毎日が「明けましておめでとうございます」

2月2日、木の花ファミリーでは、新たな時代の幕開けを祝いうれしたのしと舞い踊る「富士浅間木の花祭り」が開催されました。世界中から届けられたご清水が祭場の中央の釜の中でひとつに融合し、人々は祭りの最後にその湯を浴びて、生まれ清まった新たな心で、農の始まりである立春正月を迎えるのです。以下、2月4日の立春正月祭でのジイジの挨拶をご紹介します。

立春正月祭にて

毎日が「明けましておめでとうございます」

皆さん、明けましておめでとうございます。
先月も明けましておめでとうございますと言いましたが、正月の月が終わり、富士浅間木の花祭りが明けまして、おめでとうございます。そして立春正月が明けまして、おめでとうございます。3月21日になれば、それは木の花ファミリーの誕生日でもありますが、春分で本当の意味での一年の始まりとなり、農の正月を迎えることになりますから、これもやはり明けましておめでとうございます。
今朝も、夜が明けました。毎日夜が明けます。今朝私は倉庫に行って、「おひさまハウスひまわり」の新しい看板を作っていました。今日は朝からとても暖かく、天気も良く気持ちの良い日で、暦の上の立春という日を感じながら作業をさせていただいていました。
ここで何が言いたいのかというと、毎日毎日、瞬間瞬間、私たちは時と共に生きているということです。

もしもこの世界に時がなかったら、どうなるでしょう。すべてが存在しないことになります。私たちは時の旅人であり、時と共に、こうして存在しています。時と共に生まれ、時と共に死んでいく。そしてまた、その時の中に生まれてくるのです。
それを平面で表せば、円になります。しかし実際に、人生では、いろいろなことを体験し、変化しながら進んでいきますから、それは円ではなく、渦になっています。そのような仕組みの世界のことを、「宇宙」と言います。
「ウチュウ」をカタカムナでひも解くと、渦(ウ)が持続(チ)して、極めて不思議なユラユラとした揺らぎ(ユ)が渦(ウ)になっている。それが宇宙です。私たちは毎日を、その中で生きています。

今日は立春正月祭という祭事が行われました。私たち木の花ファミリーは、「マワリテメクル」、つまり、毎日地球が自転し(マワリテ)、そして一年を通して公転する(メクル)という宇宙の法則を感じながら生きています。毎日朝起きて「おはようございます」と言い、お昼にはご飯を食べ、夜はみんなで集まってミーティングをして、「おやすみなさい」と言って眠ります。それは「マワリテ」という時の流れの中にあるけじめです。そうして四季を迎えながら、「メクル」時の中で季節に応じた祭事を行います。私たちは自然から命をいただき、自然の中で命を巡らせています。自然から食べ物をいただきながら、そのことを意識し、「マワリテメクル」時の中で一つひとつにけじめをつけながら生きているのです。

今日、今年の立春正月祭という祭事を迎え、とても厳粛な気持ちでいます。なぜ厳粛なのかというと、宇宙の仕組みと共に生きていることを感じるからです。その宇宙の仕組みの元である、時空をつくっている時が、私たちの存在を保っているのです。
今、その厳粛なる宇宙の仕組みの中にいることを感じながら、祝詞を聞いていました。すると、祝詞の中にその仕組みが表現されているのです。それを聞きながら、昔こういったことをまったく意識していなかった頃に、神社へ行って神主さんが祝詞をあげるのを聞きながら「何を言っているのだろう」と思っていたことを思い出していました。お寺でお坊さんがお経をあげるのを聞いても、「意味不明なことを言っているな」と思っていました。
これまで宗教は、神の御前において、宇宙の法を語ってきました。私たちは宇宙と共に生きているからこそ、それに倣い、少しでも神様の方を向いて、自我から湧き出す欲の心をきれいにして生きていく。毎日毎日、私たちは時と共に現象に出会います。現象は、神の意思の顕れです。その現象をいただいて滞りとなれば、そこから自らの自我の存在に気付き、欲に溺れていることを知り、きれいになって、生きて、この世界に貢献しなさい。そういった優れた生き方をして、帰ってきなさい。どこへ帰るのでしょう。私のところへ帰ってきなさい ──── それが、現象の奥にある神様の心です。
ところが現代の人々は、自然を見て、自然を自分にとって都合の良いものであってほしいと思い、その心の存在を忘れてしまいました。ですから日本には仏教という教えが伝承され、宇宙の仕組みや人間の心の仕組みを説いて聞かせ、生きるとは修行であること、そして人間は宇宙の理に則って生き、宇宙へと還っていくことを説いたのです。
キリスト教では、私たちがこの世界に生きるということは宇宙の根本に存在する愛によって生かされている、つまり私たちは、神様の愛の中に存在していることを説いています。人間は、自らにとって都合の良いことを愛だと思うものですが、自分にとって「問題ごと」と思えることも、その根底には、愛があるのです。そして実は、問題ごとの方が愛が深いのです。それは、間違っている者にふさわしい現象を与え、「あなたは間違っているよ」ということを教えてくれているのです。

心が歪んでいると、問題ごとを与えられた時に「神様は私に意地悪をしている」と思うでしょう。そして他人に都合の良いことが起きるのを見て、その内容をよく知りもしないのに「羨ましい」と思い、自分だけが意地悪をされていると思うでしょう。それは、意識が低いからです。意識が高くなれば、どんな出来事からも、愛の存在を感じられます。
イスラム教は、人々が自然世界と同じように、宇宙と同じように、調和して、助け合って生きることを説いてくれました。それは宇宙の真理です。人間がこの世界を生きるということは、地上にその真理を顕わすという役割を持っているのです。
マワリテメクル大きなサイクルの中で、銀河の夏至から冬至に向けて、霊的な闇の時代が1万2900年間続きました。しかし、2012年12月21日の銀河の冬至を境に、闇が深まっていく時代は終わりを告げ、光の方へと向かうサイクルが始まりました。去年から今年にかけての世相を観ると、世界はますます混乱を極めています。しかし、ひとつおもしろいことがあります。以前は、混乱の元が現象化すればするほど、人々はそれが豊かになることだと勘違いして、勢いを持ってさらに混乱の方向へと進んでいました。けれども今は、混乱が起きれば起きるほど「何か世の中が変だぞ」と人々が感じ始めたのです。それは、霊的な光が差してきたからです。ですから人々は真実に気付き始めたのです。

立春正月を迎え、木の花ファミリーではいよいよ、2月24日からスタートする「1ヶ月間の真学校」の準備が始まります。そこで、たくさんの情報の中から何を伝えるか。
皆さんは、地球に生き、そして宇宙を生きています。天体と共に、時の旅人として生きています。それは「生かされている」ということです。私たちは自我にまみれ、一番大切な、生命としての自分自身の根本を忘れてしまったがために、豊かであるはずなのに混乱した世の中をつくることになりました。真学校に参加することを通して、どうかそのことに目覚め、世界が正しく調和するよう導ける人になっていただきたい ──── それが、今年の受講生に伝える私たちのテーマです。
知らない人々から見れば、こんなふうに祭壇に作物をお供えし、狭いところにたくさんの人が集まって何をしているのだろう、と思うかもしれません。しかしこの生き方の大切さを知ってしまったなら、それが人として生きることの本当の喜びです。大切なのは、今日の祭事ではありません。毎日毎日、瞬間瞬間が「明けましておめでとうございます」です。そして本当にめでたい日々を送り、それをやり尽くして、一生を終える。それを繰り返しながら、世の中を良くする人になるのです。

今日はこの場で何を話そうか、と思っていました。そして立春正月祭という神事に出会い、改めて、この神事の奥に宇宙の法があるということを感じました。今、宗教を学んでいる人たちは、そのことをほとんど知りません。みんな自分の都合を優先して、自分が幸せになるように、自分が困ったことから解放されるようにと、自分のことばかり考えているのです。しかし真実は、どの宗教も、宇宙の法を説いているだけなのです。
縁あってここに出会った皆さんは、そういったことを理解して生きる人たちです。新しい時代は、人々がそれを理解して生きなければ、この世界的混乱を正すことはできません。そのことを先にわかった者として、一緒に世の中の指針となっていきましょう。

今この瞬間も、留まることなく時が経っていきます。本当は、私たちは常にそのことを実感していなければいけないのです。時が経つ仕組みは、天体の動きによって成り立っています。地球は24時間で自転し、365日で公転しながら、機械のようにきっちりと周っているのではなく、そこには遊びがあります。だから問題ごとが起きるのです。遊びがあるからこそ、思わぬことに出会う。そこで私たちは考える力、生き抜く力を身に付け、たくましくなるのです。
この世界では、問題ごとが起きれば必ずそれに対する答えが出るようになっています。ところが人間は、宇宙の法からではなく、自分の考えで答えを出そうとするようになり、その結果、今のような世の中となったのです。もう一度、私たちは宇宙の法と共にあることに気付かなければなりません。

それでは今、この瞬間に、乾杯しましょう。
改めまして、皆さん、明けましておめでとうございます!

 

 


延命治療から観る死生観

現代医療が進んだ今、私たちには終末を迎えた時、延命治療をするかしないかという選択肢があります。先日、知り合いの方から、「今、私の家族がお医者さんから『延命治療を受けなければ命が助かりません』と伝えられています。以前より本人の意志としては、延命治療を受けて植物人間のような状態にはなりたくない、という希望だったのですが、今は意識がない状態です。そこで、天上界の視点からすると、延命治療をどのように捉えたらよいのでしょうか?延命治療を受けないことは自殺と同じことになるのでしょうか?」という質問を受けました。

以下は、相談を受けたジイジからその方へのメッセージです。


 
まず、「植物人間になりそうな状態」と、「植物人間になってしまった状態」は違います。「植物人間になりそうな状態」というのは、まだ植物状態ではありませんので、当たり前のこととして、いのちが継続していると考えられます。しかし、「植物状態になってしまった」ということは、昔の治療ではいのちがない、という状態です。

ここで大切なことは、そのときのその人の状態を観て判断することです。私の場合は、その人に直接接してみたり、遠隔で感じてみて、「この人の魂はもう向こうに行っていますね」と判断したり、「今現在、魂はまだこの人の中にいますね」と判断することもあります。それはそれぞれのケースによって様々です。ですから、それを一概に言うことはできません。

今の世の中には、「延命治療はしない」という考え方はあることはあります。ただ、一番良いことは、生きている間に本人の意志を確認できるものを用意しておくことです。医者が家族に「延命治療は希望しません」と言われることはよくあるはずです。ただ、どのような病院かによって、病院の方針として点数を上げるために延命治療を頑なに行う病院もあります。そのあたりが難しいところです。

霊的なことを言えば、物理的にいのちはつながっているとしても、「この人の魂はすでに肉体を離れています」というケースはあるのです。

あなたの場合、ご家族が延命治療を希望しないということであるならば、お医者さんに「私たちの希望は、できるだけスムーズに旅立たせてあげたいのです。本人にも、以前よりそういった意志がありました。ですから、延命治療はしないようにお願いします」という意思表示はするべきだと思います。

このケースは、天上界から観なくても、地上の都合だけを考えても、本来人が植物人間でいる状態というのは不自然な状態と言えます。たとえば、本人の意志で自殺した場合、多くの魂は天上界には行けませんが、その人が延命治療を受けるかどうかについては、地上の都合で行われるものです。ですから、延命治療については、天上界の視点という話ではなく、地上の都合での話です。延命治療を受けないからといって、それが自殺になるわけでもなければ、殺人でもないということです。延命治療というものは、本来いのちがないものを人工の技術が進んだがために、永いこといのちが保てられるようになった、というだけのことです。

もし、延命治療を希望しないという本人の正式な遺言があるならば、病院ではそのような手続きで進めてくれるでしょう。そうすると、それは自殺ではなく、いのちがないから永らえない、という自然に則ったことなのです。それを永らえることのほうが不自然なことです。

それよりも、今のように旅立つ人をあなたのように送る家族が気にすることが一番の問題です。送る家族が執着を持つのであって、亡くなる人というのは自らの魂が旅立てば、執着はなくなり、死後のプロセスに入るのです。それを、送る家族が「どちらにしたらいいのだろう?」「良い選択肢を選びたい」などなど、亡くなる方の後ろ髪を引くようなことが、旅立つ人の迷いのもとになるのです。

一番大切なことは、亡くなる人がどのくらいの意識レベルにいるかということです。本人に自覚があれば、まわりの人に執着があっても、自分でスムーズに旅立っていきます。しかし、そこまでの意識が本人になければ、送る側が気持ちよく送ってあげることです。そこで「どうしよう?」「良い選択肢は何だろう?」と迷っていること自体が、送る魂を迷わせることになります。そこがポイントです。

 


このメッセージを受けて、相談者の方は「ありがとうございます。木の花ファミリー通信の死生観を、まずは家族にシェアしたいと思います」とおっしゃっていました。

それを受けて、ジイジには次回の木の花ファミリー通信の冒頭の文章が湧いてきました。


 
ジイジ:
次回の木の花ファミリー通信は死生観の第4部で、死生観シリーズの最終号になる。そのテーマは、生命の源である「性」ということになっている。

「死生観」というと、死というものが先にあって、人の生死について捉えている。生きていることを前提にすると、死が先に訪れるようだが、当たり前に私たちは生まれたということをスタートにして、死を迎えている。そうすると、死生観は、「生死観」という概念になる。そこで、「今、自分自身が生きている」という概念から離れ、人生を客観的に捉えたとき、「生死観」と言うことが自然になる。

人生をスタートする生というのは、自分の受け皿となった両親すなわち男女の性の交わりによって、宇宙の根本原理である対向発生による行為により、この世界に迎えられている。そういうことからすると、死生観の締めくくりとして、性の話が出てくる。だから、死生観の始まりに性があると捉えることが自然だ。そういった生(性)に対する認識の違いは、死生観の逆転現象となり、今の世の中の逆転を生んでいる。

さらに人生に対する視点を引いて客観的にその流れを観ると、生があって死があるのか。それとも死があるから生があるのか。卵が先か、鶏が先かという我々の物質世界の定めと同じように、始まりと終わりは連綿と続くサイクルであって区切りがない。そのように捉えれば、死生観でも生死観でも同じこととなる。だから、死生観と固定するものでもなくなる。

みちよちゃん:
面白いのは、英語だと「Life and Death」といって、生が先に来る。

ジイジ:
それは近代生命学の捉え方で言えば、生まれることの延長に死があることになるから、その順番になる。ところが、日本人は「死生観」といって死を先に置いているのは、何か日本人の伝統的な考え方の中に「死というものは終わりではない」という捉え方があるからだろう。私たちの生にまつわる物理的現象の一から十までのプロセスをたどるとしたら、九のあとは十ではなく・・・0ということになる。一二三四五六七八九で、次は次元が変わって0に行く。そうすると、生が一になる。一二三四五六七八九でひとつのサイクルが終わり、0の段階に入って、一二三四五六七八九・・・と捉えられるのではないか。つまり、九に行って死を迎えると、0になる。そうすると、それはリセットで、また始まるという考え方がそこに秘められているのではないだろうか。

ようこ:
日本人の中には輪廻転生の捉え方が自然と組み込まれていて、西洋だと、たとえば近代キリスト教にはその捉え方はない。一回の人生で終わりと考えられている。

みちよちゃん:
それに対して日本人の死生観は、死んだらそこがスタートで、そこから準備をして次の生につながっていく。

ジイジ:
だから、0というのが準備期間と捉えれば、0一二三四五六七八九となる。

ようこ:
0は何もないみたいだけど、そこには大切な何かがある。

ジイジ:
0があるからこそ、一がある。いきなり、一にはならない。一になるまでの準備期間が本来ある。

ようこ:
0と一二三四五六七八九は、潜象界と現象界のような存在?

ジイジ:
それは潜象界と現象界の話ではなく、現象世界にその仕組みがあるということ。それでも、カタカムナで捉えると、カタカムナはヒから始まる。ヒフミヨイ・・・

そうすると、それがひとつずつずれている可能性がある。ヒは秘かで、まだ動きが何もない状態だから、0とも言える。そうすると、ヒが0とも捉えられる。それで、フの段階で初めて動き出すから、フが一となる。だから、九で統合ということになる。そして、また0に戻る。

みちよちゃん:
それは、日本の数え年と同じような概念だね。

ジイジ:
そうだね。ヒは秘かで、ものの始まりだが、何もない状態。フで初めて動き出す。そうすると、フを二つと捉えるかどうかは微妙なところだ。そういう微妙な位置ということなのだろう。

みちよちゃん:
西洋的と言っていいのかはわからないけれど、細胞分裂的に考えると、ヒは秘かで、あるかどうかわからない状態だけれど、フで細胞分裂が二つになっていくと考えると・・・

ジイジ:
それは、おそらく楢崎皐月が西洋的な物理学者だったから、そのようにしたのだろう。明らかに、ヒはまだ何もない、秘かな状態だ。しかし、楢崎はヒフミヨイ・・・を一二三四五六七八九に当てはめたから、そうなったんだよ。

こういった深い探究は、今までの探究の結果を真理とせず、これからも探究し続けていく姿勢でありたいものだ。

 


 

宇宙の真理の探究はどこまでも続きます。次回の木の花ファミリー通信は2018年冬至に発行されます。性の真実が紐解かれていく次回号をお楽しみに♪

 

 


手かざし(スピリチュアルヒーリング)

 
【他者にヒーリングを提供する場合】

手かざしは、人に内在する能力として、人々の健康や意識の向上に役立つものです。ですから、手かざしの正しい手法とそれを行なう時の姿勢を整えて、社会の健全に役立ててほしいものです。この手法は、私が今まで手かざしを行なう際に培ってきたことをもとに紹介します。

まず、手かざしをする時、そのエネルギーはどこから来て、どのような仕組みなのかを説明します。はじめに、目的の部位から適度な距離を置いて右手をかざし、同時に、眉間のチャクラを意識し、そこから斜め上45度に向かって、これからその行為を行う意志を天(大気)に発します。その際、目は半眼の状態を保ちます。それは、あくまでも、体は気の通り道として利用するものであり、この行為に思惑を乗せないことが目的にあるからです。
そうすると同時に、頭頂チャクラから大気のエネルギー(プラーナ)が頭部を通って体の中に入ってきます。その場合、体は気を圧縮するコンプレッサーの役割を果たします。その気のエネルギーは体の中で圧縮され、圧縮された気は右手の平から部位に向かって流れます。その時、想いを乗せて手の平に意識が行き過ぎると、流れに無理が生じます。この所作の目的は、大気の生命力を気として体内に取り入れ、それを圧縮し、強い流れとして、対象の不健全な細胞配列を健全に整えるものです。そのために、眉間チャクラから意志が発せられ、頭頂チャクラから大気のプラーナ(生命力)を取り入れ、体の中で圧縮し、強いエネルギーの流れを手の平から発する仕組みをよく理解し、イメージすることが大切です。
また、目的の部位を両手ではさみ(両手は部位から適度に離す)、右手の平から強いエネルギーの流れが発せられることをイメージしながら、左手でそのエネルギーを引き込みます。その場合、左手に入ってくる負のエネルギーは、左腕の付け根(肩)で止めるイメージをします。イメージとして、正のエネルギーは体の中に取り込んでもいいのですが、負のエネルギー(毒・矛盾)は必ず左腕の付け根(肩)にフィルターをイメージし、そこで止めます。病気や矛盾を持っている人に手かざしを行うと、左腕の付け根が重くなってきます。ですから、それがある程度溜まってくると、左手の平を上に向けて空中にその毒・矛盾を解き放ち、一度リセットしてから、次の所作に入ります。

左利きの人の場合は、引き込む左手のエネルギーが強いのですから、右手の押し出す力を強めることになります。左は陰の側ですから、内に引き込む役割を果たします。右は陽の側ですから、外に押し出す役割を果たします。そこで、「押す」と「引く」の間に強い流れができ、その間に手かざしをする目的の箇所を置くことによって、その気の流れが人間の細胞の配列を正常にしていくのです。そろばんで計算した後に、ご破算にするようなイメージです。

これは対向発生の原理であり、互いの役割の違いを有効に生かしていくことになるのです。ですから、右利きの人も左利きの人も、右手(押す力)と左手(引く力)のどちらが主になるかの違いだけで、右から左への流れが変わるわけではありません。

さらに、手かざしを右手だけで行なうことも出来ます。その場合、右手の押し出すエネルギーをもって、目的の箇所に気の流れを当てることにより、細胞配列を正常にしていくという行為になります。

また、目的の箇所に手を当てて行なう場合は、「手当て」ということになります。「手かざし」の場合は、手かざしをする箇所から手を離すことによって、気の流れを創り、その間の流れを持って、目的の箇所の細胞配列を正常にします。ですから、手かざしは基本的には離してやるものです。

このように、人間の肉体に秘められた能力は、誰にでもあるものです。その能力を開発することは、日常生活の健全かつ社会の健全に大いに役立つものです。日本では、こういった行為が、宗教的な場所でご利益的に広められてきました。ですから、一般的に人の精神性向上や健康のために十分に理解されてきたとは言えません。イギリスなどでは、それをスピリチュアルヒーリングとして、医療機関も取り入れています。本来、人の優れた能力として、日常的にこういった所作を利用することは、個人かつ社会の健全において望ましいことであると考えます。

 

【自己ヒーリング】

ヒーリングの方法として、もうひとつの方法を取り上げてみます。一般に、人は生きていると、体に負のエネルギーを蓄えることになります。そういった場合、蓄積されたストレスや疲労を解消する手段として、自己ヒーリングという方法があります。それは、睡眠前など時間の余裕のある時に行うと良いでしょう。人の体に発生した負のエネルギーは、それを流し出し、健全で安定した状態にすることが大切です。一日の終わりのけじめとして、そういった取り組みをすることは、新たな日を迎えるにあたり、気持ちの良い一日を過ごすために大切にしたいものです。

自己ヒーリングの方法として、まず、仰向けになります。眉間チャクラから真上に向かって自らの意志を天(大気)に発し、頭頂チャクラから大気のエネルギーを受け取ることを意識します。両手の平は上に向け、両足は肩幅程度に開きます。その際、全身で天から降りてくる気を浴びることを意識し、全身の力を抜き、リラックスします。
はじめに、右腕から右手の平までを意識し、その日に活躍してくれた右手に感謝し、負のエネルギーを解き放つイメージで、手の平を軽く握り、ゆっくり開きながら空中にその負のエネルギーを放ちます。この所作はリラックスした状態で、エネルギーが解き放たれるのを意識しながら、ゆっくりと行ないましょう。「右手さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしながら(言葉に出してもよい)、行なって下さい。その時に、細胞一つひとつを意識して感謝すると、日頃から細胞はそのように心を向けられることがありませんので、細胞はとても喜びます。負のエネルギーを放つ時には、同時に息を吐きながら行なってください。その際、まずは息を吸って、吐きながら負のエネルギーを解き放ちましょう。負のエネルギーを解き放つ行為は何回か繰り返し行なっても構いません。気持ち良くなるまで行なってください。
同じように、左腕から左手の平までを意識し、左手にも感謝し、負のエネルギーを空中に解き放ちます。細胞すべてを意識しながら、「左手さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージし(口に出してもよい)、息を吐きながら負のエネルギーを放ちましょう。
次に、右足の付け根から足先までを意識し、右足に感謝しながら、右足の裏から負のエネルギーを空中に放ちます。「右足さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしましょう(言葉に出してもよい)。息を吸い、吐きながら負のエネルギーを放ちましょう。
同じように、左足についても行ないます。
次に、全身に感謝し、「体さん、今日一日ご苦労様でした。ありがとうございます」とイメージしながら(言葉に出してもよい)、息を吸い、吐きながら両手両足から負のエネルギーを空中に放出します。
最後に、頭を意識し、頭の中の思考を停止するイメージでリセットします。頭は思考がまわりすぎていると、ちょうど眉毛の上あたりが一番こっているものです。ここの筋肉を緩めて思考をなしにして行ないましょう。人が思考をする時には、必ず眉毛の上あたりに輪がはまり、この位置で思考を横にまわすようになっています。よく思考をまわす人は、この輪が強く締められています。ですから、これを緩め、なしにしていくことをイメージしましょう。その際、同時に全身の力も抜きましょう。全身の力を抜く時は、軽く深呼吸をして、息を吐きながら力を抜きます。そして、「ありがとうございます」と感謝しながら、思考エネルギーを眉間チャクラから空中に放出しましょう。
各部所で負のエネルギーを空中に放出するたびに、そのエネルギーが活躍してくれたことに感謝する意味で、「ありがとうございます」という言葉を添えて、放出したいものです。そのようにして、自らの中の一日に溜め込んだ負のエネルギーをすべて流した後に、もう一度、「今日一日、ありがとうございました」という感謝の心を込めて、全身を感謝の響きで包みましょう。これで自己ヒーリングを完了します。
イメージとしては、脳の思考をすべて空にした段階で、シャバーサナ(死体のポーズ)を意識するのが良いでしょう。シャバーサナのポーズに入ったら、出来る限り思考はまわさないように、全身の力を抜き、床に体がへばりつくような重力を感じてください。呼吸は常に吐くことを意識しましょう。最終的には、自分の体の質量がなくなり、体が空中に浮いていることをイメージします。そして最後は、無重力の宇宙空間に浮いているイメージをしましょう。星がたくさんある世界をイメージし、自分もその星のひとつになってみましょう。

そういった体に対する感謝の姿勢が日常の中で定着してくると、それを毎日行なわなくても、自動的に一日の終了時に無重力を意識するだけで、負のエネルギーをリセット出来るような人となります(ミノナライ)。

 

手かざしを行なうための心構え

手かざしを行なう上で理解すべき最も重要なことは、欲の心を絡めて行なうのではなく、人の内在する可能性を開発するために行なうということです。そういった内なる気付きを得るための機会にしたいものです。とかく人間は、健康になろうなどと、私欲の延長にそういった行為を行なうことにより、それが本来の人としての優れた気付きを得るためのものとは、違うものになってしまうのです。

そのためには、「私は空っぽですから、私をあなたのエネルギーの通り道にしてください」と天を意識することです。「治してあげよう」とか、「良くしよう」という私欲の意識を持って行なうことは禁物です。その場合、そこに自我が入ることにより、発せられるエネルギーはきれいなものとは言えないことになってしまいます。ですから、その発せられるエネルギーには、何も想いが入っていない美しいものとして、エネルギーの通り道を創り、それを圧縮して発しているだけの意識として行なうことが肝要です。

このように、ヒーリングを行なう時の心構えとして、私たちは対象に対して何かをやってあげるのではない、ということです。「やらせていただきます」の姿勢が肝心です。それはなぜかというと、そのエネルギーを対象に発することにより、自らの全身の気の通りを良くする効果につながるからです。人にやらせてもらうことにより、やればやるほど、自分自身の気の通りは良くなってきます。ですから、常に、「やらせていただいて、ありがとうございます」の心構えで行なうことが肝要なのです。

そもそも私たち地球生命は、身近なところでは空気を吸い、食べ物を取り入れて生きています。このように、生命活動を維持するために必要なことを行ない、いのちをつないでいます。いのちがつながっていくということは、生命力があるからです。いくら生命活動をつなげようとして、いくら呼吸をしても、そしていくら食べ物を取り入れ栄養を摂ったとしても、生命力がなければそれで終わりになるのです。生命力がないということは、簡単に言えば、寿命が来たということです。寿命が来たかどうかは別にしても、それは心臓が停止したというような、生命を維持するための機能が働かなくなったということです。

そもそも、私たちは生命力の源がどこにあるのかということを認識する必要があります。それは、呼吸にあります。呼吸というのは、単に酸素を取り入れている行為ではありません。空気の中に酸素はありますが、「空気」は「空(から)の気」と書くように、空気というのは空っぽで駆け引きも何もないことを指します。つまり、空というのは、美しさや純粋さ、始まりを示し、そのような気が地球を包んでいるのです。

地球と大気の関係を語るのに、卵の中身が地球だとしたら、その外側の殻の厚みが大気となります。それはとてつもなく薄いのですが、実は空気の層には100kmの厚みがあるのです。地球上で最も高い山はエベレストであり、これは約9000m弱の高さです。それよりも上まで大気の層はあるのです。この大気の層があって、下へ行くほど気圧が高くなり、上へ行くほど気圧が低くなります。気圧が高いということは、生命力が高いということです。ですから、地表に生命は湧くようになっているのです。

私たちは常に空気を吸うことによって、大気の酸素を取り入れ、循環の中の生命活動をしています。同時に、私たちは空気から「気」を取り入れています。人によって健康であったり不健康であったり、生命力が強かったり弱かったりするものですが、それはその人の空気を取り入れる姿勢にあるのです。たとえば、呼吸をする時に、私たちは吐くことを意識するようにしています。吐くということは、自らの中にあるものを空(から)にすることにより、新しいものが自動的に入ってくるということです。

台風が来ると気圧が低くなり、1気圧(1013ヘクトパスカル)よりも低くなれば、海面を押さえている力が弱くなるため、海面が上昇します。先日の台風21号は、945ヘクトパスカルぐらいで大阪湾に上陸した時、潮位が3mを超えるほど上昇し、過去最も高い潮位を記録しました。それぐらい、日頃から空気の圧が海面を押さえているのです。

そうすると、私たちは今、気圧を感じながら、自分の体を保っているのです。実は、その気は吐き出せば吐き出すほど、入ってくるものなのです。それだけ、私たちには圧力がかかっています。それを、「気をたくさん引き入れてやろう」と思うのは、すでに我や欲が働いていることになります。呼吸は、吐けば自動的に入るようになっています。それが、この世界の仕組みです。それに欲をかけると、さらに自我に汚れることになるのです。ですから、「吸ってやろう」と思わないようにしましょう。日頃生活している時でも、「得をしてやろう」とか「良い思いをしたい」と考えている人たちの姿勢は、それはすでにこの世界に生かされている姿勢から外れているということなのです。

では、どのような姿勢で生きることが望ましいのでしょうか。それは、「生かされています」「ありがとうございます」「いただきます」という心になった時、この世界で生かされている姿勢にふさわしいものとなるのです。はるか彼方、13000年前のカタカムナ人たちは、現代のようなテクノロジーもなかったため、生きていくのに自然の仕組みの中でその仕組みのままに生きるしか術がありませんでした。その時に、自らの種を存続させ、生を全うするためには、いろいろな危険がありました。気候ももっと不安定だったでしょう。危険な動物に出遭ったり、1年を生きる時に現代のような施設栽培があるわけではないので、その都度自然からいのちをいただく必要があったのです。そうすると、彼らは常に自然と対話しながら生きていました。ハワイの先住民たちも、星と対話しながら生きていたのです。それは、特別なことではなく、日常当たり前に行なわれていた姿勢でした。星と対話し、危険についても自然から察知しながら生きていたのです。このように、自然の中で完全に生かされていたので、人間の姿をした宗教的な神様など想像しなくても、その人が生きているのと同じ意識レベルに見えない存在を感じ、生かしてくれていることを知っていたのです。そして、それが宗教心の始まりだったのでしょう。それは、生きることに対して真剣かつ純粋な生き方でした。

私は手かざしについて考えた時、今までの宗教のようなご利益的なものではいけないと思っています。そこを慎まなければ、この行為の効力は発揮しないでしょう。私たちがこの生命世界の中で健康に生きる仕組みをよく理解した上で、汚れのない美しい心のもとに行なうことが大切なのです。もしくは、自分は汚れていると思った人が、自らの心がよりきれいになっていくために行なうことです。

今まで、私はあえてこういった行為を、積極的に行なうことも伝えることもしなかったのは、それがご利益的な世界につながることを懸念し、控えてきました。しかし、これも人間に内在する神通力のひとつです。宗教のように欲が入ると害も出ますが、内に発生した滞りをきれいにしていくだけの浄化作業としての意識で行なうならば、人々の健康に大いに役立つものです。そして、人間を正しくきれいにし、細胞の配列を正しくするという目的のもとに行なっていきたいものです。そういった意味で、このような行為も正しい道理のもとに互いに行ない合うことにより、絆につながることにもなるのです。

「健全なる肉体のもとに健全なる精神がある」とは言いません。「健全なる精神のもとに健全なる肉体が宿る」と言います。この世界は「陽陰」ではなく、必ず「陰陽」です。そのことを理解した上で、手かざしを行なうべきです。ですから、そこでは真剣な姿勢が求められます。

体の歪んだ細胞の配列を治しても、心を正さなければ、物事の根本的な解決にはなりません。心が原因として生命力は本来あるべきです。心が伴わない生命力は、人生の狂いの元となります。つまり、生命力の内容は心が伴ってあるべきです。それは、本来の生命のあり方に基づき、心もあるべきなのです。

そういった意味で、手かざしを日常の中に取り入れることは大切なことですが、もし取り入れるのであれば、こういった心構えを徹底的に理解し、自覚した上で行なうことが肝要です。それが、「知意行一体」の精神です。そして、それを反復演練していくことによって、自然に身についていきます。そうした「ミノナライ」となった時、その人は美しい気をこの世界に発する者となれるのです。

 

 


今、自らのエリアを超えることが人類に求められている

ジイジ:
一般的に、人間は生きていると、エリアというものを意識している。つまり、自らの存在が許容範囲の中に入っていることを認められるために、その自らの存在が許容範囲の中にあるような関係を探している。そして、人は誰でもそれをその人流に一生懸命やっているものである。そこで、一生懸命やっているのに事が成らないと、「なぜ、こんなに努力しているのにそれがならないのか」と考えるようになる。しかし、そのエリアという枠の中で生きている限り、努力は自らの枠の中にあるから、その人間性が高まることはない。ところが、本人にしてみれば、一生懸命であり、努力しているつもりなのだ。自らの枠の範疇を超えないで新しい景色には出会えないのだから、当然のことなのだ。それが人間の精神状態の限界をつくっているエリアなのだ。

僕は今、眠りながらそういったことをとうとうと語っていた。そして、「エリア」という言葉が自分の口から出たときに、「これは新しい区分だ」と思って、今ふたりに語り始めた。その前は完全に眠りながら語っていた。

ようこ:
今、ジイジの語っている雰囲気がいつもと違う気がします。何か新しい感じを受けました。

ジイジ:
人はそうやって自らのエリアを確保しようとするのだが、それは僕が新しいのではなく、自分がエリアを超え、「いただきます」の精神でものを観るようになると、その自分の許容範囲以外のものが観えてきて、出来事を判断するようになってくる。それで、人は相手が新しいと思うのだが、実は、自分が新しいのだ。対象を常に調整するものと決めていると、自分の解釈の範疇で理解しようとするのだが、調整すべきは自分自身である。自分自身を調整すれば、そこで観える景色は必ず変わる。ところが、自分自身を調整せずに、対象を調整しようと画策していると、「観える景色をいつも同じでありたい」とする考えのもとに、エリアの中にいることになる。

ところで、今日は何日?

ゆうこ:
今日は7月10日です。エリアが変わったから、この場の雰囲気も今までと違う気がする。

ジイジ:
その前の確保しようとしているのも、自分の意識がそうさせているのだが、人はそれを自分がしているとは感じていない。それは、無意識にそうしているからね。

ようこ:
エリアというものがあって、その中に自分自身がいることを意識していなかったことがわかると、そこを超える選択肢ができる。自らのエリアが固定されていることにひとたび気付けば、そこを超えられる。

ジイジ:
まずはそこに気付かないといけないのだが、人にはそれが観えないものだ。無意識に自らの許容範囲の中で毎日を送ろうとする。それが、自我というものだ。そういう性質を卒業できている人間は、一つ一つの出来事に感情的に反応しなくなる。それは、起きたことを情報として受け取るだけのことだから、事が起きると、それを自らの内に入れ、取り込み、次へと進んでいく。たとえば、賢いと認識している人にその人にとって許容範囲に入らないことが起きると、理屈をこねて、「これはこういうふうで、こうだから、こうなったのだ」と納得しようとすることも、自らのエリアの中であがいている状態だ。だから、自我のエリアの中にいるという意味では、何も考えないでエリアの中にいるものも、考えてエリアの中にいるものも、結局同じことだ。

ようこ:
許容範囲を超えた出来事が起きて、それをいただくということは、自らのエリアを超えるためにあるのですよね。

ジイジ:
そう。エリアを超えるために、許容範囲を超えた出来事は与えられる。通常、人間が生きていると、それが常に起きるようになっている。たとえば、先日西日本に起きた記録的豪雨による水害もそうだ。それは、もっと大きな規模で与えられたこと。そこで、自分の許容範囲を超えたところでそれを受け取る心があれば、その人間の精神性は広がっていく。それは、日常の些細な出来事でも、親子関係でも、仕事のことでも、学校の勉強でもそうだ。

ようこ:
逆に言うと、このカラクリがわかっている人には、エリアを超えるための大きな現象は起きない。

ゆうこ:
自分の概念を超えたところに、いろいろなことがあるということですね。

ジイジ:
自らの概念を超えたものを与えられるのが、人間世界で生きるということだ。でも人は、気持ちとしては、許容範囲の中にいようとするものだ。ここで言っているエリアとは、簡単に言うと、自分の許せる許容範囲ということ。

ようこ:
エリアの広さと、世界観の広さは比例しますね。ジイジのように、世界観が宇宙観で、宇宙そのものが自分自身だったら、エリアという言葉自体が存在しないような領域だと思いました。

ジイジ:
宇宙がエリアだ。でも、現象界を生きていると、どうしても現象界に意識が行き過ぎて、そこに囚われる。

ようこ:
ジイジは現象界に囚われていないから、四拍手(下記参照)の所作も閃いたのだと思います。これは、ジイジがふと空間を観ていたときに、潜象界からのエネルギーが空間の至るところから入ってくるのを感じたところから始まっているのですよね。

ジイジ:
そう。ある日、ぼーっと空間を観ていたら、いろいろなところから「カ(宇宙最極小微粒子)」がふわーっと噴き出しているのが観えた。「あれ??」と思ってさらに観ていたら、エアコンの吹き出し口のように空間の切れ目が垂れては、そこから生命エネルギーが湧き出してくるのが感じられた。だから、「こちらから意図的に空間を切ってみてもいいのだ」と思いつき、あの四拍手の所作が生まれた。あれは、天然循環だからね。四拍手の所作をもって、人間がケガレチ(汚れ地)としたこの世界を清浄にしていく。ところが、人間がケガレチにする速度が速くなり、そのケガレが大量になってきたことから、今、世界にたくさんの矛盾が起きている。

ようこ:
自然災害でも、矛盾を0にする作用ですものね。

ジイジ:
自然災害も、破壊だからね。破壊が起きているということは、破壊が起きるだけの負のエネルギーが溜まったわけだ。負のエネルギーが一気に爆発して自然災害が起きるということは、「負のエネルギーを溜めている」というメッセージなのだから、今の姿勢を改めなさいということだ。だから、大きな病気にかかって大変な目にあうのと同じことが、人類の共通点として起きている。個人が自らの負のエネルギーを溜めて病気になるのと同じように、今、地球規模でそれが起きている。それは、人類のエリアを壊し、人類が次のステージに進んでいくために起きている。

「五風十雨」という言葉があるのだが、それは五日に一回風が吹き、十日に一回雨が降り、とても穏やかな日々が過ぎていくということ。五日に一度吹く風は優しい風だ。そして、十日に一回雨が降り、あとは良い天気に恵まれて、「ありがたい毎日が送れています」ということ。だから、五風十雨というのは、「おかげさま」という意味だ。

ようこ:
2018年が「再スタートの年」というのは、木の花ファミリー内だけの話ではなく、地球規模の再スタートというイメージが湧きました。先日の西日本での水害もそうですし、自分たちがこれまで生きてきたことの答えをもらって、実態を知らされる年ということを思いました。それで、次に進んでいくというイメージがあります。

ジイジ:
天誅(てんちゅう)が下った後に、それをどう受け取って、どのようにスタートさせるのか、ということが再スタートという意味で、天誅が下って実態を思い知るのが2018年になるのだろう。そして、2019年、2020年と共にこの3年が1セットになっており、東京オリンピックが開催される2020年はクニツクリの再スタートということになるのだろう。

ようこ:
ジイジの地球暦で、組織化の星である土星にスイッチが入っていないということも、エリアを壊す役割があるからですね。

ジイジ:
そう。土星は英語でサターンと言うだろう?つまり、土星は魔(サタン)なんだよ。悪魔とか、惑わすとか、翻弄するとか、サタンというのはあまり良い印象ではないね。しかし、神の使いでもあり、非常に重要なのだが、そこに取り込まれると、それが絶対になってしまって、自らの枠が壊せなくなってしまう。それを壊しゆるくして、自由自在になることが、本来の交わりの目的ということを今、イメージしていた。

ようこ:
アマウツシのアマは宇宙ということだから、宇宙をうつすということは、自由自在に生きるということ。

ジイジ:
そのために、本来交わりはあるべきだ。ところが、たとえば快楽に目的が行ってしまうと、見当違いのほうへと進んでいってしまう。

エリアを超えるということは、エリアを超えて感動するものもいれば、エリアを超えて腹が立つものもいる。そこで、感動とともにエリアを超えていけば、自らのエリアは無限に広がっていく。地球上でたくさんの矛盾や問題が噴き出している今、自らのエリアを超えることが、人類が次の時代を切り開いていくための突破口となる。

 


 

木の花ファミリーでは、食前や大人ミーティング開始時、畑や田んぼ作業の締めくくりなど、日常の節目に「四拍手」という所作を行っています。以下は、四拍手についての解説です。

 

四拍手の示すところ

カタカムナの第五首・第六首と同じように、「四拍手」も宇宙の創造・発展・消滅の法則を示しています。「四拍手」を行ずる者は宇宙の仕組みを知り、宇宙(天)と共に世界を創造していく者としての意識でこれを行うことになります。この世界を清浄(イヤシロチ化)に導くための所作として、厳粛な気持ちで行ってください。

潜象界は現象界(三次元世界)と同時に重複して存在しています。その潜象界に存在する現象化の元となるエネルギー(カ)は現象界の至るところに供給されています。現代の人間の活動によりそういった美しい世界は汚れ穢れ(ケガレチ化)ています。それを清浄(イヤシロチ化)な世界に戻すために、そのエネルギーを意識的・積極的にこの世界へと迎え入れるための所作として、空間を指で指して切ると①、その空間が垂れ②、その切り口から無垢な生命エネルギー(カ)が現象界に流れ出てきます。この所作を三回(至るところの意)行ってください。

【宇宙創造の仕組み「フトマニ図」の作成】

      天は丸く⑦ 地は方なり⑩

そうすると、美しい生命エネルギーの響きがその場に流れ出て広がっていきます。それは宇宙創造の仕組みであり、その宇宙創造の仕組みを積極的に行い現象世界の穢れを清浄にするものです。
宇宙には始まりも終わりも方位もなく、ただ巡り続けています。ですから、宇宙は丸いのです。
宇宙の枠(球)が出来ると、縦方向にトキ(縦のライン⑧)とトコロ(横のライン⑨)が発生します。そのことにより、現象化の仕組みが整い形の世界が始まり、星が生まれます。
方位は星の上に存在します。ですから、四方(東西南北)が地球上に現れます。

【宇宙の心を表現する所作】

現象化(形)が始まるためには、初めに宇宙(天)の意志(ア)が発生します。現象の始まりである「ア」という高次元の響きの発生(ア)⑪から、宇宙の根本法則であるアマノミナカヌシ⑫(トキ軸)が降りてきます。同時にカムミムスヒ(ヒタリ回り)⑬とタカミムスヒ(ミキリ回り)⑭を示す陰と陽の働き(トコロ軸)が発生します。この世界は宇宙(天)の心から創造されることを示しています。

【四拍手の所作⑮】

宇宙の創造原理が整いエネルギーが、下図のように八方向に整うと、現象化の段階に入ります。両手を合わせ、四回拍手することによって、右手と左手で合わせて二×四回拍手(四)する(二×四=)八方宇宙を意味します。その場合、左手は陰を示し、右手は陽を示します。ですから、左手は前(陰)に差し出し、右手は手前に引き(陽、第一関節分手前にずらす)、両手を合わせてください。
この表現は、陰(精神性)が陽(物質性)より優先され、この世界の本来の姿である「霊主体従」を表します。
指さす方向も意識も斜め上45度(天)へ向けて、四拍手で締めてください。

【終わりに】

天の心を忘れた現代の人々は、豊かさの追求の結果、自我に囚われ、本来人が生まれ生きる目的であるこの世界の清浄化(地上天国)を忘れ、今や地球は宇宙のオアシスから宇宙のごみ溜めと化しています。私たち人間はその尊い役割を取り戻し、もう一度、天の意思と共にこの地球に美しく光り輝く響きを取り戻すために、宇宙創造の精神を悟り、地上のイヤシロチ化のために心を整え所作を行うことにより、地上天国の実現に向け、その志しを表現しましょう。

 

 


「いさどん」から「ジイジ」へ 〜 2018年5月3日 67歳の誕生日を迎えて

42歳でいさどんと呼ばれるようになって25年。60歳で生前葬を行ってから7年の質的転換を経て ───── 2018年4月7日の朝、いさどんに新たな想いが湧いてきました。

「これから僕は『いさどん』をやめよう。今、その想いが湧いてきた。これから僕の名は『ジイジ』という名になるようだ。そのほうがふさわしい。『ジイジ』は濁っているけれど、それは人々の汚れに向き合うからだ。世間の皆様に真実を示すため、濁りのついている皆様に伝える者という意味だ。

『ジイジ』をカタカムナでひも解くと、『ジイジ』は『シイシ』となる。シは示しだから、『ジイジ』は示しの示しの位置になる。それは大本の示しという意味でもある。つまり、示しの位置が尊いということ。『ジイジ』は、『ババジ』や『ガンジー』といった高い意識の男性の尊称を示す。そして、イは当然『ヰ』の悟りを示す。それは、高次元の潜態への還元ということで、『ジイジ』は高次の悟りの示しの示し。つまり、人々に道を示す者に対して示す存在。濁点があるのは、現象界には濁りや歪みがあるがために、そこで道を説く者はその濁りや歪みに沿いながら伝える役割ということになる。濁りや歪みに付き合うということからすると、『ジイジ』はカタカムナ的にも高い意識のメッセンジャーと読み取れる。

さらに、ジというのは、心の父という意味がある。だから、『ジイジ』は万人に対して高い意識の父という意味になる。今、僕の精神レベルはその位置にいるのだから、良い尊称だ。とてもふさわしい名だと思う。」

いさどんに『ジイジ』という名が降りてから数日後、天からいさどんに言葉がありました。
「きっかけを創るのが役割なのだからな。」

つまり、一箇所プツッと穴を開け、そこに聖なる種を入れれば、そこが細胞分裂を起こし、新たないのちが生まれてくる。それが世の中に広がれば、世界は変わっていく。だから、その種となるきっかけとなれ、ということです。

今日5月3日は憲法記念日です。毎年、憲法記念日のときには憲法議論が報道されますが、先の観えない激動の時代を迎えた今、これからこの国をどうしていくのかを一人ひとりが真剣に考える時が来ています。

いさどんが32歳の頃、次のようなビジョンが降りてきました。

「いつか、国を司る役割を持つ人々がここを訪れて、僕に問いかけるのです。
『私たちはこの国を、本当に豊かで人々が幸せになるように、一生懸命治めようとしてきましたが、これはと思うことをいくらやっても、どうにも上手くいきません。本当に国を正しく豊かに治めるためにはどうしたらいいのか、そのヒントを得るために、ここに理想を生きる人々の暮らしがあると聞いて、訪ねてきました。どうしたら、良い国を創ることができるのでしょうか。』

それに対して、僕はこう答えるのです。
『それは、制度や仕組みを創ることではありません。ここにある自然を見てください。そして、そこにいる人々の心を見てください。このような心や考え方で人々が暮らせるような国創りをすれば、本当に豊かな国になるでしょう。』」

そこで、国を司る人々に答えているのは ──── 『ジイジ』です。

『いさどん』から『ジイジ』へと変わることは、大きなターニングポイントです。いさどんの次元上昇に伴って降りてきた名は、『ジイジ』。今日2018年5月3日が、『ジイジ』として生きるスタートです。60歳で生前葬を行ってから7年の月日を経て、質的転換を迎えた今、今年2018年の再スタートの年にふさわしい名がいさどんに降りてきたのです。

皆さん、これから『ジイジ』をよろしくお願いします。