円が縁を紡ぐ 〜 人間からヒトへ

— 世界は常に我々に 次のA’を与えている —

 
いさどん:
昔、仕事で自宅のあった小牧市から豊田市に行くために、高速道路を走っていた時のこと。車を走らせていると、道路上の車線を区切る白い破線が、ピッ、ピッ、と後ろに流れていく。それがトキの流れに見えた。

小牧から豊田に向かうということは、小牧が過去になり、豊田は未来になる。未来の豊田から白い破線がサーッと流れてきて、過去の小牧へと遠ざかっていく。破線は次々と絶え間なく流れてきて、一瞬一瞬豊田が近付き、小牧が遠ざかるのだ。仕事が終わって帰る時には方向が逆になり、今度は小牧が未来で、豊田が過去になる。破線は小牧から豊田へと流れ、徐々に小牧が近付き、豊田が遠ざかっていく。

何だこの世界は、と思った。その時、僕は豊田から小牧へと向かっていたが、それはある場所からある場所へ移動しているのではなく、時間に乗っているのだということに気が付いた。破線の一つひとつがトキの区切りで、それが未来から現在に近付いて来て、過去へと遠ざかっていく。そんなふうに思えた。そして、横の景色が後ろに流れていくのが、出来事の流れに見えた。

当時のアメリカの大統領はレーガンだった。留まることなく後ろへ流れていく白い破線をトキの流れのように感じながら、遠い国に生きる人々も、例えばアメリカの大統領ですら、この薄っぺらな時間に乗っているのだと思った。現象として存在しているものは皆、この時間に乗っている。それはとても薄っぺらだ。このトキの乗り物からほんの一瞬でも外れたら、見えなくなる。死ぬとはそういうことだ。

もしかすると、この薄っぺらな時間から外れたら、死ぬのではなく消えるということなのかもしれない。そしてまたこの薄っぺらな時間に戻ってくることができたら、消えたものがパッと現れる。

過去というのは、薄っぺらな瞬間をトキが漫画のコマ送りのように渡り歩いてきた結果今に至って、認識しているのだから、過去は今もある。そうすると、未来も、実はある。もしかすると、我々は、トキと共にこの薄っぺらな瞬間の羅列をコマ送りのように渡り歩いているから、トキが動いて、現象が起きているように見えるのかもしれない。パタパタパタと漫画がコマ送りされて動画になるように、宇宙には瞬間瞬間がすべて存在し、延々と連なっていて、そこを渡り歩きながら我々は存在しているのではないか ――― 。

そんな思いを巡らせながら、高速道路の白線が後ろへ流れていくのを見ていた。この上に、アメリカの大統領でも何でも、すべてが乗っている。我々は時間人間だから、常にトキと共にある。この世界が流れている。

 
移ろいゆく世界

トキが止まらず、こうして動いているということを、人間はわかっているようでわかっていない。本当に早く動く。個人で言ったら、それは死が近付いてくるということだ。そして全体から言ったら、トキが進んで時代が動いているということ。そのメカニズム ――― メカと言うべきかどうかわからないが、トキの動きを発生させているのは天体の動きだ。天体の見えない歯車がかみ合って、トキという見えないものを過去から未来へと一方通行に動かしている。
そして驚くべきことは、その巨大なトキとトコロの仕組みが、また元へと還ると来ている。元といっても、A地点からA’へ行くわけだから、同じではない。そんなことを一体全体何が存続させているのだろう。それは思考してわかるものではない。あるから、あるのだ。

例えば、人間の体も同じことをしている。今日というA地点から明日というA’地点へ移りゆくように、毎日の羅列がトキと共に寿命を消化していく。ある部位の細胞が、寿命が来て垢となり、体から離れていくと、その部位には新たな同じ役割の細胞が生じ、体全体の維持を担っていく。しかしそれは、元のAではなく、1サイクル進んだA’なのだ。その連続によって、全体の老化が進み、寿命が尽きていく。
その時に、時々間違いが起きる。それが病気の元となったり、例えばガンのようなものを発生させることにもなる。なぜ間違いが起きるのかというと、人間が法則に沿って生きないからだ。しかしながら、そういった人間の性質も含めて、それが法則なのである。

DNAの中には、過去の体験が情報として刻まれている。そこには、病気を引き起こす要因など、そのものの性質を示す様々な情報がある。そこを解明し、病気の要因を取り除けば、その病気になることはなくなる。DNAの配列を病気の心配のない健康なものにすれば、完璧な設計図に基づいた健康体の見本のような人間を創ることも可能だろう。
ところが、人間には個性がある。一人ひとりがオリジナルかつユニークであるように、大本の設計図から少しずつずらして創られている。それが自我の表現であり、クセ性分であり、個性だ。既製品のように同じものを創るのではなく、すべての存在がオリジナルであることがこの世界の目的である。それが生命の特徴であり、同じものは何ひとつない。人間は自我を持ったがために法則から外れもするが、そういった人間の性質すらも法則の内にあるのだ。

そこで思うようにならない人生に出会ったとしても、悩むことではない。ただ、移ろいゆく世界を受け入れていく。それは「いただきます」ということだ。
「いただきます」とは、「頂き」が「増す」ということ。「頂き」とは頂上のことであり、それが増すということは、登れば登るほどその山がどれほど高いかがわかる、終わりなき道であるということだ。「いただきます」という姿勢が、精神性をどこまでも高めていく。

世界は移ろいゆくもの。それを、今日も昨日と同じでありたいと願ったり、今の富を保ち続けようと執着したり、何かを失うことを嘆いているようでは、移ろいゆくことに対して抵抗する心が生まれ、そこから悩みや苦しみが発生する。かつてお釈迦様は、生老病死は人として生きることの定めであり、人として生を受けることは四苦八苦に出会うことであると説かれた。生老病死は移ろいゆく世界の象徴であり、人生そのものだ。そこに抵抗するから苦しみが発生するのであり、ただ「いただきます」と受け入れてゆく精神状態になれば、四苦八苦は自ずと消える。

ともこ:
おもしろいね。例えば過去のある一時点で出来事が起き、それに対してネガティブな感情が発生したとするでしょう。そしてその後もその感情を引きずって落ち込んだりするけれど、宇宙には瞬間瞬間がすべて連なって存在し、私たちもそこを渡り歩きながら生きているとしたら、それは過去の出来事によって起きた感情がずっと継続しているのではなく、毎瞬毎瞬、そのネガティブを持ち続けることを自分が選択していることになる。世界が次へ次へと移りゆく中で持ち続けるのだから、ある意味その姿勢はすごく積極的だよね。

いさどん:
出来事自体は何も感情は表現していない。そこに感情的に反応している自分がいるだけだ。自分の中にあるクセ性分がその感情を引き起こしている。そこに気付けば、悩み苦しみはたちどころに消えるだろう。

 
世界を感じ取る

すべてのものは動いている。それを一直線に進んでいるかのように見る捉え方は、動いているものの本質をつかんでいない。本質がつかめていないと、単純なものの捉え方をする。一直線にものを見ていては、ただ左から右へと流れていくように一瞬一瞬を無自覚にやり過ごすだけで、その全容を捉えることはできない。

トキが経つとは、「今」が移りゆくということ。刻一刻と今が刻まれ、世界が移ろいゆく。今この瞬間も、トキは刻まれている。
僕は毎朝目が覚めると、「ああ、また朝が来た」と思う。日常の中でも、道路の破線が、ピッ、ピッ、と後ろへ流れていくように、「また行った」「今も行った」と、絶え間なくトキが流れ続けていることを感じる。毎瞬毎瞬、新鮮なトキがやって来る。朝が来て、夜が来て、また朝が来て、夜が来る。それを延々とくり返す。ただトキが流れているだけではなく、そこには常に新鮮な出来事との出会いがある。トキは留まることなく新鮮な瞬間を刻み、新たな出来事との出会いを我々に提供し続けている。それはとてつもないエネルギーだ。そのエネルギーによってこの世界が動いているのだが、ほとんどの人はそのことを意識せぬまま、トキのもたらす動きの中にどっぷりと無自覚に浸かっている。

なぜこれが存在しているのだろうか。このような思考回路が動き出した者には、世界はとても新鮮で不可思議なものに観える。しかしそこに意識が向かない、或いは興味のない人々にとっては、何を言っているのだろうという世界だ。言葉で表現するのは無理なのかもしれない。それは言葉で表すものではなく、感じ取るものだから。

我々はトキに乗って動いている。そうしてこの世界が移りゆくことを、時代と言う。我々生命が存在する世界を動かしているトキと時代は、生命そのものだ。
人々はその存在を意識していない。意識したとしても、それに逆らうことはできない。それは目で見ることはできない。しかし、確実にある。とてつもないエネルギーで世界を動かし、紡いでいる。それはいったい何ものなのだろうか。

 
それはあたかも銀河のようだ

トキは一方通行に、コッ、コッ、コッ、コッ、と確実に刻まれてゆく。それが昨日から今日、明日へと進むのを一直線に見ているのは、思考の幅が狭いからだ。単純な発想で見ていると左から右に動くように見えるが、ものが動くということは、そこに必ず中心となる一点がある。そして縁のあるものがその周りに集い、回転するという形になって初めて、ものが動くことが持続する。直線ではなく、円運動をしているのだ。
それは「縁」というもので紡がれる。「円運動」とは、「縁運動」でもあるのだ。縁とは、約束事。縁という見えない糸があり、それがバラバラであったものを約束のようにつないで、全体が回り、巻き込んでいく。それはあたかも銀河のようだ。

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円の中心の一点は、止まっているかのように見える。しかしその一点も、さらに大きな役割のもとに何かの周りを回っている。中心が止まっている状態になったら、外の円運動も起きない。すべてが連動して動いているからこそ、個々の円も成り立つのだ。

そう聞くと、科学する人々は「それはどういう仕組みですか」と聞いてくるかもしれない。それを解明し、立証するのがその人たちの役割だ。
インドのある聖者は、素粒子のことを「宇宙電子」と言った。インドの思想に素粒子という概念はなかったが、彼らは素粒子の存在を理解していた。では素粒子を物理的に説明できるかというと、それは物理的に解説するものではなく、この世界はそういったものでできている、ということに過ぎない。それは素粒子よりもさらに微細な、宇宙最極小微粒子である「カ」も同じことだ。物理的に説明するものではなく、それがあることを感じるものであり、それが真実だ。人間には、それを感じる能力がある。
アインシュタインが相対性理論を頭の中で思い描いた時も、その時点では物理的な裏付けはなく、後から立証されていった。今でこそ人々はそれを素晴らしいと称賛しているが、ではそれが立証される以前に同じことが語られていたら、同じようにそれを認めただろうか。物理的に立証されてもされなくても、人が「そうだ」と感じることが真実なのだ。

 
世界は生命そのもの

ともこ:
人は解明できないことを、物理的な理屈をつけて解釈したがる。それでは「なぜ生命は生まれたのか」というような話になってしまうね。

いさどん:
なぜ生命が生まれたのかというと、世界があるからだ。この世界は生命そのものであり、それを立証するために三次元生命が生まれた。その三次元生命の発生の元となっているのが縁であり、縁とはこの世界の秩序をつなぐもののことを言う。
この世界は、秩序を持って動いている。秩序があるから生命は発生する。そして秩序があるということは、その奥に、秩序を束ねている意志があるということだ。その究極を神という。なぜ生命が生まれたのかと言えば、そこに秩序があるからであり、世界が生命であるということを悟らせるために三次元生命が創られたのだ。
しかしそこに秩序が観えないものにとっては、神はいないことになる。そして生命は発生しない。秩序を観たとしても、その秩序をどのレベルで観ているのかによって、神の存在も、生命の成り立ちも、変幻自在に変化する。同じ生命であっても、その人間の意識がどこにあるのかによって観えるものが変わってくるのだ。そのくらい世界は変幻自在であり、至るところにその種は遍満している。科学が探求していく先にも、常にその答えは待っている。

この世界の成り立ちは円運動から成り、それは秩序のもとに、約束通りに動いている。約束通り動くには、軸が必要だ。すべてのものの中心には軸があり、それがもう一つ大きな軸の周りを回っている。地軸があるから地球は自転し、振動し、歳差運動をしながら、太陽の軸のもとにその周りを回っている。そして太陽もまた同じように自転しながらセントラルサン(銀河の中心)の周りを回り、銀河も同じように、さらに大きなものの周りを回っている。単独で存在しているものは何ひとつない。すべてが無限に連鎖して、その関係の中で互いの存在を成り立たせている。ということは、世界がひとつだということだ。

 
「縁」とは「円」

このように複雑な動きが、なぜ継続してあり続けることができるのか。ものとものとは、互いに存在し合うために対向発生をする。そこでは約束事のもとに縁が生まれ、円運動をすることによって縁が紡がれていく。
そこでひとつの円を区切って見ると、中心は止まっているように見える。例えば太陽暦の視点から見ると、太陽は止まっている。しかし視野を広げてみると、太陽ももうひとまわり大きな縁によって円運動をし、らせんを描きながらさらに大きなものの周りを回り続けていることがわかる。そのらせんとは、私たち生命のDNAの構造と同じだ。

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太陽系や宇宙というマクロの世界も、DNAのようなミクロの世界も、同じ構造で成り立っている。人間が人生を生きる上で出会う出来事や人間関係も、それと同じ構造になっている。おもしろいことだ。
これからの時代を生きる人々は、そのような宇宙的仕組みを理解し生きることで、個人的な欲望や野心によって生きるのではなく、大いなる意志(時代の流れ)に寄り添っていくことに目覚めなければならない。

 
混乱にも意味があり、一瞬のことである

2016年も世界中で様々な出来事が起こり、世の中は大きく混乱している。どのような対策をとっても出口を見出せない、泥沼のような混沌とした状態が続いているが、世界のリーダーたちは、表面的な対策でその解決が図られるかのように、今なお同じような対策を取り続けている。それもいずれは、無意味だということに気付く時が来るのだろう。

視野を広げて観れば、今の混乱も意味があることであり、一瞬のことであることがわかる。我々の寿命を80年とすると、冥王星の1周である248年のサイクルからしたら3分の1だ。地球の46億年の歴史を1年に例えたら、我々の80年の寿命はたったの0.7秒だ。1秒にも満たない。
高速道路の白線がピッ、ピッ、と後ろへ流れていくように、トキは留まることなく確実に刻まれていく。その中で、無数の生死が繰り返されている。そのとても巨大で複雑なメカニズムは、とても単純な仕組みでできている。ということは、ものごとを観る視点を変えれば、とても簡単に理解できるということだ。

 
その視点をあなたは持てるか

そうやって心を大きく広げながら、ふっと肉体目線になる。今、木の花では「ロータスランド」というアンテナショップをオープンさせるための準備をしているが、それもこの壮大なトキの流れからしたら、ほんの一瞬の出来事だ。そう思いながら、地上で生きている限り、その一瞬のサイクルに付き合っていくことで命が紡がれていくことを意識し、それに付き合っていく。もしもそれに付き合わない立場でトキの動きを眺めるというのなら、命を返上して上から眺めていくことになる。
上から眺めるには、意識が高くなることが必要だ。もうひとつ大きな意識の命のサイクルに入るから俯瞰できるようになるのであり、対象と同じサイクルに乗っかっていてはそれを俯瞰することはできない。そこを超えた意識になってこの世界を眺めると、全体を俯瞰しながら「ちょっと方向を変えてみようかな」というように、この世界を運営する側に立つことになる。その領域に行けるかどうか。

ともこ:
そうやって世界を俯瞰して運営するのも、自分の心を観て自分をコントロールしていくのも、同じ仕組みだね。

いさどん:
同じだよ。我々の思考回路も天体の動きも同じ仕組みになっていて、その仕組みをどこに当てはめたのかというだけだ。大宇宙に当てはめたのか、地球生態系に当てはめたのか、個人の人生に当てはめたのか。

 
トキの旅人

いさどん:
円運動には、必ず中心の軸がある。中心の軸とは、トキ軸だ。現象界は、「トキ」と「トコロ」の対向発生によって成り立っている。縦のトキ軸に対しトコロ軸という横の働きが生まれ、現象が発生し、その連なりが時代を紡いでいく。
その一部を切り取って見ると、それは十文字に見える。それがカタカムナ文字の「+」=「ト」(統合を表す)だ。しかしそれは平面上に表すからそうなるのであり、実際はトコロ軸は回転運動をしている。そして留まることなく進み続けるトキ軸にトコロ軸がついていくということは、トコロ軸の円運動は常にらせんを描くことになる。さらに、中心のトキ軸も、もうひとつ大きなトキ軸の周りを回っており、それもらせん運動になっている。とても複雑な関係だ。

すべての現象は、円運動をしている。その円運動の関係の中で出会う現象に自らがどのような縁を持っているのか ――― 近いのか遠いのか――― それによってトコロが移り変わり、互いに対向発生をしながら円運動を続けていく。それが人生だ。
円(縁)は無限にあり、そのすべての中心をトキ軸が貫いている。つまり、この世界はいたるところがトキ軸だらけだ。我々の体はおよそ60兆個の細胞から成っているが、その細胞の一つひとつをトキ軸が貫いている。なんという宇宙ロマンだろうか。

そしてらせんを描いているということは、そこには必ずサイクルがある。円の一つひとつに固有のサイクルがあり、我々の一生である80年というサイクルもあれば、虫の一生である何ヶ月というサイクルもあり、バクテリアなら何秒ということもあるかもしれない。星々なら何十億年、何百億年だ。ミクロからマクロまで、無数のトキ軸が複雑に連鎖しており、そのすべてを束ねて貫くのも、トキ軸だ。その仕組みが理解できると、トキを紡ぐ時代は生き物であり、その時代を生きる我々は、トキの旅人であると言える。

縁が切れれば円運動は止まり、現象が消える。それは、円運動が縁を継続させているということだ。

ともこ:
昨日、なぜ日本の通貨の単位は「円」なんだろうと考えていたら、ちょうど今日いさどんから円の話が出てきたのがおもしろい。

いさどん:
お金は社会の血液であり、世の中を巡り巡って隅々までをつなぎ、また戻ってくる。すべてが円運動だ。そしてそれは、縁で紡がれていく。我々の体の中をめぐる血液と同じ仕組みであり、役割だ。

ともこ:
私たちの命も円運動によって成り立っている。円運動がなくなれば、トキ軸が消滅し、現象も消える。

いさどん:
それが死だよ。寿命というのは、例えるならはずみ車の動きのようなもので、回転が始まると縁ができて、そこにひとつの生命としての形が成り立ち、その生命固有のサイクルが始まる。そしてその回転が終わる時が寿命だ。回転が強くて広いほど長いサイクルになり、弱ければ短いサイクルになる。それが他の円運動と複雑に連鎖して、壮大な生命の織物を織りなしているのがこの世界の実態だ。

 
すべては宇宙の始まりから終わりまでを紡ぐひとコマ

ともこ:
なぜ自分は存在しているのだろう、と思う。縁によって紡がれた結果「私」という形が存在しているけれど、そもそもなぜ縁は発生するのか。少なくとも自分で意図して私を私たらしめている気はしないのだけど、縁が発生するということは、そこにやはり意図が働いているということ?

いさどん:
縁は、意図が働くことで生まれる。意図とは、糸だ。縁という見えない糸がバラバラのものをつなぎ、回転が起きて、現象(形)が生まれる。

人間には、自らが認識している自分と、認識できていない自分とがある。それはどういうことかと言うと、人間はある段階に至ると、それまで認識せずにいた新たな自分を発見する。しかしその自分とは、認識する以前からずっとあり続けたものだ。
現在の自分が成立する以前から、自分というものはある。過去の自分がつくったものが因となり、その結果として現象が現れる。それを因縁という。この世界は、因縁にふさわしく現象が起きる因果応報の仕組みで成り立っている。遠い過去からずっと続いてきた物語として現在があり、今この瞬間も紡いでいる縁が次の出来事につながり、そこからまた新たな縁が生まれて次の出来事へとつながって、物語は未来へと続いていく。因縁の始まりは宇宙の始まりであり、因縁の終わりは宇宙の終わりだ。それは永遠に続くということ。すべての存在は、宇宙の始まりから終わりまでをつないでいるひとコマだ。

宇宙の終わりとは、潜象界に還るということ。成住壊空で言えば、「空」の状態だ。空とは永遠であり、我々現象界の存在には解釈できない世界だから、一瞬の点であるとも言える。
宇宙は、誕生、維持、破壊、空という成住壊空のプロセスを延々とくり返している。その終わりのひとコマは、次の始まりのひとコマと重なっている。そこは空であり、永遠だ。しかし我々現象界の者には、終わりが即始まりであるかのように見える。法華経に「三千塵点劫(さんぜんじんでんごう)」という言葉がある。宇宙は誕生から消滅までを三千回繰り返してきたのだと言う。三千回というのは、それだけ気の遠くなるほど、無限にくり返しているということだ。

それだけのスケールでものごとを考えるようになると、身近なことに囚われなくなる。しかし囚われないからと言って、今目の前にあること、例えば朝起きたり、食事をしたり、仕事をするという日常のことをおろそかにするということではない。すべての現象は自らの意識レベルにふさわしく存在するのだから、それを無きものにしてはいけない。それは壮大な宇宙ドラマからすれば瞬時のことであるのだから、囚われる必要もない。囚われずに、情報としてそれと付き合っていくことだ。

 
人間にとって最大のテーマ

人々は物語の一部を切り取り、それを自分だと思っているが、すべてがつながって現在の自分がある。その一部を区切って捉えていては、真実にたどり着くことはできない。瞬間瞬間紡がれている因縁によって現象は次へ次へと変貌し、そのうちに過去が記憶の彼方へと追いやられると、今記憶している自分だけが自分であるかのように思うのだが、記憶の彼方の自分が築いた因縁の結果が、今のあなた自身だ。ということは、自分は宇宙そのものである、ということになる。

ようこ:
「インネン」の思念をカタカムナでひも解くと、「イ」は「位置」を意味する思念で、「ン」はその思念を強めるもの、そして「ネ」は「根」を表している。つまり、位置が特定されるとそれが根のように見えないところでぶわぁっと広がっていく。それが因縁なんだよ。

いさどん:
つまり因縁とは、とても根深いものだということだ。過去の因縁の結果が今に現れているということは、逆に言うと、今起きている現象が、見えない根、即ち過去の因縁を示しているとも言える。つまり、現在の自分自身を深く観察すれば、過去世に想いを馳せなくとも、自らが過去にどのような歩みをしてきたのかが観えるということだ。

ともこ:
同じ出来事であっても、それをどのように解釈するかという瞬間瞬間の自分の心の状態が未来の縁を紡いでいく。

いさどん:
意識が高いのか低いのか、広いのか狭いのか、それによってトコロ軸の振幅や、サイクルの緻密さが変わる。それをどう表現するのかは、自分次第だ。人にはそれぞれその人固有の歴史があり、過去の体験をもとにした情報がその人の人間性や性質によってDNAに刻まれていく。その情報が元となり、未来が創られていく。だから縁を紡ぐ意図とは、生命輪廻を司る宇宙法則そのものであり、その人自身の意図でもある。

ともこ:
だけどこういう仕組みを知らなければ、意図も無自覚な意図になる。それでも意図と言えるのだろうか。

いさどん:
それは無自覚に紡いできた意図が、無自覚に表現されている状態だ。それを自覚して生きる状態になれば、生きること自体を自己コントロールできるようになる。それがどんどん拡大していくと、生命であるこの世界を運営する側にまで育っていく。自分すらもコントロールできずに翻弄されて生きるレベルもあれば、この世界を運営する側に立つ者にもなれるのだから、人間の可能性は本当に幅が広い。
可能性を開くには、そこを探求する意欲が必要だ。それを求める意欲があれば、トキはそこに到達するために動く。このトキという列車の行き先は、意図によって変わっていくのだ。意図が働かなければ、単なる無自覚の時間がどんどん経つだけになる。それを無自覚の意図と言う。

ともこ:
例えば何かの事故に出会えば、多くの人は自分を被害者にして相手を責めるけれど、それも実は過去の自分が築いた因縁によって出会っている。そうかと言って、じゃあ全部自分が悪いんだとすればいいのかというと、そういうことでもないね。

いさどん:
それは、ものごとの成り立ちを学ぶ学習の機会だからね。だからこそ、そこに感情が入ってはいけない。感情を入れずに客観的に捉えれば、それは学習の機会となり、この世界を理解するための積み重ねとなっていく。そのことによって自らのキャパを広げ、より高く広い意図のもとに人生を歩むことができるようになる。
逆に言えば、自らの感情に囚われて特定の概念でものごとを解釈していては、いつまでもそれを学習の機会とすることはできず、同じ状態に留まり続けることになる。それは、常に変化変容し続けるこの世界からしたら、落ちていくということだ。世の中には、自らが感情的になっていることすらわからない人々がたくさんいる。冷静に判断しているつもりでも、実は無自覚な感情に基づいて判断しているのだが、本人にはそれがわからない。現代は、そういった人々の感情が募り、国家規模で感情と感情のぶつかり合いが生じ、それが難しい時代を創る大きな原因となっている。
自らを冷静に観て、自身が何者であるかを知るということは、人間にとって最大のテーマだ。自らがどのような状態でいるかによって、可能性を限定することにもなれば、どこまでも無限に広がっていくことにもなるのだ。

 
壮大なるクセ性分

縁は、円によって継続していく。トキ軸の動きは一直線に見えるが、区切らずに見ればすべて円運動になっている。円運動がトキ軸の動きに連動すると、らせんとなる。太陽系の惑星たちがらせんを描きながら太陽を回り、太陽もまたらせんを描きながら銀河を回って宇宙を進んでいく動きは、この世界の構造そのものだ。

太陽系の惑星には、それぞれに個性がある。「伝達」や「素早さ」を表す星である水星は太陽の一番近くを高速でクルクルと回り、「愛」や「美しさ」を表す金星は安定して美しい真円の軌道を描き、地球は微妙な楕円軌道をグゥウン、グゥウンとグルーヴを刻みながら回り、「情熱」や「行動」を表す火星は極端な楕円を描きながらダイナミックに回っている。軌道もスピードもそれぞれで、その動きはクセ性分そのものだ。太陽の周りをその星らしく回りながら、互いに連携し合い、共に進んで、全体がハーモニーを奏でている。
それぞれの星はクセ性分のまま一定のリズムでサイクルを刻み、ワンパターンに進んでいる。それが個性として約束通りに存在しているから、互いに連携することができる。太陽系のトキ軸は太陽だが、太陽もまたクセ性分のままに、約束通りに進んでいる。

ともこ:
そうか!クセ性分とは秩序なんだ。まったくクセがなく完全にフリーだったら、そこにサイクルは生まれないから、約束もできず、連携しようがないよね。

いさどん:
そう。クセ性分が秩序だ。木の花ファミリーというコミュニティで言うと、僕がトキ軸で、みんなはその周りをクセ性分のままに回っている。僕が向かうべき方向を示すと、それに沿っていく者もいれば遠く離れていく者もいて、もう戻って来ないのかと思えばやっぱりメンバーだから遠回りしながらも戻ってくる。
クセ性分とは、言い換えれば個性のこと。自らがどのような特性を持ち、全体の中でどのような動きをしているのか。ただ無自覚にクセ性分のまま行動すれば全体の調和を乱すことにもなるが、それを客観的に捉え個性として活かせば、多様性を広げ、全体の可能性を開くことになる。なくすのではなく、有効利用するということだ。
クセ性分があるから、この世界に動きが生まれ、現象が起きる。人間も惑星も銀河もクセ性分を持って存在している。その究極の壮大なるクセ性分が、神の実体だ。

ともこ:
そうだね!神様にクセ性分があるから、世界に秩序があるんだね!地球や太陽が秩序を持ってらせん運動をしているから、毎日同じように朝が来て、夜が来て、四季が生まれて、私たちの命の営みが可能になる。もしも秩序がなくてみんなバラバラに動いていたら、四季もなければ一日もないから、作物を育てようにもいつ種まきしたらいいのかもわからないし、そもそも生命自体が発生しようがない。クセ性分があるからこそサイクルが生まれて、生きていける。

いさどん:
それは命の約束事だ。神のクセ性分というルールの中で、すべてのものは存在している。
星々は一つひとつが本当に個性的だ。そして単独で見ると偏っている。例えば木星は「拡大」や「発展」が役割であり、土星は「制御」や「そぎ落とし」が役割だが、拡大ばかりでも、そぎ落としばかりでも、コミュニティは成り立たない。単独では成り立たないものが集い、それぞれの個性を表現しながらネットワークすると、全体でバランスが取れていく。一つひとつは個性的で偏っていながら、全体が調和している。それが宇宙の法則だ。
庶民が目覚めるとは、そういうことだろう。中国の天盤の巡りによれば、21世紀は「庶民の目覚めの時代」だと言う。これまでは「豊かさとはこういうものだ」とか「優秀であるとはこういうことだ」というように、それぞれのイデオロギーや宗教によって定義付けをし、皆が一律に同じ理想を追い求めてきたが、宇宙の実体はそうではない。あなた自身が、実は極めて個性的で、他にはないオリジナルな存在なのだ。そのことに無自覚でいると、個性は単なる不調和の原因ともなり得るが、それを十分に理解し、自分にしかできない役割を果たすことで社会に還元していけば、「ここにあなたがいてくれてよかった」というように、あなた自身が活かされていく。そのハーモニーを創るのが庶民の時代だ。一律の価値観で既製品化していくのではなく、誰もが個性的で、活かされる。そうしたら、いらない人はいない。それはとても豊かな世界だ。

 
当たり前の「宇宙評論家」

ともこ:
いさどんを見ていると、楽しそうだな、と思う。いさどんは何かをする時に、一人でやるということがないでしょう。例えばプレゼンを作る時はみかちゃん、鬼の面ならりょうちん、木の花菌ならひろみちゃんというように、場面ごとにいろんな人やチームと、木の花のメンバーに限らず外の人ともパートナーシップを組んで事にあたる。それだけ個性的な人たちと何かをすれば、それぞれに違った世界がそこに生まれる。一人では表現できなかったことが可能になっていく。それはこの世界の仕組みそのものだと思う。

いさどん:
それはとても面白くて楽しいことだよ。僕は全てを与えられているわけではない。感覚的なことや智恵が湧き出すことはあるが、それを全て自分でやろうとしたら、やりきれないだろう。例えば鬼の面でも、今回はこういうものだというひとつの感性のようなものはあるが、それを創る人は別にいる。いろいろなことに関わってそこに何かを提供しながら、どれも自分がやっている気持ちでありながら、実はどれも自分一人ではやれない。そこにいろいろな人が個性を発揮しながら関わっていくことで、普通ではできないようなことがやれるようになる。これからは、そういった個人の活かし方の時代が始まるのだろう。

ともこ:
それはどこでも起こり得るのだろうと思う。今はまだ、意識が自分という枠の中に囚われているから各自がバラバラに動いているけれど、意識が解放されていけばどこでもそれが起きるようになる。

いさどん:
自分の中で自己完結したいと思う人間は、一人でそれを抱える。僕は表面を泳いでいるようなものだ。いろいろなことに関わりながら、どれひとつ、一人でやっているものはない。それもひとつの個性なのだろうね。

ともこ:
いさどんは、悩む時でも自分のことではなく人のことで悩んでいる。

いさどん:
「どうしたらいいだろうか」と思うのは人のことばかりだね。自分のことは、「こういう性質のものだ」と捉えているから、そこに感情が動くことはない。それが一種の定めとも言えるだろうか。定めと言うと固定されているもののようだが、固定されているのではなく、あえて言うなら「宇宙評論家」のようなものだ。

ともこ:
それも個性だね。

いさどん:
しかし僕が語っている内容自体は、個性的ではない。僕が語っているのはこの世界の法則であり、個性的でも何でもない、当たり前の話だ。人々はなかなか自我から抜け出せず、世界を客観的に観ることができないから、僕が個性的に見えるかもしれないが、ひとたびその視点に立てば極めて当然のことを語っているに過ぎない。
生命は皆一定のサイクルでらせんを描いており、トキが昨日から今日、明日へと進んでいく日常はらせん構造だ。もともと星がそのように動いているのだから、我々もすべてその仕組みによって成り立っている。その一部だけを切り取って、わからないと否定する自我のフィルターをかけ、新たな情報を取り入れようとしない姿勢を取っていると、「理解できない」という結論になる。しかし、囚われのない姿勢でそれを情報として受け取り、道理に沿って考えてみれば、当たり前に理解できることだ。

ともこ:
その中で毎日生かされているんだものね。今こうして世界の仕組みを聞いて、改めて「すごい!」と感動しているけれど、こんなふうに驚いていること自体が、いかに日々そういうことを観えずに生きているかということだね。

いさどん:
それだけ視野が狭いということだ。自分の身近なところしか見ていない。

ともこ:
昔、時計もカレンダーもなかった時代には、人々は天体の動きを観て季節の巡りを知り、それを狩猟や農に反映することで、生活を成り立たせていた。天体が世界の移り変わりを教えてくれる唯一の手掛かりで、そこに意識を向けることで命をつなぐことができた。生きることと天体の動きが直結していたんだね。

いさどん:
かつて人々は、天と対話していた。そして宇宙を生きていた。その瞬間の空気を感じ、湿度を感じ、天変地異や獣の脅威なども直観でかぎ分け、そこから逃れて生きてきた。それだけ鋭い直観力を持っていたということだ。
その直観とは、天の天体の動きを感じとるものであり、一瞬の危機、即ち点を感じとるものでもあった。それによって自らの命を継続させることのできた者がDNAを未来へつないできたのであり、その末裔が我々だ。つまり我々は、天と点を感じ取る直観のDNAの延長線上に生み出された遺産のような存在なのだ。
しかし、現代の人間はそれをすっかり忘れて物質的な欲望に溺れ、本当に必要なものを嗅ぎ分ける直観力が麻痺している。それ故に、生命にも、社会にも、現代は大きな混乱が生じているということだ。

 
点(一点)とは、天(宇宙)である

トキは絶え間なく流れ、瞬間瞬間未来が近付き、過去が遠ざかっていく。そしてそれは円運動だから、1周して戻ってくるのだが、1年というサイクルであっても一生というサイクルであっても、同じA地点に戻るのではなく、1らせん分進んだA’地点に至ることになる。

回転が止まってトキ軸が消滅すれば生命は終わるが、その生命を構成していた要素はそれぞれの微細なサイクルに入る。肉体は、人間としてのサイクルが終われば、原子のサイクルに戻り、やがてまた次の役割のサイクルへと組み込まれていく。死とは、どのサイクルに所属するのかが変わるだけのこと。毎日体の一部が自然に還っていくことや、食べ物を取り入れて体の一部にしていくことは、生死の連鎖であり、円(縁)運動であり、らせん運動だ。

ともこ:
この間、「出発(たびだち)プロジェクト」について話し合っている時に、みかちゃんが生命の仕組みの図を描いた。図ではトキ軸は一直線に描かれていて、ずっと同じように流れて見えるけれど、あの図の「人生」以外の部分、つまり死の期間というのは「点」なんだと言っていたね。

みかちゃんが描いた生命の仕組みの図
みかちゃんが描いた生命の仕組みの図

いさどん:
死には、二つある。一つは、現象界(ある世界)の死。それは「見える世界」と「見えない世界」を行き来しており、肉体は解体されても、魂は解体されない。そしてもう一つが、潜象界(ない世界)の死。魂が解体され、すべての源である潜象界へと還り無に帰する、悟りの結果至る世界だ。

目に見える形の世界を成立させているのは、その奥にある目には見えない世界だ。心や人間性、物の性質といったものは、目に見えない。その「見えない世界」と「見える世界」の対向発生によって成り立っているのが、現象界だ。そこでの死は、見えるところから見えないところへ行くということ。そしてある一定の期間が経つと、また見えるところへ戻ってくる。見える、見えない、見える、見えない、というサイクルをくり返しているのが現象界の生死であり、そこにはずっと一定のトキが流れ続けている。

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それに対して、潜象界の死は消滅である。消滅するということは自我のなくなった状態だから、そこでは何かを解釈するということ自体が存在しない。トキも消滅する。だからそこは点であるとも言えるし、我々生きている者が解釈できないサイクルに入ったのだから、ものすごく長いとも言える。それは、「あってあるもの、なきてなきもの」。長くて、短い。それを現象界の思考で捉えていては、てんでわからない。(チーン♪)点(一点)とは、天(宇宙)なのだ。

現象界(ある世界)は「見える世界」と「見えない世界」から成る二重構造となっており、さらにその源である潜象界(ない世界)までを含めると、世界は三重構造になっている。「見える世界」と「見えない世界」が対向発生をしているように、「ある世界」と「ない世界」も対向発生をしているのだ。

現象界の生死のサイクルは「見える」と「見えない」が交差する二重らせん構造だが、そこに潜象界の生死のサイクルを加えると「ない世界」までを行き来する三重のらせん構造になる。現象界の中だけでのらせんと、潜象界までを含めたらせんがあるのだ。そしてその中心を、トキ軸が貫いている。
現象界のサイクルではトキはずっと一定に流れ続けているが、潜象界までを含めたサイクルではトキは流れたり止まったり、流れたり止まったりしている。そうして宇宙は発生と消滅を繰り返しており、そのサイクルを図に表すと、蓮根のように見える。それが「蓮根宇宙」だ。

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ようこ:
「トキ」も「トコロ」も、「統合」を意味する「ト」から始まる。その統合が「発生(起・キ)」しているのが、「トキ」。そして「トコロ」の「コ」は転がり出ること、「ロ」は中空状のものを表している。つまり、トキという統合したエネルギーが流れていて、そこから転がり出てトコロが生まれ現象が起きるのだけれど、それは実体のない移ろいゆく中空状のものだということ。

いさどん:
トコロが発生するということは、そこに現象が起きるということであり、それは目に見えるから確実なもののように思える。しかし、目に見える形というのはどんどん移りゆくから、実際はつかみどころがない。「見える世界」とは、つかみどころのない世界なのだ。だから、現象界を「諸行無常」と言う。
我々は形を持って「見える世界」へ現れるが、それはいっときの姿であり、形の奥にある「見えない世界」こそが我々の実体であると言える。そしてそのどちらの世界もトキと共に流れ、移ろいゆくものだ。

ようこ:
トコロは中空で、中が空っぽであるからこそ、トキ軸がそこを貫くことができる。

いさどん:
トキだけでも、トコロだけでもこの世界は成立しない。それは対向発生して同時に双方を成り立たせている。

 
「わかったか?」

ともこ:
神様はおもしろい世界を創ったね。

いさどん:
ひも解けばひも解くほど、「ここまでくまなく散りばめられているのか!」と感動するほど、目には見えない微細なミクロの世界から巨大なマクロの世界まで、すべてが同じ法則のもとにあり、本当に緻密に配慮され尽くしている。しかしその法則とは、とても単純だ。この世界の隅から隅まで余すところなく配慮された本当に緻密な世界を創りながら、その仕組みはミクロからマクロまでが極めてワンパターンに連なって、壮大な世界が創られている。
僕はこの世界を創られた大本の実体に想いを馳せると、そのあまりの素晴らしさに「よくぞここまでやりましたね」と感動して、愛おしくなるくらいだよ。そう思っていたら、今、あちらの方からニヤッとして、こう返ってきた。「わかったか?」
想いを共有し合えた ―――――― すごいね。

そこに宇宙の実体がある。我々人間の思考が法則に馴染んでいくと、その実体はどんどん解明されていく。しかしそれは永遠のもの、無限のものであり、どこまでも先がある。

今、地球上で、人々は宗教の名のもとに神を語る。しかしそれは、自らの感情に乗せて神を見ている。だから神の名のもとに対立が生まれ、戦争が起き、人々が死んでいく。いかに狭い視野でものを見ていることか。
感情に乗せては、神の実体は観えない。感情に乗せているということは、自分自身のクセ性分のままにものを見ているということ。それでは実体は観えない。真実は観えない。感情を抜きにして、自分自身のクセ性分も抜きして、自らをフリーにして感じ取ることが大切だ。それは感じ取るものだから、言葉で語ることはできない。
だからこそ、まずは自分を知るということ。自らのクセ性分を知り、いかに偏ってものごとを観ているかを客観的に知ることが、この世界を知るきっかけになる。

ともこ:
でもなかなか人間にはそれができない。伝えられても伝えられても、自分の実態が見えない。

いさどん:
それは自分の内側からしか外を見ていないからだ。自我というフィルターを通してしかものが見えていない。自分がある限り、その自分の内側から外を認識する目線はあるのだから、それはそれでいいのだが、同時に、自我のフィルターを抜きにした外側から同じように自分を観る目線が必要なのだ。それは、自らと他者との距離がなくなるということ。他者の目線が自らの目線であり、自らの目線が他者の目線になる。そこは何の境もない、「あなたは私、私はあなた」という世界だ。そのあなたと私の差を取ることが、差取り=悟りにつながる。

その世界を体現するためには、人々は群れて、運命共同体として生きる必要がある。その昔、厳しい自然の中を人々が群れというひとつの生命として生き残ったように、我々はもう一度群れて、コミュニティがひとつの生命として生きることによって、この世界の真実を現していく。それは、個が個に走り過ぎて自我からしかものが見えなくなった現代社会が混乱から抜け出す、唯一の方法だ。それをやらずして、いくら理想世界を語ろうとも、新しい世界は生まれてこない。
さて、そのことを解釈できる精神状態に到達できるかどうか。そこにすべての答えがある。

ともこ:
神様がニヤッと笑いかけた心を、いさどんと神様は共有している。今こうして話を聞いていると、私もその心を感じるよ。

いさどん:
僕は神の存在を感じると、涙が出てくる。

ともこ:
いさどんは、ただその心をみんなに伝えようとしているだけなんだよね。みんなで感じて、心通じ合おうとしているだけなんだよね。

いさどん:
僕は神を感じ、その偉大さを何とか人々に伝えようとする。しかし「神はいる」と言うと、人々は自分の意識レベルで「神はいる」と考える。するともう、そこで心は通じていない。
神の偉大さを語れば、人々は自分の中の概念で偉大さを解釈する。するとやはり偉大さは伝わらない。そこで「それは感じ取るものだ」と言うと、人々はやっぱり自分の意識レベルで感じようとする。どうやっても通じない。
それは無理なことなのかもしれない、と思う。今のあなたのようにその場面に出会った人は、その場に漂う空気を感じて「そういうことか!」と感じることができる。感じるためには、ただその場にいるだけではなく、そこに寄り添う姿勢が必要だ。しかし自分流の概念を保っている者は、どこまでも自分流の解釈をする。だから心通じ合うことができない。――― それも仕方のないことだね。

ともこ:
本当に、ただ通じ合おうとしているだけなのにね。みんな自分の自我を通して見るから、それがわからない。

いさどん:
神はこの世界の実体だから、どの切り口からでもアクセスし、感じることができる。それは、宗教が積み上げてきたものとは違う。目的が違う。宗教とは本来、願い事を叶えたり救済したりするためのものではなく、この世界の実体を理解するための道なのだよ。
こうして言葉にした時点で、既に微妙に違っている。この世界の実体を理解すると言うと、人間的には知識として学習するかのような話になるが、そうではない。自分自身が世界そのものであり、その一体感を理解して存在するということだ。
――― そこまで行くと、地球上の出来事など、どうでもよくなるね。切り口は無限にあり、そのどこからでも「もう何でもいい」という心にたどり着ける。それはある意味「無」の境地だ。しかし現象は無ではなく、「ある」。実体はあるのだ。

ようこ:
例えば大人ミーティングの場でみんなが「ああもう何でもいいね」という心になったら、それは全体がいい段階まで来ているという証だね。

いさどん:
そういった場ができると、訪れる人が「あれ?ここはどこだろう?」と不思議な感覚になる世界ができる。

 
自我は満たすものではなく、超えていくもの
~ 人間から、ヒトへ 〜

今、来年3月21日のプレオープンに向けて、ロータスランドの準備が進んでいる。昨日、数ヶ月ぶりにここを訪れたYさんが、「ここがものすごく変化していることを感じる」と言っていた。ロータスランドの一部はカフェになる予定で、食事のカロリーを表示する必要があると思っていたら、ちょうど彼女は管理栄養士としての実績があり、ぜひロータスランドの運営に関わりたいと言う。彼女は夢を追って九州に行き、一生懸命やったもののうまくいかなくて僕のところに相談に来て、ロータスランドの話に出会った。
ロータスランドは、我々が意図して始めたわけではない。ただその時々の出会いをいただき、流れに沿って進んでいくと、今回の彼女との出会いのように必要な時に必要な人やものとの出会いが訪れる。彼女はこれまで一生懸命自分で考えて計画を立ててやってきたが、何もうまくいかなかったと言う。僕がロータスランドの計画がどのように出来上がってきたかというこれまでの経緯を話すと、「どうしてそんなにうまくいくの?」と言うので、「それは縁をたどっていくからですよ」と答えた。
自分の頭で考えて企むと、縁を無視した自我の欲求によってやることになるから、うまくいかない。この世界には、トキを軸としたトコロのサイクルがある。そのサイクルから外れるということは、この世界の実態から外れるということ。そのサイクルに乗れば、ことは自然と流れていく。そして物事(トコロ軸)は自ずと成っていく。それには、ある境地に至らないと出会えない。

何かひとつ行き詰まっても、例えばAで行き詰ってもA’があるように、行き詰まりの先に次の世界があるからこそ、突破口は開かれる。同じように見えても、そこに現れるのは1サイクル進んだA’であり、前とは違うものなのだ。そこで、自我を超え、「答えをいただく」という精神になることが肝要だ。自我は満たすものではなく、コントロールし、超えるものである。その精神になると、流れに沿ってやるべきことが自ずと湧いてくる。
人間は、自我によって自らを生かそうとし、いろいろなことを企む。しかし、自我を超えてこの世界を観てみると、世界が我々に秩序を与え続けていることがわかる。世界は常に我々に、次のA’を与えている。理解しようとしまいと、我々はその仕組みの中で生かされているのであり、今日は常に、昨日とは違う新鮮な世界なのだ。

その仕組みを理解した時、人間は「ヒフミヨイムナヤコト」と進む宇宙の始まりから終わりまでを理解する存在 ―――― 即ち、「ヒト」となることだろう。

大宇宙は巨大な生命だ。銀河、太陽系、地球、生態系、国家、我々の体、細胞の一つひとつまで、すべてが相似形になっており、とてつもなく巨大なマクロの世界も、目には見えないミクロの世界も、すべてが同じ仕組みで動いている。この世界は相似形の渦だ。

いったい誰がそれを動かしているのか。
それは「大いなるもの」としか言えない。

 

 


 

囚われを外したら

そこは宇宙だった

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2017年2月19日~3月18日
「1ヶ月間の真学校」開催!

何か問題が起きた時「自分は悪くないのになぜこんな事が起きるのだろう」と思ったことはありませんか。
人は問題を見つけると、とかく自分の外に原因を探し、周りを変えようとします。ところが周りはどうにも変わることなく、問題だけが積み重なり、今や家庭の中から地球規模に至るまで、どこもかしこも問題だらけの、行き先の見えない世の中となりました。
しかしそれは視点を変えれば、大転換のチャンスでもあるのです。

1ヶ月間の真学校は、人生の問題のあるなしに関わらず、生きることの突破口を開く場です。そこに特定の正解はありません。一人ひとりが客観的に自己を捉える冷静な目を養い、視野を広げ、その人らしい人生を自ら切り開いていく力を身に付けます。

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【日程】
2017年2月19日(日)~3月18日(土)
【会場】
木の花ファミリー
【定員】
15名 定員に達し次第受け付けを締め切ります。
【参加費】
18~22万円 収入に応じたスライド制です。受講料や食費など1ヶ月間の滞在費全てを含みます。
【内容】
「農」「食」「医」「経済」「環境」「教育」「社会」「芸術」と多彩な切り口の講座を通して、受講生一人ひとりの心の性質や人生の使命、そして時代の流れを読み解きながら、この世界の真実を観抜く心の目が開かれるよう、いざないます。
講座例:人格を学ぶ講座(カルマ読みと地球暦)/コミュニティ創設講座/天然循環法の畑作・稲作/ファシリテーション/世界観を広げる/菩薩の里の経済/自然療法プログラム/食養生/有用微生物群の培養/天然醸造味噌作り/創造性と芸術/カタカムナ/性と宇宙/自然災害と防災/持続可能な心の持ち方

講座詳細やこれまでの受講生の体験記はこちら!

→ 1ヶ月間の真学校ブログ

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わたしたちは何者であるのか

昨年2015年8月15日、宇宙から全人類に向けて「地球談話」というメッセージが贈られました。それから約1年が経った7月16日、第10回大人サミットの中で、この「地球談話」は参加者の皆さんにシェアされました。「地球談話」を受けて、いさどんからは次のメッセージが語られました。

■    ■    ■

 
「地球談話」を読み解いていくと、問題事はすべて解決されます。しかし、そのためには絶対に必要なことがあります。それはまず、わたしたちが何者であるかを知ることです。地球上には280万種の生命が存在しています。そして、その一つ一つを数えたら無限にあります。その中で、わたしたち人間は、地球上で最も優れた、そして最も影響力のある生命です。

人類は今、宇宙空間に出て生命の痕跡を探しています。そこで得られる生命の存在は、痕跡です。しかし、わたしたちは地球上でいとも簡単に生命に接することができます。つまり、わたしたちは生命の海の中にいるようものなのです。

その中でどれひとつ、無駄な生命はありません。わたしたち人間を含めた生命はすべて、生命ネットワークで連動し、地球という生命を共に形成しているのです。そこでは極めて複雑かつ精妙な関係によって、この生命ネットワークが運営されています。

もし、わたしたちが実際の宇宙の姿を観ることができたとしたら、それがどれほど広大かつ複雑で精妙なのかに驚くことでしょう。それは、わたしたちが地球上で形成している生命ネットワークと同じように複雑なのです。その中に、わたしたち一人ひとりが存在しています。

さらに、わたしたち一人ひとりの中に60兆の細胞が存在しています。その細胞一つ一つには、体全体を形成する情報がすべてインプットされているのです。人類はその構造を解明したがために、クローンという技術にまで到達しました。しかしそれは、単に物理的な貢献を人類にもたらすためではありません。それは、わたしたち一人ひとりがひとつの小宇宙であることを示しているのです。そして、わたしたち一つ一つの小宇宙は、さらに他の小宇宙とネットワークし、地球という宇宙を創っているのです。

皆さん、そのようなことを意識しながら日々を生きていますか?
そのようなことを大切にしながら、毎日を生きている人はいますか?

皆さんが意識する意識しないにかかわらず、わたしたちはそうした仕組みの中に生きているのです。

わたしたちは呼吸します。それは、わたしたちの体と空気の循環です。地球上に大気はひとつしかありません。わたしたちは食べ物を食べます。植物は大地から芽生えてきます。その大地はひとつです。大地は大きな地と書きます。それは大地球のことです。大地に生命が芽生えるということは、太陽の光が大地に当たり熱を与え、生命の種が芽生え育ちます。その過程の中で、植物は光合成という自らの体と空気を循環させる作業をします。これは太陽の力です。ですから、ある意味わたしたちは光だと言えます。それはわたしたちと太陽がひとつだということです。そして、わたしたちは生命として体の中に70%の水分を持っています。わたしたちに水分を与えてくれるのは雨です。雨は川をつくり、田畑を潤し、海に流れます。この仕組みを司っているのも、太陽です。ですから、わたしたちは太陽です。

わたしたちが生きていると、いろいろな出来事に出会います。これを人生の風と言います。人生の風と同じように、わたしたちは地球上で風を受けます。風は生命にとってどのような役割をするのでしょうか。わたしたち生命は、必ず終わりを迎えます。ですから、次の世代につなげていくために、花を咲かせ、実を結びます。実は、情報を次の世代に伝えるためのDNAです。しっかりと充実した実は体に負荷をかけます。そこで、生命は芽が出てすぐのときから風を受けることによって、自分の体を支える以上の体力を身につけていくのです。ですから、風は不要なもののように見えて、とても重要なものです。それが、わたしたちがたくましく育ち、次の世代にいのちをつなぐ種を残していくための力となるのです。地球上に吹く風は、わたしたちの人生に吹く風と同じです。そして、この風は太陽がもたらしています。ですから、わたしたちの人生は太陽と共にあるのです。

そして、この空間―― 今、わたしたちは日本の富士山麓にいます。地球は自転し公転しています。公転速度は秒速30kmです。皆さんはその風を感じますか?地球上にそれほど速い乗り物はありませんね。この場所は、地球上的には昨日も今日もここにありました。昨日から一日が経ちました。今日、この場所はここにありますね。それは、わたしたちが同じ乗り物に乗って旅をしているからです。実際にはこの乗り物は一日で約260万km移動します。ですから、宇宙的には常に未知の世界に移動しているのです。

わたしたちが地と呼ぶところはどこにありますか?そして、天はどこにありますか?今、わたしたちは日本にいます。天を上にすると、地は下になります。もうじき、リオデジャネイロでオリンピックがありますね。そうすると、ブラジルの人たちの天はどこにありますか?ブラジルの人たちの地はどこにありますか?日本で言う天がブラジルの人たちの言う地になって、ブラジルの人たちの言う天は日本の人たちが言う地になりませんか?

地というのは、地球の中心の方向のことです。そして天は、点でもあるのです。カタカムナ的に言えば同じ音ですから、同じ意味になるのです。天は宇宙のことであり、それは点の集合体です。今、ここにひとつの点があるとします。この点は秒速30kmで移動しています。そうすると、地球の直径は約12000kmですから、地球の端から端まで6分40秒で移動します。今こうやってわたしたちが話している間に、この点は地球何個分も移動してしまうのです。

ひとつの太陽のもとに、ひとつの大地のもとに、ひとつの水のもとに、ひとつの空気(空間)のもとに、ひとつの風のもとに、わたしたちは地水火風空という5原則のもとに生きているのです。そして、ひとつの乗り物(地球)に乗り、旅(宇宙旅行)をしています。その中で太陽の光が基軸となり、わたしたち生命は調和し、共存しています。

わたしたちのすべてのもとは、ひとつです。そこに立ち返って、わたしたち一人ひとりを捉えれば、地球上に平和は自ずと訪れます。

先日、イギリスのEU離脱の国民投票が行われ、日本では参議院選挙が行われました。今、人々の多くは、ひとつの枠の中で争い、自らが共鳴するところを正しいとしています。これが自我であり、エゴです。その構造から外れている人はほとんどいません。そして、自らが正しいと思う心が、この世界を創っているのです。

わたしたち人間には、他の生命とは違う能力があります。それは自分というものを特定することができる能力です。そして、自らの尺度から世界を図ることができるのです。それはすばらしい能力ですが、そのときに重要なことは、自らの尺度の位置はひとつであるということです。そして、この世界には無限の尺度があるということです。この世界はその尺度のネットワークなのです。しかし、自らの尺度だけが正しいとしたときに、すべての問題事の発生源になるのです。

今の世の中を見てください。争いという現象の背後にはどちらの側にも正しさがあります。それは正しさと正しさの争いなのです。ある意味、正しさは優れていることを表します。その優れているものたちが創っているのが、今のこの争いの世界なのです。

時代は21世紀に入り、これから3000年に向かってわたしたちはどこへ進んでいけばいいのでしょうか。自らの尺度をもってこの世界を観ることは、わたしたち人間に与えられた能力ですから、誰ひとりこの仕組みから外れることはできません。しかし、自分自身の尺度は、数ある尺度の中のたったひとつなのです。そこで、自らの尺度を超えてこの世界を観ることができるかどうかが今、わたしたち一人ひとりに問われています。

「悟り」とは、「差を取る」ことです。その反対は、「差がある」ということです。差があるということは、自分と他の存在が違うということです。そこで差を取るためには、互いの共通点を見出せばいいのです。それは、わたしたちは皆人間であり、生命であり、ひとつの太陽・大地・水・空気・風のもとに地球というひとつの生命を形成しているということです。

そのときに、自分自身は個性として存在します。自分という存在が大きな器の中のひとつであることに気付いたら、わたしたちは他のすべての存在と共にこの世界を創っていることが観えてきます。

そのときに、地球上に平和は自ずと訪れます。平和は創るものではありません。求めようとするものでもありません。わたしたちは何者であるのか。そしてわたしたちは何を観ているのか。その実体がわかれば、この世界の問題事はすべて解決されます。そのときに、この世界はたちどころに平和な世界です。それは、わたしたちが生命であることを思い出せばよいのです。

わたしたちは生命であり、地球人であり、宇宙の中に存在します。そして、永遠と紡がれてきたいのちのネットワークの中で今、ここにたどり着いているのです。わたしたちにはすでにすべての情報が内在しているのですから、わたしたちの中にある物理的・霊的なDNAを呼び覚ませば、わたしたちが何者であるかをたちどころに思い出すことができるのです。新しい知識は自分の中に取り入れるときに拒絶反応が起きることもあります。しかしこれは、皆さんの中にある眠っていたもの、もしくは忘れていたものを思い出すだけです。ですから、これを「目覚める」というのです。これに拒絶反応はまったく発生しません。それは、本当の自分(真我)に還るということです。

 

 


「血液」からこの世界を探求していく~献血・輸血編~

タイから木の花ファミリーの暮らしのあり方を学びに来ている高校生のマインちゃんとナッちゃんに対して、身近な「食」を切り口として世界観を広げるプレゼンテーションが行われてきました。その最終回のプレゼンテーションが終わったところで、マインちゃんから献血について、いさどんに質問がありました。

 

マインちゃん:
日本では献血をしますか?

いさどん:
本来、一人ひとりの魂は独立したものです。ですから、一人ひとりの生命の性質を示す血液も、霊的には独立した存在です。つまり、親子兄弟といった血縁は関係なく、血液は独立したものと言えるのです。

たとえば体の臓器を移植することは可能ですが、マインちゃんの心とナッちゃんの心を混ぜることはできないでしょう?ですから、心臓という心の臓器は血液を通して栄養を運んでいるだけではなく、心も運び、わたしたちの体をひとつのネットワークとして束ねているのです。血液は、心の通り道ですからね。それは、太陽系の太陽磁場が星々を連携させ、束ねているのと同じ構造です。ですから本来、血液は交ぜてはいけないものなのです。

今は日本でも医療が進み、輸血をするようになりましたが、そういった行為は霊的には混乱をもたらすものです。ただ、近代的な技術を使って輸血をしても、血液もいずれ循環して変わっていくでしょう?たとえば血液がすべて入れ替わるのに4ヶ月かかると言われていますが、その間は霊的には混乱が生じるということです。ですから、血液はなるべく交ぜないほうがいいのです。

マインちゃん:
では、輸血をしないほうがいいということですか?

いさどん:
輸血をするということは、すでに輸血をしなければいけない状態に自分が人生の中で出会ったということです。そのような状態に出会わない人生を生きていくことが、大切なのです。そのために、美しい心で生きることのほうが大切ですね。

人は「死にたくない」という心があると、生きるために何でもしたくなるものです。しかし、覚悟があると、「いのちはいただいたものですから、わたしは充実した人生を生き、いつでもお返しできます」という心になり、輸血などに頼らなくても、寿命があればいのちは復活します。しかし、そういった心がなければ、ただ生きたいばかりですから、輸血でも何でも手段を選びません。その心は汚れたものです。

輸血の技術がないときには、人々は覚悟を持っていのちを返してきました。そういった意味では、今の人間の心が死に対して潔くなくなったのは、輸血に限らず、他の医療技術に対しても依存するようになったからです。それで、日々を真剣に生きなくなったのです。日々を真剣に生き、自らの心を磨いていれば、毎日が充実しているので、いつ死んでもいいという心になるものです。

科学やテクノロジーの進化が進み、人々の生活が豊かになっていくにしたがって、人々の心はそういった物理的な豊かさを求めることを優先してきました。そして、物事の本質を捉え、生きていることの意味を見失い、一方的に延命することだけを求めるようになりました。

本来、わたしたちが肉体をいただき生きていることの意味は、物理的なものに惑わされることなく、自らの霊的な意識の高まりを目指し、霊的な世界から生まれ霊的な世界へ還っていくことを悟り、そしてこの世界へ生み出された目的を達成することです。

ですから、現代人のようにそういったことを忘れ、物理的なことを優先する意識が強くなれば、社会にも混乱が生じるのです。

わたしたち生命は皆、いずれに死に至る約束のもとに生きています。ですから、死に到達するという絶対なる約束事のもとに、日々を生きていくことが大切なのです。

輸血をしないということは、いのちに対して覚悟がひとつ余分にあるということです。本来、人は肉体という物理的な存在ではなく、霊的な存在です。死んだ先の世界にいのちをつなげて捉えていれば、死は恐ろしいものではないのです。魂は一人ひとりオリジナルであると考えられます。以前、血液は汚れているものを回収してろ過する経路だという話をしましたね。血液は心の運び道ですから、他の血を取ると霊的にも血液は汚れていくのです。

近代医療のテクノロジーが優れていて、生きることに対して恩恵をもらえるとしたら、いのちが永らえるということです。しかしそれは、輸血によって他の霊的・物理的汚れを自分に取り入れることでもあるのです。僕は、そういった行為を否定しているのではありません。

大切なことは、そういった仕組みを知り、自らの心を綺麗にしていくことです。そして、生活も綺麗にして、血液を浄化していけば、常に美しい人で生きられるということです。

ワンちゃん:
今、タイでは献血のキャンペーンを行っています。それは、「献血によっていのちを助けましょう」という活動です。

いさどん:
それは、いのちの質や人生の質を問わず、ただ永らえることだけが大切だという現代医療の考え方です。ですから、そうした考え方が進めば進むほど、混乱した社会が広がっていくのです。

ワンちゃん:
今まで、献血は良いことだと思っていました。

いさどん:
それは、表面的ないのちの捉え方なのですよ。

それよりも、いのちに対して覚悟を持ち、潔く爽やかな人生を生きることは、その人の人生が健やかで、それこそ神人(天人)が地上を生きるというようなことにつながります。これは新たな時代を生きる人々の考え方です。

ワンちゃん:
タイで献血のキャンペーンを行うとき、「これは他の人たちのいのちを永らえるために、あなたが出来る最善の行為です」ということで広まっています。

いさどん:
それは、現代的な浅い医療の考え方です。それでは、問題事は根本的に解決せず、医療行為がどんどん広がっていくことになります。

ワンちゃん:
ただ、わたしは低血圧で献血ができません。だから、それを喜びとすべきですね。

いさどん:
あなたが低血圧だとしたら、それを喜びとする部分とそうでない部分があります。その低血圧はあなたの心の現れなのです。その状態を改善するためにまずは心の持ち方を改めると、食生活が変わり、生活が変わり、あなたは低血圧ではない健全な状態になるのです。ですから、低血圧であることは喜びにはつながりません。

ワンちゃん:
タイにも血圧を上げるような食養生プログラムがあります。

いさどん:
それは体の健康のためにやるのではなく、心のバランスを取るためにやるべきですね。健康は心のバランスの現れなのです。「健康になろう!」と思って取り組んだ結果、心が不健全なのに体だけ健康になったら、別の意味で人生に問題をもたらします。ですから、常に自分と向き合って生きることが大切です。いろいろな滞りは自らの心の実態を見せてくれているのですから、そこから逃げないことです。それはある意味、出家者の心構えのようですが、今、お坊さんたちでもそこまではやっていませんね(笑)。

ナッちゃん:
今、わたしたちの精神は健康ではありません。ですから、多くの人たちが異なる病気を抱え、不健康な状態でいます。そこで、どのようにしてその病気の原因を知り、どのようにその状態を改善していったらいいのでしょうか?

いさどん:
まず、人間の不健康は地球の病気です。それは社会が病んでいるとも言えます。病気になった人のことをかわいそうだと思いませんか?ところが実際は、病気になった人は世の中に問題をもたらしている人なのです。

世の中に問題があると、喜ぶ人がいるのです。生きることに不安な人がいると、喜ぶ人がいます。それは保険屋さんです。人が争うと、喜ぶ人がいます。それは弁護士です。裁判官も、人が争うことによって自らの仕事が充実します。人が欲深くなって不要なものまで欲しがるようになると、喜ぶ人がいます。それは物を作る人です。病人が増えると、喜ぶ人がいます。それは、その人たちによって支えられている製薬会社や医者です。ですから、この世界は、混乱や問題事で成り立っているのです。

ナッちゃん:
いさどんは、皆それぞれオリジナルな魂を持っていると言いましたが、科学は血液型をいくつかに分類しています。それはどういうことなのでしょうか?

いさどん:
血液型はとても大まかな人の性質の傾向を示していますが、それは環境、時代など一人ひとり様々な要因が違うので、同じ血液型の人でも厳密に言えば違う人なのです。心の臓器から送られる血液はいのちの通り道であり、血液自体はまさに霊的なものなのです。ですから、血液型でもその霊的なものが分類できるのです。輸血が始まった頃は、血液型の分類がない時代でしたから、そうしたことに構わず他人の血を入れていました。そこから科学によって血液が分析され、その違いがわかるようになり、一人ひとりがオリジナルな存在であることが観えてきたのです。ですから、最終的には血液は交ぜてはいけないというところに到達するのです。血液型で人格を観る場合も、大まかな傾向は観えますが、それを厳密に観ていくと、最終的には一人ひとりがオリジナルであることに行き着くのです。

今の医療は人のいのちを生かすことばかりを優先していますが、死ぬことの大切さがあるのです。長く生きてとても見苦しい人生よりも、短くても美しく素晴らしい人生がありますよね。人々が医療に頼って長生きしようと思うようになったのは、人々が自らと向き合わなくても、医療がいのちを救ってしまうようになってしまったからです。

大切なことは、病気に限らず、どのような問題事に出会ったときも、それに出会った自分を振り返り、その原因を突き止めることです。ある意味医療は、病気という自分が出会った問題事から振り返るチャンスを、人々から奪ってしまったのです。それは、医療自体が本来の目的から外れ、お金儲けのためにまわるようになってしまったからです。ですからその行為は、人間が生まれてきた目的を奪ってしまうようなことでもあるのです。

人間は生まれてからいろいろな出来事に出会い、その出来事から自らの実態を知って、そして高まっていくために生きています。そして高まった結果、執着を一切持たず、自らの霊的な価値を持って旅立っていくのです。それが生きることの本当の目的です。

そういったことがわかると、一人ひとりが生活の中で出会う出来事だけで学び、成長することができるのです。そうすると、宗教も指導者もいらなくなるのです。そういった時代の扉が今、開いたのです。

ナッちゃん:
今の学校に入る前、将来わたしは大学に進学して心理学を学ぼうと思っていました。それは、心理学者になって精神的な病を持つ人々を助けたいと思っていたからです。ですから、自分と向き合って自らを改善していくために、心理学ではふたつの方法で患者を助けることができます。ひとつは患者の問題をしっかり聴き、導く方法です。もうひとつは薬を処方して、たとえば夜眠れるように睡眠薬を、一般社会で普通に機能できるような薬を処方するという方法です。人気のある学部について調べてみると、以前は医学部、工学部、文学部、商業芸術学部などが人気がありましたが、現在は心理学部が人気があります。わたしが思うに、それは人々を助けるために心理学者になりたいのではなく、心理学者になると良い収入を得られるからです。

また、タイの国王は満ち足りた経済を提唱しようとしています。満ち足りた経済を理解するためには、まずどのような状態が満ち足りているのかを知ることだと言われています。それは、衣食住において足るを知るということです。しかし、わたしたちの教育センターに満ち足りた経済について学びに来る人々は、何が足りている状態なのかを理解する心の状態にはありません。彼らはただ欲が深く、お金儲けのために何かを学び、自給自足しようとしているのです。わたしはそういった状況に対して、嬉しくありません。

いさどん:
それは、あなたの中に時代を先取りした想いが湧いているということです。今、時代は欲ばかりかけて生きていると、必ず行き詰まるようになっています。今、拡大・発展の時代から、不要なものをそぎ落とし、必要なものだけを選ぶ時代に入りました。それは物理的なものだけではなく、心も同じ流れです。ですから、あなたが考えていることは次の時代のことなのです。そのままその考えを進めていけば、あなたは世の中が必要なことをやっていることがわかってきます。それは、木の花ファミリーが実践していることであり、心理学の先を行くことなのです。

あなたはこれから一生懸命英語を勉強して、来年の2月に開催される「1ヶ月間の真学校」を受けるといいですよ♪そうしたら、医療や心理学を超えた世界をマスターできます。また会いましょう♪

 

瑞々しい感性でたくさんのことを吸収したナッちゃんとマインちゃん。「1ヶ月間の真学校」で再会なるか!?
瑞々しい感性でたくさんのことを吸収したナッちゃんとマインちゃん。「1ヶ月間の真学校」で再会なるか!?

 


「血液」からこの世界を探求していく~宇宙の仕組み編~

タイの代替教育学校の高校生である、ナッちゃんとマインちゃん、そして先生のワンちゃんは5月27日より3ヶ月間、木の花ファミリーに滞在しています。世界観を広げるプログラムの一環として、身近にある「食」について深めていく時間が4回にわたって持たれました。その最終回では、「霊的な進化」というテーマから、この世界の「血液」について深く探求していく時間が持たれました。
(写真右より、ナッちゃん、マインちゃん、ワンちゃんです。)
presen

いさどん:
英語でも心臓のことを「心の臓器」とは言いますか?

ようこ:
心臓は英語でハート(heart)と言います。

いさどん:
ハートというのは心もハートですね?

ようこ:
英語では心も心臓も同じハートという単語が使われます。

いさどん:
同じなのですね。タイ語では心臓は何と言いますか?

ワンちゃん:
心は「チッウィンヤン」と言って、心臓は「ワチャイ」と言います。心臓の「ワチャイ」という言葉は心と関係しています。

いさどん:
ということは、日本語でもタイ語でも、心と心臓のどちらも、「心」が関係しているということですね。英語でもこの二つは共通しています。

心臓は臓器の中心という意味でもあり、それが体の隅々まで血液を送り体が運営されています。これは地球も太陽系も宇宙も同じ構造なのです。太陽系でいうと、太陽は心臓の役割をしています。ですから、太陽が何を発するかによって、その指令を受けて他の星たちがどう動くのが決まるのです。そのようにして太陽系は成り立っています。

わたしたちの体でも、例えば感情が高ぶれば心臓がドクドクしますね。ですから、わたしたちの感情が高ぶったり冷静であることによって、心臓に指令が行き、血液をどのように送るのかによって、わたしたちの行動が変わってくるのです。偏った食生活や偏った心によって血液を悪いものにし、心臓に負担をかけることは、その人の生命を汚染することであり、人生を間違った方向に持っていくことになるのです。

マインちゃん:
ワン先生が補足的に、「健康な暮らしをするためには、善意で平和な心である必要があります。怒ったり、イライラしたり、感情の起伏が激しくなると、健康もジェットコースターのように上がり下がりが激しくなり、それでは健康にはなれません」と説明してくれました。それを聞いてわたしは、頬をはたかれたような気分です・・・

いさどん:
体に負担をかけないために冷静に正しい食べ物を選び、そして感情的にならず冷静な心で常に正しく物事を判断できることが大切です。どちらにしても血液を汚すことは、血液を汚すような生活習慣をしている「心」に原因があるのです。血液を汚すことによって、他の臓器や体のいろいろな部分に問題が生じて不健康になっていき、最終的に人間は心臓が停止することによって死を判定されます。ですから、血液を汚さない美しい体、血液を汚さない美しい心、そして血液を汚さない美しい生活を心がけることが大切です。

人間の血液は生命そのものです。そしてそれが生命を循環させ、すべてのところへ平等に行き渡るようになっています。血液が汚れていたら、すべてのところへ汚れが行き渡ります。そして、血液の通り道である血管がどこかでつぶれていたら、そこから先は腐っていきます。

ナッちゃん:
とてもわかりやすい結論ですね!

いさどん:
実は、人間社会にも血液のように循環し、すべてを平等につないでいるものがあります。「人間社会の血液」は何だと思いますか?

ナッちゃん:
いさどんはとても良い質問をしますね!

いさどん:
ハッハッハ。

ナッちゃん:
社会ではわたしたちの行動やコミュニケーションによって、お互いに影響を与えています。社会のあるグループの人たちが幸せでなければ、その不幸せな波動を言葉や行動によって放ち、それが他のグループに伝わり、そうやって今の不幸せな社会を創っていると思います。それは、わたしたちの考え方や行動が原因です。ですから、わたしたちは悪い波動を社会に発しないように、意識的に思考し行動する必要があります。

いさどん:
それをわたしたちの体で例えるならば、血液が癖という自らの心を運び、それを表現しているのです。そうすると、人間社会はひとつの生き物ですよね。そこに平等に行き渡っている血液のような役割をしているものは何だと思いますか?

今、ナッちゃんが表現したのは、血液の汚れということです。そうした汚れや美しさを運んでいくものが、人間社会にはあるのです。それは、人間の心によって汚れたり美しいものになります。わたしたちの血液も、自らの心によって汚れたり美しくなったりするでしょう?

タイの3人:
(しばらく3人は考えました。)降参です!!

いさどん:
では、答えを言いましょうか(笑)。それは、「お金」です。

ワンちゃん:
わたしは、その答えは「自我」とも思っていました。

いさどん:
自我は、お金に乗っていくものです。本来、お金は皆に平等に行き渡る社会システムとして存在していますが、一箇所に貯まってしまって皆に行き渡らないお金もあります。わたしたちの体で血液が汚れると、腎臓や肝臓で洗浄しますね。同じように、犯罪や戦争に使われ、汚れたお金がこの世界にはあるのです。そうしたお金を綺麗にするのは、人の心です。

ナッちゃん:
なぜ人々がマネーロンダリング(資金洗浄)をするのかがわかります。

いさどん:
そうですね。では、次の話をします。「地球の血液」は何だと思いますか?地球の生命の循環のために最も重要なものは何だと思いますか?

ワンちゃん:
空気か水ですか?

マインちゃん:
わたしは水だと思います。

ナッちゃん:
わたしは自然の仕組みだと思います。

いさどん:
それは、「水」です。水が自然の仕組みを健全に運びます。それはわたしたちの体の血液と同じですね。

マインちゃん:
わたしたち人間一人ひとりが地球の細胞のような存在ですから、水がなければ地球も死滅しますし、まず、細胞であるわたしたちも死んでしまうのです。

いさどん:
それでは、自然生態系ネットワークも維持されませんね。水が汚染されたら、すべてのいのちに汚染が広がるのです。

ワンちゃん:
わたしたちの国王も、「水はいのちである」と同じことを言っています。

いさどん:
では、ネクストクエスチョン♪その地球の血液である水を循環させる、心臓の役割は何ですか?

ナッちゃん:
いさどんの質問がどんどん難しくなってきているので、集中して考えないと答えられません!大学受験のための国の一斉試験よりも難しいです!!

いさどん:
大切な質問ですから、真剣に考えてくださいね。これは、とても重要なことです。

ナッちゃん:
いさどん、ヒントをください!

いさどん:
それは、すべての生命に平等に与えられるものです。

ナッちゃん:
時間ですか?

マインちゃん:
土ですか??

いさどん:
土の前のものです。

マインちゃん:
微生物でしょう!

いさどん:
それは、そのものによって生命が循環し、育てられていくものです。
ヒントです!それは空から降ってきます。

ナッちゃん:
雨ですか?

いさどん:
雨もそれによってつくられています。それは、いのちにとって最も大切なものです。

マインちゃん:
魂ですか?

いさどん:
地球の血液が水であるならば、血液である水は循環するでしょう?わたしたちの体で血液を循環させるシステムは心臓ですね。では、地球の血液である水を循環させ、その心臓の役割をしているものは何ですか?それは、空から皆に平等に降ってくるものです。それは、いのちにとって最も大切なものであり、水より重要なものです。

ワンちゃん:
エネルギーですか?

いさどん:
エネルギーです。エネルギーですが、そのエネルギーの元のものです。

タイの3人:
わからない~(笑)!

いさどん:
ギブアップですか(笑)?それは聞いたら、「なるほど!」と思う答えですよ♪それは、すべての生命の元です。それは、太陽です。

ナッちゃん&マインちゃん:
あ~!(笑)

ワンちゃん:
でも、太陽は地面に落ちませんよね??

いさどん:
太陽の光が大地にあたり、太陽が水を循環させているのです。太陽の光自体が汚染されることはありません。その太陽の光を受けて循環する血液である水や空気、土が汚れるのです。わかりますか?

さて、次の質問があります!地球の血液が水であり、その心臓が太陽であるならば、「太陽系の血液」は何だと思いますか?

マインちゃん:
一生懸命考えてみます・・・

いさどん:
考えると難しいですよ。太陽系がどのような構造になっているか、想像してみてください。

マインちゃん:
星ですか?

いさどん:
それは、星を連携させ、循環させるものです。

ワンちゃん:
一つ一つの惑星の動きですか?

いさどん:
それを連携させ、創る元となるものです。皆さん、ギブアップですか(笑)?

マインちゃん:
わたしはギブアップします!

ナッちゃん:
磁場の力でしょうか?

いさどん:
そうです!それは、「磁場」です。太陽磁場が、太陽系を連携させ循環させているのです。それでは最後の質問です。「宇宙の血液」は何だと思いますか?

宇宙全体を束ねているのは、「スピリット」です。スピリットはある意味、精霊の巨大なものであり、魂の存在、つまり神のことです。

今日は、人間の体の血液から、人間社会の血液、地球の血液、太陽系の血液、そして宇宙の血液の話をしました。人間社会の血液はお金であり、地球の血液は水であり、太陽系の血液は磁場であり、そして宇宙の血液はスピリットです。

この世界と人体の関係
この世界と人体の関係

そのスケールが大きくなればなるほど、物理的なものは消えて、霊的なものだけになります。それがわたしたちの体のスケールまで小さくなると、密度が濃く、物理的なものになります。そしてそのスケールがさらに小さくなればなるほど、物理的なものは消えて、霊的なものだけになるのです。宇宙の最極小微粒子であるカに戻ると、現象としての存在はなくなります。

ということは、わたしたちの体の状態が一番心の状態を見やすく表してくれているということです。わたしたちの血液がどのような状態であるのかということは、まさにわたしたちの心の現われです。血液の汚れには、物理的な汚れと霊的な汚れがあるのです。社会の血液であるお金にも、物理的な汚れと霊的な汚れの両方があり、すべて同じ仕組みになっています。

ですから、心が綺麗な人は血液も綺麗であり、体も健康で、良い人生を生きることになるのです。

 

 


災害はメッセージ

4月14日以降熊本県を中心に連続して地震が発生したように、今、日本のみならず世界のあちこちで地震や火山噴火などの自然災害が頻発しています。2月14日から3月12日にかけて開催された「1ヶ月間の真学校」では、「災害に向かって生きる」というプログラムが提供されました。そのプログラムの冒頭でいさどんは次のように語りました。

いさどん

「災害」というのは、人間から見た解釈です。地震も津波も地球の生命活動であり、それは新陳代謝でもあるのです。わたしたちの体も同様に、毎日多くの細胞が死に、そして新たな細胞が生まれてきています。地球の中でも新陳代謝の激しいところと比較的安定しているところがあります。また、長い地球の歴史からすると、大きな変化が起きた時と長く安定していた時があります。それは、地球が生命であるということです。そしてその生命は宇宙そのものであり、宇宙は常に変化、変容、変態を繰り返しているのです。ですから、わたしたち人間が築き上げたものが壊れたといって区切って見る解釈は、きわめて人智的な捉え方なのです。それは、長い目で見たらものは必ず壊れるからです。生命自体は誕生、維持し、それが壊れ、空(くう)となって、また始まるという循環の中にあり続けるのです。

今日は3月6日です。あと5日で東日本大震災が発生してから5年が経ちます。東日本大震災で約2万人の人々が亡くなり、たくさんの物が壊れましたが、あの震災を振り返ってみると、あの地にはこれまでに何度も地震がありましたし、津波もあの地域を襲っていました。しかし、長い間に人々は古くからの言い伝えを忘れてしまい、人工的な防波堤を信頼し、危険な場所に住んでいたのです。昔、そうしたことを伝えていた道祖神など(波分け観音など)がありましたが、人間の欲が勝ってしまったがために人々はそうした伝統的な言い伝えを無視し、便利さのために危険な場所に住んでいたことが、5年前の震災があったときに明らかになりました。

しかし、そういったことを天然循環法で捉えると、直観で感じ取り、そのようなトコロに住まない、もしくはたとえ津波が間近に迫っている時でも、直観でそのような兆しを感受することができれば逃れられたはずなのです。危機的な状況の中で直観が働き、命が守られることは、生命感が優れている証です。しかし機械的な情報ばかりに頼ってしまい、人間の生命感が失われていると、災害に遭うことになるのです。例えば、ゴキブリやネズミは家が火事になる前に引っ越していくそうですが、人間はお酒を飲んで寝ていたりして亡くなることがあるのです。本来、わたしたち人間もそのような生命感を持っているはずなのですが、今の人々はそれを失っています。

災害を語る前に、何よりも認識しておかなければいけないことは、わたしたちは生命であり、生まれたら必ず死ぬということです。そうであるならば、むやみやたらに死ぬことを恐れる精神状態を考える必要があるのです。つまり、死は生きることの集大成なのですから、その生きる中身がどうであるかによって、死はいつ訪れても恐れるものではなくなるのです。なぜならば、死は必ず訪れるものであり、生きることの結果必ずついてまわるものだからです。ですから、もし死にたくなければ、生まれてこなければいいのです。ところが、不思議なことに人は生まれてくると、生きていることに対して一喜一憂するのです。大切なことは、わたしたちが生まれてきた意味や生きる意味、そして死んでいく意味をホリスティックに理解した上で、生命世界を生きていくことなのではないでしょうか。そのように捉えると、災害が少し違って見えてくると思います。

災難というと、何か嫌なことが訪れ、出来れば避けたいと思うものですが、地球の歴史を遡ってみれば、生命は何度も大量絶滅を繰り返してきました。少し不謹慎な話かもしれませんが、僕は津波のことを思い浮かべたときに、たらいの中に浮かべた板の上の蟻を想像したのです。たらいに浮かべた板の上に蟻を何匹か乗せて、水面に何かを落とすと、波が起きて板の上に水がかかります。蟻からしたら、その波は5メートルくらいの波でしょうか。この写真の津波も、5、6メートルくらいでしょうか。

出典: geocities.yahoo.co.jp
出典: geocities.yahoo.co.jp

そうすると、たらいの中に何か物を落として、波が起こり、蟻の何倍かの高さの波が蟻の上を通っていったとき、それを地球の大きさに例えればほんの僅かな現象なのです。例えば、地球上には最も高いエベレストという山があります。それは9千メートル弱です。それから海の一番深いところが1万メートルくらいありますが、地球の直径は約1万2千キロメートル、また大気は約100キロメートルあります。地球にとって100キロメートルは卵に例えると、卵の殻の部分に匹敵します。そうすると、この地球は山の皺や海のへこみを含めても、とてもきれいな球だということです。そこに5メートル、10メートル、30メートルの津波が来ることは、ほとんど何も起きていないに等しいのです。ですから、わたしたちにとっては大変なことが起きたように思えたとしても、地球規模で言えば、それは何も起きていないに等しいのです。それに比べ、わたしたちがご飯を食べる前に手を洗うとき、それは手についている菌からすると、災害が起きているような大変なことになります。もしも、しっかり手を洗う人がいれば、手についている菌にとっては大災害に出遭い、大量絶滅したことにもなるのです。

今回の真学校では世界観を広げることがテーマでした。そして世界観のスケールが大きくなればなるほど、被害を受けたと感じる被害者意識がほとんどなくなっていきます。地震は地球の生命活動であり新陳代謝なのですから、宇宙から見たら地球はとても安定した星なのです。ですから、自然災害が起きて報道されるたびに、僕にはそのようなイメージが浮かんできて、「それほど大したことは起きていないのになぁ。これは定期的に起きている地球の新陳代謝であり、生きていることによって生まれたひずみが、地球をほんの少し変えているだけなのになぁ」と思うのです。そして、ほんのちょっとの水の波がこのような現象を引き起こすのですから、手を水で洗ったくらいではなかなか菌が取れないのと同じように、人間の営みも5年もすればまた元の状態に復活していくのです。

出典:http://workers-magazine.com/
出典:http://workers-magazine.com/

このように捉えると、ものの見方が変わっていきます。ものの本質を捉える時に、世界観が狭く囚われの心で見れば、それはとても悲惨なことであり、大切な人を無くしてしまった悲しく追悼すべきことになります。この震災で2万人くらいの人が亡くなりました。しかし、災害などがない時にも人はどんどん亡くなっていきます。僕は、人々が亡くなったことがどうでも良いと言っているのではなく、こうしていろいろな形で新陳代謝が繰り返されていることを理解する必要があると伝えているのです。ましてや災害対策を考えれば、生きているわたしたちにとって死は常に隣り合わせにあり、どのような形にしろ、わたしたちにはいずれ死が訪れます。宇宙において死ぬことは、正の方向であり流れです。ですから死を恐れるのではなく、どう生きるのかが大切であり、その死を満足のもとに受け入れていくことが重要なのです。さらに、死ぬことは宇宙の流れからすると、また生まれてくるということでもあるのですから、爽やかに生きて、気持ちよく旅立っていけば、また爽やかに生まれてくることになります。これはお金でも同じことです。気持ちよく使う人には、また気持ち良いお金が入ってきます。このように全てのものには、人の心の響きが乗ります。人生にも心の響きが乗りますから、生きることの心構えとして、いかに宇宙法則に乗せて気持ち良く流していくかが大切なのです。そのように解釈すると少し気分が変わりませんか?

「今日は防災訓練だ!」となると、火事になったときにどうしようといった話になって、とかく人は構えてしまいます。リラックスしていれば、全身の細胞がパラボラアンテナのようにセンサーになり、それが色々な変化を感受するので、上手に天の気を読むことができるようになるのです。しかし、「助かりたい!」という想いが強くなると、色々なものにぶつかってしまい、かえって動きが悪くなります。ですから、防災に対する捉え方も、人の心に起因するものだと僕は思います。こういった話をすると防災の話は不要になってしまいますが、資料が用意してありますので、今から一緒に見ていきましょう。

 
スライド4

この後、「災害はメッセージ」のプログラムのプレゼンに沿って、いさどんとみちよが話をしました。その後、ワークショップ形式で、参加者一人一人が自分たちが暮らす環境を振り返る時間が持たれました。

防災WS (3)

 
そして、最後のまとめとして、いさどんは以下のように語りました。

 
今日は、防災について学ぶと同時に、防災とは何かということをみんなで話し合いました。そこで至った結論は、わたしたちが生きると、色々な問題事に出会うということです。これは、真学校を通して一貫して皆さんにお話ししてきたことです。問題事に出会うことは、わたしたちが自我で生きていることに対して、この世界の法によって生かされていることをわたしたちに認識させるためのものです。わたしたち自身は、肉体と心により形成されています。それは自身の内から外に向かって観た視点です。同時にわたしたちは、外から内に向かってこの命が形成されるネットワークの中にいるのです。その双方の成り立ちを意識したバランスの取れた視点を持てば、宇宙が完璧に素晴らしい世界をわたしたちに提供してくれていることに気付くのです。

地上を生きるものとして世界観が狭ければ、物事を広い視点で捉え、そこにある流れや生きることの意味を理解することは難しいでしょう。しかし、わたしたちが地上を生きる役割は、もっと大きな宇宙の仕組みである調和や愛を地上に表現することです。そのことがわかれば、それらを地上に表現できるのです。それが天と地の和合であり、地上に天の法則を表現する役割を果たすことになります。それが本来、わたしたちが地球に生きることの意味です。それが宇宙の実相ですから、それを地球という特別に創られた奇跡の星で表現することが、わたしたち人間に与えられている大きな使命なのです。わたしたちは過去から未来に向かって時代を紡ぎ、その役割として地上に現れ、この宇宙物語を表現しているのです。

web of lights
出典: https://judithkusel.wordpress.com

災害やそれに対する防災を考えるとき、わたしたちの世界観が狭ければ、そこに起きることに対する対策をすぐにしたがるものです。そうした対策は大いにする必要があるのですが、それが目先だけに囚われた解釈になると、それは辛いことに対する対策で終わってしまいます。しかし、災害に出遭うことや災害に備えてその意味を考え、語り合うことは人々の霊性を高め、世界観を広め、最終的にはこの地上に理想の世界をもたらすきっかけとなるのです。ですから人々の意識が宇宙法則から外れるほど、天はわたしたちにそういった出来事を通して考えるチャンスを与えてくれるのです。そのような災害の捉え方をすれば、ただ辛いことに出会っただけではなく、災害もありがたいこととして受け止められるのです。生命として生きることはそのような高い意識を創る世界に存在することであり、そして自然の中に生きることは、ある意味自我を超える修行をしているようなものですから、厳しく感じられるようにできているのです。

そもそも、この世界は矛盾から生まれたのですから、その矛盾の現れである自然の中に生きることは、常に矛盾を埋め合わせて行くことになります。そのカラクリを知り、その中で翻弄されるのではなく、見事にそれをすり抜けて生きる術を見つけたならば、わたしたちはもっと大きな存在になれるのです。それは、宇宙を理解し、命を超越して宇宙を旅するコノハナ人になるということです。

真学校も終盤を迎え、この学びに出会うことの意味が皆さんに定着してきたと思います。当初は、皆さん一人一人の人生の課題に向き合うということでしたね。そろそろ、自らの存在がこの世界を担っているという高い意識に目覚めることが、真学校に出会った意味だと気づいていただければと思います。そして、人は必ず死にます。その時に悔いのない旅立ちをするために、皆さん一人ひとりが高い意識の元にこの世界の成り立ちを担っていることを意識しながら生きていくことを願っています。