望を誘惑するものには太刀打ちできなかったのです。いつの時代でも、優れた生き方をして社会に貢献するのは尊いことです。社会を豊かに導く、人としての本物の道を歩むならば、常に良い世の中とはどういうものなのかを意識していることが大事で、誘惑に翻弄されているようでは逆の道を歩んでいることになります。そこがわかる冷静な目を持つことが必要です。
皆さんの中では、学校をどうしていくのかということが大きなテーマになっていますね。今回、ここに来たことはよいきっかけになったと思います。新しい価値観に出会ってリニューアルし、新しい風を学校に吹かせるチャンスです。

ナッちゃん:
私にとって、今年度は今の学校の最後の年です。だけど来年2月からの「1ヶ月間の真学校」に、本当に本当に参加したいと思っています。そのためには学校に説明しないといけません。そして2月までに、タイ語の通訳なしで受講できるくらい、英語が上達するかどうかもわかりません。もし言葉がわからなければ、ここに来ても時間を無駄にすることになります。そう思うと、いったいどうやって進んだらいいのかがわからなくなります。

いさどん:
人はそうやって、人生を自分の力で生きていると思って、いろんなことを計算します。人生を計算するということは、自分の人生を、その計算の範囲内である限られた枠の中に限定することになります。でも生きるということは、もっと自由なことなのですよ。どういう風に自由なのかと言うと、可能性がたくさんあるということです。その可能性を自らに取り入れるためには、限定してはいけません。
ナッちゃんも、他の2人もその傾向がありますが、何かをする前に先に答えを決めているんですよね。それは、自分の未来を限定しているということです。

ナッちゃん:
そうですね。未来を決めつけることはできないですよね!

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いさどん:
それでね、あなた達の傾向として、悪い方に決めつけていますね。それでは自ら扉を閉じているようなものでしょう?
前にもお話ししたように、生きるということは、自分が生きているのではなく、この世界に生かされているということです。だから、生きることはいただくことなのです。そうでしょう?何か自分の力で生きていると言える要素はありますか?それは宇宙の法です。その法の中で生かされているのに、自分の考えで未来を決定するなんておかしいでしょう?

ナッちゃん:
そうですね(笑)。今までそうやって自分で勝手にネガティブな結論を出して、枠を狭めてきたと思います。これからはそういう事をしないようにしていきます。

いさどん:
そのためには、姿勢を上に向けないといけませんよ。そして自分の最善を尽くしなさい。そして答えは、いただくのです。そうすると希望が生まれます。
皆さんから何か質問はありますか?

マインちゃん:
今の段階ではありません。でもタイに帰ったら、たくさん湧いてくると思います。

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ワンちゃん:
タイではポケモンGOを利用して大人が子どもを騙すという問題が起きており、保護者への警告が出ています。

いさどん:
人を依存症にさせるものというのは、それを利用する人々にとっては魅力的なものです。皆さんには食養生のプレゼンテーションを行いましたが、それは悪い食べ物への依存から目を覚まさせて、健康を取り戻すためのものです。何を食べたらいいのか悪いのかという話ではなく、正しいものを選んでいく心をつくることの大切さを伝えました。心ができれば、依存症を生み出すようなものに対して常に冷静でいられますから、そこに取り込まれなくなります。
皆さんはタイの学校に戻ってから、ここで学んだことを伝えるプレゼンテーションを行うことを企画していますね。それは個人的なものではなく、学校のためにも、タイの社会のためにも、地球の未来のためにも重要なことです。

ナッちゃん:
学校が私たちの提案を受け入れてくれるかどうかはわかりません。ようこちゃんはこの間、大事な話し合いにみんなが早く帰って来られるように、天と共同作業をして雨を降らせたと言っていましたよね。どうか学校の責任者がここに来られるように、念を送ってください!(笑)ここに来ればきっとわかるだろうから。

いさどん:
それは大いにやりましょう(笑)。それは天に心を向けるということですが、同時に、あなたたちがここでの滞在を通して、しっかり変化した姿を見せることが大事ですよ。

(ここで、その場にいたようこちゃんはいったん部屋を出ていき、しばらくして戻って来ました。)

ようこ:
では、皆さんに小さなプレゼントがあります。私は今の話を聞いて、何かを3人に渡したいなと思い、何があるかわからないけど自分の部屋に戻りました。そして、これを見つけました。

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これは長野県にある、皆神山というところのお守りです。皆神山とは「皆が神さまの山」という意味です。今年の3月8日に私たちが皆神山を訪れた時に、宮司さんからこのお守りをいただきました。
これを皆さんにあげるのは、皆さんがこれを持って「神さま、私の願いを叶えてください!」とお願いするためではありません。これは、皆さんが「私が神さまなんだ。私が神さまと共同作業をしてこの世界を創っていくんだ」ということを覚えていられるように、お渡しします。そうしたら、皆さんにようこは必要ありませんよね。そして皆さんがその意味を本当に理解できたら、このお守り自体も必要なくなります。だけど今は皆さんにこれが必要ですから、神さまからのプレゼントとして差し上げます。

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ワンちゃん:
3ヶ月間をここで過ごし、私たちは一人ではないということに気付きました。学校ではこういった生き方に共鳴する人がなかなかいなくて、自分たちだけでやるしかないのだと思っていました。これから先、困難に出会った時には、私たちは一人ではなく、皆さんと一緒に同じ目的に向かって歩んでいるのだということを思い出します。先駆者は自分で道を創っていかなければなりませんから、それは大変な仕事です。

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ナッちゃん:
でも、諦めません!

いさどん:
これからは、みんなでひとつの目的を成し遂げていくのですよ。人間だけではなく、天も、時代も、仲間です。先駆者がくじけないのは、天とつながっているからなのですよ。

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いさどん:
ここに、ひとつの文章があります。これは誰か特定の人に向けられたものではなく、目覚めようとする人すべてに向けられたメッセージです。
皆さんへのはなむけとして、この言葉を贈ります。

 

──── そして以下のメッセージが3人に贈られました。──── 

 

ある価値観が広まるということは、その時代を生きる多くの人々が、その意識にならなければいけません。たとえその価値観が、大局から捉えれば重要なものであったとしても、それが世の中の主流になるかどうかはまた別の話なのです。
世界を大局で捉えず人智で捉えている人々にとっては、その人智で進めようとしていることが主流になるためには、革命や社会変革運動のように努力して勝ち取らなければならないかのように思えることでしょう。しかし大局で捉えている者にとっては、社会変革は時代の変遷であり、流れなのです。ですから、ただただ今行き着いた精神を日々の中で実践しながら、時が来るのを待つのが、大局で世界を捉えている者の姿勢なのです。

そういった大局的な視点で世界を捉える者たちが現れたということは、次の時代が訪れる予告でもあります。なぜなら社会の動きは時代によって生み出されているからです。ですからあなたの存在が時代の流れと共にあるならば、自らの存在に自信を持ち、信念に基づいた行動をやり続けていけば、息が切れるほど長い時を待たなくとも、現実化することでしょう。それが天意であるならば、何も焦る必要はないのです。

そして天と共にあるかどうかは、行動の結果もたらされる現象が教えてくれます。だからこそ、日常の中で出会う出来事を通して、自らの立ち位置を認識することが求められます。
時の流れを感じ、時代の大局と共にある人々の勇気を讃え、エールを送ります。

 

〈 タイに向かって旅立つ3人を、みんなでお見送り 〉
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いってらっしゃい!再会を楽しみにしています。

 


 

囚われを外したら

そこは宇宙だった

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2017年2月19日~3月18日
「1ヶ月間の真学校」開催!

何か問題が起きた時「自分は悪くないのになぜこんな事が起きるのだろう」と思ったことはありませんか。
人は問題を見つけると、とかく自分の外に原因を探し、周りを変えようとします。ところが周りはどうにも変わることなく、問題だけが積み重なり、今や家庭の中から地球規模に至るまで、どこもかしこも問題だらけの、行き先の見えない世の中となりました。
しかしそれは視点を変えれば、大転換のチャンスでもあるのです。

1ヶ月間の真学校は、人生の問題のあるなしに関わらず、生きることの突破口を開く場です。そこに特定の正解はありません。一人ひとりが客観的に自己を捉える冷静な目を養い、視野を広げ、その人らしい人生を自ら切り開いていく力を身に付けます。

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【日程】
2017年2月19日(日)~3月18日(土)
【会場】
木の花ファミリー
【定員】
15名 定員に達し次第受け付けを締め切ります。
【参加費】
18~22万円 収入に応じたスライド制です。受講料や食費など1ヶ月間の滞在費全てを含みます。
【内容】
「農」「食」「医」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」と多彩な切り口の講座を通して、受講生一人ひとりの心の性質や人生の使命、そして時代の流れを読み解きながら、この世界の真実を観抜く心の目が開かれるよう、いざないます。
講座例:人格を学ぶ講座(カルマ読みと地球暦)/コミュニティ創設講座/天然循環法の畑作・稲作/ファシリテーション/世界観を広げる/菩薩の里の経済/自然療法プログラム/食養生/有用微生物群の培養/天然醸造味噌作り/創造性と芸術/カタカムナ/性と宇宙/自然災害と防災/持続可能な心の持ち方

講座詳細やこれまでの受講生の体験記はこちら!

→ 1ヶ月間の真学校ブログ

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この世界は時代によって動いている

この世界は、時代によって動いています。ですから、人間が現状に対して問題を感じ、それを改善しようとする必要は本来はないのです。それは人間も含めてすべて、宇宙が世界に現象を引き起こしているからです。

同時に、この世界の現象は人間も含めた物語として紡がれているのですから、本来、わたしたちはそこで何をするべきなのでしょうか。それは、時代の動きや意志を感じ取り、それと連携して生きていくべきなのです。

これまで人々には、「時代が意志を持って動いている」という視点はありませんでした。人々はどこかで、「自分たちが時代を創っている」と思い、画策してきたのです。しかし厳密に言えば、誰一人、時代を動かした者はいないのです。ナポレオンであろうがヒトラーであろうが、キリストであろうが釈迦であろうが、自らの思い通りに生きられた人は誰もいません。なぜならば、世界は常に時代の意志によって運営されているからです。

その意志は思惑を持っていません。常に変化・変容・変態を繰り返し、進化し続ける宇宙の実体が、淡々と世界を紡いでいるだけなのです。

ですから、わたしたちが過去を振り返り、「あの時代はひどい時代だった」と思う必要はありません。それはあくまでも時代のサイクルの中のどこにいたのか、というだけのことなのです。そして今、わたしたちが観ている混乱した時代も、これから真実が明かされていく光の時代からのメッセージでもあるのです。そこでわたしたちは、時代のサイクルにのっとった生き方をすることが求められているのです。そのためには、まずはそのサイクルが観えることが大切です。

そのカラクリが観えている者たちは、今の逆さまの時代を正していく役割も担っていくのですから、たいへんと言えばたいへんです。しかし、時代は自ずとそのように成っていくのですから、その流れに乗ってしまえばたいへんではないとも言えるのです。

そのように進んでいくことが時代の実体であるならば、それを理解し、その流れと共に時代の意志を現象化していくことが、わたしたち地上を生きる者の本来の役割なのです。今、時代はそういった目覚めを人々に求めています。

これは、これまで宗教が説いてきたことでもありますが、宗教は自らの教えだけを絶対とし、教えの違いによってこの世界の争いの元になってきました。それをもう一度元へ戻し、今まで伝えられてきた「悟り」を生きる時代がようやく訪れたのです。

自我によって世界の本質が観えなくなってしまった人間の目を観えるようにするためには、自我を超越するしかありません。ところが、皮肉なことに人である限り、自我の目線から世界を解釈する立ち位置に立たなければ、世界を観ることはできないのです。つまり、自我のフィルターを通して観える世界のカラクリを解かなければ、自我を超越することはできないのです。その仕組みを理解し、そのカラクリを紐解くことにより、人は世界の側に立ち、この世界と同一になることができるのです。

そこに、宗教の限界がありました。ある意味、それは時代的限界でもあったのです。今、そうした段階からようやく封印が解かれる時代が訪れました。「悟る」ということ、「超越」するということは、無になることでも、何かから救済されることでもありません。それは、宇宙の実体の側に立ち、同時にヒトであることにふさわしい思考回路を有している状態になることなのです。

わたしたちはその状態になって初めて、囚われのない世界を表現することができます。お釈迦様の言われる完全なる無であるニルヴァーナ(涅槃)の境地まで到達すると、そこでは己もないのですから、ヒトとして生きることの本来の意味も表現できないのです。

わたしたちは人でありながら、ヒトとして究極の世界へ到達すると、この世界を次の世界へ導く者としての役割を生きることができるのです。それが21世紀から30世紀までの1000年紀に与えられた人類の歩みであり、進化なのです。今、その時代に至ったからこそ、それが提示されているのです。

ですから、これからの時代に人々は生きることの真の意味に目覚め、しっかりと目を開けて生きていくことが求められています。

「今、あなたは時代の申し子として生きていますか?」

時代はわたしたち一人ひとりに、そう問いかけています。

 

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2017年2月19日(日)~3月18日(土)
「1ヶ月間の真学校」開催

「医」「農」「食」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」――― 多彩な切り口の講座を通して、私たちはなぜこの世界に生きているのか、あなた自身の中にある真実の目を開く、ダイナミックなプログラム!
実際に木の花ファミリーに滞在し、宇宙視点で日常を生きるとはどういうことかを実体験として学びます。

【会場】木の花ファミリー
【定員】15名 定員に達し次第受け付けを締め切ります。
【参加費】18~22万円 収入に応じたスライド制です。受講料や食費など1ヶ月間の滞在費全てを含みます。

講座詳細やこれまでの受講生の体験記はこちら!
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